夕礼拝

種を蒔く人

「種を蒔く人」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第6章8-10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第13章1-23節
・ 讃美歌 : 241、53

弟子たちと群衆
 本日は共にマタイによる福音書第13章1節から23節をお読みしたいと思います。1節から9節までは、主イエスによって種蒔きの譬えが語られ、譬えの解説が18節から語られています。その間の10節から17節までは、なぜ主イエスが譬えをお語りになるのか、という弟子たちの問いに対する、主イエスご自身の答えが語られています。
 10節から17節を読んでいきますと、弟子たちは主イエスに「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と尋ねました。「あの人たち」とは群衆のことです。当時のユダヤの人々です。主イエスは弟子たちの問いに対してお答えになりました。11節から13節です。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」。と主イエスは答えられました。 主イエスは、多くの譬え話を語られました。主イエスは譬え話を通して神様の救いとはどのようなものであるかを語られました。11節で主イエスは弟子たちに対して「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」と語りました。ここでの「天の国の秘密」という言葉も神様の救いのことを意味します。ここで主イエスは群衆が、神様の救いが理解できないということが明らかにしております。しかし、弟子たちには「天の国の秘密を悟ることが許されている」のです。ここでは弟子たちは悟っている、理解しているということがはっきするためにということになるのです。

祝福された者
 16節に「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」とあります。弟子たちに語りかけられています。この原文はもっと強い言葉であり「さいわいなるかな。あなたがたの目よ、さいわいなるかな、あなたがたの耳よ」という言葉です。主イエスは私たちの目を指し「あなたがたの目は見ているから幸いだ。」と、そして耳を指しながら「あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」と喜びに溢れて祝福の言葉を語ってくださっているのです。「あなたがたはこの目を持っている、この耳をもっているあなたは何と幸いなことだろう。何と祝福された者であろう」という主イエスの祝福の言葉なのです。

使命に生きるが
 そして、14節ではイザヤ書の預言の言葉が引用されています。本日共に読まれた、イザヤ書第6章にある言葉です。このイザや書の言葉は、預言者イザヤが神によって立てられた時の記事です。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」という主の言葉を聞いてイザヤが答えます。「ここにわたしがおります。わたしがおつかわしください。」神に召され、使命に生きる典型的な出来事が語られているのです。しかし、9節以下で主なる神はそのような預言者イザヤに対して、「人々の心を開け」と言うのではないのです。10節にはこうあります。「この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。」ここで主なる神が語っておられることは、イザヤが遣わされて預言をすることによって、かえって人々が理解せず、その言葉を受け入れず、悔い改めようとしない、ということが起るということです。ここでは、主イエスのたとえ話によっても同じことが起るということです。つまりそれを聞く人々が、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ということが起るのです。たとえ話はそういう働きをするのだと主イエスは言っておられるのです。

色々な土地
 そして、18節から主イエスは「種を蒔く人のたとえ」の説明を語られます。「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。」と始まります。これらの譬え話は弟子たちに対して語られています。群衆に対してなされているというのではなく、「弟子たち」に対してなされているのです。「天の国の秘密を悟ることが許されているのは弟子たちだけです。「だから」こそ弟子たちに対して、この譬えの説き証しがなされるのです。この譬え話しは種を蒔く人が蒔いた種が、様々な場所に落ちた、という話です。この当時のこの地方の種まきは、まず畑を耕してそこに種を蒔くというのではなく、先に種を蒔いてからそこを耕すというやり方だったようです。ですから、種は耕された畑にのみ落ちるのではなくて、様々な所に落ちます。道端に落ちれば、そこは耕されることなく、種は鳥の餌になってしまいます。石だらけで土の少ない所に落ちることもあります。そこでは一応耕されて芽を出しても、根がしっかり張れないのでそのうちに枯れてしまうのです。あるいは茨などの雑草が周囲にあると、そちらが先に伸びて囲まれ、負けてしまって育たないということもあります。良い土地に落ちるとは、しっかり耕される畑のことです。そこに落ちた種は実を結ぶのです。これらのことは全て、当時の人々にとって、身近な、わかる譬えでした。そして主イエスはそのたとえ話の意味の説明を明らかにします。道端に落ちて鳥に食べられてしまう種とは、「御国の言葉を聞いても悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」ということです。「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人です。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」。そして「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」。このたとえ話は、主イエスのみ言葉、神の国の秘密を語るそのみ言葉を聞いた者が、それをどう悟るか、理解するか、そしてそのみ言葉に従って、困難や妨げに負けずに生きることができるか、そしてその種であるみ言葉の実をいかに結ぶことができるか、ということを語っているのです。この主イエスの譬え話しのみ言葉は主の御言葉を聞く私たちにもあてはまるのではないでしょうか。み言葉の種が蒔かれても、それが全く芽を出さずに、鳥に食べられてしまうようにいつのまにか消えてなくなってしまう、そのように、御言葉が私たちの心に全く根付かず、失われてしまうということを、私たちは自分自身において、また他の人々において経験します。また、御言葉が一旦は受け入れられ、芽を出す、それは信仰が芽生えと言ってもよいでしょう。しかし、それが私たちの心にしっかりと根付かないということがあります。私たち信仰は少しは続くかもしれません。けれども、色々な困難に出会い色々な形での迫害を受けるようなことがあると、すぐにつまずいてしいます。あるいは、私たちの信仰の生活は常に茨に囲まれていると言うことができます。信仰が育っていこうとする時に、それを覆い塞いでしまうような様々なものがこの世には満ちているのです。また、私達自身の心もまた、自ら茨となってしまうことがあります。

