「最後の者にも」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章1節―5節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第20章1―16節
・ 讃美歌 : 532、474
ぶどう園の労働者のたとえ
本日は、マタイによる福音書第20章1節から16節の御言葉をご一緒にお読みします。本日の話しは主イエスが語られた「天の国のたとえ」話しです。「ぶどう園の労働者のたとえ」と言うたとえ話です。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。この譬え話の背後には、主イエスのおられた当時のパレスティナの厳しい労働環境があります。職を探し求めても得られない状況がありました。多くの労働者が、毎朝、その日の働き場所を求めて決められた場所に集まって来ます。しかし、働き場所を見つけることはなかなか困難でした。今日の私たちの国も、いやこの世界の労働の環境も決して良好であると言えません。本日の譬えの背景もまた厳しいものでした。働きたくても働く場所がなくて、毎朝職を求めて広場に立たなければならない人も少なくなったのです。こうした状況の中で本日の譬え話しに出てくる「家の主人」は自分から働き人を求めて、広場を訪ねます。当時の1日の労働の時間は、11時間にも及んでいました。詩編第104編22節以下には、「太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。」(詩編第104編22~23節)とあります。この詩編は、神様が人間を野獣の攻撃から巧みに守っていてくださるということを歌っています。この詩編にある通り、人が仕事に出掛けるは「太陽が輝き昇る」ころ、大体朝の6時頃であり、「夕べになる」のは、午後の6時頃ですから、朝の7時頃から夕方の6時頃まで人々は働いていたことになります。そのために、この「主人」は「夜明けに」、朝早く5時か6時頃には家を出て、日雇いの労働者が仕事を求めて集まっている広場に出掛けます。そして、そこに集まっている人々に呼びかけ、2節にありますように主人は「一日につき一デナリオン」の約束で、労働者をぶどう園に送りました。1日につき1デナリオンとい賃金は当時の平均的な賃金でした。本人とその家族が、贅沢をしなければ、何とか生活をしていけるだけの金額です。主人はそれだけの賃金の約束をして、口頭で労働の契約を結びました。広場でその日の仕事を求めていた人々は喜んでぶどう園に働きに行きました。
主人自ら
それでもぶどう園で働く人の数は足りませんでした。それで、3節から5節の前半ですが、「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。」とあります。更にこの主人は12時頃と3時頃、労働することができるわずか1時間ばかり前の5時頃にも、広場を訪ねましたが、その時間になっても未だ働き場所を見つけることができないで、広場にたむろしている人々がいました。6節以下ですが、「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」とあります。「何もしないで一日中広場に立っている。」というのは提供される仕事が自分の気に入らないから、働かないというのではありません。この人々は働いて、家族を養い、社会的な責任も果たしたいのです。だから働き場所を求めているのです。しかし、雇ってくれる人がいないのです。暗い思いをもって、1日中空しく「何もしない」で日を過ごすしかできないのです。このような人々にも、この主人は仕事を与え、彼らをぶどう園に送るのです。後一時間ほどしか働く時間がないときに、人を雇う。これは私たちの常識では考えられません。なぜ、この主人は敢えてそのようなことをしたのでしょうか。この譬えを最後考えていきますと、そこにはこの主人の憐れみの深い思いから出ている行動なのです。
最後の者から
そして労働の時間が終わりました。賃金の支払いが始まります。この主人は律法をきちんと守って、一人ひとりにその日の賃金を払います。申命記24章15節には、このように規定されています。「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。」(申命記第24章15節)とあります。この規定は当時の社会においては珍しく、聖書の命令の人間的な特質を良く示しています。賃金の支払いを遅らせて、労働した人が食べて行けないなどということのないようにということです。この主人は、その趣旨を良く理解して掟どおりに「日没前に」その日の賃金を払います。今日働いた人々が皆、集まって来ました。しかし、賃金の支払い方も、その額も、人々を驚かせました。8節にはこうあります。「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」「最後に来た者」から「最初に来た者」までに賃金を支払いました。順序が逆ではないでしょうか。この事実が既に、この主人、それは神様のことですが、神様の考えておられることが人間の常識とは全く違うということを暗示しています。
不平不満
更に人々がもっと驚いたことは、賃金の額です。支払われる賃金は、最初に来て十時間以上にも及ぶ労働をした者にも、最後に来て1時間ばかりしか働かなかった者にも、等しく1デナリオンの賃金が支払われました。これは、不可解な不公平であり、不平等ではないでしょうか。最初から働いた人々は、自分は最後に来た人々の十倍も働いたのだから、十デナリオンか、それに近い賃金をもらえると考えていたでしょう。無理もありません。しかし、もらったやはり1デナリオンでしかありませんでした。この裏切られた期待は「不満」「不平」となって爆発します。最初から来て働いた人々は、このように言って不満を爆発させます。12節です。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」この不満は当然のようにも思えます。この不満は二つの根拠を持っています。一つは労働時間の違いが無視されているということです。1時間の労働時間と10時間の労働を同じに扱うのは不当ではないか。また、この不平、不満のもう1つの根拠は、労働の厳しさの差が考慮されていないということにありました。自分たちは日が照りつける厳しい暑さの日中に辛抱しながら一生懸命働いたのに、あの連中は夕方涼しくなってからやって来て、暑さ知らずに働いたのではないか。
人間の罪
