主日礼拝

祈りの土台

「祈りの土台」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第32編1-11節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第10章23-31節  
・ 讃美歌:204、352、493

教会の暦では、先週が花の日でしたが、ペンテコステと花の日が重なってしまったので、今日を花の日の礼拝として守っております。指路教会では、花の日の礼拝を、教会学校のお友だちや保護者の皆さんと、教会の礼拝に集っている大人の人たちが一緒に、総員礼拝として守っています。

主の祈りの6つの目のお祈り
 教会学校の礼拝ではこの4月から、「主の祈り」についてのお話を聞いてきています。イエス様が「こういう言葉で祈りなさい」と教えて下さったお祈りです。それを、教会学校の礼拝でも毎週祈っているし、この大人の礼拝でも、この後一緒に祈ります。主の祈りは、神様に招かれてイエス様のもとに集まった人たちが、大人も子供も一緒に祈る、私たちにとって一番大切なお祈りです。 今日共に見ていく主の祈りの6番目のお祈りは「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」です。ここで祈られている「試み」とは、「誘惑」という意味です。ですからこの言葉をもう少しわかりやすく言い換えると、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」となります。それではまず、誘惑とは一体なんなのか考えていきましょう。結論を先に申し上げますと、誘惑とは「本当に、重要なものからわたしたちを離そうとする力」または「本当に大切なことやものを忘れさせる力です」。聖書が語る、本当にわたしたちにとって本当に大切な存在とは、神様のことです。ですから誘惑とは「神様からわたしたちを引き離そうとする力」または「神様のことを忘れさせる力のことです」この世には、たくさんの楽しそうなもの、美味しそうなもの、夢中になれるものがあります。そういうものは、決して悪いものではないのですが、わたしたちは自分自身が苦しくなると、それに自ら近づき、その「もの」に夢中になり、本当に大事なものを見ようとしなくなります。 わたしたちにも、こういう経験があると思います。もう後一ヶ月ぐらいで、夏休みになりますね。学校にもよりますが、夏休みは大抵8月31日まで休みです。夏休みにはしっかりと、夏休みの宿題が出されます。しかし、わたしたち、特にわたしは、夏休みの宿題を、ギリギリまでやらないで、30日、31日に焦って宿題をやるハメになったことが何度もありました。じつは、このギリギリの切羽詰まった時につまり苦しい時、誘惑は迫ってきます。というか、わたしたちが誘惑に近づいてしまいます。8月28日に、友達に「夏休み最後だし、うちに遊びに来ないかい」と誘われると、「まだ後3日あるし大丈夫だろう」と思い、あそびに行ってしまう。8月29日、そろそろ、宿題に手をつけようかと思うと、部屋の汚さが気になりお掃除をしてしまい、一日経ってしまう。8月30日、これはもうやばいと思いながらも、勉強机の隣にある漫画を「一冊だけ」と思いながら、読み始めると、知らない間に日が暮れていて、漫画を全巻読んでいた。8月31日に、お母さんに怒られ、べそをかきながら、宿題をやる。とこのような、経験はわたしでだけかもしれないですが、みなさんも夏休みの宿題に限らず、このような経験をされていると思います。大人も、仕事や家事をまえにして、同じようになることがあります。やらなければいけないこと、大切なことを前にして私たちは、そのことを忘れようと誘惑に近づいてしまいます。これと同じようの、苦しい時にわたしたちは一番大切であるはずの神様のことを見なくなってしまうのです。また、わたしたちは、苦しい時にこそ「神様のことを忘れさせる力」「神様からわたしたちを引き離さそうとする力」に近寄ってしまいます。今日、共に読みしました聖書の箇所は、イエス様が荒野で悪魔の誘惑にあわれ、その誘惑に打ち勝たれたというエピソードです。イエス様は、大人になって伝道を始める前に荒野で飲まず食わずの40日間過ごしていた時に、悪魔から誘惑をうけました。これがまさに、一番苦しい時です。もう頭の中が食べ物のことしか考えられなくたってもおかしくないくらいです。そんな時に悪魔はイエス様に誘惑してきます。では3つの誘惑の話から、悪魔の誘惑はどのようなものかを見てまいりましょう

