「永遠の命を得るには」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: レビ記 第18章1―5節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第19章13―22節
・ 讃美歌 : 513、403
弟子になり損なった青年
本日はマタイによる福音書第19章13節から22節の御言葉に聞きたいと思います。 本日の箇所は主イエスが「子供を祝福」される場面と、金持ちの青年との対話が記されています。まず、「金持ちの青年」の話の方から見て行きたいと思います。16節では「一人の男」が主イエスに近寄って来たとあります。20節では「この青年」と語りなおされています。22節では「たくさんの財産を持っていた」とあります。このように見ますと、この人の名前は分かりませんが小見出しの通り「金持ちの青年」と呼ばれております。この「金持ちの青年」の物語はマタイによる福音書だけではなく、マルコによる福音書第10章17節以下、ルカによる福音書第18章18節以下にも記されています。書き方は少しずつ違っているのですが、内容の基本的なところは同じであります。ここに登場する青年は金持ちでありました。けれども、この青年は主イエスに弟子になり損なった人と見ることが出来ます。主イエスの弟子というのは、主イエスが網を打って漁をしている人のところへ行って「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしょう」と言われ、網を捨てて主イエスに従って人です。主イエスはこの金持ちの青年に「わたしに従いなさい。」(21節)と言われました。けれども、この人にはそれが出来ませんでした。聖書にこのような話が記されているのは珍しいと思います。その人が持っている持ち物、全財産を売り払い、「貧しい人々」に施して、その上で「わたしに従いなさい。」と言われたのです。青年はその主イエスのご命令に従うことが出来なかったのです。
この「金持ちの青年」は主イエスの弟子となる入門の試験に落第してしまった人です。私たちは本日、この青年の話を聞き、自分自身はどうなのかと、自分自身に対して問うことが大切であると思います。主イエスの弟子として、自分の持っているもの、全財産を売り払い、何もかも愛の業のために用い尽くすことができる、とは言い難いでしょう。そのようにして、私たちは、いや私は主イエスに従って来たとはとても言えません。そのために本日の箇所をこのように解釈することが出来ると思います。この主イエスの教えについても、この青年のように主イエスのお言葉を一字一句受け取る必要はなく、主イエスはここで厳しい、激しいお言葉で語っておられるが、そこで最も大切なのは全財産を施すことではなく、もっと別のことであって、私たちはそれを読み取れば良いのだと理解することです。それに対してある者はこのように感想を言いました。しかし、それは結局、自分たちが全財産を献げないで済ませる言い逃れの道を作っているのではないか、ということです。主イエスの御言葉を聞きつつも、自分の都合の良いように、言い逃れの道を探ってはいないかどうか、私たちは自分の心に問いかける必要があると思います。ここで私たちが認めざるを得ないのは、この主イエスの激しい、厳しいお言葉が、私たちの心にすんなりと入ってくる御言葉ではないと言えるでしょう。そのような主イエスの御言葉を何とか自分が理解し、自分のものとすることができるように、自分の都合の良いように聞いて、解釈してしまいます。
大切なことは、私たちに与えられている主イエスの御言葉が、いつでも福音として聞かれるはずだという確信です。福音とは喜びの言葉です。主イエスの御言葉を聞いて、喜びに満ち溢れる、嬉しくなるという読み方が主イエスの御言葉の本当に聞き方であると思います。ある説教は「そのような読み方ができないと、主イエスの言葉を読んだことになりません。」と言っております。私たちが、このような主イエスの厳しいお言葉、ご命令を与えられた後に、喜びに満ち溢れていなかったとしたら、これが言い逃れをしたことになります。言い逃れに留まらず、私たちの受け止め方が間違っていたということになるのです。それでは、主イエスのこの金持ちの青年に対するお言葉をどのように受け取ったら良いのでしょうか。
子供を祝福する
