夕礼拝

婚宴のたとえ

「婚宴のたとえ」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第132編1―18節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第22章1―14節  
・ 讃美歌:481、280、79

主イエスの譬え
 本日は、マタイによる福音書第22章1節から御言葉に聞きたいと思います。本日から第22章に入りますが、21章からの主イエスが語っておられる御言葉が続いています。本日の箇所は、「イエスは、また、たとえを用いて語られた。」(1節)と始まります。主イエスはここで、更に譬えを語り続けられました。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」(2節)とあります。主イエスは「天の国」「神の国」神の御支配について、私たちに何とかして示そうと、様々なたとえで語っておられる。同じマタイによる福音書の第13章において、主イエスは天の国、神の国についてのたとえが語られています。また、第20章の「ぶどう園の労働者のたとえ」も天の国についてのたとえでした。本日の箇所の近くで言いますと、「二人の息子のたとえ」「ぶどう園と農夫のたとえ」も直接、天の国という言葉は使われていませんが、やはり天の国のたとえの1つと言うことができます。天の国、神の国とは、私たちの生きるこの世界とは全く違った新しいものです。この世の延長、この世界と続いているというのが、神の国の理解ということではありません。このことを理解することは決して容易なことではありません。そのため主イエスは、私たちに何とか神の国、天の国を指し示そうとされるのです。本日与えられている「婚宴のたとえ」もまた天の国、神のご支配を譬えています。

受難週において
 本日の箇所と内容を同じくする並行箇所は小見出しの括弧にありますが、ルカによる福音書第14章15節以下です。読み比べると分かりますが、マタイによる福音書だけが主イエスをやがて十字架につけてしまう、当時のユダヤ教の指導者たちに対して主イエスが語った3つの譬えを示しています。本日のマタイによる福音書の「婚宴のたとえ」は10節までの箇所、つまり「礼服」の部分を除いてルカによる福音書の14章15節以下に並行記事がありますが、ルカの方では主イエスの受難とは直接には関係のない文脈で語られています。マタイによる福音書では、時は既に受難週です。この主イエスの受難物語の中で二人の息子の譬え、ぶどう園と農夫の譬え、に続いて本日の婚宴の譬えが語られています。ユダヤ教の宗教的指導者たちの敵意、主イエスに対する殺意の中で、譬え話が語られているのです。

盛大な婚宴への招き
 主イエスの譬えの内容に入っていきたいと思います。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとはしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』」(2~4節)天の国、神の国はここでは婚宴、結婚の祝宴、しかもこのマタイによる福音書では招待者がただ「ある人」となっているルカによる福音書とは違って、ある王がその王子のために催した婚宴に譬えられています。王子の婚宴というのは、生涯においても大きな喜びの出来事の1つです。また、この「婚宴」という言葉は言語では複数形で語られています。当時のユダヤの社会では婚宴は1週間続いたと言われています。そのため、準備は大変なものでした。そこで、招待する人々は予め決まっていて、招きを受けていましたが、いよいよ準備が整った段階で改めて準備が出来ましたので、さあ、どうぞお越し下さいと呼ばれたのです。この譬えでも、当時のユダヤの習慣が反映されています。ルカによる福音書では「もう用意ができましたから、おいでください」となっていますが、マタイによる福音書では「牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。」となっています。婚宴の用意がまるで目に見えるようです。そして、これは王子の結婚のための祝宴です。まことに盛大な、豪華な宴会だったと思います。これを断ることなどとてもあるはずがないように思われます。けれども、そのようなことがおこりました。起きてはならないようなことが起こったのです。

