特別伝道礼拝説教

永遠の命を得るには

「永遠の命を得るには」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第111章1-10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書第19章16-30節
・ 讃美歌:58、280、536

永遠の命?
 今回の特別伝道礼拝の説教題を「永遠の命を得るには」としました。この題を掲げた看板を出し、チラシを配り、どなたでもどうぞおいで下さいとお誘いをしてきたわけですが、自分で決めておいてこんなことを言うのも何ですが、私は、この題を見てこの礼拝に行ってみようと思う人はあまりいないのではないか、と思っています。既にクリスチャンである人はともかく、一般の方々にとっては「永遠の命」などと言われてもピンと来ないし、ましてや、そういうものを得たいと思っている人はほとんどいないだろうと思うのです。「永遠の命」と言われて、皆さんはどんな印象を持つでしょうか。それは今のこの命がいつまでも永遠に続いていくことでしょうか。そういうのは「不老不死」と言います。誰でもできるだけ元気で長生きしたいと思ってはいますが、不老不死でありたいと思っている人はもはやいないでしょう。そもそも、人間がみんな不老不死になったら大変なことになります。生まれてくる人はいても死ぬ人はいない。人口はどんどん増え続けて、食料はまたたく間に底をつき、破局が訪れるのです。おかしな言い方ですが、私たちは、人間や他の動物たちも皆、ある時が経てば死ぬ者であるからこそ、こうして生きていられるのです。ですから、今のこの命が永遠に続いて行くような永遠の命などは、不必要であるどころか、とてつもない災いを招くのです。
 永遠の命は不老不死とは違います。それではそれはどういうものでしょうか。肉体は死んでも魂が生き続け、天国か極楽か、そういうすばらしい所で永遠に幸せに暮せる、ということでしょうか。人の死が常に日常的に身の周りにあった昔の人々にとっては、そういう死後の幸福が切実な問題でした。しかし今日の私たちにとってはどうでしょうか。日本人女性の平均寿命は八十歳を越えています。八十まで生きてもまだ平均に届かないという中で、私たちの思いは、死後のことよりも現在のこの人生のことで満たされています。死ぬまでどう生きるかで手一杯、その先のことなど考えている余裕がない、というのが私たちの現実なのではないでしょうか。つまり私たちが今得たいと思っているのは、死んだ後の永遠の命よりも、今のこの人生の幸福であり、平安なのです。だから「永遠の命を得るには」などと言われても魅力を感じない、そんなことよりももっと当面大事な、気がかりなことが山ほどある、と思うのではないでしょうか。この題は、本日の聖書の箇所、マタイによる福音書第19章16節で、一人の青年がイエス・キリストに問うた言葉から取ったものですが、このような問いを読むと私たちは、この人はまだ若いのに随分奇特な、信心深い人なのだなあと思います。およそ今の青年はこんな質問はしないだろうとも思うのです。

どんな善いことをすればよいのか
 永遠の命は、このように私たちにとって身近なものではないし、あまり魅力的でもないと思います。それを得ようと主イエスに質問をしたこの青年のような思いには、私たちはなれそうもないと思うのです。けれどもここで一つのことを見つめておきたいのです。それは、この青年が、永遠の命を得たいと思って、「どんな善いことをすればよいのでしょうか」と質問したということです。永遠の命は私たちにはピンと来ないし、それを求めようとも思わないかもしれませんが、彼が問うている、「どんな善いことをすればよいのか」ということは、私たちもいつも求めている、知りたいと願っていることなのではないでしょうか。「どんな善いことをすればよいのか」、それは言い換えれば、どのように生きたらよいのか、ということです。死んだ後のことはあまり考えない私たちも、今のこの自分の人生をより良いものにしたい、より充実した、幸せな、意味あるものにしたい、ということはいつも思っています。そのためにはどうしたらよいのか、ということは私たちの人生の最大の問題なのです。そしてこのことを少しでも本気で考え、本当に意味ある充実した人生を送りたいと思う人は誰でも、この青年と同じように、「どんな善いことをしたらよいのか」と思うのです。この人生を本当に価値のある、有意義な、充実したものとするためには、「善いこと」をする必要がある、と誰もが思うからです。「永遠の命」には興味を抱かない私たちも、「どんな善いことをしたらよいか」というこの青年の問いには共感し、同じことを訊ねようとするのです。
 善いことをして生きたい、そうすればそこに、本当に良い、充実した人生が得られる、そう私たちは思っています。私たちがせっかくの日曜日に、遊びにも行かずに教会の礼拝に来るのは、そのためだと言えるでしょう。善いことをして生きる良い人生とはどんなものかを知るために、私たちは教会に行ってみようと思うのです。それはこの青年が「どんな善いことをすればよいのか」という問いをもってイエス・キリストのところに来たのと同じです。この青年の姿は、教会の礼拝に集っている私たちの姿を象徴していると言ってもよいでしょう。そうであるならば、主イエスが彼に答えて語られたことは、そのまま私たちへのみ言葉でもある、ということです。主イエスはどのように言われたのでしょうか。

