主日礼拝

振り向くと、主が

「振り向くと、主が」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第43章1-7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書第20章11-18節
・ 讃美歌: 322、451、333

墓の前で泣いているマリア
 主イエス・キリストの復活を喜び祝うイースターの日を迎えました。キリストの復活こそ、私たちの救いとそれによって与えられる喜びの中心です。キリストの復活は週の初めの日、つまり日曜日の朝の出来事でした。そのことを覚えてキリスト教会は日曜日を「主の日」と呼んでその日に礼拝をささげてきました。つまり教会は毎週日曜日にイースターを祝いつつ歩んでいるのです。教会の信仰、キリスト教信仰の根本は、主イエス・キリストの復活を喜び祝うことなのです。
 ヨハネによる福音書第20章に語られている主イエスの復活の出来事を本日ご一緒に読むのですが、先程朗読された箇所の冒頭の11節に、「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。マリアは泣いていた。私たちは本日先ずそのことに目を向けたいと思います。イースターの喜び祝いは、ただおめでたいだけの、涙を知らない、悲しみを知らない喜び祝いではありません。マリアは泣いていた、その涙が喜びへと変えられたのです。
 このマリアはマグダラのマリアと呼ばれている人ですが、彼女が何故泣いていたのかは20章1節以下から分かります。主イエスは金曜日に十字架につけられて殺され、直ちに埋葬されました。マリアは安息日である土曜日が終わり、さらに夜が明けるのを待ちかねるように、朝早くその墓に行ったのです。他の福音書によれば、彼女が墓に行ったのは、主イエスの遺体に香料を塗って丁寧に埋葬をし直すためですが、ヨハネ福音書においてはそのような埋葬が既に金曜日の内になされています。だからマリアは、何か用事があって墓に行ったのではありません。彼女はただ主イエスのお傍にいたかったのです。その墓の前で泣きたかったのです。愛する主イエスが殺されてしまったという深い悲しみが彼女を捕えています。しかし彼女が墓に行ってみると、蓋をしていた石が取りのけてあり、主イエスの遺体はそこにありませんでした。遺体を包んでいた亜麻布だけが残されており、墓は空っぽだったのです。愛する主イエスが死んでしまっただけでなく、その遺体すらも失われてしまった、その現実に呆然として、マリアは墓の前に立って泣いていたのです。彼女は主イエスの死の悲しみの中で、その遺体が埋葬されているお墓に行って、主のお傍で泣くことをせめてもの慰めとしたいと思っていました。そのせめてもの慰めすらも取り去られてしまったマリアの絶望の涙から、イースターの朝は始まったのです。

せめてもの慰めすら失われて
 マリアのこの悲しみ嘆きを私たちも味わいます。今現にこういう悲しみの中にいるという人もおられるでしょう。本日の週報に記されているように、昨年のイースターからの一年の間に私たちは、教会員の家族をも含めて十二名の方々を天に送りました。このお名前を見て、長年この教会で共に信仰の生活を送り、よい交わりを与えられてきた親しい友を失った、という悲しみを覚えている方も多いでしょう。この方々の死は、ご家族には勿論のこと、この教会に連なる者たちにとっても深い悲しみです。親しい者の死は、私たちの人生が死の圧倒的な力の支配下に置かれていることを私たちに思い起こさせるのです。その悲しみの中で私たちは、せめてもの慰めを得たいと願います。亡くなった方々の遺骨が埋葬されている墓でその方々との思い出を新たにすることも一つの慰めです。しかし場合によってはそのようなせめてもの慰めすらも得られないことがあります。例えば4年前のあの東日本大震災において、なお多くの方々が行方不明となっています。津波によって遺体が流され失われてしまったのです。あの時、家族の遺体を探し回り、それが見つかったことを喜ぶという、涙なしには見られない人々の姿がありました。愛する者の死の悲しみの中で、せめてその遺体を丁重に葬りたいという願いすらも叶えられないという現実も時としてあるのです。マリアはそのような絶望の中で、墓の外に立ちつくし、涙を流していたのです。

