夕礼拝

賛美の祈りを唱え

「賛美の祈りを唱え」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第16章9―36節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第14章13―21節
・ 讃美歌 : 467、580

主イエスの奇跡
 本日はご一緒にマタイによる福音書第14章13節から21節をお読みしたいと思います。本日の物語は大変驚くべき出来事が記されております。男だけで五千人もいる大群衆が僅か五つのパンと二匹の魚を食べて満腹になったという話です。男だけで5千人ですので、女や子ども合わせると1万には超える群集がその場にいたと思われます。全員が満腹になった後、残ったパン屑を集めると12の籠いっぱいになったとあります。そこにいた人々にとって、驚くべき不思議な体験でした。奇跡と呼ぶしかないような出来事でした。福音書には、主イエスがなさった奇跡が幾つも記されています。けれども、四つの福音書すべてに記されている奇跡は本日の奇跡しかありません。その場にいた弟子たちも群衆にとって、本日の出来事はとても印象深く残ったのでしょう。この主イエスの奇跡を大切に心に刻みつけ、証ししたのです。

悲惨な宴会
 本日の主イエスの奇跡は13節にありますように「イエスはこれを聞くと」と始まります。「これ」というのは、直前に記されております洗礼者ヨハネが殺されたということです。洗礼者ヨハネは領主ヘロデの律法の違反を咎め、ヘロデの怒りを買い、牢につながれておりました。ヘロデの誕生日の祝いの宴席において王女サロメは踊り披露しました。宴席は盛り上がり、それに対する褒美をヘロデは約束しました。サロメが求めた褒美とは洗礼者ヨハネの首であったのです。そして、正当な裁きも行われないままに、洗礼者ヨハネは首をはねられ、命を落としました。ヨハネの弟子たちは、首のない遺体を引き取り葬り、主イエスのところに行って一切の出来事を報告したのです。主イエスはこのことを聞きました。洗礼者ヨハネは主イエスの先駆者です。主イエスの道備えをした人です。メシアの先駆者として、福音を説き、人々に悔い改めを求めました。神の御言葉を語った人です。神の御言葉である律法を説き、それゆえに命を落としました。このようにして、主イエスは死んでいったヨハネの証を思い起こしたのでしょう。主イエスは舟に乗ってその場所を去りました。そして「ひとり人里離れた所に退かれた」ました。この「人里離れたところ」とは、荒野や砂漠を意味する言葉です。聖書が荒野という時、旧約聖書以来の長い伝統の中に立っていると考えなければなりません。荒野は神と出会う場所、神の啓示の場所です。主イエスもしばしば、人里離れた寂しい所、あるいは山へ登って、ひとりで祈られました。主イエスは、ヨハネの最期を聞いて、人を避けるようにただひとりで、神との交わりの中に身を置くことを願われました。主イエスは洗礼者ヨハネのことを思い起こしながら、その最後の死を思い起こしながら、御自分もまた十字架の死に向かって生きていることを、深く受け止められたのではなかったでしょうか。洗礼者ヨハネの死は、主イエスご自身の死をも指し示すものだったのです。

憐れまれる主イエス
 主イエスは人を避けるように、お一人で神との交わりの時を持たれようとされたのです。しかし、大勢の群衆が主イエスの後を追いました。岸を通りどこまでも歩いて追ってくる群衆の姿を見て、主イエスは舟から上がりました。そして、14節にありますように主イエスは大勢の群衆を見て深く憐れまれました。深く憐れんで、病人を癒されました。「深く憐れむ」と訳された言葉は、内臓をあらわす言葉から生まれました。少し前の第九章三六節にも用いられ、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。自分の内臓の具合が悪くなるほどに、相手の痛みや苦しみに同情し、苦しむ者と一体化するということです。御自分の苦しみとされるということです。それが主イエスの愛のお姿です。それが神の憐れみの現れなのです。飼い主のいない羊のような者たちを憐れんで、まことの飼い主として、私たちのところにまで来てくださったのです。私たちの痛みを代わって背負って下さったのです。悩み苦しんでいる者たちに対して、溢れるように注がれている主イエスの深い憐れみを、マタイを始めとする福音書記者は大切に書きとめました。

