主日礼拝

高く上げられたキリスト

「高く上げられたキリスト」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第45章20-25節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章1-11節
・ 讃美歌:205、250、358

 クリスマスがやって来るのを待つアドヴェントの四週目を迎えました。ロウソクに四つ火が灯り、いよいよ来週、クリスマスを迎えます。  

 先週のメッセージで、アドヴェントは御子が人となってこの世に来て下さった第一の到来を覚える時であることと、もう一つ、世の終わりの日に、天におられる御子が再び来られる、第二の到来を待ち望む時であるということを聞きました。  

 フィリピの信徒への手紙の、2:6~11は「キリスト賛歌」と呼ばれるところです。   
 前半の6~9節には、このアドヴェントの第一の到来が語られていると言って良いでしょう。   
 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」   

 クリスマスとは、神の御子が、わたしたちの救いのために、低くへりくだられて、まことの人となって下さり、お生まれになったことを覚える時です。   
 神の御子は、ご自分を無にして、人間と同じになられました。ベツレヘムの馬小屋で、とても貧しいところで、無力な、小さな、赤ちゃんとしてお生まれになりました。救い主がお生まれになるために、特別なものが用意されているのではありませんでした。むしろ、母のマリアがお産をするための小さな部屋すらありません。生まれたての御子を寝かせるゆりかごもありません。見すぼらしい馬小屋でお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かされたのでした。   
 神に逆らい、神を神としない、罪が満ちた世の中には、この方を受け入れる場所がどこにもなかったのです。しかし御子は、その世の只中に、まことに人となって、すべての人を救うために来られました。      

 そしてキリスト賛歌が語っていることは、御子は、へりくだられて、神から最も見放されたようなところである十字架の死にまで、至られた、ということです。   
 十字架の死とは、神に呪われている、と言われている死に方です。旧約聖書には、「木にかけられた者は神に呪われたもの」であると書かれており、御子が十字架に磔にされて死んだのを見た人々は、あの人は神の呪われているのだ、神に見放され、捨てられた罪人だ、と蔑み、嘲ったのです。   
 もはや人間と同じどころではなく、人間の中でも最も惨めで、軽蔑され、また最大限の苦しみと痛みを味わう、そのような死を受け入れられるほどに、神の御子はへりくだられました。御子をそのようなお姿にしたのは、神に逆らい、本来は神に見放されるべき罪人であるわたしたちです。わたしたちの罪を、呪いを、「見捨てないで下さい」と神に叫ぶほどの絶望を、御子が代わりにその身にすべて負って下さったのです。      

 しかし、そのようにして、御子の十字架の死によってわたしたちの罪を赦して下さることは、旧約聖書の時代から示されていた、父なる神のご意志でした。   
 8節には、キリストが「へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで『従順でした』」と書かれています。御子が従順になられたのは、父なる神に対してです。   
 それはわたしたちの救いのためですけれど、まず、父なる神の救いの御心に適った御業を行うために、御子は父なる神に従順になられ、父なる神の前にご自分を低くされ、へりくだられたのです。      

 十字架を前にして苦しみと悲しみの中で祈られた祈りがあります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」このように、御子は御自分の思いを捨てられて、父なる神のご意志に従い、ご自分をすべて捧げ尽くされたのです。   
 御子は、こうして十字架による罪の贖いを成し遂げられ、死んで、葬られました。徹底的に人となられて、父なる神の御心に従順に従われて、死に至るまで、この御業を行って下さったのです。  

 この御子を、父なる神が復活させられ、そして天にあげられました。それが、9節以下に書かれていることです。
 「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」   
 「このため」、というのは、従順になられたキリストへの報酬として、父なる神がご褒美として高く上げた、という意味ではありません。   
 「このため」は、「このことが成し遂げられたため」、つまり、これほどキリストが低くへりくだられ、十字架の死によって、父なる神が成そうとしておられる御心、罪の贖いの業を成し遂げられた。「そのため、その御業を完成させるために」、父なる神がなさった、ということです。   
 ここの主語は「神」です。「高く上げ」とは、御子の復活の出来事と、昇天の出来事です。この御業は、父なる神が行われたことなのです。この「キリストが高く上げられる」というのは、どのような意味があるのでしょうか。     

