主日礼拝

キリストを追い求める人

「キリストを追い求める人」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第125編1-5節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章19-24節
・ 讃美歌:352、505、512

<用件を述べた手紙から>
フィリピの信徒への手紙は、パウロという伝道者が、捕えられている牢獄の中から、フィリピの教会へ宛てた手紙です。このフィリピの教会は、パウロがキリストの福音を宣べ伝えて、キリストを信じる者たちが興され、集められて生まれた教会です。
そして、パウロは手紙の中で、この教会のための祈りや、福音の前進を喜んでいること。また、キリストがなさったみ業について語り、教会の共同体としてキリストにあって互いにへりくだって思いを一つにすること、また救いに与った者としてどうすべきか、というような、教会の人々への勧めを書いてきました。

そして、今日の箇所から、突如、本当に手紙らしい、今後の予定、二人の人物をそちらへ送ろうと思っています、という用件を伝える内容になっています。
この直前の、例えば2:17では、「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際にわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」と、キリストの恵みの前では自分の命をも厭わないほどのパウロの思いが語られていたのに、19節に入ると「間もなくテモテをそちらに遣わします」というような内容で、とても温度差を感じてしまうかも知れません。
しかし実は、この日常的な用件が書かれている言葉の端々から、これまでパウロが語って来たことが、ただの理想や机上の空論ではなくて、本当に日常に生きている信仰の姿を伺い知ることが出来るのです。

わたしたちはどうでしょうか。日曜日に礼拝を守り、聖書のお話を聞いて、信仰のこと、キリストのことを深く考えて、そして月曜日からはスッパリとモードが切り替わって、聖書の言葉をほとんど思い出さずに日常生活を過ごしていく、ということはないでしょうか。
でも実は、聖書の御言葉は、日々の生活すべてに、目が覚めた時から、食事の時、人と会う時、考え事をする時、決断する時、そして眠る時まで、あらゆる場面でわたしたちを支え、守り、生かして下さるものであって、生活すべてが神に依り頼む信仰の生活であるはずなのです。

さて、パウロは二人の人物をフィリピの教会へ送ろうとしています。テモテとエパフロディトという人です。本日はまず、テモテを送るという用件が書かれている手紙から、信仰について、共に御言葉を聞いていきたいと思います。

<テモテについて>
まずこのテモテという人ですが、パウロはこのテモテの名前を、フィリピの信徒への手紙の共同差出人として書いています。1:1には「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」とあります。テモテは、このフィリピの地においての伝道にパウロと一緒に深く関わった人です。その様子は使徒言行録の16:1以下に書かれています。パウロがデルベ、リストラという地に行ったときに、「信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた」とあります。彼は兄弟の間で評判の良い人であった、とあり、パウロはこのテモテを伝道旅行に一緒に連れて行ったのです。そして、聖霊に導かれて海を渡ってマケドニア州に行き、そこで最初に伝道を始めたのがフィリピの町でした。テモテはパウロと共に福音の伝道の業に仕える、若い同労者なのです。

<パウロが力づけられること>
フィリピの信徒への手紙に戻りまして、2:19でパウロは「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」と言います。パウロがテモテをフィリピの教会に遣わすのは、「わたしが力づけられたいからだ」と言うのです。

パウロがフィリピの教会の様子を知る、ということはどういうことなのでしょうか。それは、主イエス・キリストが働いておられる様子を知る、キリストのみ業を知る、ということです。1:3~6で、パウロは牢獄の中にいながら、フィリピの人々のことを思い起こす度に、神に感謝し、祈る度に喜んでいるのだ、と言っていました。それは、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とあるように、フィリピに教会が存在すること、キリストを信じる人々の群れがあることそのものが、生ける神ご自身が働いて、善い業、つまり救いのみ業を行い、フィリピの人々を恵みに与らせて下さったということです。教会があることそのものが、キリスト者の群れがあることそのものが、キリストが生きて働いておられることの証しなのです。
今わたしたち一人一人が集められて、ここで礼拝をしているのも、今も生きておられるキリストが働いて下さっているという証しです。
ですから、テモテを遣わし、その教会の様子を知ること、キリストに結ばれて生きる人々の様子を知ることは、パウロをも救い出し、罪を赦して下さった方、新しい命を与えて下さったキリストが、今も力強くみ業を行い続けて下さっていることを知ることであり、それがパウロ自身を力づけるのです。

