主日礼拝

深く憐れんで

「深く憐れんで」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第42章1-4節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章40-45節
・ 讃美歌:124、288、356

はじめに
 本日は共に、マルコによる福音書第一章40節から45節までの主イエスが重い皮膚病を患っている人をいやされた、という物語に聞きたいと思います。この物語は、舞台設定も何もないままに突然始まります。いつ、どこで起こった出来事ということについてマルコによる福音書は何も記していません。ここに登場する人物は、主イエスと重い皮膚病を患う人だけです。40節「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」主イエスの元に、一人の重い皮膚病を患った人が来ました。これまで、主イエスが病気を患う人を癒すというこの物語はマルコによる福音書にはありました。人間は誰でも病を経験します。生まれつき健康な人であれ、病弱な人であれ、病を経験することに変わりはありません。遅かれ、早かれ、あるいは多かれ、少なかれ、肉体的にであれ、精神的にであれ、私たちは病を経験します。時には、その経験は、激しく厳しいものです。その激烈な経験も多くの場合、避けがたいものがあります。そのため私たちはしばしば、将来の人生の不安に脅かされ、不安に打たれます。病の中にあるとき、私たちは誰でもこの病を癒されること、克服されることを求めます。そして祈るのではないでしょうか。時にその祈りは、この病さえ癒されれば、あとの人生をすべて捧げるという祈りにもなります。それは神様とまるで取り引きをしているかのようだと言われたりもします。ただ、それがどうか、神の御旨であってほしいと願うのです。

清めと汚れ
 重い皮膚病に苦しむ人が主イエスに言いました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。主イエスは答えて言われました。「よろしい、清くなれ」。かつての文語訳聖書が、言葉の響き合いをよく現していました。「意志」の「意」の字を用いて「こころ」と読ませております。言葉の対応をはっきり描いているのです。「御意(みこころ)ならば、我を潔くなし給ふを得ん」。「わが意(こころ)なり、潔くなれ」。重い皮膚病を患う人が「御心ならば」と訴えたのに対して、主イエスは、「それが私の心だ」とお答えになったのです。
 直訳するならば、「あなたがもし意志さえするなら、わたしを清くすることがお出来になります」となります。つまり、「もしあなたがそうお望み下さりさえするならば、このわたしのからだは完全に癒されます。あなたにはそうするお力があると固く信じますから、わたしの一切をあなたのご意志にお委ねして、わたしはお待ちします」、と言っているのです。これは実に簡潔なやり取りのように見えます。しかし、この短い対話の背後に、ユダヤの民の長い歴史があります。神から与えられた律法によって生きようとしたユダヤの民の歴史が、このわずかな言葉と振る舞いによって、乗り越えられているのです。この主イエスのお言葉によって、何故、どのようにして、これまでの神によって与えられていた律法に生きることが乗り越えられたか、見て参りたいと思います。
 ここでは、重い皮膚病を「癒す」と言わずに、「清める」と言うのです。病気ならば「癒される」と言いますが、ここでは「清められる」と言われております。「清める」と言われているということは、この病は「汚れたもの」として見なされ、宗教的な「汚れ」として捕らえられているのです。この「重い皮膚病」とは、新共同訳聖書が出された直後は「らい病を患っている人」と訳されておりました。けれども必ずしも同じ病とは言えないようです。この病気に関わる掟をまとめた旧約聖書の律法を見ると、人間に生じる皮膚病だけではなくて、衣服や家の壁に生じるカビのようなものまで、この病の中に含まれているからです。そして、いずれの場合にも、この病は「汚れ」として規定されておりました。そしてこの病を判定するのは祭司の役目とされています。それはこの「汚れ」ということが聖所での礼拝に関わってくるからです。神は清く、聖なる方ですから、汚れた者は神の前に出ることができません。汚れた者は礼拝の場に集うことができないのです。イスエラルは、神の民としての清さを持たなければならなかったのです。だから、何が聖いもので何が汚れているものかということについて重大な関心がありました。旧約聖書のレビ記13章には、この病がどのような汚れた病であるか、その際には、どうしたらいいかが記されております。この病にかかった人は、「汚れ」として聖所での礼拝に参加することを許されなかったのです。病を判定する祭司の関心は、宿営に中に病が広がることではなく、宿営に中に汚れたものが入ってくるかどうかに関わっているのです。そのようにして、神から遠ざけられた者は、同時に人からも遠ざけられることになります。礼拝という聖なる集いに加わることを禁じられ、神の民の交わりを断ち切られていたのです。この病を患った人は、社会から閉め出され、人々の憐れみにすがって最低の生活を続けるしかなかったのです。汚れに触れる者もまた、同じ汚れを身に受けることになるからです。律法にはこのように規定されています。この病気に関する律法の定めも、非常に厳格でした。町に出るときには、必ず二人以上でなければなりませんでした。レビ記の13章45、46節にはこうあります。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」間違って他の人が触れて汚れを受けることのないように、遠くから大声で「私は汚れた者です。」と叫んで、自分に近づかないように注意を促さなければならないのです。そして普段は、宿営の外に住まなければなりません。町の外の荒れ地に住む、ということは、この時代において信仰共同体の生活の中から閉め出されていることを意味します。神の民の交わりの中から閉め出され、神の前に出ることもできないということです。つまりその人は、律法によって、人からも神からも断ち切られているのです。何とも悲しい定めではないでしょうか。この病を患った人がどんなに自分の運命を呪い続けたか、わたしどもには想像することさえ出来ないです。

