主日礼拝

主イエスへの奉仕

「主イエスへの奉仕」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第18編47-51節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第12章1-11節
・ 讃美歌; 17、506、567

 
一人の女の奉仕
 主イエスが十字架につけられる少し前に、ベタニアという村で、一人の女性が、主イエスの頭に非常に高価なナルドの香油を注ぎかけたことは良く知られている出来事です。 本日お読みしたヨハネによる福音書以外にも、マタイによる福音書とマルコによる福音書に並行記事があります。又、ルカによる福音書にも非常によく似た出来事が記されています。 マタイとマルコには、この女性が何という名で、どのような人であったのか一切記されておりません。しかし、これら二つの福音書では、主イエスが最後に、「はっきり言っておく、 世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃっています。そして実際、現在を生きる私たちも聖書が語る、福音 の中に、この出来事を聞いているのです。主イエス・キリストの福音において、この出来事が非常に重要な意味を持っているのです。香油を注いだ女の姿に、主イエスに対する奉仕 の最も大切なことが現されているからであると言って良いでしょう。私たちは、キリスト者として、教会において、様々な業を担うことによって、主イエスに対して奉仕をします。 礼拝というのも奉仕の一つです。最も大切な奉仕と言って良いでしょう。そのような様々な奉仕をする時の姿勢を、この女性の姿から示されるのです。

ラザロのよみがえりに続いて
ヨハネによる福音書は、この出来事を、独特な仕方で記しています。「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラ ザロがいた」。ここにはラザロが登場します。ヨハネによる福音書は、直前の第11章で、主イエスがマルタとマリアの兄弟ラザロをよみがえらせた事が記されていました。 ヨハネによる福音書は、このラザロのよみがえりと関連づけて、ベタニアでの香油注ぎの出来事が記しているのです。その事は第11章の語り始めの箇所を見ても明らかです。 「ある村に病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」。ラザロの よみがえりの出来事を記す最初の箇所で、既に香油注ぎについて語られているのです。そして、香油を注ぎかけたのがマリアであるとはっきりと語られているのです。
 ラザロのよみがえりの出来事は、ヨハネによる福音書が記す、主イエスの最後にして最大のしるしです。ご自身が復活であり命であることを示された出来事でした。 主イエスはすべてのしるしを終えて、エルサレムに入って行くのです。しかも、六日後には過越祭が行われようとしていました。いよいよ十字架の死、受難に向けた歩みを 始めようとしている直中で、今日の出来事は行われました。おそらく、この出来事は、マルタ、マリア、ラザロの家で行われたに違いありません。

家の食卓
その家での様子が、2節にあります。「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」。 ルカによる福音書第10章には、主イエスが、この姉妹を訪れた時、マリアの方は主イエスのもとで話しに聞き入っていたのに対して、マルタの方は、せわしなく働いて いたことが記されています。又、直前の箇所で、兄弟ラザロが死んだ時に、兄弟の死という現実の中で、行動的にてきぱきと働いていたのはマルタでした。マリアは、部屋 で泣き崩れていたのに対して、マルタは、真っ先に主イエスを呼びに駆けつけたのです。
 同じように、マルタはこの時も、せわしなく働いています。おそらく、主イエスによって兄弟ラザロが戻って来たことの喜びと感謝を、夕食を振る舞うことによって現 したかったのだと思います。マルタは、マルタなりに精一杯に主イエスに感謝を現しているのです。家の外では、主イエスがラザロをよみがえらせたことによって、主 イエスを殺すための動きが激しくなっていました。直前の11章57節には次のようにあります「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届 け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」。主イエスに対する公の逮捕状が出されたのです。主イエスは自分自身を捕らえようとする人々の陰が迫っ ている中で、愛する者たちと食卓を囲んだのです。