私たちは本日、この金持ちの青年の物語に先立つ物語として13節以下の主イエスが子供を祝福される話をお読みしました。マタイによる福音書もマルコもルカもこの金持ちの青年の物語のすぐ前に主イエスが子供を祝福された物語を記しております。主イエスの御許に人々は子供を連れて来ました。弟子たちはこの人たちを叱りましたが、主イエスは言われました。14節「子供たちを来させない。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」主イエスのこの御言葉は多くの人に愛唱されています。この主イエスの御言葉は抵抗なしに読むことができると思います。主イエスの本質をよく示している、優しさの溢れた御言葉であり、私たちは受け入れることができると思います。私たちは自分の子ども、自分たちの子供も、このように主イエスに招かれていることを喜ぶことができると思います。 そのような主イエスの御言葉の後にこの「金持ちの青年」の物語があることはどうしてかと思います。この二つの物語は正反対のことを言っているような気がします。子供は何も持っていません、何もすることができない存在です。そのような子供を主イエスは喜んで手を置かれ祝福されました。「天の国はこのような者たちのものである。」と天の国を約束しておられるのです。金持ちの青年も同じことを願い出ました。16節ですが、この金持ちの青年は主イエスに近寄り「先生、永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいでしょうか。」金持ちの青年は「永遠の命を得る」ことを待ち望んでおりました。主イエスは子供たちに対しては、天の国を約束しておられます。この金持ちの青年が待ち望んでいる「永遠の生命」を子供たちに約束しておられるのです。
永遠の命を得るには
その主イエスが一方では、「永遠の命」を求める青年に対して、主イエスは神の戒め、この箇所では「掟」(17節)とありますが、神の戒めを明らかにします。この青年は神様の掟を守っておりました。青年としては模範的な生活をしていたと思われます。好い加減な生活を送るのではなく、真面目に求道をしていました。そのような青年に対して、主イエスはなお求められました。21節です。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。」全財産を献げなさい、と言われるのです。このような主イエスの厳しい、激しいお言葉を聞いた弟子たちは「では、だれが救われることができるのだろう」と疑い深く言ったほどの、厳しい主イエスのお言葉でした。この金持ちの青年はこの主イエスのお言葉を聞き、悲しみながら立ち去りました。
金持ちの青年は「たくさんの財産を持っていた」のです。「財産」とありますので、青年は現金のみではなく不動産も持っていたようです。この青年は、どれだけの不動産を所有していたか分かりませんが、土地の一坪も持たない人と自分とを見比べて、自分は幸せだ、豊かであると、安定した生活を約束されていると思っていたのです。更に、神様に対する信仰もあった。神様の掟、戒めを守るだけの信仰があり、力もありました。神様の戒め、掟を理解する知恵もあったのでしょう。その意味では大変恵まれた人でした。自分に対して自信を持って生きていた一人の人でした。
何かが足りない
しかしこの青年は本当に満たされていたのでしょうか。思い悩んで主イエスの御許へ行ったのです。自分には他に何かが足りない。自分には安定した生活、信仰、知恵が与えあれている。けれども、自分の人生には何かが足りない、そう思い続けていたのでしょう。20節の青年の言葉はこうです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」青年は主イエスが言われる神様の掟、教えはみな守って来た、けど一体この自分に何が、あと何が足りないのでしょうか、と主イエスに問いました。何も足りないものはないと思える、けれども、自分はまだ「永遠の生命」を得ていないとしか思えない。それはなぜなのでしょうか。
主イエスはこの直前に子供たちに手を置かれ祝福されました。その場にこの青年が居合わせていたのかどうか分かりません。主イエスは子供に手を置かれ、そこを「立ち去られた」とありますので、その去って行かれた主イエスのところに、この人が近寄って来たというのですから、居合わせていたというわけではないでしょう。しかし、青年は主イエスが子供たちに手を置かれ祝福されたという話を聞いていたのかもしれません。主イエスは小さな、何も持っていない、何もすることができない子供たちを祝福し、天の国を約束されたのです。神の国を約束したのです。神の国の中に既に生きているかのように、子供たちを祝福されたのです。この天の国、神の国に生きる祝福もまた、地上の財産に併せて、自分が手に入れなければならないものであると、青年はそう思ったのではないでしょうか。
青年はこの地上の生命の保証は既に得ております。自分の持っている財産から見れば、地上での生活は充分続けていけるような保証を得ているのです。しかし、それで「永遠の生命」を得ているという保証はなかったのです。この青年は若くして、自分が死ぬのだということを、自分が必ず死ぬ存在であるということを常に意識していたのでしょう。この当時の平均寿命は約30歳であったと言われております。平均寿命が30歳であれば、この青年は一体何歳なのか分かりませんが、もうやがて平均寿命に達してしまうという思いがあったのかもしれません。ある人はこの青年の思い悩みというのを平均寿命が短かった当時の人は、それだけ若くても「永遠の生命」について真剣に考えていたのだと解釈をします。
