夕礼拝

イエス・キリストがいやしてくださる

「イエス・キリストがいやしてくださる」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第103編1-5節
・ 新約聖書:使徒言行録 第9章32-43節
・ 讃美歌:224、447

 現代を生きるわたしたちは、多かれ少なかれ、「いやし」を求めています。とても疲れています。深く傷ついています。病を持っています。人間関係で悩んでいます。   
 「いやし」というのは、疲れがいやされる。病や傷がいやされる。心がいやされる、というように、回復のことであり、平穏であることであり、何らかの破れが直る、ということでしょう。ということは、「いやし」を求める必要があるというのは、元々のあるべき良い状態から、悪い状態にある、ということなのでしょう。     

 悪い状態にある人、深刻な重荷を負っている人は、出来れば今すぐ奇跡が起きて、抱えている問題や苦しみが取り去られて、一瞬で解決してしまえば良いのに、と思うことが、何度もあるでしょう。今日の聖書箇所でも、病の人が奇跡によって癒され、また死んでしまった人が奇跡によって生き返ります。そのような、目に見えるはっきりとし「いやし」や奇跡を人は願います。それは、問題や悩みが解決して、自分が思い描く通りの幸せな人生を歩みたいという願いであり、誰もが当然、望むことだと思います。   
 わたしたちは奇跡の出来事、神のいやしの御業そのものを望みます。そして、それさえ頂ければ満足するし、十分だと思ってしまうかも知れません。   

 しかし神にとって、その行って下さる奇跡や御業は、わたしたちに最も必要で善いものを与えて下さるための、「方法の一つ」なのです。   
 神がわたしたちに与えたいと望まれていることは、わたしたちが欲しいと望んでいることとは全く違うかも知れません。しかし神は、わたしたちを造られた方であり、生まれる前から知っていて下さる方です。わたしたちに最も必要なものを、わたしたち以上によくご存知であり、最も善いものを与えて下さる方なのです。   
 神が与えようとして下さっている、わたしたちに最も必要で、善いものとは何なのでしょうか。それを、今日の聖書箇所からご一緒に聞いていきたいと思います。         

 先週の聖書箇所で中心だった人物はサウロという人でしたが、今回からはまた主イエスの十二弟子の一人であった、使徒のペトロが登場します。使徒言行録では登場人物が色々と移り変わっていきますが、しかしそのことを通して、一貫して教会の歩みが書かれています。      

 32節に、「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。」とあります。「聖なる者たち」ということは、すでにリダという地域にも、主イエスの救いが伝えられて、信じている者たちの群れ、つまり教会が生まれていたのです。この後、ペトロはヤッファというところの弟子たちに呼ばれて、そこへ向かいます。そのように、すでに各地に教会があり、ペトロは、その教会を一つ一つ巡り歩いて、訪問していたのでしょう。   

 すべての教会の群れに指導者がいたわけではなかったでしょうから、ペトロはそれぞれの教会で、主イエスの御言葉を語り、証しし、同じお一人の主イエスの救いに与っているのだということ、またそれゆえに教会は一致して歩んでいくのだということを、確認し、また指導していたのではないかと思います。そのようにエルサレムの教会からペトロが来てくれて、御言葉を語り、わたしたちの信仰は同じだと言ってくれる。同じ一人の主イエスを共に礼拝しているのだと知らされる。そのことは、各地の教会をとても元気づけたことでしょう。         

 そして、そのペトロが訪問した先のリダとヤッファという所で、それぞれ中風の人のいやしと、死んだ女性の生き返りの奇跡の業が行われたのでした。      

 リダの中風の人は、アイネアという名前で、八年前から床についていた、とあります。中風というのは半身麻痺の症状、つまり脳卒中を指す言葉ですが、ギリシャ語のそのままの意味では「足腰が立たない人」という意味です。とにかく、この人は病によって体が不自由になり、長い間床から起き上がることが出来ませんでした。八年間という長い月日は、自然に治る見込みはもう無く、治療の施しようがない、このままずっと回復しないであろう状態であることを示しています。   
 しかしペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐに起き上がった、とあります。      

 また、ヤッファにおいては、タビタという、たくさんの善い行いや施しをしていた婦人の弟子が病気で死んでしまい、人々がペトロを「急いでわたしたちのところへ来てください」と言って呼びました。   
 タビタは隣人のために奉仕する人でした。それは、多くの献げものをしたとか、何か特別な才能があったということではないでしょうが、自分に出来る働きを一所懸命行っていたのです。タビタは、貧しいやもめたちのために、下着や上着を手間暇かけて仕立て、それを分け与えていました。地味で、目立たない、小さな働きだったかも知れません。しかし、この小さな愛の業は、多くのやもめたちを助け、支えとなり、タビタはヤッファの教会の人々に愛され、大切な存在となっていたのでした。   
 そのタビタが死んでしまい、やもめたちは、やって来たペトロに、泣きながら、彼女が作ってくれた数々の下着や上着を見せた、と書かれています。本当に、彼女の死に対する深い嘆きと、悲しみが伝わってきます。   
 ペトロは、皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言いました。すると彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がったのです。ペトロは手を貸して彼女を立たせ、教会の者たち、やもめたちに、生き返ったタビタを見せたのでした。         

