夕礼拝

神が結び合わせてくださったもの

「神が結び合わせてくださったもの」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 創世記 第2章18―25節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第19章1―12節
・ 讃美歌 : 3、436

      ユダヤへと
 本日はご一緒にマタイによる福音書第19章1節から12節の御言葉をお読みしたいと思います。本日から第19章へと入りますが、本日の箇所から主イエスはユダヤ地方へ行かれました。1節から「イエスはこれらの言葉を語り終えるとガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。」(1-2節)と始まります。これまでの主イエスの活動とは、主にガリラヤ地方でした。19章より主イエスはこのガリラヤを去られました。そのことを「イエスはこれらの言葉を語り終えると」という言葉からも示されています。この「イエスはこれらの言葉を語り終える」という表現はマタイによる福音書でしばしば使われます。7章の28節、11章1節、13章52節などが挙げられます。この言葉によって、マタイによる福音書は主イエスの生涯において一つの新しい段階が展開されることを示しています。本日の箇所もまたそのように主イエスのご生涯が新しい段階へと展開するということを示します。主イエスはガリラヤを去られ、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方へ行かれました。このことはもう少し丁寧に言いますと、ガリラヤからすぐ南のサマリアを迂回してヨルダン川の東側を通ってユダヤ地方へ南下して行かれたということです。主イエスはもうガリラヤへは戻って来られません。次にガリラヤへ来られるのは主イエスの復活のときです。主イエスの新しい出発の目的、この旅の目的はエルサレムへ行かれることでした。エルサレムはユダヤ人たちの信仰の中心であるエルサレム神殿があるところです。本日の箇所より主イエスはエルサレムへと出発をされました。そして、これは主イエスのご生涯において、そのお働きが新しい段階へと行かれるということです。21章では主イエスがエルサレムへと入られます。そして、その週のうちに主イエスは捕らえられ、十字架につけられて殺されます。主イエスの十字架を目指してのエルサレムへの歩みが始まります。主イエスが十字架へと向かって一歩を踏み出されました。そのような主イエスの歩みの中から本日の私たちの箇所が与えられています。 敵意のある質問  エルサレムを目指し、ユダヤへと旅立たれた主イエスに出会ったのは「ファリサイ派の人々たちでした。ファリサイの人が近寄り、主イエスに問いかけます。主イエスを試そうとして、このような質問をしました。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」(3節)この質問は主イエスを試すものでした。主イエスのエルサレムへの最後の旅の初めに登場したのがファリサイ派の人たちであり、しかもファリサイ派の者たちが主イエスに対して悪意、敵意を持っておりました。「イエスを試そうとして」という言葉からファリサイ派が主イエスに対して悪意、敵意を持っていたことが分かります。そのような悪意、敵意もまた他のものと共に主イエスを十字架へとつけるものとなっていきます。このファリサイ派とは、律法の重要視する人たちであり、主イエスに離縁の問題についての質問をしました。何か理由があれば離婚しても、それが律法に適っているかどうか、という質問を主イエスにしたのです。その当時の社会の状況、結婚の制度というものを少し見ていきたいと思います。  ここで問題となっている律法というのは旧約聖書の申命記の第24章1節のことです。小見出しは「再婚について」となっています。1節では「人が妻をめとり、その夫となってから、妻には何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とあります。律法の中で「離婚」について述べているのはこの箇所だけでした。この箇所をどう理解するのかということによって離婚の問題に対する実際的な態度が大きく違ってくるのです。この箇所において離婚の理由として認められているのは「恥ずべきこと」です。この「恥ずべきこと」とは「言葉」「事柄の裸」という意味があります。律法学者の一人はこの場合の「裸」というのを強調して、それが不品行、姦淫、不貞のことだと説明をしました。つまり、そのような不品行がなければ離婚は認められないのです。  しかし、またある別の学者は「言葉、事柄」という方を強調しました。どのような小さい言葉や事柄も離婚の理由になるのであると考えておりました。さらに別の学者は「気に入らなくなったとき」ということを強調して、今までの妻よりも気に入った婦人が見つかった場合にはそれだけの理由で離婚の理由になると言いました。これらの3つの律法の解釈がありました。1番最初の「裸」というのを強調する学者の説は厳格で支持者は少なかったのです。3番目の「気に入らなくなったとき」というのを強調する学者の説もまた、いかにも勝手であると支持者は少なく、結局2番目の緩やかな解釈が多くの支持を得ていたようです。そのような律法の解釈される状況の中で、主イエスが一体、どのような立場を表明するのかというのは、人々の関心の的でありました。周囲の人々は主イエスが何を言われるのか、興味を持って見ておりました。そして、どのような立場を取るにしても、主イエスに対して悪意、敵意を持って批判しょうとしていたのです。