主イエスのところに
 主イエスは深い憐みによって、病気を癒されました。そのような間にやがて夕暮れ時となりました。方々から主イエスの後を追って来た群衆もそろそろお腹のすいてくる夕食の時間帯です。群衆はおそらく、主イエスが行かれると聞いて、取るものもとりあえず、ついて来たのでしょう。そうであれば旅支度を整えて、お弁当を用意して来たわけではありません。人里離れた所ですので、近くの店で食べ物を買うということも出来ません。弟子たちもまた主イエスのそばに来て言いました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。(15節)弟子たちは気持ちとしては、集まった者たち皆に、十分食べさせた上で、めいめいの家に帰らせたいところです。しかし、現実に無理だと思ったのです。ところが、主イエスは驚くべきことを仰います。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。(16節)ここには五千人を超える群衆がいるのです。どうやってそんな食料を調達することができるでしょうか。弟子たちは言いました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。(17節)主イエスは弟子たちがそんな食料を持っていないこと、それだけのものを買う金もないことを、よくご存じなのです。全てをご存じの主イエスが「それをここに持って来なさい」と言われます。弟子たちの持っているものは本当に僅かなものです。五千人を超える群衆の前では、十分に行き渡るはずはありません。何の役にも立たないと思われるものです。その弟子たちの持っているものを主イエスはご自分のもとに差し出すように求めておられるのです。その弟子たちの持っているものを用いて、主イエスは大きな奇跡を行なわれたのです。

これしかありません
 弟子たちの言葉遣いをもう一度、注意深く聞いて頂きたいと思います。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。自分たちの手元にある物について、「しかない」と言っています。「パン五つと魚二匹があります」とは言っておりません。それは単なる言い方の違いでしょうか。この弟子たちの言葉は、口語訳聖書では「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」となっていました。弟子たちは「私たちはこれしか持っていない」と弟子たちは言っているのです。弟子たちが持っているものの全てということです。案外十分に行き渡るはずはありません。こういう何気ない言い方の中に、その人の生き方、考え方が出るものではないかと思います。貯金がこれだけしかない。自分はこれだけしかもっていない。自分はこれだけしかできない。そこから生まれてくるのは、つぶやきの言葉ばかりです。「これだけしかない」という否定的な考え方からは、感謝の言葉は生まれて来ません。自分たちの手元にあるものについて、あるいは、自分たち自身の力について、悲観的にしか考えられないでいる弟子たちの姿がここにあります。そこに、私たち自身の姿が重なってくるのではないでしょうか。私たちも毎日の生活の中で、現実の厳しさを前にして、自分の無力さを覚えることがあります。途方に暮れてため息をつくしかないのです。自分の持っているものがあまりにもみすぼらしくつまらなく思えて、ため息をつく。若い頃はよかったと思ったと、つい愚痴が出てしまう。このような弟子たちの姿は、私たち自身の現実ではないでしょうか。

転換
 けれども、主イエスは弟子たちに言われます。「それをここに持って来なさい」。現状をよしとするかのように、きっぱりと言われるのです。パン五つと魚二匹があるではないか。それを私の所に持って来なさい。そして、群衆には草の上に座るようにお命じになりました。 「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した」。弟子たちは、自分たちの手の中にあるものについて、つぶやくしかありませんでした。しかし、主イエスはそれを手にとって、天を仰いで、父なる神に感謝し、父なる神を賛美されました。うなだれて、溜息をついている弟子たちと、天を仰いで賛美する主イエスがおられます。私たちの目から見れば、「これしかない」のです。それが唯一の現実のように見えても、主イエスは、父なる神を讃美し、父なる神に祈る交わりの中で、恵みの現実を切り開いて行かれます。主イエスは天は開かれているのです。私たちの中にこの転換が引き起こされるとき、不平不満ではなくて、感謝が生まれるのではないでしょうか。つぶやきではなくて、賛美が生まれるのです。うなだれて溜息をついている者が、天を仰いで祈る者とされていくのです。