良い土地とは
 ここでは「世の思い煩いや富の誘惑」とあります。「思い煩い」と訳されている言葉は、6章25節で主イエスが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃった、その「思い悩む」と同じ言葉です。自分の命のこと、体のこと、生活のことで、様々な思い煩いが、不安が私たちにはあります。それを何とかしなければと日々あくせくしているのです。そういう思い煩いと共に、この世の生活には様々な誘惑があります。私たちの思いを神様から離れさせる力です。それは富だけではありません。人それぞれに様々な誘惑があると言えるでしょう。そういうものに心を奪われてしまうと、み言葉の種が育っていかない、実を結んでいかない、信仰が育っていかずに、むしろ枯れていってしまうのです。み言葉の種が蒔かれ、芽を出し、育っていき、実を結ぶようになるには、これらの様々な妨げが乗り越えられなければなりません。それが「良い土地」であります。み言葉の種は実を結ぶことができないのです。

主イエスによって
 道端に落ちた種も、石だらけの地に落ちた種も、茨の間に落ちた種も、みんなそれぞれに自分のことだと思うのではないでしょうか。どれかがと言うよりも、どれもそれぞれに自分に当てはまるところがあると思います。ある時は道端のようであり、ある時は石だらけの地のようであり、ある時は茨の間のようだと思う、あるいは、同時にこの三つであるようにも感じるのです。そしてそのように感じる私たちが、自分は少なくともこれではないと思うのが、「良い土地」です。み言葉の種が順調に育っていき、全ての妨げが取り除かれて、百倍、六十倍、三十倍の実を結んでいく、それは私たちの目指すべき理想の姿だけれども、しかし現実はそうはなっていない、これだけは自分の姿ではない、と私たちは思います。自分はどの土地なのか、と考えることができます。
 けれども、実は、私たちがこのたとえ話を読んでそのように感じるということこそが、主イエスがここで言っておられる「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ということがまさに自分に起っているということなのです。私たちが道端と、石だらけの地と、茨の間と、良い土地の四種類がある、どれが自分の姿であるか、振り返ってみるということが求められているのではありません。11節のみ言葉からです。そこには「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが」とあります。あなたがたは天の国の秘密を悟ることを許されている、それは、あなたがたはみ言葉を聞いて理解することができるということです。それはこのたとえ話で言えば、「御言葉を聞いて悟る人」つまり「良い土地」であるということです。主イエスは、「あなたがたは良い土地である」と言っておられるのです。そのことは16、17節にも語られています。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。あなたがたの目は見ている、あなたがたの耳は聞いている、だからあなたがたは幸いだ、と主イエスは言っておられるのです。「あなたは祝福されている、おめでとう、よかったね」ということです。あなたがたはみ言葉を聞いて悟り、理解し、良い土地として実を結ぶことができている、本当によかったと主イエスは祝福しておられるのです。それが、このたとえ話で主イエスが語ろうとしておられることです。

神の救い
 主イエスはこの譬え話しで「あなたがたは良い地である」語っておられるのです。その「あなたがた」は、11節にあるように、「あの人たち」と区別された「あなたがた」です。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」のです。「あの人たち」とは、2節に出て来る「大勢の群衆」です。それに対して「あなたがた」とは、10節で主イエスに近寄って「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と尋ねた弟子たちです。つまりここには、群衆と弟子たちとの区別がはっきりとつけられています。たとえ話は、群衆たちに対しても語られています。しかし彼らは、それを悟ることができない、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないのです。それに対して弟子たちは、それを悟ることを許されている、目は見えている、耳は聞こえている、御言葉を悟る良い地であることができている、多くの預言者や正しい人たちが見たいと願いつつ見ることができなかったこと、聞きたいと願いつつ聞くことができなかったことを、彼らは見、聞くことができている、その弟子たちの幸いを主イエスは語っておられるのです。

