主日礼拝

信仰による従順

「信仰による従順」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第9章5-6節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第1章1-7節
・ 讃美歌: 317(1-4)、317(5-7)、469

召されて使徒となったパウロ
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み始めています。その冒頭の挨拶の部分、1~7節について、本日で三回目の説教となります。この手紙を書いたパウロは、挨拶の冒頭において先ず、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と語り、差出人である自分が何者であるかを示しています。自分はキリスト・イエスの僕であり、身も心も全てキリストのものとされている、そしてそのことのゆえに、召されて使徒となっているのだと言っているのです。前回も申しましたように、「使徒」というのは「遣わされた者」という意味であり、全権を委任されて派遣された大使のようなものです。パウロは、身も心も徹底的にキリストに所有される僕となったことによって、キリストから全権を委任されて派遣される使徒となったのです。

神の福音とは
 彼が召されて使徒となったのは、「神の福音のために」です。福音とは、良い知らせ、救いの知らせという言葉です。しかし人間の感覚における良い知らせではなくてこれは「神の」福音です。それはどのようなものか。そのことが、「この福音は」と始まる2節以下に語られています。先ず、「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」とあります。神が既に聖書、それは旧約聖書のことですが、その中で、預言者を通して救いを約束しておられたのです。その神の救いの約束が実現したという良い知らせをパウロは告げ知らせているのです。その福音は「御子に関するものです」と3節にあります。「御子」とは神の子ということであり、それはイエス・キリストのことです。神が預言者を通して約束しておられた福音は、神の子であるイエス・キリストにおいて実現したのです。ですから「神の福音」とは、「御子イエス・キリストによる救いの知らせ」です。そして3、4節には、御子イエス・キリストとはどのようなお方なのかが語られています。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。ここには、主イエスの誕生と復活とが見つめられています。「肉によればダビデの子孫から生まれ」は、主イエスが私たちと同じ人間として、肉体をもってこの世に生まれて下さったことを語っています。神の御子が、私たちを救うために、私たちと同じ人間としてこの世に来て下さり、人間としてこの世を生きて下さったのです。そしてその御子は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められ」ました。十字架の死を経た主イエスの復活が見つめられています。私たちは先週のイースターに、主イエスの復活を喜び祝いました。その復活において主イエスは「力ある神の子」と定められたのです。「定められた」という言い方は、定めた方がおられることを示しています。それは主イエスの父である神です。神は主イエスを死の力から解放して復活させ、新しい命、永遠の命を与えて下さいました。そのことによって、主イエスこそ「力ある神の子」であることを示して下さったのです。「力ある神の子」とは言い換えれば「救い主」です。その力は私たちを救う力です。私たちを救う神の力が主イエスの復活によって示されたのです。それは死に勝利する力、死の力に捕えられ支配されている私たちを解放して、新しい命を与えて下さる力です。私たちの人生を脅かしている最大の敵である死を、神の恵みの力が打ち破り、私たちに新しい命を与えて下さる、そういう救いが、御子イエスの復活において実現したのです。私たちは先週そのことを祝ったのだし、毎週の主の日の礼拝も、主イエスの復活を記念してなされています。復活によって、主イエスが「力ある神の子、救い主」であることが示されたことこそが「御子イエス・キリストによる救いの知らせ」です。パウロはこの「神の福音」のために選ばれ、召されて使徒となったのです。
 ここまでが、これまで二回にわたって私たちがこの箇所から聞いてきたこと、具体的には4節までの所に語られていることです。しかしここまでの話を聞いて、よく分からない、死の力からの解放とか新しい命とか言われてもピンと来ない、と思う人が当然いるでしょう。しかし心配する必要はありません。今読んでいるこの1~7節は、この手紙の最初の挨拶の部分です。パウロはここで、自分が宣べ伝えている福音を凝縮して語っています。その福音がこれから、この手紙全体において語られていくのです。ですから今分からなくても、納得できなくても大丈夫です。これからこの手紙を読み進めていく中で、これらのことがもっと詳しく、丁寧に語られていきますから、ぜひそれにお付き合いいただき、パウロが語っている福音を聞いていっていただきたいのです。本日のこの段階では、パウロがこの手紙において神の福音、つまり神による救いの知らせを語ろうとしていること、その福音の中心、要(かなめ)は、肉体をもってこの世を生き、十字架につけられて死に、そして復活した御子イエス・キリストであること、それだけを押えておきたいと思います。