結婚の意義
 主イエスはこのようにお答えになりました。4節です。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。」(4節)更に続けて「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(5、6節)主イエスは創世記の第1章27節、第2章24節の言葉をもって、結婚の深い意義を示されました。主イエスのお答えはファリサイ問いかけに対して、どのような理由であれば離婚が許されるのか、ということはお答えになっていません。創造主なる神は初めから人を男と女に造ら、結婚はこの神の意志に基づくものです。結婚した者たちは一体となるのです。一体となるということこそ、結婚の深い意義を示す言葉であり、主イエスはこれに基づいて、夫婦は神が合わせられたものであり、人間が離してならないと、離婚を否定されました。
 神は男と女を創造され、結婚とは「人が父母を離れて女と結ばれて一体となる。」(創世記2章42節)ことあり、神が結び合わせてくださったものです。一体となったものには離婚はあり得ないという天地創造の本源からの発言だったのです。結婚とはこの神様の創造に意思に基づいて、男と女が出会いを与えられ一体となることです。主イエスは神の意思に基づいて一体となったものを人は離してはならない、と言われました。  単に離婚の是非だけが問題なのではありません。主イエスは離婚のことを語られながら、真実の結婚のあり方もまた示されています。夫婦が共に歩むことについて主イエスは語っておられるのです。その根本には、なぜ今この人と共にあるのか、結婚という関係を取っているのか、ということです。それは神様がそうされているからということです。神様がそのように命じられ、お許しになっているからです。

律法の意味を明らかにする
 そのような主イエスのお答えに対して、ファリサイ派の人々は言いました。7節です。『では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。』ファリサイ派の人々にとっては、主イエスのお答えは答えになっていないと感じたのでしょう。更に質問が続きます。離婚そのものが許されないというけれど、それならモーセはなぜ離縁状を渡して離縁するように命じているのか、というのがファリサイ派の質問です。
 そのような問いかけに対する主イエスのお答えはこうです。8節です。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」(8節)確かにモーセは離婚を認めた。しかし、それは人間の心が頑固だからである。主イエスは離縁が許されるのは、人間の心が頑固だからだ、というのです。この人間の心の頑固さと言うのは、人間の堕落、罪の結果起こったことであります。ですので、創造の初めから、神のご意志では頑固だったわけではありません。離婚という神の御心に適わない悲しむべきことが起こるようになったのは、人間の罪によるものであります。人間の罪の結果、心が頑固に、頑なになり、夫婦がお互いを受け入れられなくなったときに、一心同体ではなくなってしまうのです。主イエスは「初めからそうだったわけではない。」と言われたのはこのような理由からです。離縁が許されるのは人間の罪の結果によってもたらされるということを厳粛に受け留めなくてはなりません。主イエスは律法を否定されたのではありません。その真の意味、律法が本当に言おうとしていることを明らかにされたのです。まさに律法を完成される方です。

離婚の許可
 主イエスは離縁をファリサイ派が言うように決して「命じている」のではありません。離縁を「許した」のです。離縁は決して権利として主張されるようなことではありません。モーセが離縁状を渡して離縁しなくてはならないと命じているのは、男性の横暴によって理由もなく離婚が勝手に行われるのを防ぐためです。9節には「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」とあります。おそらく、当時の状況を想定しています。この律法は女性、立場の弱い者を保護するための律法だったのです。この律法の趣旨は、離縁する場合には書面にその理由を記して、誰にでも申し開きのできる理由がなければしてはならないということです。妻が夫の所有物のように考えられ、名目上は妻であっても実際には全く妻として重んじられていないような場合には、離縁状の規定は妻を人間として解放するための必要な処置でありました。いずれの場合もその根本には人間の罪があります。人間の罪の結果によって必要となった処置であり、決して本来あるべきものではないのです。けれども、主イエスはここで絶対に離婚を禁止するという、掟は述べておられません。法律を語っているのではありません。