主に従う弟子
 弟子たち、それは主イエスに招かれ、従っている人たちです。主イエスの近くで主の御言葉を聞いている人々です。この「種を蒔く人のたとえ」も、大勢の群衆が湖の岸辺に立ち、主イエスは舟に乗って湖の中に少し漕ぎ出してそこから語られています。弟子たちはおそらくその舟に一緒に乗り込んでいるのです。そこにも、弟子たちと群衆との区別があります。この「種を蒔く人のたとえ」は、主イエスの弟子に語られています。主イエスを信じ、教会に連なり、礼拝を守っている私たち信仰者に、「あなたがたは良い土地とされている、み言葉を聞いて理解し、悟る者、み言葉の種の実を豊かに結ぶ者とされている、だからあなたがたは幸いだ」と語りかけているのです。もし私たちが先ほどのように、「自分はいったいどの土地だろうか、最初の三つは身につまされる、しかし少なくとも最後の良い土地ではない」というふうにこれを聞いてしまうのであればどうでしょうか。私たちはこのたとえを聞いた群衆と同じく、主イエスの語ろうとしておられることを見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない者となってしまうのです。

良い土地とされ
 しかしそうであるならば、主イエスは何故、最初の三つの場合、道端とか、石だらけの地とか、茨の間というような土地のことをお語りになったのでしょうか。道端や、石だらけの地、そして茨の間、どの姿も私たちの姿です。私たちはこのよう道端であり、石だらけの地であり、茨に塞がれているような私たちです。その私たちに、神様が、常にみ言葉の種を蒔き続けていて下さるということです。神様は御言葉の種は、どんな土地に対しても蒔いて下さっています。私たちの頑な心にも、神様はみ言葉の種を私たちの心に蒔いていて下さるのです。また、私たちは神様が御言葉を蒔いて下さっているけれども、御言葉が深く根を下ろすことができない者であります。どのよう時も私たちに、神様はみ言葉の種を蒔いていて下さるのです。私たちはこの世の様々な思い煩いに捕えられます。色々な誘惑に目を奪われしまう者です。神を忘れ、御言葉から目を背けてしまい、信仰の茎がやせ細り、いつのまにか見えなくなってしまう、なくなってしまう、そのような者であります。そのような私たちに、神様はみ言葉の種を蒔いていて下さるのです。それは神様が、私たちを、何とかして、み言葉の種が育ち実を結ぶ良い土地にしようと愛を傾けていて下さるということです。
 このたとえ話で、神様は、誰が、どの土地でということを言っているのではありません。神様ご自身が、汗を流して、御言葉の種を蒔き続けていて下さるのです。その神様の熱心な、情熱溢れる、そして倦むことのない種まきの結果、私たちは、自分に蒔かれているみ言葉に気づくことができるようになるのです。神様が語りかけていて下さることに気づき、それに耳を傾けることができるようになるのです。そして信仰の小さな芽を出すことができるのです。その芽はしかし、ちゃんと根づかずに、育たずに枯れてしまうことも多いのです。茨に塞がれて伸びないことも多いのです。神様は繰り返し、忍耐強く、あきらめることなく御言葉の種を蒔き続けて下さるのです。それによって、私たちの心は、次第によく耕されていくのです。石が取り除かれていくのです。茨が抜き取られていくのです。そして気がついた時に、私たちの心に、み言葉の結ぶ豊かな実りが与えられていきます。それは、神様が自分の心に種を蒔き、そこを耕し、石を取り除き、雑草を抜いて下さった、その神様の私たちのための情熱、労苦に気づくことです。私たちは全く良い土地ではなく、道端に過ぎなかったような者です。むしろ神に背く、罪人であります。そのような私たちを神様が愛して下さり、御言葉を悟ることができる良い土地として下さいました。

 独り子を待ち望んで
 その神様の愛によって私たちを導いていて下さるのです。私たちのための神様の愛の頂点、神様の御心の頂点が、主イエス・キリストがこの地上に来られ、十字架において死なれた、復活されたことです。私たちは今、独り子主イエス・キリストの誕生を待つ望むアドヴェントの時を過ごしております。神様はまことに罪深い私たちのために、神の独り子を与えて下さるという愛を示されました。独り子の命をも与えて下さる大いなる祝福に耳を傾けて、目を開き、救い主の誕生を待ち望みたいと思います。

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