夕礼拝

父の御心を行う人

「父の御心を行う人」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第1編1-6節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第12章46-50節
・ 讃美歌 : 37、235

神の御心を行う人こそ本当の家族
 本日は共にマタイによる福音書第12章46節から50節の御言葉をお読みしたいと思います。
 私たちが現在読んでおります新共同訳聖書の本日の箇所には、「イエスの母、兄弟」と小見出しが付けられております。その小見出しの隣には括弧付きで他の福音書にあります。この箇所と同じ内容の話が別の箇所で記されております。その箇所を並行箇所と言いますが、本日のマタイによる福音書12章46節から50節の並行箇所はマルコによる福音書3章31節から35節とルカによる福音書の8章19節から21節です。この2つの並行箇所にも「イエスの母、兄弟」という同じ小見出しが付けられています。ここでは、主イエスが群衆に話しておられた時に、その家族である母と兄弟が会いに来ました。しかし、主イエスは自分の本当の家族は、「天の父の御心を行う人」のと言われました。この主イエスのお言葉には、その当時の人々だけではなく、私たちも驚きを覚き、当惑させられるものです。そのような出来事が本日の箇所です。

マルコによる福音書では
 本日の箇所はマタイによる福音書とマルコ、ルカによる福音書に記されていると申しました。これらの3つの記事の中ではおそらく1番始めに書かれたのはマルコによる福音書です。このマタイの記事の基になったと思われるのがマルコによる福音書です。マルコによる福音書では本日の話の直前に「ベルゼブル論争」があります。そのベルゼブル論争の中で、21節ですが「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(マルコによる福音書第3章21節)とあります。マルコはそのすぐ後に「イエスの母、兄弟」のことを記しています。主イエスの元に家族が来たことの目的が明らかにされています。身内の家族の者たちは主イエスの「気が変になっている」と聞き、取り押さえに来たのです。この箇所でも主イエスは自分の本当の家族は、「天の父の御心を行う人」であると言われました。マルコによる福音書では、この一見冷たいとも感じられるようなことを何故おっしゃったのかという目的を理解することも出来るように思います。主イエスに敵対していたファリサイ派の人々は主イエスが悪霊の頭であるベルゼブルの力で悪霊を追い出していると主張していました。主イエスの家族の人々はそれを聞いて、心配の余り取り押さえなくてはならないと思って掛け付けて来たとすれば、主イエスの態度はそのような家族をはねつけるような、きっぱりとした態度も理解できないことではありません。

群衆に話しておられるとき
 マタイによる福音書ではどうでしょうか。マタイによる福音書に戻りたいと思います。本日の出来事が起こったのは、46節にもありますように主「イエスがなお群衆に話しておられるとき」でした。このことはマタイによる福音書だけが明らかにしています。主イエスが群衆に神の国の福音をなおも話しておられる時であったのです。主イエスが群衆に話しておられるとき「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。」と46節の後半にあります。「その母」とはマリアのことです。その兄弟たちとは、マタイによる福音書の第13章55節によれば「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」などのことです。56節によりますと、その他にも姉妹たちがいたとなっています。マルコによる福音書の方では3章32節に「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」とありますので、名前は伝えられていませんが姉妹たちもこの場面にいたのでしょう。ルカ福音書3章23節によりますと主イエスはおよそ三十歳の時に家を出て、神の国の福音を宣べ伝え始められました。それまでは、主イエスは長男として、そしてマリアの夫ヨセフは早くに亡くなっていたようですから、家を守っていました。その主イエスが家を出て、家族を離れて、伝道の生活に入るというのは、マリアや兄弟たちにとって大変なことだったでしょう。そして聞くところによると、イエスは律法学者やファリサイ派の人々と論争をしたり、病人を癒す奇跡を行っているというのです。そのような状況は家族としては、そういうイエスをこのまま放っておくわけにはいかないと思ったのでしょう。なんとか取り押さえて家に連れて帰らなければと思ったのです。それは家族としてはある意味で当然の思いであると言えるでしょう。母と兄弟たちはそのような思いをもって主イエスのところに来たのです。「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」とあります。その「話したいこと」というのはそういうことです。このように母や兄弟たちは、身内として主イエスを心配しているのです。心配をして、主イエスの元にやって来たのです。この行動の中に私たちは、マリアを始めとする主イエスの家族の人々の願い、願望を明確に示されているように思います。彼らは善意をもって、主イエスの身を案じ、何とかして事態を無事に収拾したいと願ってこの場所にやって来たに違いありません。親としてわが子のことを案じ、心配するのは当たり前でしょう。また兄弟姉妹として、自分の兄弟姉妹の身を案じて心配するのは当然です。マルコによる福音書では、このようにしてやって来たマリアたちが「人をやってイエスを呼ばせた」(3章31節)とあります。母マリアや兄弟たちは主イエスのことを心配してやって来たものの、主イエスは群集に囲まれ、その中で話をしていたので主イエスに声をかけることも出来なかったのでしょう。人に頼んでやっと、その意向を伝えさせた状況が想像出来ると思います。ルカによる福音書の方では彼らが「群衆のために近づくことができなかった」(8章19節)と述べて、この状況を一層明らかにしています。

