主日礼拝

キリストの賜物

「キリストの賜物」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 申命記 第6章4―9節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第4章1―16節  
・ 讃美歌:6、390、411

聖書における勧め
 私が主日礼拝の説教を担当します時は、ご一緒にエフェソの信徒への手紙から御言葉に聞いておりますが、本日から第4章へと入ります。第3章は祈りで終わっていました。祈りで終わったということは、それまで語られたことが、そこで一区切りついたということのしるしです。本日の箇所から取り上げられる内容、またその語り方も、ここから少し変化をします。1節から2節の前半をお読みします。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」(1-2節a)  まず、1節ですが「あなたがたに勧めます」とありますように「勧め」が語られております。従って、この箇所での語調は「~しなさい。」「~してはならない。」という命令的なもとなっています。このような勧め、あるいは戒めにも聞こえるような内容を、私たちが聖書から聞きます時は、少し注意が必要であると思います。その注意とは、「~しなさい。」「~してはならない。」という勧め、ないし戒めが、いわばいきなり語られているのではないということです。何の前提もなしに、ただ命令的に語られているということではないということです。この1節で言いますと、パウロは「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」なさいと語っています。既に招かれた、神様からの招きを受けている、招かれている、このことを前提として語っています。招かれているという前提、その事実に立って、それにふさわしい歩みをしなさいと言っているのです。はじめから、ただ単に、前提もなく、「~しなさい」「~してはならない」と言っているのではないのです。神様から招かれている、この事実を福音と呼ぶとすれば、その前提のもとにある勧め、戒めの本質もまた福音なのです。この勧め、戒めに従うことが私たちの解放となります。私たちを解き放つ、救いとなるのです。もし、そうでないとしたら、外からの勧め、戒めに従うことほど、私たち人間にとって苦痛なことはないでしょう。しかし、この勧め、聖書の勧め、戒めは神からの招きを前提とし、福音から出たものであり、勧めや戒めも福音の1つの形だとしたら、それに従うことは苦しめること、難しいことではなく、むしろ私たちの喜び、私たちを解き放つものとなるのです。このようなことに注意しておく必要があります。

神の招きにあずかって
 勧め、戒めの前提となる、あなたがたは「神から招かれたのですから」という言葉が大切だと申しました。そして、この言葉はまたエフェソの信徒への手紙の第1章から3章を要約している言葉であるとも言えます。この手紙が書き送られたエフェソの教会というのは、その構成している信徒はユダヤ人だけではなく、むしろほとんどが異邦人でした。この異邦人であるということは、神の救いの約束に本来関係のない民、神を知らない民ということです。(2章11~12節)それが主イエス・キリストにおいて、その十字架の死と復活によって、その信仰において、救いの約束にあずかる者とされた、神の民としての教会に加えられたのです。それが、「神から招かれた」ということの意味はそのようなことです。そして、それは神様の永遠の御心であり、神の救いのご意志、救いのご計画です。この手紙の著者パウロはその実現のために使徒として働いてきたのです。  さて、私たちは「招きにふさわしく歩みなさい」と命じられると、どう思うでしょうか。私たちの個人としての生活、家庭での生活、市民としての社会での生活を思い起こし、はたして自分はキリスト者、信仰者としてふさわしく歩んできたかどうか、と考えることが多いのではないでしょうか。けれども、ここでパウロが「神の招きにふさわしく歩みなさい」と勧めたとき、そのパウロの念頭にあるのは、実は第1に教会のおける生活のことなのです。ここで求められている、神様の招きにふさわしい歩みへの勧めが教会の生活に関係づけられて語られていること、そのことがここでは重要です。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」(1節b)という1節の続きの言葉も、2節以下を読んでいけば分かりますように、教会の一致ということに関係しています。教会の一致、それはつまり教会生活に関係しているということです。