マリアの香油注ぎ
そこでマリアは、マルタと全く違った仕方で主イエスに仕えます。3節には次のようにあります。「そのとき、マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、 イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」。マリアは、主イエスの足に香油を注いだのです。1リトラというのは約326グラムです。 この香油は少なくとも300デナリオンの価値があったことが後に記されたユダの言葉から分かります。1デナリオンは当時の労働者の一日の賃金です。この香油は、労働者が一日 働いても、1グラムしか買うことが出来ない程高価なものだったのです。マリアは、一般的な労働者の年収にも等しいような値段の香油を惜しげもなく、主イエスの足に振りかけて、 自分の髪でぬぐったのです。足を洗うというのは奴隷の仕事です。この行いには、マリアの僕として仕える姿勢が現されています。しかし、マリアは足を洗ったのではありません。 油を注いだのです。油を注ぐというのは、旧約聖書では王や祭司や預言者といった職務に神によって立てられ即位する者に対して行われることです。又、救い主、キリストという言葉は 「油注がれた者」という意味です。ここから言えることは、マリアが、主イエスのことを王、祭司、預言者として、又、神の子、救い主として受け入れていたということです。
 更に、ここで、マリアは、主イエスの足に香油を注ぎました。王や祭司や預言者が即位する時は、頭に香油を注ぐのです。つまり、マリアは、ただ、主イエスを王、祭司、預言者と して受け入れたというのではありません。頭以外の体に香油を注ぐというのは、死者に対して行われたことです。当時は火葬にしたのではありませんから、死者には香油を塗って葬っ たのです。つまり、この時、マリアは、主イエスの死を意識していたのです。

死の力と戦われる救い主
 この時、主イエスが六日の後に、十字架につけられることは、誰も予想していなかったでしょう。十字架の出来事は、主イエスだけが見据えていたことであり、主イエス以外の誰も、 その重大な事実を理解していなかったのです。マリアも又、そのことを十分には理解していなかったでしょう。しかし、主の御受難と死を意識していたのです。実際、この家の外には、 主イエスを殺そうとする人々が待ちかまえていました。けれども、周囲で殺害に向けた動きが激しくなっているということだけが、マリアに主イエスの死を意識させたのではありません。 むしろ、マリアは、ラザロがよみがえらされるという出来事に接した時、はっきりと、主イエスの死を意識したのだと思います。すなわち主イエスによって愛する者の命が救われるという 救いの出来事を経験した時、この方が、死の力と向かい合い、ご自身を捧げて下さる救い主であることを察していたのです。マリアは、ラザロの死に際して、誰よりも深く悲しみに暮れて いました。マルタが自分なりに復活を信じて、死を乗り越えようとして気丈に振る舞っていた時も、ただふさぎ込んで泣いているだけでした。誰よりも深く、愛する者との関係を切り離す 死の力の大きさを体験していたのです。だからこそ、主イエスが「ラザロ、出てきなさい」と大声で語りかけた時、マリアは、この方こそ、確かに、死の力と向き合って戦われる方である ことを既に気づき始めていたのです。それが、どのような仕方でなされるかは、はっきりと分からなくても、マリアとマルタ、そしてラザロを襲った死の力と、その悲しみを、担って下さ る方であると信じたからこそ、香油を注いだのです。
   死の力を克服するというのは、ただ、不可思議な力が働いて、肉体が蘇生するということではなく、罪によって神から切り離されている者が、その罪の縄目から解き放たれて、神との真の 愛の交わりを回復することです。それは、罪なき神の子、主イエスが、私たちのために御自身を捧げることによって、私たちと神との関係を回復して下さることによって実現します。 マリアは、神の愛から決定的に切り離されるという死の力の本当の厳しさを知らされると共に、その死の力を越えてラザロに命を与えられた主イエスが、ラザロの、そして自分自身の 罪のために、身を捧げて下さる方であることをさやかに示されていたのです。自分自身の命が、この方の死によって担われている。だからこそ、主イエスの体に最高の香油を注がずに はいられなかったのです。それこそが、自分の出来る最高の奉仕だったのです。

