夕礼拝

あなたがたの救い主

「あなたがたの救い主」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第9章1-6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第2章8-21節
・ 讃美歌:267、252

<クリスマス>  
 クランツのロウソク4本に火が灯り、クリスマスになりました。わたしたちの救い主であるイエスさまが、この世にお生まれになったことを感謝し、喜ぶ日です。そのことを覚えて、ともに礼拝を守ることができることを、感謝いたします。  

 今日は、世界中がクリスマスを祝っています。世界中のどこにいる、誰でも、クリスマスを祝ってよいし、すべての人が、喜ぶべき日です。  
 なぜなら、イエスさまの誕生は、地上に命を与えられて生きるすべての人間にとって、決定的な出来事だからです。
 今日の旧約聖書のイザヤ書に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちのために与えられた」とありました。イエスさまがお生まれになるずっと昔に書かれたものです。すべての人のための、神さまの救いのご計画が示されています。
 そして、この神さまが与えて下さると約束なさったみどりごこそ、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶で眠っておられる、イエス・キリストなのです。
 この方によって、神さまから離れて暗闇を歩いていたすべての人に、光が与えられます。この方の十字架の死によって、罪の赦しが与えられます。この方の復活によって、信じる者は死から解放され、終わりの日に復活と永遠の命が与えられます。
 この、わたしたちのための救いの御業の始まりこそ、神の独り子であるイエスさまが、低く降ってこられ、まことの人となって、わたしたちの地上にお生まれになる、という出来事だったのです。 

<密やかな誕生>
 ところが、世界ではじめのクリスマス。約2000年前の、イエスさまがお生まれになった、まさにその日。この神さまの救いのご計画がいよいよ始まった、救い主が世に生まれた、ということは、イエスさまの母マリアと、その夫ヨセフしか知りませんでした。  
 イエスさまは、地球を救うヒーローのように、大々的に、かっこよく登場して来られたのではありません。また一国の王子の誕生のように、期待と喜びの中で人々に迎えられたのでもありません。
 神の御子は、人々に忘れ去られたような貧しい場所で、ひっそりと誕生なさったのです。  

 今日の聖書箇所の少し前、2章の1~7節には、その誕生の様子が語られています。
 当時、ユダヤを支配していたローマ皇帝アウグストゥスによって、住民登録が命じられました。それは、納めている地域から、効率よく、確実に税金を集めるためです。その手続のために、人々は、自分のルーツの町に戻りました。ヨセフはダビデの家系だったので、ダビデの町ベツレヘムへ、聖霊によって身ごもったマリアを連れて、旅をしなければならなかったのです。

 ベツレヘムの町にいる間に、マリアは産気付き、出産をする場所を探しました。ところが、どこも宿を提供してくれるところがなく、マリアは馬小屋でイエスさまを産んだのです。聖書に「馬小屋」とは書かれていませんが、馬の餌の干し草を入れる「飼い葉桶」にイエスさまを寝かせた、とあるので、そこから馬小屋だろうと予想されるのです。

 当時のどんなに貧しい人でも、馬小屋で出産することは無かったでしょう。住民登録で宿がごった返し、いくら泊まるところがないとはいえ、陣痛に苦しみ、今にも赤ちゃんが生まれそうな人を、汚くて、臭くて、隙間だらけの馬小屋に案内することがあるでしょうか。人が泊まるところではありません。ましてや、生まれたての赤ちゃんを寝かせておくような場所ではありません。マリアとヨセフは、どれだけ惨めな気持ちだったでしょうか。
 しかし、みんな自分のことで精一杯です。自分の眠る場所を確保することだけが大事で、人のことを顧みることなど出来なかったのです。出産のために部屋を貸してあげたり、場所を整えてあげたり、そんな優しさや、配慮をしてくれる人は、誰もいませんでした。
 そんな、荒んだ人々の冷たさの中で、見捨てられ、無視されて、神の御子イエスさまは、すべての人の罪を背負い、赦すために、居場所もなく、ひっそりとお生まれになったのです。

<選ばれた羊飼いたち>  
 しかし神さまは、この世界すべての人間の救いに関わるイエスさま誕生のニュースを、御自分が選んだ人々に知らせようとなさいました。その選ばれた第一号の人々が、今日登場する、羊飼いたちです。  

 この時代の羊飼いは、大体が雇われ人です。主人の羊をあずかって、世話をします。彼らは羊を牧草地へ導き、食事をさせます。移動中は、羊が迷ったり、崖から落ちたりしないように、一頭一頭をよく見ていなければなりません。そして夜には野宿して、獣や盗賊から羊を守るために、番をします。気も使うし、獣と戦うこともあるし、なかなかに骨の折れる仕事だったと言います。  