外に立っていた
 しかし、マタイによる福音書では、母マリアや兄弟たちが何のために主イエスの元に来たのかを全く語っていないのです。主イエスの気が変になったということや、家族の者が取り押さえに来たということも語られていません。マタイによる福音書においては、主イエスの家族の家族として、身内の者として思いや願いを記してはいないのです。マタイによる福音書はマルコによる福音書を土台としていますので、元々はそのような内容があったのかもしれませんが、マタイによる福音書においては家族としての思い、願いを取り除いたのです。マタイによる福音書において、母や兄弟たちが「話したいことがあって外に立っていた。」とあります。この「立っている」と言う言葉が46節と47節において2回語られています。母や兄弟たちは、主イエスが群衆に話しておられる、その輪の外に立っているのです。 「外に立っている」とはどういうことでしょうか。主イエスの外に立つということです。ある距離を置いているということが込められています。主イエスと距離を置いて、少し離れたところから主イエスを見るのです。主イエスの言葉を聞くのです。物事を見るときにある距離を置いて見た方が、客観的に、正確に見ることができる、ということもあります。主イエスとその教えについても、「外に立って」、少し距離を置いて見ることが必要なのかもしれません。実際にそのように主イエスの外に立って、距離を置いて主イエスを見ていた人が、母や兄弟たちは、主イエスの話を聞いているその人々の中に入っては来ないのです。外に立っているのです。そこに、彼らが主イエスに対して、そしてその教えておられることに対して取っている姿勢、思いが象徴されています。主イエスのことを外から眺めているという姿勢です。「外に立って」主イエスを眺めている。私たち全ての者にも起こり得る事柄です。マタイによる福音書はこの話を、私たち一人一人と関係する話として語っているのです。これは決して、主イエスの母や兄弟たちという身内に限られた事柄ではないのです。