善い方
 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。これが主イエスの答えです。「どんな善いことをすればよいのか」という彼の問いに対して、主イエスは突き放すように、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか」とおっしゃいました。それは、そういう問い自体が間違っている、ということです。そして、「善い方はおひとりである」と言われました。ここには、「善いこと」と「善い方」との対比があります。「善いこと」ではなく、「善い方」をこそ求めるべきなのだと教えられているのです。  「善いこと」を求めるのと、「善い方」を求めるのではどう違うのでしょうか。「善い方」というのは、「善い方はおひとりである」と言われていることからわかるように、神様のことです。「善いこと」というのは、自分がする善いことです。自分がどんな善いことをする人間になるか、それを求めていくことが、「善いこと」を求めることです。つまり「善いこと」を求めることと「善い方」を求めることの違いは、自分を見つめていくか、神様を見つめていくかです。善いことをする自分を見つめて生きるか、善い方である神様を見つめて生きるか、がここで問われているのです。そしてそこにこそ、教会の礼拝に集うようになり、教えを聞いていく中で私たちが突き当たる最大の壁があるのではないでしょうか。つまり私たちは多くの場合、先程も申しましたように、「どんな善いことをすればよいのか」という思いを持って教会に行くのです。人生を本当に充実させ、良いものとするためには、どのように生きるべきか、自分のなすべき善いことは何か、教会に行けばそれを教えてもらえると期待して礼拝に出席するのです。ところがその期待は裏切られます。教会で語られているのは、「こんな善いことをしなさい」という教えではありません。ただお一人の「善い方」がおられる、その方を見つめ、その方との交わりに生きることを教会は教え、勧めるのです。教会の信仰は、「善いこと」をするために努力することではありません。ただ一人の「善い方」である神様の下で生きる者となることこそが教会の信仰なのです。この壁を乗り越えられないと、つまり自分が善いことをして生きることを求める者から、善い方である神様を見つめ、神様との交わりに生きる者へと変えられていかないと、信仰は得られないのです。そこに、教会の信仰のとっつき難さ、難しさがあると言えるでしょう。

掟を守る
 「善い方」をこそ見つめ求めるべきことを語られた主イエスは、それに続いて、「掟を守りなさい」と言われました。掟というのは、旧約聖書に語られている神様の掟、律法と呼ばれているものです。その中心はいわゆるモーセの十戒です。18節の「どの掟ですか」という彼の問いに対して、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」とあるのは、十戒の後半、人間関係における戒めです。その掟、律法を守るようにと主イエスは言われたのです。私たちはこれを、こういう掟、規則、道徳律を守るという「善いこと」をするように主イエスが教えたと読んでしまってはなりません。先程の「善い方はおひとりである」という言葉に続いてこれが語られているのです。つまりこれは、「その善い方である神が命じておられることをしっかりと聞き、それを守り行ないなさい」ということです。掟を守るという「私たちのする善いこと」が求められているのではなくて、善い方である神様の下で、その神様のみ言葉に聞き従うことが求められているのです。聖書には、十戒を始めとする戒めがあります。主イエスも、「こうしなさい」「これをしてはならない」ということを教えられました。しかしそれらは、それだけを道徳律として取り出して守り行っていても意味がないのです。大切なのはそれらの戒めや教えを私たちに語り、求めておられるただ一人の善い方、神様との交わりです。見つめるべきは、掟を守って善いことをしている自分ではなくて、まことの善い方である神様なのです。