主イエスが来て下さる
 使徒パウロは、ガラテヤの教会に宛てた手紙の中で、「律法の呪い」ということを言いました。この病におかされた人にとって、律法はまさに「呪い」でした。律法によって、生きておりながら死を宣告されているのです。律法の掟によって、神の民の交わりの中に生きることを拒絶されているのです。ここで主イエスと重い皮膚病を患った人は、そのような旧約聖書の掟を背景として出会い、向かい合っています。律法によって汚れた者と規定され、疎外されてきた人が、今、汚れのない神の御子の前に進み出ているのです。この人は、なぜ、どのようにして、主イエスと出会うことができたのでしょうか。聖書は、重い皮膚病を患っている人が、主イエスのところに来てひざまずいて願った、と記しています。恐らく主イエスがたくさんの病人を癒しておられる、といううわさが、町の外にも聞こえていたのでしょう。自分からは人に近づくことができず、むしろ、自分から「私は汚れている」と他者を遠ざけなければならなかった人が、自ら主イエスに近づいたという事実は、救いを求める切なる思いを現しております。しかし、この人が主イエスに近づくことができたのは、主イエスの方から、宿営の外、町の外から出て来てくださったからです。この後、癒され、清められた人が、この出来事を大いに言い広めたために、主イエスは町に入れなくなり、町の外の人のいないところにおられた、とあります。主イエスは町中でうわさを言い広められたので公然と町に入ることができなくなったのです。
 主イエスが見捨てられた自分たちのところにまで来てくださった。本来ならば近づくことなどできない方の前に、重い病を患った人は自分自身を投げ出すようにしてひざまずきました。「御心ならば(あなたが意志されれば)、わたしを清くすることがおできになります」。主の前にひざまずく姿勢の中に、この人の信仰が現れています。また主の御心を問う言葉の中に、この人の謙遜と不安の混じり合った信頼の思いが現れています。「私を清くしてください。」とは言えませんでした。この人はあくまでも、主イエスの御心、主イエスの意志に頼るのです。思い違いをしてはなりません。主イエスは愛の主なのだから、病を癒し、悪霊を追い出し、貧しい者たちを助けるのは当然だ。主イエスの前に行けば、誰でも必ず癒されるはずだ。勝手にそう決めつけて、癒されない現実の中で、自分の願いが実現しないことを嘆きながら、神は死んだ、主イエスはもはやおられない、などと言うのは、結局、独り相撲に過ぎません。主の前にひざまずき、癒しを求めた人は言いました。「御心ならば」「あなたが意志されれば」。本当に清めていただけるだろうか、という不安な思いも、もうだめかもしれないというあきらめの思いもすべて、主にお委ねしているのです。そして、主イエスが意志されれば、必ずなると信じて、主のお答えを待つのです。主は言われました。「わがこころなり、きよくなれ」。主イエスのご意志、主の御心によって癒しが起こります。このお方が私たちの主であり、御心を行われるのです。