 このアイネアとタビタの二つの出来事は、主イエスが十字架にかかられる前、地上におられた時に行われたいやしの場面と、とてもよく似ています。   
 マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に、主イエスが中風の人を癒されたことが書かれています。ルカによれば主イエスは中風の人に向かって、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。するとその人はすぐに皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰っていった、とあります。      

 また、会堂長ヤイロの娘を生き返らせた、という出来事が、これも三つの福音書に記されています。そこでは、死にそうな娘を助けて欲しいとのヤイロの願いに応じて、主イエスが家に向かうのですが、途中で娘が死んでしまった、という連絡が入ります。しかし主イエスは家に行き、この娘の手を取って「タリタ、クム」と言われました。これはアラム語で、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。そして、少女はすぐに起き上がった、と書かれているのです。   
 ペトロもおそらく、アラム語でタビタに呼びかけたのです。それは「タビタ、クム」という言葉になります。主イエスが仰った「タリタ、クム」とほとんど同じ言葉です。      

 今回のペトロのこの二つの出来事は、まるでペトロが主イエスの奇跡の御業を真似しているかのようです。十字架に架かられる前の主イエスがなさったことと、ほとんど同じことを行い、同じことが起こっているのです。しかし、ペトロが主イエスの行動や言葉を真似たからと言って、奇跡の業を起こせるのではありません。この二つの出来事は、使徒のペトロに特別な力があったことを伝える出来事ではありません。   
 それではこれは、何を意味しているのでしょうか。      

 ペトロは、中風の人のアイネアの時には、「イエス・キリストがいやしてくださる」と宣言しました。また、タビタの時には、ひざまずいて祈った、とあります。神の力を求めたのです。      

 この二つの奇跡は、まさに、このリダとヤッファの教会において、主イエスご自身が働かれ、その奇跡の御業を行って下さったことを示しています。地上を歩まれ、中風の人を癒し、少女を生き返らせて下さった、あの主イエスが、今も生きておられ、同じように教会において、ご自身が御業を行って下さっているということなのです。   
 ペトロは、その主イエスの御業に用いられたにすぎません。復活の主イエスは天に昇られ、地上ではお姿が見えなくなりましたが、聖霊を送って下さり、いつも信じる者たちと共にいて、どの場所の、どの時代の教会にも、働きかけて下さっているということなのです。      

 中風のアイネアの時も、タビタの時も、ペトロは「起きなさい」と語りかけました。   
 この「起きなさい」という言葉は、「復活、甦り」のことを表す言葉でもあります。病の者が起き上がるのは、死んだ者が起き上がるのは、他でもない、十字架の死によって罪を贖って下さり、そして復活され、死にも勝利された主イエスの力によって、起き上がるのです。主イエスによって「起きなさい」と言われた者は、どのような状態からでも、その復活の力によって起き上がることが出来るのです。         

 この二つの奇跡は、教会において生きて働いておられる主イエス・キリストを証しするために行われました。主イエスの救いが各地に告げ知らされ、各地で信じる者が起こされ、いくつも教会が誕生している状況の中で、死を打ち破り、復活し、生きて天におられる主イエスが、すべての信じる者たちと聖霊によって共にいて下さること、すべての教会で生きて働いておられ、その恵みの力によって支配しておられることを、示して下さったのです。         

 そしてそのことが示されて、どうなったのでしょうか。奇跡そのものだけが目的ではありませんでした。中風が癒された。死んだ人が生き返った。それで終わりではなく、そこで主イエスが証しされた結果、起こったことがあるのです。   
 それはリダにおいては、35節に「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」と書かれ、ヤッファにおいては42節に「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」とあるように、多くの人々が主に立ち帰り、主を信じた、ということが起こったのです。      

 このためにこそ、主イエスのいやしと生き返りの奇跡の御業は行われました。この御業を通して、人々は生きて教会に働かれる主イエスと出会いました。そして、人々は主に立ち帰り、主を信じたのです。   
 一人の罪人が主に立ち帰り、救われるということは、もっとも偉大な神の奇跡の御業です。病を癒し、死人を生き返らせる力を持ったお方と、一つにされるということです。それこそ、神が人々に最も与えたいと望んで下さっていることなのです。それが、多くの人々に起こったと言います。         

 わたしたちはもしかすると、罪の赦しよりも、病が癒されたり、死人が生き返ることの方が、偉大な出来事だと思っているかも知れません。   
 もちろん、病のいやしや生き返りの奇跡は、起こりえないことが起こるから奇跡なのであり、それはわたしたちを驚かせ、喜ばせ、圧倒するでしょう。しかし、ここで癒されたアイネアは、またその後、別の病にかかることもあるでしょうし、タビタは、また年を重ね、地上における死を迎えるでしょう。タビタの生き返りは、終わりの日の復活とは別のものです。死に勝たれた復活の主の力が示されたものです。   
 もし、この目に見える奇跡だけ、目の前の問題の解決だけしか、わたしたちが見ないなら、それは大切なことを見落としているのです。それなら、また何かが起こる度に奇跡を求めなければならず、人生の苦しみや悩みの根本的な解決にはなりません。      