悪魔の誘惑①
悪魔は40日間飲み食いをしていないで、お腹の空いているイエス様に向かって「おまえが神様の子なら、この石をパンにかえて食べたらいいじゃないか」といいました。これが一つ目の誘惑です。これは文字通りにとれば、イエス様にだけ効く誘惑ということになります。なぜならば、わたしたちは石をパンに変えることの出来る力はだれも持っていません。ですからこれはわたしたちにとっては誘惑になりません。イエス様は神様の子でしたから、神様の力を持っておられます。だから、石をパンに換えることもできます。悪魔は、その神様の力をイエス様に使わせるために、誘惑をしています。悪魔は、イエス様に自分の空腹を、自分の力によって満たせばいいと言っているのです。それは、つまり、悪魔はイエス様に、「自分の力に頼って、生きていってみろ」と言っているということです。わたしたちは一人の人として、子どもから大人に成長するにつれて、ちゃんと独りで生きることができるようにならねばならないと考えています。悪魔はそれをうまく使って、「神様の前でもあなたは独立しなければならないだろう?だから、自分の力で生きていきなよ。」と誘うのです。実は、わたしたちは、神様の助けなしに生きることができないものです。毎日の食事も、着るものも、住む所も、神様が与えてくださっているものです。神様がわたしたちにそれらのものが行き渡るように、ご計画され、そのように世界を導き、支えているから、わたしたちは生きることができているのです。わたしたちはそれらを、時に、自分の力で、得ているかのように思い込んでしまうことがあります。食べ物や住むところも、自分の力で手に入れているんだと思ってしまうことがあります。そのように、わたしたちが思っている時、わたしたちは神様のことを忘れています。実際は神様の支えがあって生きているのに、自分の力で生きて、神様から独立して生きていると勘違いしてしまう。そうなると、わたしたちは、自分一人の力で生きている勘違いしてしまっているから「もう神様との関係なんていらない」と思うようになってしまうのです。それが、悪魔の狙いです。自分の力で生きることができると勘違いさせて、心と体を神様から引き離そうとする。これが一つ目の悪魔の誘惑です。

悪魔の誘惑②
2つの目の誘惑は、悪魔がイエス様を高く引き上げて、全世界の国々とすべての権力と繁栄を見せて、自分を拝むならば、これら全てを与えようと言ったということです。ここに隠されている悪魔の狙いは、神様の以外のものに頼らせて、神様との関係を忘れさせようとしているということです。一つ目の誘惑は、イエス様を自分自身の力に頼らせようとすることでした。悪魔は、2つ目の誘惑で、イエス様を、神様以外の者=自分でない他者に頼らせ、神様との関係を崩そうとしています。一つ目の誘惑で悪魔は、人が飢え渇いている時を、狙いました。2つ目は、わたしたちの欲望を狙っています。イエス様には「世界のすべてをあなたの好きなようにできますよ」と誘いました。悪魔がイエス様を高く揚げたのは、人よりも高くあることを求める貪欲を引き出そうとしたからでした。わたしたちも、自分が誰よりも高い存在になりたいと望むことがあります。隣のだれだれちゃんよりも、隣のだれだれさんよりも、立派で優れた存在になりたいと望むことがあります。そのようにすべてを見下ろして、的時にそれら支配したいと思わせることが悪魔の誘いです。そのように高みを手に入れるためだったら、隣の人より立派になれるのだったら、なんだってする。そのような、自分を高みに連れて行って、自分の貪欲を満たしてくれる者に付いていく。そのようにをしてくれる人を信じ、その人に仕える。それは時に、人ではないかもしれません。またこの悪魔の誘いは、貪欲だけでなく苦しみも時に用います。苦しみから逃れるためだったら、わたしたちは、神様に頼るのではなくて、お酒や本、ゲーム、インターネットに頼るということもあります。自分の貪欲を満たしたち、苦しみを埋めたりしてくれるのならば、それらを頼り、それらに仕えるということをさせて、悪魔は、わたしたちと神様との関係を崩そうとしているのです。これが第二の悪魔の誘惑です。