ただキリストの恵みによって
 さて本日は、この挨拶の後半の5節以下を見ていきます。5節にこう語られています。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」。この文章は原文においては、「わたしたちはこの方により、恵みを受けて使徒とされました」ということが冒頭に語られています。「この方」とは勿論主イエス・キリストです。自分はイエス・キリストによって、恵みを受けて使徒とされた者だ、ということをパウロは5節の冒頭に語っているのです。それは1節で「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と言ったことの繰り返しです。自分はキリストによって使徒とされたのだということをパウロはこのように繰り返し語り、強調しているのです。しかしこの5節には新しい言葉があります。「恵みを受けて」という言葉です。ここはより正確に訳すと「この方によって、恵みと使徒の務めとを受けた」となります。「恵み」と「使徒の務め」とが、キリストによって与えられたものとして並列されているのです。そこにパウロの大切な思いが語られています。彼にとって、使徒とされたことは神の恵みを受けたことであり、恵みによってこそ使徒とされたのです。それは彼がキリストを信じる者となり、使徒となった時の体験に基づく言葉です。繰り返し申していますように、このパウロは元はユダヤ教ファリサイ派の一員として、イエスをキリストつまり救い主と信じているキリスト教徒を迫害していたのです。イエスが神の子、救い主であることを認めず、そのような教えは撲滅すべきだと考えていたのです。その彼に、ある時主イエスが出会って下さり、ご自分こそ神の子、救い主であることを示して下さり、旧約聖書以来の神の救いの約束が主イエスにおいて実現したという福音を示して下さり、そして彼をその福音を宣べ伝える使徒として立てて下さったのです。彼はそのようにまさに人生が180度転換する体験をしたわけですが、それは彼が、それまでの考え方は間違っていたと気付き、新しい信仰に生きようと方向転換をした、ということではありません。彼は神が遣わした独り子主イエスを否定し、主イエスを信じる人々を迫害し、神に真っ向から敵対し、逆らっていたのです。つまり神の目から見て彼は、救いようのない、滅ぼされるしかない罪人だったのです。その彼に主イエスが出会って下さり、彼を信じる者とし、さらに使徒として下さった、それは主イエスが彼の罪を赦して下さり、彼を新しく生かして下さったということです。救いようのない罪人である彼を、主イエスが赦して下さり、救いを与えて下さり、そして神のために働く者として下さったのです。それが、彼が受けたキリストの恵みです。彼の回心、180度の方向転換は、彼自身が思索の結果それまでの歩みを反省し、新しい信仰を選び取って生き始めたということではなくて、主イエスが彼に恵みを与え、赦しと救いを与えて下さったということだったのです。そこにおいては彼自身の反省も努力も精進も、あるいは思索も、何の役割も果してはいないのです。滅ぼされるしかない罪人である自分が、何の反省も努力も精進もなしに、ただキリストの恵みによって赦され、救われ、使徒とされた、これがパウロの体験でした。ですから彼にとって使徒の務めは、自分の努力や精進によって得た手柄では全くなくて、キリストの恵み以外の何ものでもないのです。