しかし、この不満を聞いた主人は少しも動ぜず、彼らの不平不満に少しも同意しないで、平然と答えます。13節、14節です。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」その理由は先ず第一に、この主人は少しも契約違反をしていないということです。他人のことをとやかく言わないで、自分の分を受け取ってさっさと帰りなさい、ということです。それは確かに契約違反ではありません。しかし、だからと言って不平等な扱いをしても理由にはならないでしょう。そのように、最初から働いた人は考えました。恐らく、普通であれば私たちもそのように考えるのではないでしょうか。人の目は自分自身と他の人を眺めます。そして、比べます。そして、そこに不平等を見つけ出し、他人が厚遇され、自分が不当に扱われていると思って、不満を抱きます。あるいは、他人が不遇であっても、自分に良い扱いがなされているのを見たら、不満は抱かないかもしれません。このようにして、私たちは心の底に潜んでいる自分の利益、自己の追求の「罪」が示されていくのです。人間の罪を良く知っている、主人、神様は人間の心の底にあるものを見抜いておられます。不平不満を言っている人々に対して「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(15節b)と問い返しているのです。
人間の業によるのではなく
この主人は一見十分な理由があるかのように人間の不平不満に少しも動じません。この主人のとった行為が正当であると確信している、第二の、第一の理由よりももっと深い理由は、支払いの仕方は主人の「自由」であるということでした。15節には「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」とあります。もちろん、この自由は個々人との契約に反していない限り、自由で、自分勝手であって良いということではありません。それでは本当に不平等、不適切ということになります。ここで、主人が言っていること、主人の態度というのはまことに自由なものなのです。主人は神様です。ここに神様の憐れみの自由が示されています。それは恵みの自由です。神様は憐れみにおいて自由な方です。恵みにおいてもまた自由なお方です。神様は私たちを自由に憐れんで下さり、自由に恵みを与えて下さいます。 あるユダヤ教のラビの文献には、本日の主イエスの譬えとよく似た話があります。そこでは1時間しか働かなかった人は、実はとても有能な人で長時間働いた人と同じくらいの貢献をしたからだと説明がされています。これは1つの合理的な解決です。このような理解は主イエスの理解とは全く違います。主イエスの譬えのような深みを欠いた業績主義による見方の延長でしかありません。このような説明は私たちにとって、納得の出来るものとなるかもしれませんが、けれども主イエスの譬えはこのような業績主義を排除しています。ここには、業績主義、能力主義ということは示されていません。そのような私たちに対して、神はまことに自由をもって、何の功もない私たちを憐れんで下さっているのです。
他者と比べて
更にこの主人が自分のとった処置が「正当」であると主張します。その理由は主イエスの「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(14節b)という言葉に示されています。1デナリオンは当時の日雇いの労働者の1日分の平均の賃金です。少なくとも1デナリオンの金銭がなければ、誰も生きていくことができません。不幸にして、そこには色々な理由があると思いますが、どのような理由にせよ、わずかな時間しか働くことができなかった「最後の者」も生きていかなければなりません。主なる神様は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と宣言なさるのです。1時間の労働には1単位の賃金、十時間の労働にはその十倍という形式的な平等を求めるのでありません。当たり前のことです。人の目は目に見える平等、形式的な平等というものを求めます。しかし、神様の目、神様の御心は違いました。人の思いは互いを見比べて自分の利益、幸福を追求し、他者を妬みます。
ぶどうの譬え
私たちは、自分自身をこの譬え話のどの人物と当てはめるでしょうか。自分はどこにいるかということです。大切なことは、神様と自分との関係が示されているということです。私たち一人ひとりもまた、神様のぶどう園に雇われている者です。広場に立っている私たちに神様は声を掛けて、神様のぶどう園へと招きに来てくださるのです。この物語はぶどう園に雇い入れられ、働いて、その賃金をもらう、という設定になっています。神様のぶどう園に雇われて働くとは、信仰を持って生きるということです。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。一日につき一デナリオンという雇用契約を結んで働く、それは、一デナリオンという報酬を求めてのことです。それが約束されているから、希望をもって働くのです。主イエスに従い、神様を信じて生きるとはそういうことだとこのたとえ話は語っているのです。信仰には、報いが与えられるのです。その報いは勿論お金ではありません。一デナリオンは神様の救いです。この物語「天の国」の譬えです。一日の生活を支えるお金よりもさらにすばらしいこの報いを求めて、私たちは主イエスに従い、神様を信じて生きるのです。神様のぶどう園の労働者になるのです。
神の思い
神様の恵みによって与えられるものなのです。そのことを示すために、16節の「後にいる者を先に、先にいる者を後に」という言葉は、神様の恵みを表しています。神様は、「自分のものを自分のしたいようにする」その自由なみ心によって、そういう順序を越えて救いのみ業をなさるのです。時に私たちの理解を超えることがあります。それによって、私たちは不平不満を覚える時ことがあります。人間の思いと神様の思い、この両者の間には大きな隔たりがあります。このような神様の思いが最も示されているのは、主イエス・キリストの十字架においてです。神様は私たちのために、私たちを救うために、小さき、最後の者となってくださいました。この世の最も低いところに主イエスは来られたのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)罪人に代わって、罪の支払う報酬である死を十字架の上で引き受けて下さいました。その死によって、死が無力になり、滅ぼされるためです。神様の思い、愛の思いはこのキリストの十字架において示されています。この十字架の出来事こそ、私たちへの自由な憐れみです。自由なご意志によって独り子主イエスを遣わされました。その十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さったのです。