主日礼拝

主に立ち帰る

「主に立ち帰る」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; エレミヤ書、第3章 19節-25節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第9章 32節-43節
・ 讃美歌 ; 8、136、441

 
再びペトロに
 今私たちは主日礼拝において、使徒言行録第9章を読んでいます。この第9章は、大部分がサウロの回心の出来事を語っていますが、本日の所、32節からは、再びペトロの話に戻ります。ペトロの活動について最後に語られていたのは、8章14~25節でした。そこには、フィリポの伝道によってサマリアの人々がイエス・キリストの福音を受け入れ、洗礼を受けたということを聞いたペトロとヨハネが、エルサレムから出向いて行ったこと、彼らがサマリアの信者たちに手を置いて聖霊を受けるように祈ると、彼らに聖霊が与えられたことが語られていました。つまりペトロらはサマリアの教会を力づけ、励ます働きをしたのです。その後はフィリポのエチオピア人の宦官への伝道のこと、そしてサウロの回心のことが語られており、本日のところで再びペトロに話が戻って来たのです。

問安
 32節に「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」とあります。ペトロは、サマリアに行ったことを始めとして、各地を巡り歩いたのです。ここで注意しておきたいのは、このペトロの巡回は、既に成立している信者たちの群れを訪ねる、というものだったことです。サマリアに行ったのもそうでした。本日のところでも、「リダに住んでいる聖なる者たちのところへ」下って行ったのです。「聖なる者たち」とはキリストを信じた信者たち、教会に連なる者たちのことです。また36節以下には彼がヤッファに行ったことが語られていますが、それも、ヤッファの弟子たち、即ち信者たちが彼を招いたからです。このように、ペトロの巡回旅行は、既に存在する信者たちの群れを訪ね、力づけ、励ますという性格を持っているのです。このような訪問のことを、教会の用語で「問安」と言います。言葉の意味としては「安否を問う」ということですが、ただ元気かどうかを確かめるために顔を見に行くことに止まらず、教会の信仰を確認し、整え、信徒たちの信仰生活に励ましを与えるための訪問です。生まれたばかりの教会には、まだみ言葉を教える教師がおらず、信徒の群れが出来ても、それを指導し、導く人がそれぞれの群れにはいませんでした。そのような教会を導き、また諸教会の間の信仰の一致のために、最初は使徒たちが、後には使徒たちの信仰を継承している長老たちが、群れを巡回して訪問し、信仰の指導をしていたのです。本日のところでペトロが方々を巡り歩いたと言われていることにはそのような意味があったと考えるべきでしょう。
 とうことは、この巡回、訪問は、ペトロという一人の伝道者個人の業ではなく、教会の働きだということを意味しています。その場合の教会とは、どこかの町の一つの群れとしての教会ではなくて、エルサレムに始まり、ユダヤとサマリアの各地に広がってきている諸教会全体のことです。それらの諸教会を指導する者としてペトロはあちこちを巡回しているのです。そして使徒言行録はまさにそのような諸教会の成長、発展を描いています。だからこそ、話はペトロのことからフィリポのことになり、サウロのことになり、またペトロのことに戻る、という語り方をしているのです。一人一人の伝道者の働きを語りながらも、教会全体の成長発展を描いているのが使徒言行録です。本日のところのペトロの働きも、その一環として読んでいく必要があるのです。

病い、老い、死
 ここには、リダとヤッファという二つの町で、ペトロが奇跡を行なったことが語られています。リダにおいては、8年間中風で床についていたアイネアという人を癒し、ヤッファでは、タビタという女性の信者が死んでしまったのを生き返らせたのです。ここに見つめられているのは、人間の病いと死です。アイネアもタビタも信仰者、教会に連なる者でした。つまり教会の群れの中での、信仰者の病いと死という現実が問題となっているのです。アイネアについては、中風で8年前から床についていたとあります。おそらく老人だったのではないかと考えられます。そうだとすればこれは、寝たきり老人の問題であるとも言えます。病いと共に「老い」の問題もここに見つめられていると言ってもよいのではないでしょうか。病いと老いと死という、本人にとって苦しみであるだけでなく、周囲の者たちにも苦しみや悲しみを与えるまことに深刻な問題を、生まれたばかりの教会もかかえていたのです。それは私たちも同じように、いやさらに深刻に負っている問題であると言わなければなりません。このような苦しみに、教会はどのように立ち向かっていくのか、いけるのか、が問われているのです。