 まず、キリストの復活というのは、まことの人となられたゆえに死なれたけれど、突然ご自分の中の神の力が発動して、ムクッと起き上がられて、復活された、というのではありません。それでは一人で死んで、一人で甦って、まるで一人芝居のようになってしまいますし、キリストがご自分の神の力で復活したのなら、神ではないわたしたちは同じように復活することは出来ません。   
 しかしそうではないことは、先ほどの、主イエスの苦しみの中での祈りにおいてよく分かります。主イエスは本当に死と向き合われ、苦しまれ、悲しまれ、恐れられたのです。できるなら避けたいと、そう願われるほどに死と対峙されました。そして十字架の上では「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、徹底的にまことの人となられ、死なれたのです。   
 このキリストを、父なる神が、甦らされました。ここに、わたしたち人間の甦りの約束が確かに保証されているのです。神ではない人間のわたしたちも、終わりの日に神の力によって、復活させられるのです。      

 また、もし復活がなかったなら、それが神の御計画だったと、誰が信じられるでしょうか。   
 ある人が死刑になった。それはすべての人の救いのためだったらしい。そう言うことは出来るかも知れませんし、言うだけなら誰でもそう言うことが出来ます。でも、そのまま墓で朽ちていったなら、その死が人の救いのためであるということを、どうやって信じれば良いのでしょうか。   
 しかし神は、死なれたキリストを墓の中から復活させられることによって、この方がまことに神の御子であり、このことがまことに神の御計画であり、御子の死によって人々の罪は赦され、救いは成し遂げられたのだと、人々に対して宣言なさったのです。こうして、キリストが十字架によって成し遂げて下さった救いの御業を、父なる神が完成して下さったのです。         

 そして、復活させられたイエス・キリストは、神によって、天に高く上げられました。   
 天とは、神の栄光が満ちている、空間も時間も越えた神の場所です。その神の栄光を受けられて、神の右に座し、神の全権を委ねられたということです。      

 キリストが天におられるとは、父なる神のもとに、わたしたちの罪を贖って下さった執り成し手、弁護人がいるということです。   
 さらには御子が低く降られ人となられたことで、滅びからわたしたち人間を救い出して下さったと共に、御子が高く引き上げられることで、わたしたちをも神の子として引き上げて下さるのです。その天への道を拓いて下さったのです。   
 そして、この地上から去られた、ということです。   
 体を持って復活されたキリストが、ずっと地上におられたら、わたしたちは特定の場所と時間にしか、キリストと共にいられません。しかし、キリストは天に上げられて、聖霊を送って下さったゆえに、聖霊によってわたしたちは天におられるキリストに結びあわされ、一つにされ、時間も、場所も越えて、いつもキリストがわたしと共にいて下さる、ということが出来るのです。   

 わたしたちは、この、高く上げられ、あらゆる名にまさる名を持つ方が、再び来られることを待ち望んでいます。それが、第二の到来の時であり、わたしたち教会の歩みは、御子が天に上げられた時から約2000年、ずっとこの第二の到来を待つアドヴェントの時代を過ごしていると言って良いでしょう。  

 しかし、わたしたちは実際、「もしかすると今日の午後にキリストが来られるかも知れない」と、そんな風に思って待っているでしょうか。いつ来られるか分かりません。するとどこか、自分には関係がない時に終わりの日はやって来るような、そんな感覚ではいないでしょうか。   