祝福、賛美、感謝、喜び
「天を仰いで賛美の祈りを唱え」というところは、口語訳聖書では「天を仰いでそれを祝福し」となっていました。口語訳は、「それを」つまりパンと魚を祝福した、ということになっております。主イエスがパンと魚に対して何かを語られたように感じられます。しかし「それを」という言葉は原文にはありません。主イエスは「天を仰いで」、つまり神様に向かって語られたのです。主イエスが祈られたのです。その点では、新共同訳の「賛美の祈りを唱え」のという訳は良いと思います。しかし「賛美の祈りを唱え」はあまりにも説明的な訳です。原文の言葉は一言になっています。それは通常「祝福する」と訳される言葉です。ですから口語訳から「それを」を取って、「天を仰いで祝福し」とするのが最も原文に近い訳なのです。新共同訳がそうしなかったのは、「祝福する」という言葉には、通常神様が人間を、あるいは上位の者が下位の者を祝福するというイメージがあるからでしょう。主イエスが天に向って、つまり神様に対して語るのは祝福ではなくて賛美だ、ということから「賛美の祈りを唱え」となったのだろうと思います。つまりこの言葉は、日本語の「祝福する」という言葉だけでは言い尽くし得ない広がりを持っているのです。そのもともとの意味は、「良い言葉を語る」ということです。神様が人間に対して良い言葉を語って下さる時、それは「祝福する」ということになります。人間が神様に向って良い言葉を語るなら、それは「賛美、感謝」ということになります。そのように、語る者と相手との関係によって、「良い言葉」の内容が変わってくるのです。このことは、この言葉をどう訳すか、というだけの問題ではありません。主イエスがここで何をなさったのか、どのような言葉が、座っている群衆の上に響いたのか、ということです。主イエスは、弟子たちの持っていた五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで「良い言葉」を語られました。その「良い言葉」は、父なる神様をほめたたえる言葉でもあったでしょう。またそれは、ここに備えられた五つのパンと二匹の魚を感謝する言葉でもあったでしょう。主イエスは、弟子たちの持っている五つのパンと二匹の魚を、神様の前に差し出し、賛美と感謝を語っておられる、喜びを表しておられるのです。その賛美と感謝の言葉、喜びの言葉が、弟子たちと、群衆たちの上に響き渡ったのです。そしてその主イエスの賛美と感謝、喜びの中で裂かれ、分け与えられたパンと魚は、五千人を超える人々を満腹にしていったのです。

新しい民と祝宴の主
 弟子たちの持っていた僅か五つのパンと二匹の魚は五千人を超える人々の前では何の役にも立たないと思われるものです。それを主イエスが用いて下さり、大きなみ業をして下さったのです。主イエスが、弟子たちの、つまり私たちの持っている小さなもの、力などとは言えないような僅かな力を、神様のみ前で喜んで下さり、神様への感謝と賛美の中でそれを用いて下さることによって起こるのです。この奇跡的な食事によって、一万人以上の大群衆が養われました。その中で最も深く養われたのは、弟子たち自身ではなかったかと思います。パン屑の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになったと言います。この十二という数が、イスラエルの十二部族を象徴していると言われています。ここに新しい神の民の姿が現れているのです。十二人の弟子たちが、それぞれ籠を持って、パンの残りを集めたのでしょう。自分の籠にあふれるパンの残りを前にして、弟子たちは主イエスの恵みをさらに豊かに味わったのです。後の時代に、この弟子たちの姿に自らを重ねるようにして、この物語を読んだ者たちがいました。マタイの教会の指導者たちです。次第に教会の規模が大きくなり、とても自分たちの手が行き届かない力不足を味わいました。外からは迫害が激しく、内には異なった教えが入りこんでくる中で、途方に暮れるような経験を重ねたに違いありません。しかし、その中で、教会は、主が教えてくださったように、共に集まって、祈りをし、神を賛美しながら、パンを裂きました。そのとき、確かに深く味わったのです。主が共におられる。自分たちは決して、飼い主のいない羊のように地上に見捨てられているのではない。主が確かに、パンを裂く交わりの中心に立って、自分たちを豊かに養ってくださることを味わったのです。しかし主イエスは、その私たちのちっぽけなもの、何の役にも立たないと思えるようなものを、「ここに持って来なさい」と言われるのです。神様は、私たちの小さなもの、何の役にも立たないと思われるものを感謝と賛美と喜びの内に用いて下さるのです。主イエスによってもたらされるまことの祝宴がここにあるのです。

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