悲しみの中に閉じこもる
 彼女が泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、主イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を来た二人の天使が見えたと12節にあります。天使たちはマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と語りかけます。なぜ泣いているのか、主イエスはこの墓の中にはもうおられない、あなたが悲しみ嘆く理由はもはやなくなったのだ、と天使は語りかけたのです。しかしマリアはそれに対して、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いました。マリアはなおも、死んでしまった主イエスの遺体を捜し求めているのです。14節には「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」とあります。マリアの後ろに主イエスが立たれたのです。「誰かが」ではなくて「イエスが」とヨハネははっきり語っています。復活した主イエスが後ろに立っておられるのをマリアは見たのです。けれども彼女はそれがイエスだと分かりませんでした。主イエスも「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と語りかけます。「もう泣く必要はない。あなたが捜している私が、生きてあなたの目の前にいるのだ、それが分からないのか」という問いかけです。しかしマリアはその人を園丁だと思って「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアはあくまでも主イエスの遺体を捜しているのです。それを自分が引き取り、改めて埋葬して、その墓で主イエスの思い出に浸り、涙を流すことだけを願っているのです。それが彼女の今考え得る唯一の慰めです。愛する主イエスを失った深い悲しみ嘆きの中で彼女は、主イエスの墓にのみ慰めを見出しているのです。その彼女の思いが、主イエスが生きて目の前に現れてもそれが分からないほどに彼女の目を塞いでしまっています。ここには、悲しみの中に閉じこもり、そこから出て来ようとしない人間の、ある意味強情な姿が示されています。彼女は、悲しみから抜け出すことができないと言うよりも、そこから出て来ようとしないのです。自分が求めている慰めに固執し、自分の思いを越えて外から与えられる慰めには心を閉ざしているからです。私たちはそのようにして、自分で悲しみの中に引きこもってしまうことがあります。イースターの朝の場面においてヨハネ福音書が先ず語っているのは、このように悲しみの中に閉じこもり、まことの慰めを拒んで涙を流している人間の姿なのです。

名を呼んで下さる主イエス
 そのマリアがここで復活した主イエスと出会い、彼女の涙は喜びに変えられました。イースターの喜び祝いが与えられたのです。どのようにしてそのことが起ったのか、それを16節が語っています。「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」。こうしてマリアは、目の前に立っている人が、復活して生きておられる主イエスであることを知らされたのです。彼女が復活の主と出会い、悲しみ嘆きの暗闇から喜びと希望の光の中へと出て来ることができたのは、主イエスの「マリア」という語りかけによってでした。主イエスはここで、前の節のように「婦人よ」ではなく、マリアの名前を呼んで下さったのです。主イエスが彼女の名前を呼んで下さったことによって、彼女に復活の喜びが与えられたのです。

主イエスとの出会いにおいて起ること
 だったら最初から「婦人よ」などと言わずに名前を呼べばよかったのに、と思うかもしれませんが、そこには大きな意味があります。「婦人よ」という語りかけが「マリア」と名前を呼んで下さることへと深まることを、私たちは主イエスとの出会いにおいて体験するのです。私たちは、初めて教会の礼拝に集うようになり、聖書の話、説教を初めて聞いた時には、それを自分のこととして受け止めることはあまりないでしょう。牧師が教会の信者さんたちに何かを教えているんだな、ぐらいに思うわけです。しかし続けて礼拝に出席していくとそのうち、説教というのは牧師が自分の思いや考えを講演しているのではなくて、神様からの語りかけとして語っているのだし、信者の人たちはそれを神の「み言葉」として聞いているのだ、ということに気づいていきます。しかしなお、み言葉を語りかけられている相手は信仰を持っている人々であって自分ではない、自分はその人たちの中に紛れ込んでそれを聞いているだけだ、と感じていることが多いでしょう。けれどもそのようにしてみ言葉を聞き続けていく中で、ある時、主イエスが自分の名前を呼んで、自分に対して語りかけておられることに気づくのです。つまり「婦人よ」という一般的な語りかけしか聞こえていなかったのが、ある時、主イエスが自分の名前を呼んでおられることに気づく。それこそが信仰の芽生えなのです。

洗礼を受けることにおいて
 主イエスに名前を呼ばれたことによってマリアは、主イエスが生きて自分の前に立っておられることに気付きました。そして主イエスに、「ラボニ、先生」と語りかけました。彼女のこの応答によって、主イエスと彼女との交わりが回復されたのです。主イエスの遺体を納めた墓の前で泣くことを唯一の慰めと感じていた彼女が、生きておられる主イエスとの交わりの喜びを与えられたのです。それこそが主イエスの復活の喜び、イースターの喜びなのです。
 このイースターの日に彼女に起ったのと同じことが、私たちが主イエス・キリストと出会い、信じる者となり、洗礼を受けてその救いにあずかることにおいて起ります。み言葉を聞いて行く中で、主イエスが自分の名前を呼んでおられることに気づく時が来る、と先程申しました。私たちは、生きておられる主イエスが自分の名前を呼んでおられることに気づき、その呼びかけに応えて、自分の方からも主イエスを呼び、主イエスと共に生き始めるのです。それが、洗礼を受けるということです。本日この礼拝において、お二人の方々が洗礼を受けます。お二人共、若い日にキリスト教学校においてキリスト教と出会い、家族を通して、あるいは職場において、み言葉を聞いて来られました。しかしこれまでは、そのみ言葉は人々に対する教えとして受け止められてきたのです。しかし今、主イエスが自分の名前を呼んで自分に語りかけておられる、そのみ声をお二人は聞き、それに応えて自分も主イエスの名を呼び、「あなたこそ私の主、救い主です」と告白して、主イエスとの交わりに生き始めようとしておられます。それこそ、イースターの日に、マグダラのマリアに起った喜びの出来事だったのです。