 羊飼いたちはこの日も野宿をして、夜通し羊の群れの番をしていました。いつもと変わらない夜です。これは仕事ですから、彼らは毎日毎日、何年も同じように、羊の世話をする日々を繰り返しています。そして、これからも同じ毎日がずっと続いていくことに、きっと何の疑問も持たなかったと思います。でも、そこに突然、神さまが語りかけてこられたのです。  

 闇夜の中、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしました。それは太陽などとは比べ物にならない、とてつもない光だったのではないでしょうか。キレイとか、感動した、とかではなく、羊飼いたちは「非常に恐れた」とあります。ただただ恐怖を感じたのです。  
 神さまの栄光を前に、人は恐れ慄きます。それは本来、人は罪深く、神さまの御前に立つことが出来ないようなものだからです。だから、神さまからますます離れ、暗闇の奥へ、奥へと、身を隠そうとするのかも知れません。神さまの光の前に、わたしたちの罪は暴かれ、弱さも醜さも晒されます。そうやって神の御前に引き出されることは、わたしたちにとっては恐ろしく、耐えられないことなのです。  

 しかし天使は「恐れるな」と言いました。
 神さまは、人の罪を指摘して罰を与えるために、天使を遣わしたのではありません。天使は喜びの知らせを持ってきたのです。天使は言いました。
 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」  
 恐れなくていい。神の御前で、慄かなくて良い。むしろ、大きな喜びが告げられる、というのです。それは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせです。
 この知らせは、他でもない、今、これを聞いているあなたがたのためだ。あなたの救いのためだ、と言われます。決して他人事ではありません。わたしが救われるために、救い主がお生まれになった。イエスさまの誕生の知らせは、わたしの救いの出来事として、告げられます。 
 そして天使は、「この方こそ、主メシアである」と告げます。わたしたちの罪を明るみに晒し、審くのではなく、むしろ罪を覆って下さり、恐ろしい神の審きをすべて代わりに引き受けて下さる。そのような救い主が、来られたのです。
 そしてこの大いなる喜びは、民全体に与えられるものだと言います。すべての人が、この知らせを自分の出来事として聞いてよいし、自分のこととして喜ぶことが出来るのです。

 でも、どうして羊飼いたちが、一番はじめに救い主の誕生を知らされる人々として、選ばれたのでしょうか。どうして、神殿にいる祭司や、聖書の専門家や、敬虔で尊敬されている人々ではなかったのでしょうか。
 羊飼いは、尊敬されたり、敬われたりするような職業ではありません。むしろ、貧しい人々の職業でした。また、羊は生き物ですから、安息日も番をしなければいけないので、羊飼いたちは毎週ちゃんと礼拝を守ることもできなかったはずです。信仰生活も不安定です。誰も羊飼いたちを、特別に思うことはなかったと思います。

 しかし、神さまは、このような人たちをお選びになったのです。神さまの選びの理由は、わたしたちには分かりません。しかし、神さまは人の側の理由や条件によらず、ただ神さまの自由なご意志によって選び、一方的に恵みを与えて下さるのです。
 羊飼いたちに、一番はじめにこの救いの知らせがもたらされたことは、この神さまの一方的な選びの恵みを見つめさせます。

 そしてこの選びの恵みは、一番はじめのクリスマスから時が経ち、今ここに集って、御言葉を聞いているわたしたちにも言えることなのです。わたしたちも、羊飼いと同じで、特に特別な人物なのではありません。でも神さまが選んで下さったのです。
 わたしたちが、特別でなくても、清く正しい者でなくても、むしろ不真面目で、不信仰で、罪深い者であったとしても、神さまが、この喜びをあなたに知らせたいと、望んで下さいました。ここにいる一人一人を、救いにあずかる者として、大いなる喜びを受け取る者として、選んで下さったのです。そして、わたしたちは語りかけられます。
 「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」
 このわたしたちのために、救い主が、イエスさまがお生まれになったのです。

<救い主が生まれたしるし>  
 さて、羊飼いたちには、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ということの「しるし」が与えられました。天使は、12節にあるように「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げたのです。  

 「しるし」というのは、神さまの御言葉、神さまのご支配が、確かであることを証しするものです。それは、聖書の他の箇所においては、奇跡や、病の癒しや、人の力を遥かに超える業によって示されることが多いかも知れません。  
 天使の登場は、それこそ神の権威と栄光に満ちたものでした。けれども、「わたしたちのために救い主がお生まれになった」ことの「しるし」は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」というものでした。よく考えてみれば、何と地味な「しるし」なのでしょうか。  