異邦人の使徒
 彼はこの5節で、自分が使徒とされた目的を、「その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために」と語っています。「御名を広めて」と訳されていますが、「広めて」という言葉は原文にはありません.口語訳聖書は「御名のために」と訳しており、こちらの方が原文に忠実です。パウロが福音を宣べ伝える使徒の務めを果しているのは、彼に出会って下さり、恵みによって赦しと救いを与えて下さった主イエス・キリストの御名のためです。その御名の栄光が現され、人々がその御名に感謝し、御名を賛美するようになるために彼は使徒としての務めを果しているのです。そしてそのために彼は、「すべての異邦人を信仰による従順へと導」こうとしています。ここに、自分は異邦人の使徒として立てられているというパウロの自覚が現れています。異邦人とは、ユダヤ人がユダヤ人でない人々のことを呼ぶ言葉です。ユダヤ人たちは、自分たちだけが神に選ばれた神の民だ、という自覚を強く持っていました。だから神の救いにあずかるのは我々ユダヤ人であって、異邦人はそのままでは救いにあずかることはできない、割礼という儀式を受けてユダヤ人の一員にならなければ救われない、と考えていたのです。パウロもユダヤ人であり、かつてはそういう考えを強く持っていました。異邦人が異邦人であるままで、神の民に加えられ、救いにあずかるなどあり得ないと思っていたのです。しかし今彼は、異邦人にキリストの福音を宣べ伝え、異邦人がその救いにあずかるために使徒としての務めを果しています。かつては考えもつかなかったことをしているのです。その大転換をもたらしたのも、彼が体験したキリストの恵みによる救いです。つまりかつての彼は、神の御子イエス・キリストに敵対し、迫害していたわけで、救いにあずかる資格など全くない、滅びるしかない罪人だったのです。その自分が、自分の反省や努力や精進によってではなく、つまり何の相応しさもなしに、ただキリストの恵みによって罪を赦され救われたのです。そうであるならば、異邦人にもそれと同じ救いが与えられるはずです。血筋において神の民に属しておらず、律法を守ることもなく、犠牲を献げる儀式も行なっていない異邦人には、神の救いにあずかる相応しさは全くありません。しかしそのように全く相応しくない者が、ただ主イエス・キリストの恵みによって罪を赦され、神の民とされる、それが主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した神の救いです。そうであるならばその救いは異邦人にも及んでいくはずです。パウロは、自分自身が全く相応しくない罪人だったのに、ただキリストの恵みによって赦され、救いにあずかった体験からそういう確信を与えられ、自分は異邦人の使徒として召され、遣わされているという自覚を与えられたのです。

「信仰による従順」と「信仰の従順」
 ところでパウロはここで、「すべて異邦人を信仰による従順へと導くために」と言っています。彼は福音を宣べ伝えることによって異邦人たちを信仰による従順へと導こうとしているのです。信仰による従順とはどういうことでしょうか。信仰によって従順な人になるということでしょうか。主イエス・キリストを信じる信仰者になると、上の人の言うことをよく聞きそれに従う従順な人になる、あるいはそうならなければならないということでしょうか。実はこの「信仰による従順」も、口語訳聖書では「信仰の従順」と訳されており、こちらの方が原文に忠実な訳です。ここは直訳すると「全ての異邦人における信仰の従順のために恵みと使徒の務めを受けた」となるのです。「信仰による従順」と「信仰の従順」では意味が違います。その違いを意識することが、ここを理解するためには大事です。

信仰の根本は神への従順
 しかしその違いを考える前に、先ず確認しておかなければならないのは、いずれにしても「従順」という言葉が用いられていることです。パウロは、信仰には従順が必要だと言っているのです。その従順は、神への従順です。神に従うことです。信仰とは、神に従うこと、神のみ言葉に聞き従うことなのです。これは当然のことであるはずですが、しかし私たちは、信仰を持って生きると言いながら神に従順であろうとせず、神のみ言葉に聞き従おうとしないことが何と多いことでしょうか。例えば私たちが、苦しみや悲しみの中で、自分の願い、望み、希望を神に訴え、悩み苦しみを取り除いてもらうことばかりを求めているならば、私たちは神に従順であろうとしているのではなくて、自分の願いのために神を利用しようとしているのです。あるいは神を信じることによって自分の人生にどのような喜び、慰め、支えが得られるか、ということばかりを考えているならば、それは私たちが自分に従順に仕える神を求めているということです。そこでは、願いが叶うと「やっぱりこれが福音だ」と思い、叶わないと「こんなのちっとも福音ではない」と文句を言うのです。そこでは神への従順が全く忘れ去られています。信仰の根本に、神への従順がなければ、それは結局神を人間の都合のために利用することにしかならない、このことを私たちはしっかりとわきまえていなければなりません。