悪魔の誘惑③
 悪魔の3つの目の誘惑は、イエス様と神様との信頼関係を崩そうとする試みです。悪魔は、イエス様を神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」言いました。悪魔は、イエス様に「あなたに与えられている神様の守りを、この場で試してみろ」と言っているのです。イエス様はその悪魔の誘惑の意図を見抜き、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と言って、その誘惑を退けました。イエス様は、神様を試すということで、神様と御自分との信頼関係が崩れることをしっていました。悪魔は、わたしたちにも、常に神様を試させようとします。悪魔は「本当は、神様はあなたのことなんて、救おうと思っていないんじゃないの?」「あなたは神様から見捨てられてるんじゃないの?」と不安をかきたてます。悪魔は「見捨てられてないんだったら、神様が本当にいるんだったら、神様はあなたの求めをなんでも聞いてくれるよ、聖書にもそう書いてあるでしょ。『求めるならば、なんでも与える』って、だから無理なことでも祈ってみなよ。」とわたしたちにつぶやいてきます悪魔はイエス様と父なる神様との間の信頼関係をイエス様に試させるという方法で壊そうとしました。また悪魔はわたしたちと神様の信頼関係もこの方法で壊そうとしています。これが、3つの目の悪魔の誘惑です。  

誘惑に打つ勝つために
ここでわたしたちが覚えておきたいのは、神様はわたしたちを絶対に見捨てられないということ、神様はしっかり守り、今も導いてくださっているということです。それを、イエス様を通して、教会の礼拝の説教を通して、父なる神様はいつもわたしたちに語りかけてくださっています。この神様の語りかけを信頼することが、わたしたちが誘惑に打ち勝つための第一歩です。イエス様も、神様の御言葉とその神様に対する信頼によって悪魔を退けられました。今日の箇所を御覧ください、イエス様がしゃべっている二重鉤括弧は聖書の引用ということを意味しています。イエス様の時代の聖書とは旧約聖書ということです。悪魔の三つの誘惑に、イエス様は三度の聖書引用で対抗しました。イエス様は、神様の御言葉つまり神様の語りかけを聴くことを大事にされました。それは、神様との言葉での交わりを大切にしていたということです。イエス様は、自分の精神の強さで悪魔の誘惑を退けたのではなくて、父なる神様の御言葉に対する信頼によって、悪魔を退けたのです。1つ目と、2つ目の誘惑に対して、イエス様は「~と書いてある」と言って、対抗していましたが、最後は「~と言われている」と答えられています。イエス様は、書かれている言葉である聖書の言葉をあえて、「言われている」と言っています。これは、イエス様が、聖書の言葉を、神様の語りかけとして受け取っておられるということでしょう。それはイエス様が父なる神様との生きた交わりの中で、言葉を聞いていたということです。わたしたちにとって、生きた神様との交わりの中での神様の語りかけは、この「礼拝の説教」です。そして、神様との生きた交わりを持つためには、もう一つ大事なことが有ります。それは、「祈ること」です。イエス様は、誘惑が多いこの世を歩むわたしたちに、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」と祈りなさいと教えてくださいました。イエス様はなぜ祈りなさいと言われたのか、それは、「父なる神様との生きた交わり」をわたしたちに持たせるためです。わたしたちは自分自身では、誘惑に打ち勝つことも、悪から救われることもできません。しかし、わたしたちと父なる神様との関係をしっかり結びついているときは、父なる神様がわたしたちを守ってくださるのです。父なる神様はわたしたちにいつも声をかけてくださり、わたしの言葉を聞きなさいといってくださっています。神様はわたしたちがどんなにダメなものであっても、誘惑にさらされている時でも、いつでも話しかけてくださろうとされています。信頼関係を結ぼうとされています。その神様の呼びかけに応えること、それは神様に「祈り求める」ということです。イエス様はなによりもまず、わたしたちが、父なる神様の方を向き、祈りをもって神様との交わりを始めることを求めておられるのです。今わたしたちは誘惑を受けながら生きています。わたしたちが誘惑に合いそうになっているとき、絶望の中にある時、父なる神様に信頼して、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」とわたしたち祈り求めること、それを父なる神様はまっておられます。苦しい時や、切羽詰まった時にわたしたちは自分から誘惑によっていってしまいます。しかし、その時はいつも迷い出た羊を見つけ出す羊飼いのように、イエス様がわたしたち引き戻してくださります。戻された場所で、わたしたちは今、父なる神さまに祈ることを求められています。この礼拝堂が、この言葉を聞いている場所が、わたしたちの引き戻された場所です。その場所で、イエス様が「こう祈りなさい」と言われています。今この場所で父なる神様が祈りを聞いてくださろうとまっておられます。祈りましょう。

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