何かが欠けている
 この青年はしかし、主イエスが「掟を守りなさい」と言われたことの本当の意味を捉えることができませんでした。彼はあくまでも「自分がどんな善いことをしているか」にこだわっています。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」という彼の言葉にそれが現われています。十戒を守ることはユダヤ人たちにとって当然のことです。もっと細かい沢山の掟が言い伝えられていたのであって、善いことをして永遠の命を得ようとしている彼は、それらの細かい掟の全てを熱心に学び、守り行っていました。彼は自信を持って、「そういうことはみな守ってきました」と言うことができるし、それは決して嘘ではないのです。しかしここに面白いことがあります。このように「善いこと」を追い求め、律法の隅々までを、おそらく人一倍熱心に守り行っている彼が、「まだ何か欠けているでしょうか」と言っていることです。自分の「善いこと」にはまだ何かが欠けているのではないか、と彼は不安なのです。だから主イエスのところに来て、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問うたのです。ここに描き出されているのは、自分が「善いこと」をして生きることを追い求めている限り、そこには「もうこれで十分」という平安、安心は得られない、ということです。どんなに頑張って善いことに励み、一つ一つの戒めを落ち度なくクリアしていったとしても、「まだ何か欠けているのではないか、何かが足りないのではないか」という思いがなくなることはないのです。自分が善いことをする、ということに人生の土台を置き、それを追い求めていく歩みはそのように、どこまで行ってもゴールにたどりつくことができないのです。いつもどこかに不安がつきまとうのです。

完全になれ
 主イエスは彼に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。自分がする善いことという土台の上に人生を築こうとするなら、その善いことは完全でなければなりません。土台が不完全では、建物がぐらついてしまうのです。完全な善いことをするには、持ち物を売り払い、貧しい人々に施すことが必要です。そこまでして初めて、完全な善いことと言えるのです。主イエスは19節で、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という戒めを一言でまとめるならばこうなるのです。この青年は先程、「そういうことはみな守ってきました」と自信を持って言いました。それを受けて主イエスは、「もしあなたがこれらの戒めをみな守り、自分の隣人を本当に自分と同じように愛しているなら、自分の財産を売り払って貧しい隣人に施すことができるはずだ」と言われたのです。彼は戒めの表面的な意味だけを見て、自分は人を殺していないし、姦淫の罪も犯していない、人のものを盗んだことも、偽証したこともない。父母を敬い大事にしている、だからこれらの戒めをみな守れていると思っているのです。しかし十戒を完全に守り行うとは、それをお与えになった神様のみ心を完全に行うことです。そうでなければ、自分のする善いことを人生の土台にすることなどできないのです。

財産を捨てて
 この主イエスのお言葉によって、この青年は悲しみながら立ち去りました。それは「たくさんの財産を持っていたから」だと聖書は語ります。それらを全部売り払って施すことが彼にはできなかったのです。このことは、財産のある人がそれを捨てて神様に従うことの難しさを語っています。しかしそれは単に、お金持ちは信仰に入りにくい、貧しい人の方が捨てなければならないものが少ないから信仰に入りやすい、ということではないでしょう。彼がどうしても捨てることができなかった沢山の財産とは、彼がいっしょうけんめい努力して積み重ねてきた「善いこと」でもあるのです。彼はお金も沢山持っていましたが、そういう地上の富があればもう大丈夫、安心だとは思わなかったのです。永遠の命はお金で買うことはできない、永遠の命を得るためには、善いことをしなければならないと彼は思い、いっしょうけんめいに善いことを積み重ね、その面でも豊かな財産を築いてきたのです。そしてその富にさらに新たな善いことを加え、より完全なものにするために主イエスのもとに来たのです。つまり彼は、自分の善い行いという財産、豊かさにより頼み、それを人生の土台としているのです。そういう彼に主イエスは、自分のする「善いこと」を追い求めるのではなく、ただ一人の「善い方」との交わりに生きなさいと言われたのです。そのために、持ち物を売り払って貧しい人に施せと教えられたのです。ですからこれは、「全財産を貧しい人に施すという善いことをせよ、そうすればあなたはその善いことによって永遠の命を得ることができる」、という話ではありません。主イエスがこのことによって彼に求めておられるのは、あなたが拠り所とし、必死になって積み重ねている自分の「善い行い」という財産を手放せ、それを全部捨て去って、何も持たない、無一物の者になれ、ということなのです。無一物になってどうやって生きていくのか。「それから、わたしに従いなさい」と言われています。主イエスに従う弟子になる、そのことへと主イエスは彼を招いておられるのです。主イエスの弟子になる、つまり信仰者となるとは、主イエスが教える善いことを行って生きる者となることではありません。そうではなくて、自分のする善いことを拠り所とするのをやめて、ただ一人の善い方であられる神様の恵みに身を委ねて生きる者となることです。自分の富、豊かさにしがみつくことをやめて、神様の善さ、つまりいつくしみと恵みに生かされ導かれる者となることです。「持ち物を売り払って施せ」というみ言葉は、自分がどんな「善いこと」をして生きることができるかを追い求め、そのために自分の方ばかりを見つめている彼の目を、神様の方に向けさせ、まことの「善い方」であられる神様の恵みを求めて生きる者とするための招きだったのです。