信仰の従順とは
 そのことを先ずわきまえた上で、しかし私たちはここでパウロが言っている「信仰の従順」と「神の福音」とのつながりを明確にしなければなりません。神の福音は、神が御子イエス・キリストにおいて実現して下さった救いの知らせです。それはただキリストの恵みによって与えられた救いであり、私たちの反省や努力や精進によって得られるものではありません。つまり私たちの側の相応しさによってではなく、ただ神の恵みによって、罪人である私たちが赦されて救われるのです。それこそが神の福音です。その福音と、神への従順が信仰の根本であるということはどう結びつくのでしょうか。信仰の根本に神への従順がなければならないということが、神に従順に従うことによってこそ救いが得られる、というふうに受け止められてしまうなら、その従順は救いを得るための人間の側の相応しさ、条件となります。そういう条件を満たして相応しい者になれば救いが与えられる、ということになります。それでは、パウロが言っている「神の福音」、キリストの恵みによってのみ罪人が赦され救われるという福音は成り立たなくなるのです。この福音の根本には、そもそも神の救いを得るに相応しいほどに従順である人などこの世に存在しない、ということがあります。だからこそ、神の御子である主イエス・キリストが人間となって下さったのです。主イエスはそのご生涯において、私たちには決してできない神への従順を、私たちのために成し遂げて下さったのです。パウロはそのことを、フィリピの信徒への手紙第2章6~8節でこのように語っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。御子イエス・キリストがへりくだって人間となり、十字架の死を引き受けて下さった、そこにこそ神への真実の従順があります。従順であることができない私たちに代って、神の子イエス・キリストが神への従順を貫いて下さり、それによって救いを与えて下さったのです。私たちに求められている「信仰の従順」とは、十字架の死に至る主イエスの父なる神への従順が、この私のための従順だったと認め、その主イエスの従順によって与えられた救いの恵みを信じて受け入れることです。私たちの側には、救いを得ることができる相応しさなど何一つないのに、神がただ恵みによって独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって私たちにも、死の力からの解放と永遠の命を与えると約束して下さった、その神の福音を信じて受け入れることです。それこそが、パウロがここで、全ての異邦人をそこへと導こうとしている「信仰の従順」なのです。それを「信仰による従順」と訳してしまうと、信仰によって神に従順な人になることが救われるための条件であるという誤解を生みかねません。異邦人はそのままでは救われないけれども、神に従順になるという条件を満たすことによって救われる、とパウロが言っているという勘違いが起るのです。しかしパウロが語っている福音は、そもそも救いを得るための条件を何一つ満たしていない異邦人が、主イエス・キリストのものとされることによって、キリストの恵みによって赦されて救いにあずかる、ということです。だからこそそれは福音、喜びの知らせなのです。この福音を信じて受け入れることが「信仰の従順」です。つまり信仰の従順とは、従順になることによって救いに相応しい者となることではなくて、全く相応しくない、救われる資格のない自分が、主イエス・キリストのものとされることによって救われる、その主イエスの恵みを従順に信じ受け入れることなのです。

信仰の従順への招き
 パウロはその信仰の従順へとこの手紙を読む全ての人々を招いています。それが6節の言葉です。「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」。あなたがたも異邦人であり、救いを得ることができる相応しさを自分の中に全く持っていない者だけれども、神はただ恵みによってあなたがたを、神の子イエス・キリストのもとへと召し集めて下さって、キリストのものとし、その十字架の死と復活による救いにあずからせようとして下さっている、その神の召しを従順に受け入れて、その救いにあずかりなさい、とパウロは語りかけているのです。7節の前半もそういう語りかけになっています。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」。あなたがたは神に愛されており、キリストの恵みによる救いへと召されているのだ。あなたがたの相応しさによってではなく、キリストの恵みによって聖なる者、神に属する者とされているのだ。信仰の従順によって、その神の愛による召しを受け入れなさい、という招きです。その招きは、ローマの教会の人たちにだけでなく、今この手紙を読んでいる私たち一人一人にも与えられているのです。
 この信仰の従順への招きに私たちが応えるならば、7節後半の祝福の言葉もまた私たちに告げられている言葉となります。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。これは手紙の冒頭の挨拶における単なる社交辞令ではありません。信仰の従順によって神の福音を受け入れるならば、私たちも自分が神に愛されており、召されていることを知ることができ、父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和の内に生きることができるのです。

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