 しかし、罪の赦しは、違います。罪の赦しは、わたしたちが本来いるべき神の許に帰ることであり、すべての破れと苦しみからの回復です。   
 わたしたちは神との関係の破れによって、苦しみ、悩み、死に捕えられ、そして隣人との関係も壊れて、傷つけ合っています。そのようなわたしたちを、主イエスが、罪から解放し、神との正しい関係、神に名を呼ばれ、わたしたちも神の方を向いて喜んで応答する、そのような関係を回復して下さったのです。   
 罪の赦しは神の御子にしか出来ないことであり、それはご自身の肉を裂き、血を流されることによって完成して下さったことです。      

 わたしたちがこの主のもとに立ち帰るなら、罪を悔い改めて、主イエスの救いを信じるなら、わたしたちは今生きる上で起こっているあらゆる苦難も、病も、罪も、死も、すべて主イエスがその身に引き受けて下さったことを知るのです。   
 主イエスは十字架の死から復活され、罪の贖いは成し遂げられ、死の力をも打ち破られました。そうして、わたしたちを罪赦された全く新しい者として、神の子として、起き上がらせて下さるのです。そのようにして、わたしたちはまことにいやされます。神から離れていた苦しみから解放され、神との交わりの中で生きる喜びを与えられるのです。      

 その時、目の前の現実がどんなに厳しく、困難なものでも、自分にはどうすることも出来ないと感じても、すべては勝利者である主イエスの御手の中に置かれているという、神の恵みの現実に、生きることが出来ます。主イエスのご支配の中では、目の前の具体的な問題や、困難や、苦しみも、悩みも、わたしたちを支配することは出来ません。そして、わたしたちが望む形の解決ではないかも知れませんが、必ず主が、その人にとって最も善い方向へと導いて下さると信じ、またそのことを祈り求めることが出来るのです。   
 ですから、この世のことで絶望することなく、復活の約束によって、死への恐れにすら支配されることなく、苦難に忍耐する力が与えられ、主イエスが再び来られる日を、希望をもって待ち望みつつ歩んでいくことが出来るのです。         

 イエス・キリストがいやしてくださいます。また、この方にしか、いやしていただくことはできません。そしてこの、罪を赦されること、主に立ち帰り、主を信じ、神の救いに与ることこそが、わたしたちにとって何よりも大きな神の奇跡の御業であり、また最も深い、いやしなのです。   
 このイエス・キリストこそ、最も必要で、最も善いものとして、神からわたしたちに与えられた方なのです。         

 多くの人々の罪の赦しのために、主イエスはペトロを用いて奇跡の御業を行われ、ご自身を証しされ、多くの人々を救いへと招かれました。   
 またこの時、アイネアを長く苦しめていた中風の病も、教会の人々を悲しませたタビタの死も、主イエスが生きて働いておられること、救い主であることを証しするために用いられました。主イエスのご支配のもとにあるとき、そのような「病」や「死」ということさえも、神は御自分の栄光を表すために、また人々を救うご計画のために、用いることがお出来になるのです。      

 それなら、わたしたちが今抱えている、弱さや、破れや、苦労や、病も、主イエスの御手の中に置かれた時、それは主の栄光を表すものとされ、証しのために用いて下さるということです。具体的に目に見える奇跡が起こるのではないとしても、このような弱いわたしが起き上がったということ。このような罪深いわたしが赦されたということ。一人の救われた者がここにいる、ということが、神の栄光を現し、主イエスの証しとされるのです。      

 教会は、そのような証人の群れです。皆、復活の主イエスに出会い、罪を赦され、新しい命を与えられ、起き上がらされた者たちです。教会、つまり主イエスを信じ、神を礼拝する群れには、そのようなまことのいやしの奇跡が満ちており、確かな証しが溢れています。      

 今日ともにお読みした詩編にはこのように書かれていました。   
「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し    
 命を墓から贖い出して下さる。    
 慈しみと憐れみの冠を授け 長らえる限り良いものに満ち足らせ    
 鷲のような若さを新たにしてくださる。」      

 神はわたしたちに、最も必要で、最も善いものを与えて下さいます。   
 この信仰の群れに、生きておられる主イエスが、共におられ、語りかけて下さり、すべてに勝利された力強い御手で、救い出し、起き上がらせて下さいます。   
 そしてまた、リダやヤッファの教会で起こったように、この教会においても主イエスが証しされ、多くの者を、主に立ち帰らせ、この救いの御業に与らせようとしておられるのです。   
 「イエス・キリストがいやしてくださる」。   
 これは、まことの証しの言葉であり、またすべての者への、救いへの招きなのです。

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