ユダの批判
 しかし、このマリアの主イエスへの奉仕に対して、弟子の一人で後に主イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダが批判したことが記されています。「なぜ、この香油を三百デナリ オンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。この批判は、もっともらしく聞こえる批判です。しかし、ここでユダは、本当に貧しい人のことを思っていたのではありません。ユダの 思いの背後にあることが6節に記されています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をご まかしていたからである」。ヨハネによる福音書は、香油注ぎを批判した人がユダであると記します。しかし、マタイによる福音書では「弟子たち」、マルコでは「そこにいた何人か」と なっています。ヨハネによる福音書が書かれた頃には、裏切り者である悪人というユダのイメージが定着していたのです。ですから、この弟子とユダを結びつけたのでしょう。しかし、 この思いは、悪人と見なされていたユダだけが抱いたのだと言うことは出来ません。おそらく、この場にいた他の弟子たちも抱いた思いであるでしょうし、現代を生きる私たちも抱く思い ではないかと思います。
 マリアが自分自身の最も大切なものを捧げました。その行為をユダは素直に喜ぶことが出来ませんでした。マリアの主イエスへの献身と愛は、ユダを自己弁護に駆り立てるのです。 そこには、自分の在り方を正当化し、守ろうとする人間的な思いがあったと言えます。自分には到底出来ない奉仕を見て、それを批判したのです。ここで明らかになることは、ユダが、 主イエスを、自らの罪の身代わりとなって、十字架に赴いて下さる救い主として受け入れていなかったという事実です。そのため、自分自身を主イエスに捧げることが出来ず、香油を 注いだマリアの奉仕が理解出来なかったのでしょう。主イエスへの献身の思いがない所では、他者の献身を健やかな眼差しで見ることが出来ず、単なる損得勘定に基づく人間的な思い が支配します。「貧しい人々に施す」というのは、ユダが人間の知恵で考え得る自己正当化の理由として、心にもないことを、口から出任せに述べただけなのです。本当に貧しい人を 思うのであれば、他人のことをとやかく言うよりも、自分自身の物を売り払って捧げたことでしょう。それ故、ユダがこの時、マリアと同じだけの香油を持っていたとしても、それを 貧しい人のために使うことはなかったに違いありません。

わたしはいつも一緒にいるわけではない
 ユダに対して、主イエスはおっしゃいます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと 一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。主イエスは、マリアが行った業が、主イエスの十字架の死のための備えであるとお語りになりました。つまり、マリアの精 一杯の奉仕に対して、はっきりと、自身の死の備えであるとお告げになられたのです。マリアの奉仕を喜んで受け入れて下さったのです。
 「葬りの日のために取って置いた」と言われています。今まで幾度となく、この香油を使う機会があったのだと思います。マリアだって、自分の周りで苦しんでいる人や困難の中にあ る人々を助けるために、この香油を売ろうと考えたことがあったかもしれません。最愛の兄弟ラザロが死んだ時、葬るためにこの香油を使ってしまっても良かったはずです。しかし、主 イエスのために「取って置いた」というのです。この方こそ、ラザロに代わって、又、自分自身に代わって、本当の苦しみ、困難、そして死を経験して下さる方だからです。
 主イエスは決して、貧しい人に施すことを軽視しているのではありません。貧しい人に対する奉仕は、しようと思えばいつでも出来るのです。マリアは、何よりも大切なもの を主イエスのために捧げずにはいられなかったのです。そして先ず主イエスに対して自分の出来る精一杯のことをしたのです。それを、主イエスは、ご自身の十字架という救い の出来事への備えとして受け入れて下さったのです。