婚宴を断る
 5節からです。「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」(5~7節)先ほども申しましたが、ルカによる福音書では婚宴の招待者をただ「ある人」としています。それが、マタイによる福音書では婚宴の招待者は王様であって、この婚宴が王子のためのものであるとしています。王から王子のための婚宴のために招待を受けるということは、そう滅多にあることではありません。大変、光栄なことだと言えるでしょう。それが本当に光栄なことであると感じていたのであれば、それを断るなどということは有り得ないことです。けれども、この譬えでは有り得ない、起こるはずのないことが、次々に起こったのです。それは、この招待がどれほど光栄なことか、感謝すべきことか分かっていなかったからなのです。畑や商売に出掛けて行って、招待を断ったということは、自分の畑、商売、つまり自分自身の事柄、この世の事柄に心が奪われたということです。天の国、神の国のことについて、真剣に考えることができなかったということです。ルカによる福音書では、最初の人が「畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、失礼させてください。」とあります。そして、次の人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください。」とあります。更にマタイによる福音書にはありませんが、3番目の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことはできません」と答えております。このような言い訳はマタイよりも一層詳細に語られています。マタイによる福音書では、この招待が王による招待であり、しかも生涯に1度しかない王子の婚宴であることを明らかにしています。そして、そのような招きを人々はことごとく無視します。それを断ることがどんなに重大なことであるのを示そうとしています。喜びの祝宴、それも神の国の祝宴への招待を断るとはどういうことでしょうか。天の国、神の国への招待を、この世の事柄によって心が一杯になって、少しも重大には感じていないことがここでは浮き彫りにされています。招きに応じないだけでなく、その招きを伝えに来た者たちをも激しく拒否し、敵対しました。そのような人間の思い、この世の事柄に心が奪われてしまう罪によって、主イエスはやがて十字架へとかけられていきます。

滅び去るもの
 6節と7節とはマタイによる福音書独自のものであって、ルカにはありません。婚宴が始まることを重ねて知らせに行った王の家来に乱暴をして殺してしまったということは、「ぶどう園の農夫のたとえ」を思い起こさせます。主人を主人と思わず、ぶどう園を自分たちのものにしてしまおうとした農夫たちは滅ぼされて、他の、ちゃんと主人を敬う農夫たちにぶどう園が貸し与えられていくことが語られていました。マタイによる福音書の場合、主イエスを十字架に架けたユダヤ教の指導者たちを相手にしていることを考えますと、この6、7節はとても大切です。主イエスは、ユダヤ教の指導者を始め、祭司長、民の長老たちがどうか悔い改めて、思い返し、天の国の招待を受けて欲しいと願い、この譬えを語られました。7節の「そこで王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」とは紀元70年のエルサレムの陥落を経験した者が後から書き加えたのではないかと言う意見もあります。いずれにしてもこのことは、この世と神の国とが画然と区別されることを極めてはっきりと、示しています。神の国、天の国とはこの世の延長にあるということではなく、全く異なる神の御支配の世界です。この世界、人殺しども世界、罪の支配をするこの世は裁きのもとに滅び去らなくてはならないのです。

