夕礼拝

真実な方

「真実な方」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第33章1―6節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第22章15―22節  
・ 讃美歌:509、393

敵意の中で
 本日はご一緒にマタイによる福音書第22章15節からの御言葉をお聞きしたいと思います。本日の箇所もまた、主イエスがそのご生涯の最後にエルサレムへ来られたときに起こった出来事が記されています。そして、主イエスは当時の指導者たちやファリサイ派との対立が増す中で、たとえ話を語られました。そして、たとえ話を通して彼らを批判したのです。主イエスはこれまで「二人の息子」「ぶどう園の農夫」「婚宴」のたとえ話しをされました。この3つのたとえ話に共通することは、神様のみ心に従わない者の姿が描かれていることです。神様の御心に従わずに、遣わした僕ないし子を受け入れないで殺してしまう人々の姿がたとえ話しに描き出されていました。主イエスはこれらのたとえ話を通して、神様の御心を受け入れず、遣わされた者を殺す姿こそが、当時の指導者、ファリサイ派であると批判をしました。たとえ話しを通して、主イエスを受け入れずに抹殺しようとしている彼らの姿というものを明らかにされました。当然、指導者、ファリサイの人たちは主イエスに対する敵意がそれ以上に増していき、殺意へと進んでいきます。主イエスのこのような話しに続いて、本日の場面になります。15節は「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。」とあります。主イエスの「言葉じり」とは、「言葉の罠」という意味があります。ここには、主イエスの決定的発言を捉えようとする意図が示唆されています。少し前のマタイによる福音書第21章45節から46節では、「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」という言葉がありました。主イエスと当時の指導者たちとの対立はもはや決定的になっておりました。ここに登場する「ファリサイ派」の人々もまた、明らかな敵意、悪意、殺意をもって主イエスの元に近づきます。

ファリサイ派
 ファリサイ派の人たちは、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に主イエスのところに遣わしました。「ファリサイ派」とは何度か申していますが、主なる神様の律法を大切にし、律法を厳格に守り、人々に教えていた人たちです。そして、神の民としてのイスラエルの建設を目指しておりました。主なる神の支配を信じておりましたので、人間の支配は受け入れられないと思っておりました。けれども、当時、ユダヤの地は、この皇帝に統治されたローマ帝国の支配下にありました。ローマの支配とは、全ての地を同じように直接支配するのではなく、その地の事情に応じて、直接「属州」として支配することもあれば、現地の王国を存続させてその王の上に皇帝が支配権を持つという形をとることもありました。主イエスのお生まれになった時のヘロデ大王や、その息子で、主イエスが活動された時にガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスの国というのはそのように、ローマ皇帝の承認の下に存在を許されたものだったのです。直接の王や領主はヘロデでも、本当の支配者はローマ皇帝であるということです。そして、その皇帝の支配はローマへの税金を納めなければならないという事実において、はっきりと表されておりました。本日のところでこの後、問題になっていく事柄は「皇帝への税金を納める」ことについてです。皇帝への税金は、人頭税といって、一人あたりいくらと決められていた税金のようです。ファリサイの人たちは、自分たちは神様に選ばれた神の民であり、神様こそが支配者であられると信じておりましたので、ユダヤの人々にとって、そういうものを納めなければならないことは、まことに腹立たしいことでした。一人の人間に過ぎない、しかも神様の民に属さない外国人であるローマ皇帝が、まるで神ででもあるかのように目に見えない所で自分たちを支配している、それはユダヤ人たちにとって受け入れ難い屈辱だったのです。しかしもちろん、現実には納税せざるをえなかったのです。本日の箇所に語られていることの背景にはそのようなユダヤ人たちの状況があります。

共闘して
 そして、このファリサイ派がヘロデ派の人たちと一緒に主イエスのところへ行くのです。「ヘロデ派」とは宗教的なグループではなく、政治的な一派です。ローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちのことです。そして、恩恵を受けていましたので、ローマ帝国への納税を当然のことと考えていました。そうでありますと、本来はこのファリサイ派とヘロデ派は相容れない、対立関係にあったのです。けれども、ここではその両者が一緒に主イエスのもとに来ます。全く正反対の主張を持つ者たち、本来対立するはずの両者が、ここでは主イエスを受け入れず、抹殺しようという思いで両者は一致していたのです。そして尋ねます。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」(16節)。この言葉遣いは丁寧な言い方がされておりますが、皮肉を込めた、このような言い方をして、主イエスの逃げ道を断ち、この問いに答えざるを得ないようにしているのです。そして彼らは主イエスに「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」と問います。イエスが皇帝への納税を認めれば、ファリサイ派が「神に背く者」という理由でイエスを追及することができます。また、主イエスが納税を認めなければ、ヘロデ派が「ローマ皇帝への反逆者」として訴えることができるというのです。

