主日礼拝

義の実

「義の実」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書第32章17節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙第1章3-11節
・ 讃美歌:353、492、475

【祈りについて】
 わたしたちは、誰かのために祈ることがあります。
 それは健康のこととか、生活のこととか、人間関係のことなど、自分のためにも、人のためにも、そのような願いを祈ることが多いかも知れません。それはもちろん、神に祈り、願い求めて良いものですし、祈りの力はとても大きいものです。
 しかし同時に、わたしたちは、キリストに救われ、キリストが終わりの日に来られることを待ち望む中で、共に信仰生活をしている者が、共に救いの恵みを全うできるようにと、教会で互いの信仰のために祈ることをも、覚えていきたいのです。

 パウロは、牢獄の中で、何度もフィリピの教会の人々のことを思い起こし、感謝し、喜びながら、確信をもって、彼らの信仰のために祈っています。
 パウロは、どのような思いで、どのように祈っていたのでしょうか。

【フィリピの人々への思い:キリスト・イエスの愛の心で】
 まず注目したいのは、8節でパウロが「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証してくださいます。」と語っていることです。
 「キリスト・イエスの愛の心」とは、一体どのような心なのでしょうか。

 わたしたちも、誰かを思う時、愛の心で思う、ということがあるでしょう。大切に思う心、愛しいと思う心、慈しむ心、心配する心。
 心を傾けて、愛情を注ぐということは、わたしたちにもあります。

 しかし、わたしたちは、人を愛しますけれど、私たちが愛するのは、自分にとって大切な人、家族や、恋人や、友人など、自分が愛したい人を、愛しているのではないでしょうか。
 またわたしたちは、愛されることを望みます。自分を愛してくれない人を愛するのは、とても難しいことですし、わたしたちは何とか相手の愛を得たいと考えます。
 わたしたちの内側から生じる愛は、美しく温かいものに見える一方で、裏返せばとても自分勝手な側面を持っています。
 また時には、様々な状況によって、愛すべき人さえ、愛せないということもあります。
 ともかく、わたしたちの愛はとても小さく、自己中心的で、いびつな愛です。

 ところが、ここでパウロは、「わたしの愛の心で」とは言わないで、「キリストの愛の心で」あなたがたのことを思うのだ、と言っています。
 わたしたちが持っている、「人の愛の心」ではないのです。

 ここで使われている「キリスト・イエスの愛の心」という言葉は、口語訳聖書では「キリスト・イエスの熱愛」と訳されていました。元の言葉は、「はらわた」という意味で、特に生贄などで使われる動物の「内臓」を指します。そのような、はらわたの奥底から出て来るような、激しい思いです。
 そこから、心からの望みや、憐れみの心、時には怒りという意味で用いられる言葉です。キリストの愛は、そのような熱烈な愛です。
 キリストが示して下さる愛は、その愛する者のために、十字架に架かり、罪と死を、ご自身の身に負って下さる、そのような腹の底からの愛です。

 そして、キリストはどのような者を愛して下さったのでしょうか。ご自分に従順な者でしょうか。優しい心を持った者でしょうか。知性がある者でしょうか。誠実な者でしょうか。
 そうではありません。キリストに愛されるのにふさわしい者など、誰もいませんでした。

 しかし、そのような者たちに、そのようなわたしたちに、キリストは熱烈な愛を、注いで下さったのです。
 誰一人、キリストの愛を受けるのに値する者はいませんでした。
 むしろわたしたちは自分の罪に気付きもしないで、神を知ろうとせず、キリストを受け入れず、神が遣わして下さった方を、鞭打ち、嘲り、「十字架につけろ」と叫んでいた者であったのです。
 そのように神との関係を破り、神を愛することも、隣人を愛することも出来ないわたしたちを、神は憐れんで、はらわたの底からの激しい、熱い愛を持って、愛し抜いて下さったのです。キリストの愛とは、そのような愛です。

 わたしたち自身は、そのような真の愛を自分の内に持っていません。
 もしパウロが、そのようなキリストの愛の心を自分も同じように内に持っているのだ、と言っているのならば、わたしたちは「自分にはそのような愛を持つことはできない」「わたしは同じようには出来ない」と失望してしまうでしょう。

 しかし、そういう意味ではないのです。
 パウロも、わたしたちも、誰も持つことが出来ない、キリストの愛を、わたしたちはキリストから受けたのです。
 神の御子が人となられたこと、祈って下さったこと、苦難を受け十字架にかかられたこと、死人の中から甦られたこと、そのような御業によって注いでくださったイエス・キリストの愛を、わたしたちは、信仰によって、受け取ったのです。
 共に、同じキリストの愛を、救いの恵みを受けたのです。
 1章の5節に「あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっている」とあり、また7節に「あなたがた一同を、共に恵みをあずかる者と思って、心に留めている」とある通りです。