ある説教者の言葉にこのような言葉があります。「善く生きるのは、とこしえに生きるためである。とこしえに生き得ないものは、善く生きても、何の易があろうか。」と言っております。いつ死のうが、何歳になって死のうが、今ここで本当に善く生きることができるということと、永遠の命に生きるということとは、一つなのです。この金持ちの青年もそのことは知っていたかもしれません。永遠の命を得なければならない。主イエスは明らかにその「命」を持っている。あの方が持っているその命を持っておられる。青年は主イエスの命を手に入れなければ、自分は本当には生きているとは言えないと思ったのです。そのためには、今自分がしているように、普通の人間の誰でもが守っているような最低限の掟ではなく、それに加えて、更に特に善いことをしなければならないのか、と考え主イエスに近寄り、16節にありますように「先生、永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねたのです。自分には財産も、力も、若さもある。ただそこでなおすべき善いことが何であるのか、分からないだけである。それを教えてもらいたいと思い、そのような思いがこの問いの背後にはあったのです。
善い方
この青年の問いかけに対して主イエスは答えました。17節です。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいなら、掟を守りなさい。」青年はもう一つ何か善いことをしたい、そうすれば命を得ることができると思っていたのです。しかし、主イエスはそのような青年の問いには答えておられません。つまり、ここで青年が、命を得るために、更に善い業をすることができるかどうかということではありません。主イエスのお答えはこうです。善いことではなく、「善い方はおひとりである。」でした。そのただお一人の善い方である神様の戒め、掟に生きるかどうかということに、すべてがかかってくるのです。ただお一人の善い方である神様の言葉に生きるということ、そうすれば神の命に入るのです。死から命へと移ることができるのです。主イエスはそのように教えられたのです。この後の主イエスのお言葉、主イエスと弟子たちとの問答、青年と弟子たちとのやり取り、この主イエスの言葉を巡って、主イエスと弟子たちの問答、弟子と青年との問答が繰り広げられます。主イエスは「掟を守りなさい。」と言われました。青年は主イエスのお言葉を理解できていないのです。「どの掟ですか。」と問います。主イエスのお答えは簡潔です。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え。」そしてまた、「隣人を自分のように愛しなさい。」ということです。ここで主イエスが語っておられることは、20節で青年が「そういうことはみな守ってきました。」と答えているように、新しい言葉ではありません。このような教えは当時のユダヤの人々も子供も知っているようなことでした。
主イエスの言われたことの前半、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え。」ということはモーセの十戒の後半の教えです。十戒の前文は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」とあります。そして第1戒は「わたしをおいてほかに神があってはならない。」ということです。前半というのはただ一人の神を神として尊ぶことです。そのために偶像を拝まず、安息日を厳守し、礼拝の生活をきちんとすることです。それを求める戒めです。そして、主イエスは既に「善い方はおひとりである。」(17節)と言われました。主イエスはこのただお一人の善い方、神を重んじることを明言されました。その後に青年へと答えられたのです。ここでもまず、十戒の初めから語られ、神を神として拝むという原点に戻ることを勧められても良かったかもしれません。けれども、主イエスはそうはされていません。本日の箇所よりも少し先の第22章37節には「最も重要な掟」と小見出しがつけられ、主イエスはここで更に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」(22章39節)と言われました。この教えは旧約聖書のレビ記第19章18節の言葉です。主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(22章37節)という神様への愛を勧める戒めと共に、隣人を愛することを重んじられました。この主のみ心を汲んで、この二つの戒めを十戒の要約とさえ呼ばれるようになりました。しかし、ここでは主イエスは神様への愛については語られなかったのです。隣人を愛すルよりも、神様を愛することが先ではないかと思われるかもしれません。主イエスはここで、私たちの常識とは反するお答えを出されました。なぜでしょうか。
隣人を愛しなさい