皇帝カエサル
 主イエスは彼らの悪意に気づいて言われました。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金を納めるお金を見せなさい。」(18-19節)主イエスは納税のためのローマの銀貨を持ってこさせます。この「デナリオン銀貨」にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」というものです。それはローマ皇帝を神格化しているということです。ちなみに「カエサルCaesar」とは古代ローマの共和政を終わらせ、独裁支配を実現した人で、その後継者がローマ帝国の初代皇帝となるアウグストゥスです。ティベリウスはアウグストゥスの子で第2代皇帝ですが、「カエサル」は「皇帝」の別名にもなっていたのです。  さて、イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことが許されないものでした。しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得なかったのです。そして、神殿の中にも持ち込まれていました。実際にデナリオン銀貨を持ち、使っていながら、納税の是非を議論している彼らの矛盾を指摘しています。そもそもこの質問は、主イエスを陥れるためのことなので、まともに答える必要はないのだとも言えます。けれども、主イエスは「これは誰の肖像と銘か」(20節)と尋ねます。彼らは「皇帝のものです。」と答えます。その答えを受けた主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。  この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とはどういう意味でしょうか。もしここで主イエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めたことになります。しかし、主イエスはここで「神のものは神に」と付け加えています。それは神のご支配とそれに仕えることもまた大切にしなさい、ということです。ところで、皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。それでは「神のもの」とは何かということです。神のものには、神の肖像、似姿が刻まれているはずです。では神の像はどこに刻まれているか、それは、私たち一人一人の「人間」に刻まれております。旧約聖書の創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるからです。つまり、イエスは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神に帰属するものであり、神以外の何者にも冒されてはならない」と言っているのではないでしょうか。この主イエスのお言葉は「神のもの」と「皇帝のもの」という二つの領域を分けるということを教えているのではないのです。  主なる神様が、天地創造をされ、その最後の業として、人間をお造りになりました。そこで、神様は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われたのです。私たち人間は、神様にかたどり、神様に似せて造られたものです。私たちには、神様の肖像が刻まれているのです。私たち人間は全て、「神のもの」なのです。神様の似姿を刻まれた私たち人間が世界中に住むことによって、神様はご自身の世界全体へのご支配を告げ知らせておられるのです。私たちとこの世界は、「神のもの」なのです。その「神のもの」は神に返せと主イエスは言われたのです。それは、自分自身とこの世界の一切を支配しておられる王としての神の権威を認め、それに服する者となれということです。この世界や私たちの人生のある一部だけが「神のもの」ではありません。この世界と私たちの全ては神様のものです。私たちは神様のもの、神様のご支配と導きの下にあるものとして覚え、それを神様にお返しして生きるのです。私たちのすべては、神様のものであり、神に返すべきものであります。そのように主イエスは教えられた上で、政治的な権力とその行使による秩序の存在を認めておられるのです。

神の像が刻まれた者として
 本日の箇所の主イエスのお言葉によって、皇帝に税金を納めることは正しいか正しくないか、ということが語られているのではありません。主イエスに問われた問いは、二者択一を迫るものでした。また私たちが人を詰問し、問い詰める時の言い方です。けれども、主イエスは、そのような問いが必ずしも真理を明らかにするものではないことを示しておられます。18節で主イエスが彼らに対して、「偽善者たち」と言っておられます。ここでの、偽善とは信仰的な言葉で語りながら、主イエスの示して下さる真理に聞き従うことなく、自分の主張に固執し、それを少しも変えようとしないことです。私たちが人に対して、二者択一を迫っていく時にもまた、結局自分の望む答えを求めるような、偽善に陥っているのではないでしょうか。けれども、主イエスはそのような私たちに対して、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。「返す」とは、自分のものではないものを、本来の持ち主に返すということです。これは、自分のものではないと認めることです。私たちもまた、自分自身のものではありません。神様の似姿を刻まれた者、つまり、神様のものなのです。そのことを認める、その自分を本来の持ち主、神様にお返しするということです。この神様のご支配の元に私たちは生かされております。この世界のすべてのものを神は造られ、恵みをもってご支配されております。私たちはその恵みの支配の中を生きております。この世の秩序というのもの、神様のご支配を関係のない領域のことではありません。すべてが、神様によって造られたものであることを信じ、信頼して良いのです。私たちの世界には色々な問題が存在します。その根本において、私たち、またすべてのもが神によって造られ、恵みの支配に置かれているということです。そして、神様のものは、神に返す信仰に生きることです。

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