 しかし、栄光に満ちた神の御子が、家畜の干し草を入れる飼い葉桶の中で眠っておられるという出来事こそ、本当は人知を超える出来事です。このことこそが、神の御子が本当に御自分の栄光を捨てて、低く降って下さったこと。本当に貧しく、小さく、罪深いわたしたちのところの来て下さって、共にいて下さるということ。その闇の中に光を照らし、救い出して下さる方である、ということの「しるし」だったのです。  
 まことの神が、まことに人になられたということこそ、神さまの全能の成せる業です。飼い葉桶の乳飲み子こそ、わたしたちの救いのためなら栄光を捨て、どれだけでも低くなり、小さくなり、貧しくなって下さる、神さまの愛のしるしです。  

 天使がこの「しるし」を告げると、天の大群が加わり、神を賛美して言いました。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
 いと髙きところにいます神さまの栄光が、罪に満ちた地上を照らします。そして、救い主イエスさまによって実現する救いが、地上の人々に、わたしたちに、まことの平和をもたらします。それが、神さまの御心なのです。

 羊飼いたちは、これを聞いて、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」「わたしたちの救いのしるしを見よう」と、急いで出かけて行きました。
 16節には「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。「探し当てた」というのですから、羊飼いたちは「飼い葉桶」というキーワードをもとに、ベツレヘム中の馬小屋、家畜小屋を一軒一軒、訪ね歩いたのではないでしょうか。
 そして天使のお告げの通り、イエスさまが布にくるまって飼い葉桶に寝かされている光景を、自分たちの救いの「しるし」を、その目で確かに「見た」のです。

 イエスさまに出会い、羊飼いたちは確信しました。わたしたちのために、救い主がお生まれになった。救いは本当だ。大きな喜びは、本当だ。
 世界で最初に、羊飼いたちはこの喜びにあずかりました。そして羊飼いたちは、天使が話してくれたことを、人々に伝えました。「わたしたちのために救い主がお生まれになった。大きな喜びが与えられた。天使が言った通り、飼い葉桶の乳飲み子を、救いのしるしを、わたしたちは確かに見ました。」

 そして、天の軍勢の歌声に声を合わせて神を賛美したのです。まだ世界の誰も、救い主の誕生を知りませんでしたが、ここに確かに、神さまの救いを知り、それを目撃し、大きな喜びに溢れる、小さな群れが生まれたのです。

<喜び賛美する群れ>  
 わたしたちも、神さまに選ばれ、この救いの出来事を知らされています。
 それは2000年も前の出来事ですが、イエスさまは確かにこの地上に生まれ、その人生を歩み、十字架に架かって死に、復活なさいました。そうやって、救いの御業を成し遂げられたのです。そして、生きて働いておられるイエスさまは、聖霊によって、今もわたしたちと共におられます。  
 この良い知らせを聞き、救いに招かれ、イエスさまと出会った者の群れが、教会です。御言葉を聞き、神をあがめ、賛美し、イエスさまの名によって祈る群れがここにある。それが、イエスさまがまことの救い主であるということを証ししています。わたしたちのための救い主が、確かにここにおられるのです。
 わたしたちは、この礼拝の場で、救いの知らせを聞き、救い主と出会い、救いの御業を目撃します。この方によって、罪を赦され、癒され、平和を与えられて、天の軍勢と共に、神を賛美する者とされるのです。  

 朝のクリスマス礼拝では、4名の方が洗礼を受け、一人の方が信仰告白式をしました。神さまの救いの出来事が起こったのです。それぞれの歩みは全く違いますが、それぞれの時に、神が語りかけ、救いを確かに知らされ、お一人お一人が、救い主イエスさまと出会ったのです。 
 そして、イエスさまの救いは本当だ。大きな喜びは本当だ。この方がわたしのための救い主だと信じ、この方と共に歩んでいくことを願い、神さまの招きに応えて、神を礼拝する群れに加えられたのです。  

 すでに洗礼を受けている者は、クリスマスの時、この救いの確信をますます確かにされます。今、救いを求めている者は、あなたのために救い主がお生まれになったとの知らせを、まさに今日聞き、また御言葉を聞き続ける中で、救いを見なさいと、招かれています。  
 わたしたちは、与えられた大きな喜びを受け入れ、主が知らせてくださったその出来事を、共に見たいのです。わたしたちは、ここで確かに、救い主イエスさまに、お目にかかっています。
 そしてわたしたちも、天の軍勢と共に、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と、神をあがめ、賛美する者となるのです。

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