この主イエスのお答えにこの青年も驚きを覚えたと思います。主イエスはここで何も新しいことは言われていないのです。新しいことは何も付け加えておられないのです。青年は主イエスに対して、自分の質問が分からなかったのかと思ったでしょう。主イエスが言われたような、神の戒めはすべて自分が守って来た、実践したことである。それも私一人に留まらず、ユダヤ人なら、子供でさえ知っているようなことではないかと思ったのです。自分も幼い頃から何度も聞いてきた戒めではないか、と思ったのです。特別なことは何もない。自分はもちろん、人を殺したことも、姦淫したことも、盗んだこともない、偽証を立てたこともない、父母に対してもいつも尊敬の心を抱き、従って生きている、そういうことはすべて守って来た、と考えたのです。親にとっても模範的な息子であり、更に隣人に対する施しのために、財産がたくさんあるのですから、掟に定められた通りに献げものをし、施しにいそしんだでしょう。この青年の言葉に嘘はありませんでした。主イエスもそれを知っておられたでしょう。その青年がなお主イエスに問いを重ねました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(20節)主イエスはそのような青年の問いに対して、不足するものが何であるかはっきりと言われました。21節です。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
ここでの「完全」という言葉は福音書では2箇所使われています。この福音書の第5章48節です。山上の説教において、主イエスは「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われました。天の父が完全であられる、神の完全とは何でしょうか。その直前の45節にはこうあります。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とあります。神の恵みの完全さであります。神様は完全な愛の方であります。主イエスが「善い方はおひとりである。」と言われた時、この神の完全な善さ、完全な恵みについて語っておられたのです。主イエスはこの青年に対して、この神の完全な恵み、善き恵みの中で生きることを求められたのです。青年にとってのたくさんの財産というのは、青年の目から、子の神の完全な恵み、善きお姿を隠してしまうから問題なのです。この財産の上に築き上げられた青年の生活は、神の完全な恵みの中に生きること、生き切ることを妨げているのです。ですので、この財産は捨てざるを得ないものなのです。主イエスは、青年に与えられている財産も用い方によっては、神の完全な愛を証しするのに役に立つであろう、と言われます。今まで自分の全財産に取り囲まれて、そのために神の愛が見えなくなっている世界に生きていたのだから、それを取り去りなさい、と言われるのです。その時、それまで見えなかった神の恵みが、ただお一人の善いお方が見えるのではないでしょうか。それが見えない限り、全財産に取り囲まれながらも、暗い、死の道を歩くしかない。主イエスはそのような暗い、死の道ではなく、命の道を歩むことを求められました。
そして、本日の箇所において、主イエスは「善い方はおひとりである。」と語ります。善い方である神が教えられる真実の愛に生きる道は、子供のように生きることからしか始まらないのです。ですので、16節以下の「金持ちの青年」の話と13節から「子供を祝福する」話は切り離して読むことはできません。13節には「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」とあります。「叱った」という言葉には、注意する心の中に、相手の値踏みをしているという意味があります。あなたには、その値打ちがないから、今はそんなことをしてはならないというのです。子供たちのことを値踏みしているのです。この子供にはその価値がない、その資格がないというのです。主イエスの御許に来て、主イエスの愛を受けるのにふさわしくないと弟子たちは思っていたのでしょう。弟子たちは財産を捨て、網を捨て、家族を捨てて来た。だから、主イエスの御許に留まる資格があると考えた。けれども、この子供たちは違う。子供たちは主イエスの御許に来る資格がないと思ったのです。この弟子たちの心は、どんなに主イエスの愛から離れていたでしょうか。主イエスは言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(14節)子供は持っているものも、力もありません。自分で選んで、自分の力で主イエスのもとに来たのでもありません。連れて来られたのです。主イエスはそのような子供を受け入れて下さいます。主イエスがこの金持ちの青年に求めておられることも同じことです。天の国はこのような子供たちのものである。神の国の命は、この子供のように生きる者に与えられる。主イエスの導きのもとに与えられた一週間を歩みたいと思います。