 「待つ」ということは、わたしたちにとって中々難しいことです。例えば、人が自分の家に来る、という時には、いつ、何時に、どうやって来る、という具体的な約束があれば、それに合わせて自分の計画を立て、色々用意を整えて、待つことが出来ます。   
 でももし、ただ「来る」という約束だけだったら、わたしたちは困ってしまいます。用意を整える時間がどれくらいあるか分かりませんし、計画も立てられません。待っている時間も、いつ来るかとずっとソワソワしていなければなりません。そして長く待てば待つほど、本当に来るのかな?と約束自体を疑い始めて、不安になったり、もしくは他のやるべきことに埋もれていって、その約束をあまり気にかけなくなるでしょう。   
 見えない約束を信じて待ち続けることは、大変なことです。      

 しかも、わたしたちが待っているのは高く上げられた方であり、神の全権を委任されて、天も地も、全てを治めておられる方だというのです。キリストは、十字架の死から甦らされて、神の栄光が満ちる天に上げられた方です。すべてのものの支配者です。      

 ここで、またわたしたちは不安を覚えるかも知れません。   
 なぜなら、この地上でわたしたちの目には、キリストが支配しておられないような世界が映るからです。キリストが天に上げられ、世から去られ、お姿が見えなくなった今や、目に見えるものばかりが目に入ります。キリストではない別の力が栄えて、豊かになっており、貧困や格差は広がり、争いはやまず、個人でも、人間関係の破れや、苦しみ悩みとの戦いや、病などの重荷を負っている、そのような人間の現実ばかりが映るのです。本当にキリストはすべてを支配しておられるのだろうか。そして、本当に再び来られるのだろうか。   
 不信仰な目は、そのように神からわたしたちを引き離そうとし、ますます目を曇らせていくのです。         

 しかし、わたしたちは、ここで信仰の目をしっかりと開いて、神の恵みの現実を見なければなりません。      

 わたしたちがまっている方は、「主」という名の方なのです。   
 これは、あらゆる名にまさる名です。   
 11節に、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べる、と書かれています。「主」とは、旧約聖書の時から、神の名として呼ばれていた名です。イエス・キリストは、この創造主の名を、すべての被造物を治められる、全能の神の名を持っておられるのです。   
 それはこの方が、永遠の昔からおられる三位一体の神であり、旧約聖書の時から新約聖書の時代、そして現在に至るまで、過去、現在、未来を、時間も空間も越えて、支配する神であられるということです。そして、低くへりくだられて、十字架の御業を成し遂げられた今、御子は高く上げられ、あらゆる名にまさる名が与えられ、その神の全権がこの方に与えられた、というのです。   
 これは、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、ひざまずく名なのです。見えるものも見えないものもすべてが、この名のもとで膝をかがめます。      

 そして、驚くべきことに、わたしたちはこの方の名を持つことが出来るのです。キリストの救いを信じるとは、この全てを支配しておられる、罪にも死にも勝利された主である方と、一つに結ばれるということです。ですから、罪に対しても、死に対しても、この方の名を自分の所属として語ることが出来るのです。わたしは主のものである、と。   

 この方の名について、使徒言行録の4:12には「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」とあります。      

 イエス・キリストが主である、と公に宣べ、その名を告白するとは、ただ口で言うだけではありません。わたしの救いが、生きるということが、この名にかかっている、ということなのです。この名がなければ、生きられない。生活も、命も、希望も何もかもが、この名を信じる信仰なくしては成り立たない、ということなのです。   
 わたしたちは、それだけ必死に主の名を告白して、生きているでしょうか。わたしの全てが、このお方の名前にかかっているでしょうか。他のものを「主」と呼んで、空しいものに従っていないでしょうか。      

 救いの名は天下にこの名だけ、「主イエス・キリスト」の名だけなのです。   
 あらゆる名にまさる名とは、ほかのどんな名よりも立派だとか、素晴らしいとか、輝かしいということよりも、この名以外に、わたしたちを救う名はこの世に一切ない、ということなのです。   

 そして今、わたしたちは、礼拝において、確かにこの名を告白しています。この地上で、天におられるキリストを証するのは、キリストの体なる教会です。ここに、救われた者の共同体、主を告白する共同体が、存在している。それこそ、キリストが「主」である確かな証拠です。      