香油の香りでいっぱいになった
 マリアは、最高級の香油を惜しげもなく振りかけました。「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。芳しい香りがあふれ出たのです。
 マリアは、自分が、ラザロの墓の前で泣きくれ、主イエスがやって来て「墓の石を取りのけなさい」とおっしゃった時のことが忘れられなかったのでしょう。その時、共にい たマルタは、思わず「主よ、四日もたっていますから、もう匂います」と答えたのです。死が発する匂いがあるのです。その匂いがもれないように蓋をしているのです。しかし、主 イエスの言われた通り蓋をのけると、不思議と死の匂いは漂っては来ませんでした。主イエスの御業によって、死が取り払われているからです。主イエスが、ラザロに変わって、死 を引き受けて下さる方だからです。マリアは、死の匂いが取り払われているということへの驚きと共に、主イエスの死を意識します。そしてマリアは、この方こそ、死の力を担って 下さる方であるとの確信の中で、最も高価で純粋な香油を主イエスに注いだのです。  実際に、このラザロのよみがえりのすぐ後に、確かに、主イエスの周りで、死の匂いが漂い始めます。本日の箇所の直前に、主イエスの殺害を企てる人々によって逮捕状が出された ことが記されていました。直前だけではありません。本日お読みした最後の部分、9節以下には、イエスがおられる場所を人々が知り、大群衆がやって来たことが記されています。「 それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった」とあります。更に続けて10節には、「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀 った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」とあります。主イエスが復活であり命であることを示すしるしとしてよみがえらされた ラザロの命をも奪おうとしているのです。この香油注ぎの出来事を挟むようにして殺害が謀られるのです。この家の周りには死の気配が迫って来ています。しかし、マリアのなした奉仕 によって、この家の中は香油の香りで一杯になったのです。それを主イエスは、ご自身の死への備えとして受け入れて下さったのです。憎しみから、主イエスを死に至らしめようとす る者がいる中で、主イエスの愛に応えて自らを捧げることによって、愛をもって主の死のための備えをしたのです。

教会での奉仕
 このマルタ、マリア、ラザロの家を世に建てられた教会と重ねて読むことが出来ると思います。世には、死の匂いが満ちています。人間の罪が覆っています。私たち自身も、そのような力 に支配されて生きています。そのような中で、主イエスの十字架と復活によって示されている救いの出来事に目を留めることもなく歩んでしまうことがあります。そして、知らず知らずの内 に、その救いを消し去っているようなことがあります。死や罪の力を侮り、主イエスの復活の出来事、救いのしるしを受け入れずに歩むこともあります。
 しかし、主イエスの下に集められ、そこで、本当にこの方が、十字架によって私たちの死を担って下さり、神から離されるという死の苦しみを私たちに代わって経験して下さったこと を示される時、私たちは、この救いを受け入れるのです。そして、このことを受け入れる時にのみ、この方に倣って、自分自身を捧げるものとされるのです。
 私たちが主イエスに奉仕するとは、主イエスが私たちの死を担って下さることを示される中で、自らを捧げることにおいてなされることです。それは、ただナルドの香油に匹敵するような 多くの財産を捧げれば良いというのではありません。主イエスの十字架の死と復活の御業に触れて、その喜びと感謝の中で自らを捧げるということが大切なのです。自分自身が決して担うこ とが出来ない苦しみを主イエスが担って下さり、死の力から解き放って下さっていることを知らされる中で、自身の出来る限りを捧げて礼拝する者とされるのです。
 この場面を読むと思い出すのは、エフェソの信徒への手紙の第5章2節に記された御言葉です。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわた したちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に捧げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」。聖書において、犠牲の備えものが、 「香り」として記されています。焼き尽くす捧げ物からあがる煙の香りから、このように言われるようになったのです。主イエスご自身が自らを香りのよい供え物として捧げて下さっている。 それを受けて、私たちも自らを捧げずにはいられなくなるのです。その時、たとえ、ナルドの香油ではなくても、香りの良い捧げ物が捧げられるのです。主イエスが共にいて下さる家で、共に 食卓を囲みつつ、自分自身を捧げる時、教会は、香油の香りでいっぱいになるのです。ここに私たちの主イエスへの真の奉仕の姿があるのです。

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