主イエスの救いの業
 ペトロはアイネアに、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と語りかけました。するとたちまち、8年ごしの病いが癒されて彼は起き上がったのです。私たちはこれを読む時に、ペトロの素晴らしい力に驚くかもしれません。そして、今の教会にもこのような力を持つ人がいてくれれば、と思うかもしれません。然し、そのような読み方は、使徒言行録が語ろうとしていることから離れた読み方です。使徒言行録がここで語り、示そうとしていることは、ペトロという使徒個人の驚くべき力ではありません。そうではなくて、教会において、このような癒しのみ業が行なわれたということです。さらに正確に言うならば、教会の信仰を整え、指導するためのペトロの問安において、このようなことが起ったということです。教会が、信仰において正しくしっかりと指導され、整えられていくときに、このようなすばらしい出来事が起るのだということを、私たちはここに見つめなければならないのです。そのようなことが起るのは、ペトロ個人の力によるのでも、教会の人々の力によるのでもありません。ペトロは、「イエス・キリストがいやしてくださる」と告げました。この癒しをなさったのは主イエス・キリストなのです。ペトロは、そのことを明らかに告げたに過ぎません。教会において、すばらしい救いのみ業が行なわれるのは、誰か個人の力によることではなく、教会の主であられるイエス・キリストご自身のみ業なのです。主イエスご自身の救いのみ業が行なわれていくようになることが、教会の正しい成長、発展です。教会の信仰が整えられ、強められていくというのは、主イエス・キリストご自身のみ業が、私たち人間のいろいろな思いや、こざかしい知恵や工夫、言い換えれば不信仰によって妨げられることなく行なわれていくようになることです。ペトロはそのために方々の教会を巡り歩いたのです。そして、人間の病い、老い、死という苦しみの現実の中で、主イエス・キリストが救いのみ業を行なって下さることを示したのです。
 ヤッファにおける出来事もその意味は同じです。この町の信者たちの中に、タビタという女性がいました。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていました。それは具体的には、貧しいやもめたちへの援助でした。しかし彼女は、金持ちだったので貧しい人に施しをして助けていたのではありません。39節に、彼女の世話になったやもめたちが、泣きながら、彼女が作ってくれた下着や上着を見せたとあります。タビタの奉仕は、自分のできるささやかな針仕事によって、やもめたちの下着や上着を作るということだったのです。決して大げさなことではありません。見栄えのよい華やかな奉仕ではありません。地味な、人目にふれない、毎日こつこつと積み重ねられた働きです。しかしこのような働きによって彼女は、教会にとってなくてはならない存在になっていたのです。彼女が病気になり、ついに死んでしまった時、ヤッファの教会は、深い悲しみと嘆きに捕えられました。私たち人間は、いつか必ず死んでいく者です。人生の途中にどんなに素晴らしい業績や働きがあろうとも、あるいは深い信仰とよい奉仕に生きたとしても、その最後は死であり、それを避けることは誰もできません。死という現実に直面する時、教会も、信仰者たちも、そういう無力さを思い知らされるのです。この、死の力の支配という現実に対して、教会はどのように立ち向かっていくのか、いくことができるのか、それが私たちにつきつけられている大きな問いなのです。
 通常ならば亡くなった人の遺体はすぐに埋葬するのが習慣なのに、ヤッファの教会の人々は、遺体を清めて階上の部屋に安置し、近くのリダに来ている使徒ペトロを招きました。そこには、死の支配している現実の中で、主イエス・キリストによる救いを切実に願う思いがあります。ペトロは到着し、遺体の置かれている部屋に入ると、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言いました。すると彼女は目を開き、起き上がったのです。死者の復活という奇跡が起ったのです。しかしこのことも、ペトロ個人の力によることではありません。アイネアの場合と同じように、このことをなさったのは、教会の主イエス・キリストご自身です。ペトロは遺体を前にして、ひざまずいて祈ったと40節にあります。彼は、主イエス・キリストが力をもって働いて下さることを祈り願ったのです。この祈りに応えて、主イエス・キリストがそのみ力を発揮して下さり、死の力を打ち破って下さったのです。
 このタビタの復活の出来事は、マルコによる福音書第5章35節以下にある、主イエスによる会堂長ヤイロの娘の復活の奇跡と重なります。そこにおいて主イエスは、「タリタ、クム」と言って少女を生き返らせました。それは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味のアラム語の言葉です。ペトロもタビタにアラム語で語りかけたのだと思われます。それは「タビタ、クム」となります。つまりペトロは、主イエスご自身がなさった復活の奇跡と同じことをここで行なったのです。「皆を外に出し」とあるのも主イエスのなさったことと同じです。そして振り返って見れば、あのアイネアの癒しも、マルコ福音書第2章の始めのところの、主イエスによる中風の人の癒しの奇跡と重なるのです。そこで主イエスは中風で寝たきりの人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言って彼を癒されたのです。ペトロがアイネアに語った言葉はこれと重なります。このように、ペトロが行なった癒し、また死者を復活させる奇跡は、主イエスご自身のみ業と重なります。ペトロが主イエスの真似をしたというのではありません。そんなことは出来るはずがないのです。使徒言行録がここで語ろうとしているのは、ペトロを通して行なわれたこの救いの業は、主イエスご自身のみ業だということです。主イエスご自身がなさる、また主イエスにしか出来ない救いのみ業が、教会において起ったのです。ペトロは、主イエスが教会においてご自身の救いのみ業を行なって下さる、そのための器として用いられたのです。ペトロ自身が奇跡を行なう力を持っているわけではないし、また彼が何か独創的なことを考え出してしているのでもありません。彼は、自分自身はからっぽになって、主イエス・キリストの救いのみ業をそのままに告げ、示しているのです。そのことによって彼は主イエスのみ業、聖霊の働きの道具、器として用いられたのです。私たちは9章においてこれまでに、サウロの回心について読んできました。サウロの回心は、彼が自分の思い、熱心さによって生きていたところから、神様のみ業のために用いられる器へと変えられたという出来事でした。同じことが、ペトロにも起っているのです。彼もまた、主イエスに用いられる器として歩んでいるのです。それによって、自らは力のない、欠けの多い土の器に過ぎない者が、主イエス・キリストご自身の救いのみ業を、教会において行なう者として用いられているのです。