 わたしたちも、そしてパウロも、フィリピの教会の人々も、同じキリストの愛を受けました。
 互いに、愛される価値のない者でしたが、わたしたちは、それでも愛して下さるキリストに愛され、キリストと一つに結ばれました。そのキリストにおいて、わたしたちも互いに結ばれたのです。  
 わたしたちは、そのキリストの愛の交わりの中で、互いに関係を築くことができ、そのキリストの愛の中にいる者として、相手のことを思うことが出来るのです。

 すべては、パウロが繰り返し言っているように、福音にあずかっていること、共に恵みにあずかっていることが原点です。共にキリストに愛された者である、共にキリストに罪を赦された者であるということです。
 パウロのフィリピの人々への思いは、人間的な感情や、思いや、関係においてではなく、共にキリストに結ばれているという視点で、常に語られているのです。

 これは、わたしたちの教会でのお互いの関係においても、同じことが言えるのではないでしょうか。
 教会は趣味や、仲良しの集まりではありません。中には好きな人も、ちょっと苦手な人も、気の合う人も、ちょっと合わないという人もいるかもしれません。しかしただ、キリストの救いに共にあずかったということにおいてのみ、わたしたちは一つとなって教会に連なっているのです。
 互いに、キリストが命を捨てて、罪を赦し、愛して下さった者である。ただそのことによって、わたしたちは、キリストの愛の心において、互いに愛することが出来るのです。

 わたしたちは、実際にそのようなキリストの愛の心で、互いを思っているでしょうか。キリストの愛を共に受け、共にキリストに結ばれ、信仰生活を送っている兄弟姉妹です。離れたところにいる人はもとより、今ここで共に礼拝を捧げている中でも、共にキリストに結ばれている隣の人を、そのようなキリストの愛の心で思い、互いに祈り合っているでしょうか。
 また、まだ神を信じていない、これから神が招こうとしておられる人々のことを、そのようなキリストの愛の心において思い、その人たちのために祈っているでしょうか。福音を伝えようとしているでしょうか。

 パウロは、フィリピの教会の人々を、そのようなイエス・キリストの愛の心で思い、共に恵みにあずかっていることを、神に感謝し、喜んで祈っているのです。そして、「キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」と言います。
 人は見えない愛の証に、物を送ったり、手紙を書いたりしますが、パウロのフィリピの人々への愛の確かさは、そのように自分で証明しなければならないものではありません。なぜならこれは他でもない、神ご自身が与えて下さった愛であるからです。神に基づく愛であるからこそ、パウロは「神が証してくださる」と言うことが出来ます。

【祈りの内容】
 さて、9節以下から、具体的な祈りの内容が書かれています。パウロのフィリピの人々への思いは、祈りへと向かいます。
 「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」

 まず「あなたがたの愛がますます豊かになる」ということが祈られています。「愛」はもうフィリピの人々の間にあります。キリストが与えて下さった愛です。しかし、その愛が、ますます豊かになるように、との祈りです。愛は、さらに増し加わっていくのです。  

 キリストの福音にあずかり、キリストの愛の内に入れられたら、わたしたちは愛を受けるだけ受けて、それで終わるのではありません。
 わたしたちは、その愛の内に生きていく者となります。キリストにある愛の交わりの生活が始まっていくのです。
 わたしたちが救われるということは、精神世界のことではありません。わたしの全存在が救われるのですから、わたしたちの具体的な生き方そのものが、変わっていくということになります。キリストの愛が、わたしたちの間でさらに豊かになっていく、そのような生活を送っていくのです。

 そのためには、「知る力と見抜く力とを身に着けて」とあります。
 愛の話をしていたのに、急に「知ること」「見抜くこと」が出てきて、何か熱が冷めるような思いをするかも知れません。
 しかし、キリストの愛を受けた者の生活は、受けるだけで何もしなくても自動的に優れた聖人君主のようになれる、というものではありません。
 受けたキリストの愛の中で、わたしたちは感謝の内に、自分から喜んで自分を神に献げ、神の恵みに応えて生きていくのです。
 そのように生きる上で、愛がますます豊かになるために、「知る力」と「見抜く力」が必要であるといいます。そして、「本当に重要なことを見分ける」のです。

 知らなければならないのは、神の御心です。神は、わたしたちに、ご自身のご計画を知らせて下さっています。
 その神の御心は、キリストの福音が全世界に宣べ伝えられ、神のご支配が完成することです。
 そして見抜くべきは、神が何を望んでおられるかということです。
 見抜くという言葉は、理解とか、感知するとか、洞察力という意味もあります。わたしたちが神の愛の内に生きようとするとき、神と隣人を愛そうとするとき、神の御心、ご計画を深く知り、神がわたしたちに求めておられることを見抜いて、生活していくのです。
 わたしたちの信仰生活には、誘惑や、戦いが多くあります。なおわたしたちを神から引き離そうとする悪が、力をふるおうとしているように思えます。しかし、わたしたちは既にキリストが勝利されていることを知っているのですから、悪の力を退け、また人の思いや、情に流されて、重要なことを見失わないように、神の御心を知って、生活の中で神がわたしに望まれていることを見抜いていくのです。