誰が救われるだろうか
 この青年が悲しみながら立ち去った後、主イエスは弟子たちに、「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。彼らはそれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。弟子たちはなぜ驚いたのでしょうか。彼らは決して金持ちではありません。あの青年のように「たくさんの財産を持っていた」などという人はいないのです。そういう意味では、主イエスのこのお言葉を聞いて、「金持ちが天の国に入るのは確かに難しいが、自分たちのような貧しい者なら大丈夫だ」と思ったとしても不思議はありません。つまり主イエスのお言葉を他人事として聞くこともできたはずなのです。しかし彼らは、非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った、つまり自分たちも含めて、救われることのできる者など一人もいないのではないかと思ったのです。つまり彼らは主イエスのお言葉を、他人事ではなく、自分自身の事柄として聞いたのです。それは彼らが、主イエスが言われた「金持ち」とは、単に財産のある人のことではなくて、自分の善い行い、正しさという財産、豊かさにより頼んでいる人のことだということを正しく聞き取ったからです。そして、そういう豊かさを求め、それを拠り所としようとする思いが自分たちの中にもあることに彼らは気づいたのです。自分がする善い行いを豊かにすることによって救いを得ようという思いが誰にでもある、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問うたこの青年と自分は同じだ、と気付いたのです。それは私たちもみんな同じなのではないでしょうか。その私たちに主イエスは、もし本当に自分のする善いことによって救いを得ようとするなら、全財産を売り払って施すべきだと言われるのです。しかしそのようなことができる人は一人もいません。つまり、善い行いによって救いを得ることができる人は一人もいないのです。自分の善い行いにより頼もうとする限り、私たちの救いは、らくだが針の穴を通るよりも難しい、つまり救われる人など一人もいないのです。

神にはできる
 それでは、だれが救われるのだろうか、誰も救われないではないか、という弟子たちの驚きととまどいの言葉に対して、主イエスは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました。人間は、救いを自分の力で得ることは決してできないのです。救いは、私たちの外から、何でもおできになる神様から与えられるものです。「神は何でもできる」というのは、神様は全能だということですが、それは、いろいろな不思議なことや人間の能力を超えたことができる魔術師や超能力者の延長のようなことではなくて、神はどんな人でも、自分の善い行いという財産、豊かさを全く持っていない人でも、恵みのご意志によって救うことができる、ということです。いや、「どんな人でも」などという他人事ではありません。罪人であるこの私をも救うことがおできになる、そこに神様の全能があるのです。不可能を可能にすること、とうてい起こり得ないことを実現すること、それが神の全能の力です。それは、とうてい救われようのないこの私が救われる、ということにおいて実現する、愛の全能なのです。

神の全能はキリストにおいて
この神様の全能の力を私たちはどこで知り、受けることができるのでしょうか。それは主イエス・キリストにおいてです。主イエス・キリストを見つめることによって、私たちは、神様がその愛の全能によってして下さったみ業を知ることができるのです。神様は、その独り子を私たちと同じ人間としてこの世に遣わして下さいました。そしてその神の子、まことの神であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、この上ない苦しみを受け、死んで下さったのです。神様が、私たち罪人のために、ご自分の身を犠牲にして苦しみと死を引き受けて下さったのです。ご自身を徹底的に低くして、罪人を救うために死ぬことができる、そこにこそ神の全能が示されているのです。そして神様は、主イエス・キリストを死者の中から復活させて下さいました。そこにも、死に打ち勝つ神の全能の力が示されています。そして神はこの全能の力によって、私たちにも、復活と永遠の命を与えると約束して下さったのです。そこに、永遠の命を得る道があります。永遠の命は、主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちに示され、与えられている神様の全能の力による救いにあずかり、ただ一人の善い方である神様と共に生きるところに与えられるものです。それは不老不死でもなければ、死後の魂の幸福でもありません。私たちは、限りあるこの世の命を、自分がする善いことにより頼むのではなく、それにしがみついている手を離して、イエス・キリストによって実現した神様の恵みと慈しみに身を委ね、それに支えられて歩みます。そこには、「まだ何かが欠けているのでは」という不安から解放された、本当に自由な、のびのびとした歩みが与えられます。そのようにして永遠の命を生き始めるのです。そしてこの世の命が終わる時にも、神様が既に死の力を打ち破り、主イエス・キリストを復活させて下さった、その復活に私たちもあずからせて下さるという約束を信じて、慰めと希望の内に永遠の命に向けての一歩を踏み出すことができるのです。

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