パウロは信仰を自分個人のことで満足しません。また、パウロは自分の信仰が、力づけられる必要があると自覚しています。そして教会、つまり信仰の兄弟姉妹たちに働いて下さるキリストのみ業に目を向けます。そしてキリストのなさることを全て、自分の喜び、自分の力としているのです。教会の兄弟姉妹は、同じキリストに結ばれた人々であり、共にキリストの一つの体とされているから、兄弟姉妹の喜びも、キリストにあって、自分のように喜ぶのです。そうして信仰の兄弟姉妹は、キリストの恵みを互いに分かち合い、互いに励まし合い、一緒に喜ぶことが出来るのです。

<主にあって>
パウロが自分の個人的な喜びではなく、キリストを自分の喜びとし、キリストを自分の人生や心の中心に置いていることは、「間もなくテモテをそちらへ遣わすことを、主イエスによって希望しています」という言葉からも分かります。あとの24節にも、「わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」と述べています。
何事も「主イエスによって」「主によって」と言うのです。「主イエスによって希望しています」ということは、主イエスご自身がそれを希望しておられるのだ、ということです。

わたしたちは、何かを計画するとき、何かを実行しようと望むときに、「これは主イエスが希望しておられることです」「主イエスが望んでおられることを、わたしはしようとしているのです」と言うことが出来るでしょうか。
自分の人生の歩みの節目節目で決断していく時も、また普段の生活の中で行動をする時も、そこでいつも主イエスの望んでおられることを、わたしたちは求めているでしょうか。

わたしたちはいつも自分の望みに従って生きているのではないかと思います。あれをしたい、こうなりたい、これを手に入れたい…自分の願いを実現するために、計画をし、準備をし、どれが最も実現可能かを天秤にかけて、決断をしているのではないでしょうか。また日常も色々無意識に、自分に損のないようにとか、機嫌がいいとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういったことを基準にして行動しているかも知れません。

しかし、キリストの救いにあずかり、キリストの体の一部として生きる者は、神が望まれること、神が成して下さるみ業に仕えることが出来るように、「主イエスによって」自分の生活を営んでいくのです。「主イエスによって」とは、主に依り頼んで生きていることです。そしてそれは、主の望まれていることに従っていくことです。そうして福音の前進に、神が一人一人を用いて下さいます。そして、主に仕え用いられる者は、キリストの善い業を見せていただき、恵みをますます受け、キリストの喜びに与っていくことが出来るのです。

しかし、例えばわたしたちの具体的な人生の歩みで、AかBかという選択肢があった時、キリストが望まれているのがどちらであるかということを、どうやって知ることが出来るのでしょうか。Aを選んで歩んできたけれど、もしかしたらBが正解で神の望まれたことだったのかしら、と後から思ってみても仕方ありません。それにそれは、はっきりと知ることが出来ないものです。では結局何でもいいんじゃないか、というと、そうではありません。

わたしたちはその一つ一つの歩みや、決断を、神との交わりの中で決めていく、キリストとの交わりによって、日常生活を、人生を生きていく、ということが大切なのです。
それは具体的には、「祈る」ということでしょう。生きて働いておられるキリストが、わたしを生かし、共にいて下さることを信じ、わたしの言葉や行い、そして信仰を、聖霊が導いて下さることを信じ、祈り求めることです。そのような祈りの中で、神との交わりの中で、決断したこと、行ったことは、必ず神が顧みて下さって、神が望んで下さることへと導き、祝福して下さるでしょう。
キリスト者の人生の目標は自己実現ではありません。救って下さり、新しい命を与えて下さったキリストのみ心が実現されることが目標なのです。