私たちにおいても
 この個所を読む私たちは、ペトロの行なった奇跡に驚くと共に、しかしそれは遠い昔の話で、現代を生きる私たちにはこのようなことは起らない、と頭から決めつけてしまっているのではないでしょうか。しかしそれは、今申しましたことからすれば、間違った受け止め方です。ペトロは、自分の特別な力でこれらのことを行なったのではありません。主イエスのみ業が教会において現れるための器とされたのです。そうであるならば、同じことは今日の私たちの教会においても起るはずです。私たちがいやしくも主イエス・キリストの教会であるならば、主イエスのみ業が私たちの間に現れることを期待してよいはずです。そしてそれを期待していくことにおいて、間違ってはならないのは、その期待は、私たちの中にも誰かペトロのような力強い業を行なうことのできる人が現れないだろうかという期待であってはならない、ということです。再三繰り返しているように、使徒言行録が語っているのは、個人の特別な力によってすばらしい奇跡が行なわれたということではないのです。ペトロが常人にはない特別な力を持っていたのではなくて、彼は主イエスのみ業が教会に現れるための器だったのです。そういう意味では、その器はペトロでなくてもよいのです。私たちの中の誰であってもよいのです。その人が特別に立派な、力のある人である必要はありません。そもそも人間の持っている力でこのような業ができるはずはないのであって、その点では人間としての力のある人もない人も根本的には変わりません。要は主イエスのみ業に自分の全てを明け渡し、その器となることに徹しているかどうかです。私たちの中の誰であっても、そのように主イエスに用いられるならば、ペトロがここで行なったように、主イエスの救いのみ業が教会に現れるための働きをなすことができるのです。そしてここに語られているのと同じことが、私たちの教会においても起っていくのです。