弟子たちの消極的発言
 このような主イエスのお答えに対して弟子たちは「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです。」と言いました。弟子たちの本音の現われている言葉です。主イエスのお答えはこうです。11節からですが「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」続けて「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」これが主イエスのお答えです。本日の箇所と同じ内容の記事が並行箇所としてマルコによる福音書第10章1節から12節に挙げられています。けれども、この11節からの主イエスのお言葉はマタイによる福音書だけにある、マタイの独自の記事です。離婚というのは本来認められない事であり、人間の罪の結果、やむを得ず許される場合でも、男性の横暴を規制して女性の権利を守るために客観的に認められるような理由をはっきりと書いた離縁状を渡さなければならないという主イエスの非常に厳しい態度は弟子たちに衝撃を与えました。ですので、弟子たちはこのような厳しいものであるなら結婚しない方がましではないか、という10節に見られるような消極的な発言がなされるまでとなりました。

それぞれの賜物
 主イエスのこのような弟子たちの消極的な発言に対して言われたお答えをもう一度見てみましょう。「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」(11節b)と言われました。この主イエスのお言葉はどういうことでしょうか。この「恵まれた者だけである。」というところは、口語訳聖書では「それを授けられている人々だけである。」となっていました。元の言葉はこの口語訳に近い、「与えられている者だけ」です。「賜物を与えられる人だけ」ということです。これは神から与えられているということです。主イエスは先ほど、結婚とは創造主なる神の意思、御心にその本来の基礎があることを明らかにされました。その神様が与えて下さっていること、神様の意思、御心を受け入れるということです。神様の御心を受け留めることが信仰です。そして、この信仰とは私たちにとっても決して分かりきっている事柄ではありません。人間はその罪によって心が頑固な者です。その心の頑なさが主イエスによって砕かれました。そのような幸いに生きているのが信仰者です。そのような中で主イエスは「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」(11節b)と言われました。信仰を持って神の意思、御心、主イエスの言葉を受け入れ、仰ぐことは恵まれた、恵みに満ちたことなのです。

与えれた場において
 そして、主イエスは続けて3種類の人々のことを語ります。まず「結婚できないように生まれついた者」次に「人から結婚できないようにされた者」「天の国のために結婚しない者」ということです。これらの人々は結婚しない人々ということです。結婚は神の御心です。一人の男性と女性が出会い、お互いを神様が与えて下さった相手であると信じ、結婚をするのです。結婚をするにしても、結婚しないにしても、どちらにせよ神様の御心を仰ぐことがその基本にあります。主イエスは結婚を巡って、色々なことを教えられました。その中で、大切なことは、神の御心です。神の御心ということに、私たちは目を向けなければなりません。
 天地創造の神の創造のご意思、御心に基づいて人間が男と女に創造されました。結婚とはその男女が出会い、父母を離れて一体となり新しい家庭を形作ることです。その結婚が神の御心であって、一体となったもの、神が結び合わせてくださったものを人が離してはならないのです。しかし、そのような人間もまた罪人です。そのような人間の罪によって離婚がやむを得ず認められるのは、人間が神に背いて罪を犯し、心が頑固になって、夫婦が相互に受容できず、共に歩むことが出来ない場合の緊急的な措置なのです。
 それでは、神の創造の御計画は人間の罪によって、貫かれないことになってしまったのでしょうか。そうではないと思います。神様の創造の御業、神様の御心は人間の罪によって中断され、変質されてしたかのように見られるときがあります。しかし、決してそのようなことはありません。そのような人間を罪から救い、贖う主イエスが来られました。主イエスによってその御業は完成されます。
 人間の誠実さというのは大変もろいものです。誓約した言葉守れなくなってしまうときあるのです。まことに罪深い者です。同じ口で、愛を誓い、同じ口で互いを傷つけ、苦しめる言葉を発し、行動するのです。それは結婚をしているか、していないかということに関係ありません。色々な事情によって、独身で生きる場合もあります。その最後に「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」とあります。結婚をする、または独身で生きるということもまた、神様が与えて下さることです。どんな形であろうと、神が与えて下さる賜物なのです。人間の罪はどんな形においても現れます。神様は創造の御業、創造のご意思によって人間を造られました。そして、その人間の罪を超えてくださいます。独り子主イエス・キリストは人間の救い主として来られました。十字架と復活を通して、その御心を現さされたのです。

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