多様性と一致
 ただ今、神様の招きにふさわしくということが、特に教会生活との関連で語られていると申しました。そのことを本日の箇所に当てはめていきますと、1節から6節では、神は唯一、主は一人であるように、教会も1つであり、したがって互いの愛をもって教会の一致を保つべく、つとめることが神の招きにふさわしいとなります。また、7節から16節では逆のことが語られています。どういうことかと言いますと、7節から16節では、霊の賜物は多様であって、その中で神の招きにふさわしくとは、そうした多様性の中で多様性を生かしつつ、教会の一致を求めることだということになります。本日は、この後者のこと、多様性の中で多様性を生かしつつ、教会の一致を求めるということを考えてみたいと思います。聖書の箇所に沿って、賜物の多様性とその根拠、更にそのような多様性を生かしつつ、教会は何を目標として歩んでいくのか、またどのように歩んでいくのか、考えてみたいと思います。

キリストの賜物
 教会にまことに多様な賜物が与えられています。教会はそれらの賜物が生かされ、それらが用いられて形成されていきます。7節から11節で、賜物の多様性、その多様性の根拠を見ていきましょう。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで「高い所に昇るとき、捕らわれた人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りてこられた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」(7~11節)この箇所から、私たちが聞き取りたいのは2つのことです。1つは「わたしたち一人一人」に多様な恵みの賜物が与えられているということです。そして、もう1つは、それらの賜物はみな主イエス・キリストによって「与えられた」ものです。私たち、そのことをどんな場合も忘れてはならないでしょう。

一人一人に
 はじめに、私たち一人一人に多様な恵みが与えられていることをしっかり確認したいと思います。先ほどの箇所では特に11節ですが、「使徒」「牧者」「教師」という、そうした教会の職務を表す言葉が出て来きます。だから、「キリストの賜物」とは教師、牧師、伝道者であって、それ以外の信徒には関係がないと受け取られがちですが、決してそうではありません。7節の「わたしたち一人一人に」という言葉は、そうした教会の職務の担い手だけを指すのではなく、この手紙の受取人であるすべての教会員を指す言葉です。またこの箇所は原文では、この「一人一人に」という言葉が文章の始めに置かれており、強調されています。誰もが霊の賜物を頂いています。何か特別な才能でないと、他の人より秀でた業だけが賜物とは言えないというのではありません。聖書の考え方は全く逆です。つまり、私たちが持っているもの、たとえそれが自分にどんなに小さなものに見えようとも、もし私たちがそれを神様から「与えられたもの」として受け取るのであれば、それはすべて、恵みの賜物、霊の賜物なのです。神様から与えられたものであるなら、どうしてそれが、小さなものと言えるでしょうか。むしろ、私たちにとって特別のタラントとなります。

職務
 そしてもう1つ大切なこと、強調されるべきこと、それは、すべての賜物は主イエス・キリストによって与えられたものだということです。このことは特に教会の職務に当てはまります。当時の教会の職務として、11節にありますように、使徒、預言者、福音宣教者、この福音宣教者というのは口語訳聖書では伝道者となっておりました。また牧者、教師といったものが挙げられています。聖書の他の箇所で、これと少し違ったものですが、職務とその名称が伝えられています。(Iコリント12:28)まず、ここで最初に挙げられている「使徒」というのは、これ以後教会にはなくなった務めです。したがって、ここにあるすべてが変わることなく、また絶対的なものとして挙げられていると考える必要はありません。私たち、プロテスタントの教会にも複数の考え方があります。宗教改革者のカルヴァンは、牧師、教師、これは神学教師のことですが、長老、執事という4つからなる職務論を展開しています。教会の主イエス・キリストが教会を治めるのにふさわしい組織の在り方を、そのようにして追求しているのです。(ヘブライ人への手紙3:6)いずれにしても、教会の様々な職務に関して、この箇所から学ぶことが出来ると思います。また、これらの職務はすべて主イエス・キリストから「与えられた」ものであるということです。  そして、教会にこれらの職務が主イエス・キリストによって「与えられた」のは、主イエス・キリストの恵みの支配に教会が仕えるためです。教会の中において、人間的名支配関係を作りだすために職務が与えられているのではありません。カール・バルトの「バルメン宣言」の第4項には、教会の職務について、大切な言葉が記されています。一部分を紹介します。「教会にさまざまな職位があるということは、ある人々が他の人々を支配する根拠にはならない。それは(教会に様々な職位があるということは)教会全体に委ねられ、命ぜられた奉仕を行うための根拠である。」とあります。