主イエスによる救い
 ここに語られているのと同じことが私たちにも起る、それを私たちは、病気で寝たきりの人が癒されて起き上がることができる、あるいは死んでしまった人が生き返る、ということがそのまま私たちにも起ると考えるべきではありません。何故ならば使徒言行録においても、あるいはさらに福音書においても、そのような肉体の癒しや死者の復活は、それ自体が主イエスの救いなのではなく、むしろ主イエスが神様の独り子であられ、私たちの救い主であられることを示し、表わすためになされていることだからです。もしも主イエスによって病を癒され、あるいは生き返らされた者だけが救いにあずかったのだとしたら、救いにあずかった人の数は驚くほど少ないことになります。そしてそれらの人々も結局は皆死んでしまったのであって、主イエスの癒しや死者を生き返らせる業も最終的には死の力に打ち勝てなかったということになってしまうのです。主イエスの救いは、病いの癒しや死者を生き返らせることそのものにあるのではありません。むしろ、それらのみ業が指し示している事柄こそが大事なのです。それは、主イエスによって、私たち人間の、病い、老い、そして死の力が既に打ち破られているということです。そのことは、主イエスの十字架の死と復活において実現しました。神様の独り子、まことの神であられる主イエスが、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスが私たちに代って十字架にかかって死んで下さることによって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。そして父なる神様が主イエスを死者の中から復活させて下さったことによって、私たちを支配している病い、老い、死の力が打ち破られたのです。病も老いも死も、それが私たちを脅かす恐ろしい力となるのは、私たちの罪との関わりにおいてです。神様に背く罪によって、命の源である神様との関係を失い、私たちを生かし、支えて下さる神様の恵み、祝福を失ってしまっている中では、病いも老いも死も、私たちにとって恐しい絶望となるのです。罪の赦しと、病いや老いや死の支配からの解放は実は一つです。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちは罪を赦され、命の源である神様とのよい交わりを与えられ、私たちを生かし、支えて下さる神様の恵み、祝福の下に置かれているのです。今や私たちの病いも、老いも、そして死も、この神様の恵み、祝福の下にあるのです。病いの癒しや死んだ人の復活という主イエスのみ業は、主イエスによって実現しているこの救いの恵みを現わし、指し示しているのです。その救いの恵みが、ペトロを通して、教会に現わされ、教会の人々がその恵みにあずかったのです。ここに語られているのと同じことが私たちにも起るとは、このことが起ることです。私たちを取り巻き、がんじがらめに縛り付けているように見える、病いや老いや死の現実、またそれらを単なる自然現象ではなく、本当の絶望にしてしまう私たちの罪の現実の中で、主イエス・キリストによる罪の赦しと、神様の祝福の下に生きる新しい命が現わされるのです。そして私たちが、主イエスの十字架と復活によって既に死の力に勝利している神様の恵みによって新しく生かされていくのです。そのことが、今ここで、私たちのこの教会において、現実となるのです。

主に立ち帰る
 ペトロの働きによって起ったのもそのことでした。35節には、「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」とあります。42節には、「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」とあります。人々が、主に立ち帰った、主を信じたのです。それがこの出来事によって起ったことでした。彼らは、十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった主イエス・キリストが、今、自分たちの歩みを、日々の生活を、支え導いていて下さることを信じて、その主をこそ自分の支配者と認めたのです。病いや老いや死の力の支配をどうすることもできない自分が、しかし、もはやそれらの力ではなく主イエスの救いの恵みの下にこそあるのだと、目に見える現実に逆らって信じ、主イエスによる救いの恵みを喜び、感謝して生きる者となったのです。それが、主イエスを信じ、主イエスに立ち帰るということです。私たちに今起らなければならないのは、このことなのです。何故ならば私たちは、神様に背き、そのみもとを離れてしまったことによって、この世の様々な力に支配され、縛られ、苦しめられているからです。例えば世間体、世の人々による評価、評判という、この世に働く人間の思いが私たちを支配しようとしています。あるいはこの頃は「勝ち組と負け組」というようないやな表現で、まことに偏った規準で人間をランクづけしようとする風潮があります。そのような世間の風潮に翻弄される時、私たちは、神様が私たち一人一人を大切に思い、愛していて下さり、私たちのために独り子の命をさえ与えて下さっているという恵みを見失い、神様から離れてしまっているのです。病いや老いの苦しみにおいても、主イエスが私たちのために受けて下さった十字架の苦しみを忘れ、そこから離れてしまう時に、そこになお神様の恵みのご支配があることが見失われてしまうのです。そして肉体の死に直面する時、神様の独り子主イエスご自身が私たちのために死んで、死体となり、墓に葬られて下さったことを忘れて、その神様の恵みから離れてしまう時に、死を神様の恵みや祝福から切り離された、得体の知れない、気持ちの悪い、汚らわしいものであるかのように感じてしまうということが起るのです。私たちはそのように、神様の恵みから離れ去ってしまっている背信の子らです。そのような私たちに、神様は、本日共に読まれた旧約聖書の個所、エレミヤ書第3章22節にあるように、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす」と語りかけていて下さるのです。このみ言葉に応えて、主イエスのみもとに立ち帰りたいのです。そして私たちの歩みの全ての時と所において、順調な時だけでなく、失意の内にある時、不遇の時にも、また病いにおいても、老いにおいても、死においても、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みが、死に勝利する新しい命が、私たちを捕え、支え、導いていることを信じる者でありたいのです。そのようなことが私たちにも起るとすれば、それは奇跡としか言いようがありません。人間の力や、思いの及ぶことではないのです。しかし生きて働いていて下さる主イエス・キリストが今私たちに、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす」と語りかけておられるのです。心を開いてこの招きに応え、主に立ち帰るならば、そこには真実の癒しが与えられるのです。

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