 知る力と見抜く力を身に着け、神の御心に従って生活していくために、わたしたちは聖霊の働きを求めなければなりません。
 そのために、わたしたちは祈り求めることが必要なのです。共に祈り合い、共に恵みの内に生きていくのです。
 このようにキリストにある愛の交わりの中で、共に祈りつつ生きていく中で、わたしたちの信仰も共に成長し、神の御心に従っていくことができ、わたしたちの愛がますます豊かになっていくのです。

 そしてパウロは「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と続けます。
 キリストの日とは、復活の後、天にあげられたイエス・キリストが、再び来られる再臨の日、終末の日のことです。わたしたちが、神の御前に立つ日のことです。

 ここで、「清い者、とがめられることのない者となり」と聞いて、わたしたちは、また戸惑うかも知れません。
 そのような者になることが出来るだろうか。キリストの愛を受けながら、祈りながら、なお、罪を繰り返し、とがめを受けるようなことをする、人をつまずかせることがある。自分の信仰生活の現実を見る時に、神の御心を知る力も、見抜く力も持てず、神から離れ、人を傷つける。重要なことを見分けられず、気がつけば神のご意志に逆らっている。
 わたしたちは「清い者」、「とがめられることのない者」から、遠く離れている自分を発見してしまうのです。

 わたしたちは、キリストの愛に生かされ、キリストが来られる日を待ち望んでいるけれど、自分にはその力がなく、どのように努力しても、清くも、とがめられない者にもなることが出来ない、そのように思うのではないでしょうか。

 しかし、もしわたしたちがキリストの愛を受けていなければ、福音にあずかっていなければ、自分が清くないことも、とがめられる者であることも、知らずに済んだかも知れません。
 わたしたちは救われているからこそ、罪を赦されているからこそ、神の御前で自分がそのようなものではないと、知ることが出来るのです。

 パウロは、このように続けています。
 「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」

 パウロは、もうわたしたちがキリストによって「義」とされていることを前提に、さらにその実りである「義の実」をあふれるほどに受けると、言うのです。
 キリストによって与えられる義とは、わたしたちの罪の赦しのことです。わたしたちは罪人でありながら、ただキリストの十字架によって、「義」と認められました。キリストの死を通して、わたしたちは神の前に、罪のない者、正しい者とされました。
 わたしたちはキリストの救いを受けたその時に、終わりの日には、神の御前で「清い者」「とがめられることがない者」として立つことが出来ると、約束されているのです。
 わたしたちは、そのように自分の中からのものではなく、外からの恵みである、「義」に満たされて、清い者、とがめられるところのない者となることができるのです。

 わたしたちはキリストに結ばれている。キリストの「義」を与えられています。
 そして、その「義」は、ただ与えられるということに留まりません。
 その「義」には実りがあって、あふれるほどに受けると言います。
 キリストという幹に繋がった、わたしたち枝には、栄養がどんどん流れ込んできて、豊かな実が生ります。たくさんの実りをもたらすのです。それは枝が自分の力で実をつけたのではありません。キリストが実らせて下さる実なのです。

 パウロは、このキリストが与えてくださった義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることが出来るように、と述べています。キリストの義の実が、神を賛美せずにはいられないほど、あふれてきます。義の実とは、ますます神の御心に喜んで従って行く生活をしていくということです。
 わたしたちの愛が豊かになり、義の実があふれる時、それはすべて神から来たものですから、わたしたちは神に感謝し、栄光を帰し、ほめたたえずにはおれなくなるのです。
 そしてそれこそ、わたしたちが毎週神に捧げる、この礼拝の姿なのではないでしょうか。

 パウロの祈りは、このようにキリストから受けた恵みに基づいた、祈りです。
 罪人を「義」として下さった神に信頼し、フィリピの教会の人々が、共に同じキリストの愛の中にあるという確信に基づいた、祈りです。
 そしてわたしたちも、同じキリストの恵みの中にいるのですから、このパウロの祈りは、わたしたちの教会の祈りでもあります。
 このような祈りが、教会を成長させ、わたしたちの信仰を固くします。キリストの愛において、お互いの愛がますます豊かになります。神の御心に従って、キリストの愛を、福音を、力強く宣べ伝えさせます。
 そして終わりの日まで、わたしたちは義の実をあふれるほどに受け、神を賛美する礼拝へと導かれていくのです。
 このような祈りを持って、わたしたちは共に神の御心に従い、キリストの愛の内に、共に信仰生活を歩んでいきたいと願います。

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