 信仰は目に見えない事実を確認することであると言われますが、しかし主は、信仰が弱いわたしたちのために、いつも語りかけて下さり、目に見える教会と、共に信仰を告白する兄弟姉妹と、また聞く神の言葉の説教と、見える神の言葉の聖礼典を備えて下さいました。      

 この主イエスを信じ告白する共同体、教会は、まさにこの地上にあって天を垣間見ているようなものです。その具体的に目に見えるものの一つが、聖餐の主の食卓です。目に見えるパンとブドウ酒をしるしとし、天と地上を結んで下さる聖霊の働きを通して、わたしたちは地上にありながら天の国の食卓に連なります。そして信仰によって、天におられるキリストの体と血にあずかり、一つの体にいよいよ深く結び合わされるのです。      

 主イエス・キリストを信じる者の間に、すでに神の国、神のご支配は現れています。信仰者の群れは、神の国を先取りしています。教会は、罪にも死にも勝利された、まことの王に支配された、まことの神の平和が満ちるところです。わたしたちは、この神が与えて下さった現実、人が創造主である神を賛美し、神が慈しみと愛をもって支配して下さる、この現実こそ、わたしたちが生きるまことの現実として見るべきではないでしょうか。   
 わたしたちの生活の中心は礼拝にあります。主を告白し、神を崇めるところに、命の源があるのです。日常生活があって、時々礼拝があるのではないのです。苦難に満ちた世にあって、神を礼拝し、主の恵みのご支配の中に、確かに生きているのです。自分の命も希望も、すべて天におられる主にかかっている、という現実です。わたしたちは、主のご支配のもとで、ただお一人の主だけを主とすることで、互いにも謙遜に仕え合い、主の一つの体として思いを一つにすることが出来るのです。   
 それは辛い現実から目を背けて、理想の神を夢見て生きることではありません。   
 今、ここに、罪を赦して下さった、復活して生きておられる主イエス・キリストが共におられる、という確かな現実に生きることです。どんなに暗く目の前が覆われているように感じても、さらに大きい神の恵みの中におり、主の御手が確かにわたしを捕え、離さないのです。   
 そして、終わりの日にはすべての者にすべての救いが明らかにされ、わたしたちも天に迎えられ、この目で主イエスとまみえ、神の栄光と復活に与るという確かな希望を持つのです。それは、キリストの体と血のしるしであるパンとブドウ酒をこの目で見て、この手に持つくらい、確かな希望です。      

 しかし今はまだ、全ての者にこの主イエス・キリストの救いが明らかになっている訳ではありません。ですから、まだ神に逆らう者がおり、神と隣人との関係が破れたままの者がおり、キリスト者には苦難と戦いがあるのです。   
 しかし、神の救いの御心は、「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べること」です。すべての舌が、すべての神に造られた人々が、そう告白し、罪を赦されて、神に立ち帰り、神と共に永遠に生きるために、イエス・キリストは主の名を持っておられるのです。      

 ペトロの手紙Ⅱには、このように書かれているところがあります。   
 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」      

 主は忍耐しておられます。すべての膝が主の前にかがみ、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べ、父である神をたたえ、礼拝することを待っておられるのです。一人も滅びないで、皆が悔い改めるように。   
 ですから、神の御心を知らない人々のところには、知っている者がこの主のご支配、主の平和を携えて、主の名を知らせに行かなければなりません。主イエスは、そのために信じる者に聖霊を送って下さり、キリストを証しする霊を注いで下さり、世に遣わされるのです。      

 そうやってわたしたちは、神の恵みの現実を見つめながら、神を礼拝する者とされながら、主が再び来られるのを、待ち望みます。いつその時が来ても良いように、御言葉を聞き続け、信仰を励まされ、いつも聖霊によって新しくされつつ備え、神の御心が実現するために、主の平和を告げる者となりたいのです。   
 そして、主が再び来られるその時、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

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