パウロは生涯どれだけ祈ったことでしょうか。しかも、1章を読んで分かるように、自分自身が、牢獄に閉じ込められ、いつ死刑と言われてもおかしくない状況の中で、自分のことよりも、キリストのこと、そしてフィリピの人々のことを思い、祈り続けているのです。そのように神との交わりに生き、祈るパウロであるからこそ、フィリピへ人を遣わすことも、「主イエスによって」、「主イエスが望んでおられることとして、希望しています」と言うことが出来るし、しかもそのことによって、パウロ自身も、フィリピの教会の様子を知ることで力づけられるのだ、と言うのです。

<キリストを追い求める=親身になって人を心にかける>
さてパウロは、そのようにして遣わそうとしているテモテのことを、「わたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」と言い、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と言います。
テモテは、パウロと同じ思い、つまり、主イエスによって歩んでいる人であり、それゆえに、パウロと同じようにフィリピの教会の人々のことを親身になって心配し、心にかけており、イエス・キリストを追い求めているのだ、と言っています。
一方で他の人は皆、自分のことを追い求めている。自分の利益ばかりを追求している、と言います。そうではなく、「イエス・キリストを追い求める」とは、自分の個人的な利益ではなく、キリストの利益を求めることです。それはすべての民に福音が宣べ伝えられるという、キリストのご命令に従うことであり、そして、神の国の完成を求めるということです。そしてキリストの利益を追い求めることは、実は救いに与った者たちにとっても、最も益となることなのです。その神の国を受け継ぎ、神の栄光に与ることが約束されているからです。

ここで、「イエス・キリストを追い求める」と言われていることは、「親身になってあなたがたのことを心にかけている」ことと、結びついています。キリストを追い求めることは、他者を親身になって心にかけることになるのです。
キリストに仕える、という時、隣人に仕えることなく、他者を心にかけることなく、キリストに仕えるということは出来ないのです。自分一人が救われれば良い、という思いの中で、キリストのみ心に従うことは出来ないでしょう。

すべての者を救いに与らせようとして下さる、神の恵みのみ心を知るならば、自分自身もそのみ心によって救われたのですから、キリストの福音を知らない人には親身になって心にかけて、救いを宣べ伝え、また共にキリストに生かされている兄弟姉妹のことは、親身になって心にかけて、祈り励ます。そのように促されていくのではないでしょうか。

キリストを信じる者は、神でありながら人となり、十字架の死にまでへりくだって、救いのみ業を成し遂げて下さったキリストに生かされています。神の御子が最も神から遠く離れたわたしたちのところまで、へりくだって仕えて下さり、命を与えて下さった。そんな神の一方的な憐みと恵みを受けて、罪と死の中から新しくされ、立ち上がらされたのです。
キリストがそこまで低く降って下さったことを知るならば、ご自分を無にされて、救って下さった方を知るならば、わたしたちはそのキリストを追い求める時、自分自身も神の前にへりくだる者とされるのです。

それはまさに、パウロが2:3にあるように「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とキリスト賛歌でその恵みを語り、教会の人々に勧めてきたことなのです。

そしてそのパウロこそ、自分のことではなく、キリストを追い求める人でありました。自分の命が危うくても、フィリピの教会のために親身になって、心にかけて、祈り続ける人だったのです。

<確かな人物>
そしてパウロは、テモテも自分とこのような同じ思いを抱いているのだ、と言って、このテモテを選び、フィリピの教会へ遣わそうとしています。
パウロは2:22で「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と述べています。パウロとテモテの関係は、まるで父と子のように親しいものでした。しかしその親しさや信頼関係は、「共に福音に仕える」というところにあったのです。「息子が父に仕えるように」というと、この後「彼はわたしに仕えました」と続きそうなものです。しかしそうではなく、パウロもテモテも、共に福音に仕えた。ただお一人の主イエス・キリストに一緒に仕える者であったのです。