私たち一人ひとりに
 主イエスは、外に立っている母や兄弟たちについて、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と大変厳しいことを言われました。しかし、この言葉は母や兄弟たちに対して言われたのではありません。むしろこれは主イエスの周りに集って、その教えを聞いている人々に言われたのです。外に対して内にいる人々に対して主イエスは語られたのです。次の49、50節では「そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」。弟子たちこそ、外ではなく内にいる人々です。この弟子たちこそ、わたしの母、わたしの兄弟、つまり主イエスの本当の家族であると言われたのです。つまりここで、主イエスはここで、身内の者たちなど家族ではない、と言われたのではなくて、主イエスの本当の家族とは誰か、を示されたのです。そして、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」というみ言葉によって、だれでも、どんな人でも、私たちも、この主イエスの本当の家族になれる、ということを示されたのです。あなたも私の本当の家族になれる、私はあなたも、家族として迎えたい、私の家族になってもらいたい、そう主イエスは私たち一人一人に語りかけておられるのです。
 主イエスの招きに応え、主の家族になるには、主イエスが言われる「わたしの天の父の御心を行う人」になることが必要です。「わたしの天の父」つまり神様の御心を行うことが、主イエスの本当の家族になるためには必要なのです。ファリサイ派の人々は自分たちは神様の御心を行っていると思っていたのです。彼らは律法を熱心に学び、それを厳格に守って生活していました。それが神様の御心を行うことだと思っていたのです。このことが教えているのは、人は、神様の御心を行っていると思いつつ、実際には外に立つ者であることがあり得るということです。どうしてそうなるかというと、神様の御心を自分でこうと決めてしまうからです。これが神様の御心である、これをすることが御心にかなうことである、ということを、自分はもう知っている、わかっている、と思い、それを少しも疑わない、その時に私たちは実は、自分の思い、自分の考え、自分の基準を神様の御心と勘違いしており、それを主張することによって、主イエスからは距離を置いてしまう、ということが起っているのです。ですから、「神様の御心を行う」ということにおいて私たちはよほど慎重でなければなりません。そう言っている時にこそ、人間は最も大きな罪を犯すものなのです。自分の考えと神の御心を行うことの区別がつかなくなってしまっているのです。

主の御心にかなう
 私たちは、外に立つのではなく、内に入らなければならないのです。それは、主イエスのもとに集い、そのみ言葉を聞くことです。主イエスは、「神の御心を行う人が」と言われたのではなくて、「わたしの天の父の御心を行う人が」と言われたのです。神様は、主イエスの天の父であられます。神様を「わたしの天の父」と呼ぶことができるのは主イエスお一人なのです。その神様の御心を私たちは、主イエスを通してこそ知ることができます。神の独り子である主イエスを通してこそ、私たちは神様の御心を知り、それを行なうことができるのです。
 主イエスはそのように、主イエスのもとに集い、その教えを聞き、み業を間近で見ている弟子たちこそ、ご自分の本当の家族なのだと言われました。49節に、主イエスは弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたとありますが、この「指して」という言葉は、前の口語訳聖書ではここは「弟子たちの方に手をさし伸べて」となっていました。主イエスは弟子たちに手をさし伸べて、「ここにわたしの家族がいる」と言われたのです。その「手をさし伸べる」というのは、8章3節では、主イエスが重い皮膚病にかかっている人に手をさし伸べてその人に触れ、癒して下さった時のしぐさです。手をさし伸べて下さるというのは、主イエスが守り、支えて下さるということなのです。主イエスはそのように弟子たちの方に手をさし伸べて、「ここに私の家族がいる」と言われたのです。つまり主イエスの本当の家族というのは、ただしっかりとみもとに集い、御言葉をちゃんと聞いている人々、というだけではありません。主イエスがその人々をご自分のそれこそ、み手の届く範囲に置いて下さり、守り、支え、導き、はぐくんで下さる、その群れに入れられているということなのです。  主イエスのさし伸ばされたみ手の内に守られ、養われ、生きる者とされるということです。外に立っていた主イエスの母マリアや兄弟たちは、主イエスに見捨てられてしまったわけではありません。聖書には彼らも後に、主イエスのまことの家族である教会の一員となったと語られています。本日の箇所は、そこに至るまでの間に、彼らが、血のつながりによる主イエスとの関係を乗り越えて、信仰における関係を結んでいかなければならなかったことを語っていると言うことができるでしょう。新しい関係が築かれたのです。主イエスを生んだ母マリアも、そのことで主イエスのまことの家族となれたわけではないのです。彼女も、外に立つ者から、主イエスのもとに集い、そのみ言葉を聞き、そのみ手の内に置かれる者となることによって、主イエスの本当の母となることができたのです。主イエスの家族になるとはこのように、主の御心に聞き、主の御手の導かれ、御心を行なう、神の意志にかなうものです。神に従う人の道を主は知っていてくださる。

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