神の国の祝宴
「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(8~10節)ここまで、この譬えを読んでいきますと、この王とは一体誰なのか、更に明らかになっていきます。王とは、神様であり、婚宴とは天の国の喜びの宴のことです。この譬え話は神様と人間の関係について語っているということです。最初に招かれた者とは、神の選ばれた民、イスラエルのことです。しかし、そのイスラエルが神の国の招きに答えていないので、神の招きは更にそれ以外の人々、異邦人にまで及ぶことになったということです。マタイによる福音書では、見かけた人は「善人でも悪人も皆集めて来た」とあるのは、徴税人や娼婦たちのように当時のユダヤ教の指導者たちからは、悪人、罪人扱いされた人々でも神の国に招かれることを示しています。ルカによる福音書では、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と主人に語らせています。いずれも当時の社会においては差別されていた人たちです。体に傷のない完全なものが聖なる神に仕えるのにふさわしい人々だと考えられていたその当時では、体に障害のある人々が、汚れた者として神の前に出ることは認められなかったことを考えますと、ルカによる福音書の書き方も大切な書き方です。神の国、天の国ではユダヤ人以外の異邦人も、体の不自由な人も、貧しい人も、当時罪人と見做されていた人々も皆、神の国の祝宴を囲むのです。もし、天の国、神の国がこの世と連続するものであれば、この世の矛盾もまたそのまま持ち越されてしまいます。罪に満ちたこの世界がそのまま続くことはありません。そこには断絶があり、それが希望となります。ルカによる福音書では、最後に「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」と主イエスは言われます。主イエスの嘆きの言葉です。けれども、マタイによる福音書では少し違います。その前に、もう1つの譬え、礼服のたとえが加えられています。  11節以下です。「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(11~14節)婚宴の席に王が現われます。その意味で、この部分が本日の箇所のクライマックスと言えると思います。王が今宴の席に来ると、婚宴に出席している者の中に礼服を着ていない者が一人いたというのです。場所をわきまえない者と言えるでしょう。礼服を着ない、婚宴の席に出席することは王や王子に対する侮辱を意味します。しかし、誰が一体王や王子の前に出るのに相応しい礼服を持っているといえるでしょうか。  旧約聖書には王宮に招かれた者には、王から晴れ着が与えられる習慣があったことが記されています。例えば、ヨセフがエジプトの王ファラオの前に出た時、またヤコブの子どもたちがエジプトでヨセフの前に出た時、その他、多くの記事がそのことを示しています。従って、王が婚宴に人々を招待したということは、彼らがその場で身につける晴れ着も既に用意され、招待したということなのです。ここでは、そのように王が用意した晴れ着を拒否して身につけようとしなかった態度がここでは問題になっているのです。

イエス・キリストを身にまとい
 それでは、この晴れ着、礼服とは一体何を意味しているのでしょうか。それは主イエス・キリストに他なりません。使徒パウロはこのように述べています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。」(ガラテヤの信徒への手紙第3章27節)私たちは神様の前に出るにふさわしい、礼服を自分で用意することはできません。しかし、神様はそれを既に用意して下さいました。神様の前に黙って、下を向くしかない私たちの罪を贖い、清めて下さるために、主イエス・キリストを、神様の御前に出る礼服として与えて下さいました。そして、私たちを招いて下さいました。この礼服を着ていない一人の者に対して、王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と尋ねました。この「友よ」と呼びかけている言葉は、他の場面でも使われています。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダにゲッセマネの園で「友よ、しょうとしていることをするがよい」(マタイによる福音書第26章50節)と呼びかけたのと同じ言葉です。この人は黙っており、婚宴の外の暗闇に放り出されてしまいました。マタイによる福音書は大変厳しい、審判の様子を伝えています。けれども、それは何とかして、そうなっては欲しくはないという神様の御心を語るためなのです。

神の国の祝宴へと招かれる
 最後の14節には「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」とあります。この言葉を聞きました、私たちが「どうせ、自分などはだめな人間で、結局は選ばれていないのだ」と考えるのであれば、この御言葉の語ろうとしているとこではありません。私たちは、誰も神様の立場に立って、そのように考えることは許されていないのです。ここで、主イエスが譬えの最後にこのようにおっしゃるのは、手遅れにならないためであり、そうなって欲しくないということなのです。そのために、主イエス・キリストがこの世界に来てくださったのです。十字架と復活の主イエス・キリストが私たちの礼服となってくださった。私たちの誰一人も例外なく、この礼服を用意されています。この世とは全く違う、新しい神の国、天の国に招かれています。これが私たちの信仰の歩みです。神様によって喜びの祝宴へと招かれています。私たちにとって喜びの祝宴とはこの礼拝の場です。本日は、特にこの後に聖餐に与ります。聖餐とは、神様が私たちを招いて下さっている喜びの食卓、祝宴そのものです。私たちは神様が招いてくださっている神の国の祝宴に連なり、喜びをもって、この主の2013年も歩み始めたいと思います。

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