そのようにキリストに共に仕えるテモテを、パウロは「確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり」と述べています。ここは口語訳聖書では「テモテの練達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである」と訳されていました。テモテは練達した者だと言っているのです。
これはテモテが、なにか熟練した立派な人物だ、とか、習熟して高みに達した人物だ、と言っているのではありません。
テモテは、「テモテへの手紙」というパウロの書簡で、年は若いし、体も弱いし、また「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」とあるように、大胆と言うよりはむしろ臆病で、気が弱い人であり、また主を証しすることも恥じることがあるような、パウロの励ましを必要とする人であったことが読み取れます。
しかしパウロは、テモテを練達している者だ、というのです。

「練達」と訳されている言葉が持つ意味は、「検査して実証済みである」とか「試して認められた、確かだと証明された」というような意味です。

「試す」。つまりそれは、わたしたちが生きていく中で出遭う、困難や試練です。それは自力で乗り越えられることもあるかも知れませんが、どうやったって自力では乗り越えられないことだってあります。不安や、哀しみや、恐れに押しつぶされて、全く動けなくなる時もあるのです。そのような時、キリストに救われた者とされているのに、試練に遭うと、神の恵みを疑ってしまったり、救いが見えなくなったり、信仰が弱くなったりすることがあります。
しかしキリスト者は、その中から、キリストに立ち上がらされるのです。赦され、癒され、励まされ、希望を与えられるのです。わたしたちが自分で立ち上がれなくても、神が立ち上がらせて下さる。それは他でもない、低くへりくだって来られ、わたしたちの苦しみ、悩み、痛みをすべてご存知で、重荷を負って下さり、罪を引き受けて下さり、十字架の死に至られた、主イエスが共におられるからです。そしてこの方を、神は死から復活させ、主イエスは罪も、死も、悪も、すべてを支配する、勝利者となって下さいました。そしてわたしたちに罪の赦しと、復活と永遠の命の希望を与えて下さったのです。

わたしたちは、立ち上がれなくなった時、このキリストに立ち上がらされることを、経験していくのです。キリストの恵みが、希望が確かに示される。絶対に起き上がることの出来ないわたしを、起き上がらせて下さる方を知っていく。そのようにして、わたしたちに与えられる試練は、キリストの恵みと、希望をますます明らかに、確かなものにしていきます。そして、ますます神に依り頼む者とされて、わたしたちの信仰が確かなものだと証明されていくというのです。
「確かな」「練達」という単語は、1:10で「本当に重要なことを見分ける」の「見分ける」とも同じ言葉です。困難の中で、苦難の中で、本当に重要な、わたしを生かす確かな神の恵みと希望を見分けることが出来るようにされる。それが練達なのです。

このように、キリストの恵みに確かに生かされている人の姿を見ることは、教会においてとても力付けられることです。そこでパウロはこのテモテを送ろうとしているのです。
わたしたちの教会にも、練達した方が多くおられると思います。それは、その人の信仰が強いとか、立派だとかではなくて、弱くても、おくびょうであっても、キリストが希望を与え、立たせて下さる、その恵みを経験させられて、ますます神に依り頼む者とされている人、ということです。
わたしたちは、この兄弟姉妹の存在を知ることで、信仰を励まされますし、そのような恵みを与えて下さったキリストを、共に喜び、共に礼拝し、賛美することが出来るのです。

今日の箇所では、パウロがテモテを遣わす、という用件の手紙において、このようなキリスト者の恵み、生き方が示されていました。
わたしたちも、主イエスによって、生かされ、歩む日々を送り、祈りと、互いに心にかけることをもって、キリストを追い求め、キリストの恵みと希望をますます確かにされて、兄弟姉妹が共に喜び、神を賛美し、礼拝する群れとされてまいりましょう。

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