神の民の交わりの回復
 重い皮膚病を患っていた人が、主イエスの意志によって清められました。そして、主は、この人にお命じになるのです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」(44節)。主イエスはここでも、ただ不思議な奇跡の業だけがうわさになるのを避けようとしておられます。しかし、この人が清められた、ということは公にされる必要があるのです。祭司に体を見せる、というのは、汚れが完全に清められた、ということを宗教的に正しく判定してもらうためです。神に仕える祭司が、清い者として判定するということは、はばかることなく神の前に出られる者になるということです。人々に証明するというのは、社会生活への復帰のためであり、それはすなわち、神の民の交わりの中に回復される、ということなのです。ただ重い皮膚病、病が癒されたということだけではありません。その汚れが清められたことによって、この人は、神の民の一員として回復されるのです。神の民の中から断ち切られ、神の御前から失われていた者を、主イエスは滅びの中から呼び出し、神のものとして見いだしてくださったのです。汚れを清め、神の民として回復する。そのために、主イエスは何をなさったのでしょうか。主の癒しの業は、このように描かれています。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」(41節)。ここで主イエスが深く憐れまれたとあります。 ここで使われている「深く憐れんで」という言葉は、新約聖書で合計12回使われている、全く特別の言葉です。なぜなら、その12回の内、10回は、ここの場合のように、全部主イエスが主語で、主の特別の愛についてだけしか使われていないからです。あとの2回も、一回はルカによる福音書にあります15章の放蕩息子が自分の家に帰るときに、その姿を遠くから見た父親が、「憐れに思って」走り寄り、首を抱いて接吻した、というところです(ルカによる福音書15章20節)。もう一回は同じくルカによる福音書第10章の、良きサマリア人が強盗に襲われた瀕死の旅人を見て、「憐れに思って」近寄って介抱した、というところです(同10章33節)。放蕩息子の父親も、良きサマリア人も、皆主イエスの分身のようなものです。そして二人とも、ある境界線を越えて近づく愛を表しています。放蕩息子の父親は、普通は到底赦すことの出来ない放蕩息子がすごすごと帰ってきたのを見て自分の方から走り寄っています。良きサマリア人は旅人が自分たちと敵対関係にあるユダヤ人であることを知りつつ、隣人愛の限りを尽くしています。ですから、この2回を含め、12回のすべての場合について、イエスという特別のお方の愛を表している、と言うことができます。この「憐れむ」という言葉は、もともとは人の内臓、はらわたを意味する言葉から来ています。その内臓が動く、内臓に痛みを覚えるという言葉であります。はらわたが痛むほどに心を激しく動かされている様子を現します。そのようなはらわた、内臓が痛むような思いを主イエスは心の奥底からわき上がるような思いとして持たれました。主はそのような深い憐れみをもって、手を伸ばしてこの人に触れられたのです。それはとりもなおさず、この人の汚れを御自身の身に受けることを意味します。汚れた者に触れた者もまた汚されるのです。しかし主イエスは少しも躊躇することなく、いやむしろ、それが私の心だ、そのために私は来た、と言いながら、律法の呪いのもとにある者を深く憐れんで、その呪いを自らの身に引き受けられたのです。使徒パウロは、証しして言いました。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤの信徒への手紙第3章13節)主イエスは「わがこころなり、きよくなれ」と「わたしの意志だ」と言われました。この言葉は決して、いい加減な言葉ではありません。主イエスは、ご自分の言葉の責任をきちんと担っておられます。