成長
 さて、それなら、そうした主イエス・キリストによって与えられた一人一人の賜物、またいくつかの職務を基として、教会はどのように歩んでいくのでしょうか、その目標はどこにあるのでしょうか。12節から13節をお読みします。「こうして聖なる者たちは奉仕のわざに適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちはみな、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(12~13節)既に私たちは、教会の職務は主イエス・キリストによって与えられたものだ、またそれはこの方が教会の主であることが明らかにされるためだ、ということを見てきました。これらの事柄を、この箇所によってもう少し具体的に考えてみましょう。12節はその手がかりを与えてくれます。教会の職務、それは「聖なる者たち」、即ちすべての教会のメンバー、キリスト者、信仰者のことです。つまり、私たちを「適した者」とするためです。口語訳聖書では「ととのえる」となっておりますが、「ととのえる」ためなのです。何のために、彼らをととのえるのでしょうか。それはすべての教会員に「奉仕の業」をなさしめるためであり、それによって「キリストの体」を造り上げる、つまり教会を形成するためです。  更にキリストの体が造り上げられるとは、「ついには」私たちが「皆、神の子に対する信仰と知識において一つ」のものとなり成熟するため、そしてそこまで「成長する」ためにはほかならないのです。私たちが成熟し成長するとは、14節、15節によれば、教えの風に「もてあそばれたり、引き回されたり」することがないということ、更に「愛に根ざして真理を語」ること、即ち、愛を行い、真実を語ることです。そうしたらところへと、私たちが成長していくこと、これが教会の目標であり、教会に種々の職務があることの意味です。

教会の成長
 今、私たちが成長していくことが教会の目標であると申しました。この「成長」という言葉に違和感を持たれる方があるかもしれません。「成長」という言葉にはもちろん、量的な増大という意味が含まれますし、実際に使徒言行録などではそのような使われ方もしています。しかし、ここでは14節、15節を念頭において今申し上げたように、私たちのキリスト者としての内的、質的、霊的な成長のことを言っています。私たち自身が、教会において、そうした人間へと成長し、それによって主イエス・キリストを証しするようになること、それが私たちの成長です。  私たち自身の成長と同時に、もう1つの側面に触れたいと思います。ここで「成長」と言われているものの主語は13節でも14節でも「わたしたち」です。私たちが成長すると言われています。しかし、私たちが成長するということだけではなく、成長という言葉の主語が、ここには、実はもう1つあるのです。それは「体」です。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(16節)私たちの成長が語られているだけではない。体の成長、即ち主イエス・キリストの体、教会自身の成長も語られているのです。私たち自身の成長は、キリストの体である教会の成長です。また、教会の成長は私たち自身の成長です。  しかも、この節で、私たちの成長も、また「体」の成長も「キリストにより」なされるということに注意したいと思います。特にここでは、「キリストにより」という言葉が冒頭に置かれており、私たちの成長も教会の成長も、まさに主イエス・キリストご自身の働きである、ということが明示されています。ただ、このキリストの位置づけも、注意を要します。というのも、15節が「頭であるキリスト」を私たちの成長の目標として示していたのに対して、16節ではキリストを、即ち教会で働く、私たちの歩みの力である方として語っているからです。目標である方が既に今ここで霊において働いておられます。教会の形成の力は、頭なる主イエス・キリストから来る、このことを証しする歩み、聖霊の力において証しする歩みこそが教会の歩みです。そのような歩みの中で、私たち自身が成長し、それによってまた、主イエス・キリストの体としての教会も成長をするのです。

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