振り向いて、悔い改める
 マリアが復活した主イエスと出会った、そこに「振り向いて」と語られていることに注目したいと思います。墓の前に立って泣いていたマリアの後ろに主イエスが立たれたのです。マリアは振り向いて主イエスと出会ったのです。14節にも、「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」と語られています。マリアが振り向いたことをヨハネは二度語って強調しているのです。振り向くとは、向きを変えることです。そこには「悔い改め」ということが意識されています。私たちの救いは、悔い改めることなしには得られません。なぜなら生まれつきの私たちは罪に支配されており、神を神として敬い愛することなく、自分が主人となって生きようとしているからです。そして自分が主人となろうとしている私たちは、隣人を受け入れ、愛し、尊重することができず、お互いに相手を否定し、傷つけ合っています。そのように神をも隣人をも、愛し受け入れることができずに否定し、憎み、敵対してしまうことが私たちの罪です。主イエス・キリストによる救いとは、そのような罪人である私たちを神の独り子主イエスが十字架にかかって死ぬことによって赦して下さった、ということです。そのキリストによる罪の赦しにあずかるためには、自分が罪人であることを認め、悔い改めてその赦しを神に求めなければなりません。悔い改めることなしには救いはないのです。しかしそこで間違ってはいけないのは、悔い改めとは、私たちが自分で自分の罪を反省して、もう罪を犯さないようにしようと固く決心することではない、ということです。悔い改めは私たちの反省とは違うのです。聖書においては悔い改めるとは「向きを変えること」つまり「振り向くこと」です。神様の方へと、主イエスの方へと向きを変えるのです。生まれつきの私たちが罪人であるのは、神様の方を向いていないということです。神と向き合い、神によって生かされていることを見つめ、神の前で自分の罪を認め、その赦しを神に求めていくのでなく、自分や他の人のこと、この世のことばかりを見つめ、人間の価値観によって左右され、人間の知恵や力関係によってのみ問題を捉え解決しようとしている、それが私たちの罪なのです。その私たちが、神の方へと、神が遣わして下さった救い主イエス・キリストの方へと向きを変え、振り向いて、神のまなざしの前で、主イエス・キリストによって神が与えて下さった救いの恵みをこそ見つめて生きる者となること、それが悔い改めです。洗礼を受けることは、この悔い改めの印、神の方に向きを変えて生き始めることの印なのです。

振り向くと、主が
 神の方へと、主イエス・キリストの方へと向きを変え、振り向くことによってこそ、イースターの喜びが与えられます。マリアは、墓の前に立って泣いていました。それは、この世の目に見える現実を支配している死の圧倒的な力の下でどうすることもできずに絶望の涙を流している私たちの姿です。しかし、その死の力に勝利して復活し、永遠の命を生きておられる主イエス・キリストが、今その私たちの背後に立っておられるのです。私たちはその主イエスの方へと向きを変えなければなりません。振り向いて、復活して生きておられる主イエスをこそ見つめるのです。それは私たちが、自分の悲しみと嘆きばかりを見つめている目を、主イエスへと向け変えるということでもあります。自分がこれしかないと思っている慰めにこだわり、その慰めのみを追い求めているのをやめて、神が、私たちのそれまで知らなかった、思ってもみなかった慰めと救いを与えて下さる、その神からの語りかけに心を向けて行くということでもあります。主イエス・キリストの復活は、私たちの知識や常識では決して捉えることのできない、私たちの全く知らない、思ってもみなかった救いです。私たちは方向転換をしなければ、向きを変えなければ、その救いにあずかることはできません。つまり、悔い改めなければならないのです。しかし先程申しましたようにそれは、私たちが自分で清く正しい立派な者になることではありません。復活して、今生きておられ、私たちの名前を呼んで下さっている主イエス・キリストの方に顔を向けることこそが私たちのなすべき悔い改めです。死の力の支配の下で、自分の苦しみや悲しみばかりを見つめ、また自分がこれだと思う慰めのみを求めている私たちは、悲しみの中に引きこもり、神が与えて下さる慰めを拒んで心を閉ざしてしまいがちです。しかし振り向くと、そこには復活して今も生きている神の子イエス・キリストがおられ、私たち一人一人の名前を呼んで、主イエスと共に生きることへと招いて下さっているのです。主イエスを死の力から解放し、復活と永遠の命を与えて下さった父なる神の恵みの下で生きる新しい人生がそこに開かれていくのです。

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