御心ならば
 十字架を前にして、父なる神に祈って言われたのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコによる福音書第14章36節)。主イエスはこの祈りで「御心に適うことが行なわれますように」と祈りました。「御心のまま」と祈られたのです。自分の意志ではなく、神の意志に従ったのです。それは御自分の父なる神、全ての支配者である父の御心に委ねられたのです。そして、この激しい祈りの戦いの中から立ち上がり、父である神の御心をご自分の心として、十字架への道を歩まれるのです。「わがこころなり、きよくなれ」。これは、私たち一人ひとりに語りかけられた十字架の言葉です。神の前に出る資格のない、罪に汚れた者が、主の言葉によって新しくされ、十字架の血によって清められて、神の御前に立つ者とされる。神の民の群れの中に加えられるのです。マルコによる福音書はこの第一章において、主イエスのいくつもの癒しの奇跡を語っております。しかし、ここで主イエスがこの重い皮膚病の男を癒された記事にはそれまでとは違う叙述があります。それは、この重い皮膚病を患っている男が主イエスの前に、ひざまずいているのです。主イエスの前にへりくだってひざまずき、主イエスを礼拝する姿勢を取ります。それはこのお方を礼拝をしているのです。今、私たちもまた、神を礼拝する神の民の一員として、神に近づくことを許されているのです。主イエスは、私たちに手を差し伸べ、私たちに触れて、私たちの罪と汚れを御自身に引き受けてくださいます。主イエスの御手によって、私たちを清い者、罪のない者として、神の御前に立たせてくださるのです。この救いの内実を抜きにして、私たちにとって都合の良い癒しや慰めだけに心を向けてしまうとき、教会の語る言葉もまた、ただ単なる人を集めるための宣伝になってしまいます。つまずきに満ちた十字架には背を向けて、分かりやすい救いだけ、自分勝手な願望のみを求めるとき、救い主のお姿が見えなくなるのです。私たちの思いを超えた救い主の御業が見えなくなってしまい、私たちは手軽な解決や安易な解答を求めてしまいます。

主に従う群れ
 私たちが、目に見える驚くべき業や高く評価される業績だけを求めて奔走するとき、この世における事柄のみに目を向けるとき、主イエス以外のものに目を奪われてしまいます。主イエスを再び外に追いやってしまうのではないでしょうか。「主イエスを外に追いやる」とは、自分の中には主イエスの力など必要がない、自分の力のみで充分だと自負することです。しかし、主御自身は、その深い憐れみの御心をもって、私たちの惨めな罪の現実をご覧になります。そして、人々に歓迎される奇跡行為者としてではなく、十字架の救い主、苦難の僕としての道を進んで行かれるのです。主がこの世に来られた本来の目的は、決して人々の体をきよめ、病を癒し、沢山の奇跡を行うためではなかったことを、明らかにされるのです。病を癒す奇跡は、あくまでも手段であり、目的ではないのです。主イエスがこの世に来られた目的は、人々を罪から洗い清めることです。そのために、十字架にお架かりになって私たちの魂を、罪の汚れから洗い清められたのです。主イエスが十字架にかかって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださり、死人の中からよみがえって、神に生きる命の道を切り開いてくださった救い主です。主イエスは御自分の噂や評判に対して、非常に強い警戒心を抱いておられました。それは、民衆の欲求に御自分が巻き込まれ、本来の目的である十字架の使命を果たすことができなくなることを恐れたからです。人々は奇跡を求め、パンを求め、御利益、自分の利益のみを求めます。人々にとっては、目に見える奇跡や御利益の方が、ずっと分かり易く、有り難いわけです。しかし、主イエスが来られたのは、人々の病が癒され、生活が良くなるためではありません。彼らの自己中心的な、神のない、不信仰が癒されるためです。神のない、自己中心的な生き方をする私たちに、主イエスは御手を触れられるのです。私たちは差し出された救いにあずかって、主に従う者たちの群れの中に加えられました。私たちはこの主イエスの物語を聞いてどう思うでしょうか。ある方がこう言われました。自分が聖書を読めば読むほど、説教を聞けば聞くほど、信仰について知れば知るほど、自分の心の汚れがはっきりと分かり、かえって苦しくなる。それをどうしたらよいのか、ということです。実はそのような場所こそ、私たちが本当にキリストに出会う場所なのではないでしょうか。私たちの罪の姿、私たちの弱さに、主が御手を触れて下さる。主が招いて下さるのです。そして、私たちは主の救いの証しのため、祝福と共に送り出されていくのです。

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