「預言者ヨナのしるし」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: ヨナ書 第2章1-11節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第12章38-47節
・ 讃美歌 : 22、160
しるしを見せてください
本日与えられております箇所は、マタイによる福音書第12章38節から45節です。何人かの律法学者とファリサイ派の人々が主イエスに尋ねました。「先生、しるしを見せてください」と言いました。主イエスが神から遣わされた神の子、救い主であるという「しるし」を見せて欲しいと言いました。律法学者やファリサイ派の人々は真剣に「しるし」または「証拠」と言って良いと思いますが、神の子、救い主である証拠を求めるのです。本当にイエスは神の子なのか、救い主であるのかという思いがあり、はっきりとした証拠が欲しいというのです。しるし、証拠がなければ信じるがことはできない、という思いの現れです。けれども、主イエスが本当に神の子であるのか、救い主であるのか、確かな「しるし」「証拠」が欲しいというのは誰もが抱くものではないでしょうか。ヨハネによる福音書20章に、主の弟子あるトマスという人が出てきます。他の弟子たちから主イエスの復活の出来事を聞きました。しかし、信じることが出来ず「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。話を聞いただけではわからない、自分の目と手で確かめてみなければ信じることはできない、というこのトマスの感覚と言うのは私たちにもあるのではないでしょうか。私たちもまた、はっきりとした証拠、しるしを求めるのではないでしょうか。そうなると、先ほどの「先生、しるしを見せてください」というファリサイ派や律法学者たちの求めは私たち自身の問いかけにもなります。
神に背いた時代の者
しかし、主イエスはこのようにお答えになりました。39節です。大変厳しい主のお言葉です。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。(39節)ここでまず、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」とあります。しるしを欲しがるのは、「よこしまで神に背いた時代の者たち」だと主イエスは言われます。しるしを欲しがり、証拠を求める者は「よこしまで神に背いた時代の者」であるというのです。よこしまで神に背いた時代を生きていることの現れだというのです。私たちが「今はこういう時代である」と言うときに、「時代」というものを私たちの外側の、関係のない事柄として受け止めてはいないでしょうか。関係のない時の流れとして、私たちはその時代に影響を受け、翻弄されていると思ってはいないでしょうか。ここで使われている「時代」という言葉は「生まれる」という言葉が変化したものです。「世代」とも訳せる言葉です。世代とは、一人の人が生まれて生きている間の期間です。この「時代」という言葉が、その時代に生きる人間と関係なく外に流れているものではなくて、人間そのものを指す言葉であります。その時代を造っているのは私たちなのです。そうですので、今が「よこしまで神に背いた時代」であるとすれば、それは今を造っている私たちがよこしまで神に背いているということなのです。また、「よこしまで神に背いた」と訳されている箇所は、以前の口語訳聖書では、「邪悪で不義な」となっていました。更にこの「神に背いた」「不義な」という言葉は、「姦淫を犯している」という意味の言葉が使われています。「神様に背いた、不義の罪を犯している」ということは、「姦淫の罪」を犯しているということなのです。「姦淫」とは夫婦の関係を裏切っている「不倫」と言うことです。主イエスはここで、今は「不倫の時代」だ、不倫の罪を犯していると言われたのです。
神に背いた、不義
主イエスが言われたこの今は「不倫の時代」で、不倫の罪を犯しているというのはどういうことでしょうか。「姦淫」「不倫」は夫婦の結婚の関係を裏切ることであると申しました。聖書では、主なる神と神の民であるイスラエルの関係が「結婚」になぞらえて来ました。主なる神は、イスラエルの民を選ばれ、特別な関係を結ばれました。神は、イスラエルの民をご御自分の民とし、神はイスラエルの神のとなられました。契約を結ばれたのです。その契約というのは、結婚の誓約と重なり合うのです。しかし、イスラエルの民は神の民とされながら、契約を結びながらも主なる神を裏切りました。それは、イスラエルの民は神に背き、他の神々を拝む、礼拝するようになったのです。主なる神以外のもの、偶像の神々を礼拝するようになったのです。旧約聖書に出てくる預言者たちはイスラエルの犯した裏切りの罪を「姦淫の罪」として厳しく責めました。先ほどお読みした旧約聖書のヨナ書のヨナと言う人も預言者であります。妻や夫が結婚の誓約を破り、別の人へ行く「姦淫の罪」をイスラエルの民はしていると言ったのです。主イエスの「よこしまで神に背いた時代」という言葉の背後にはそのような意味があります。主イエスはしるしや証拠を求めた律法学者やファリサイ派の人々に対してそれと同じことをしていると言いました。また、今の時代の人々、しるし、証拠を求める私たちに対しても厳しく言われました。
自分の支配できる神
けれども、ここでの律法学者やファリサイ派の人々は、主なる神様を裏切り、他の神々を拝んではいません。律法学者やファリサイ派は主なる神様がイスラエルに与えられた律法を誰よりも懸命に学び、実践していました。それは、主なる神を裏切っていては出来ない行為であります。なぜ、主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」とおっしゃったのでしょうか。先ほど、主なる神と、神の民イスラエルとの関係は、度々結婚になぞらえられてきたと申しました。神がイスラエルの民を選び、特別の関係を結ばれ、御自分の民として、神が彼らの神となられました。けれども、神の民であるイスラエルの民が神様に背き、他の神々、偶像の神々を拝むようになり、預言者たちは姦淫の罪として厳しく責めたのです。なぜ、イスラエルの民は主なる神を裏切ったのでしょうか。なぜ神に背き、不義を犯し、他の神々いわゆる偶像の神々へと走ったのでしょうか。イスラエルの民は、カナンの地に定住し、畑を耕して生活するようになり、カナンの地の農耕の神、五穀豊穣を約束する神々を拝むようになっていきました。そして、イスラエルの民はこのような神々は自分たちの必要としているものを与えてくれる神であると思いました。これらの神々が、作物の豊作という目に見えるしるしを与えてくれたからです。人間の求めに応え、自分の求めに応じ、自分の願う利益を与えてくれる神を求めたのです。それは自分が支配できる神に走ったのです。これが「しるしを求める」ということの本質であります。
自分の投影である偶像
しるし、証拠を見たら信じる、というのであればそれは私たちが求めているしるし、証拠は、私たちの求めに合うものとなります。自分の求めや願いを与えてくれるなら、それを神様であるしるしとし、証拠とするのです。神様にしるしを求めるというのは、神様が自分の求めや願いを聞いてくれるのかどうかということなのです。神様を自分の願っているものを与えてくれるのか、求めに応じてくれるのか、というように値踏みをしていくようなものです。この神は自分の求めを聞いてくれるのか、自分が支配できるかどうか、見定めるのです。イスラエルの民は主なる神様を値踏みして、カナンの神々の方が自分の願いをきいてくれそうだ、と思って、それらの神々に走ったのです。それが彼らの姦淫の罪でした。「しるし」を求めるということと、姦淫の罪とは、違うものの見えますが本質は同じなのです。人間の夫婦においても、夫婦が互いに、相手のことをいつも、自分の願いをどれだけ聞いてくれるか、自分が期待しているような妻あるいは夫であるか、と値踏みしているならば、それは相手を利用していることだけで、自分の願望の投影でしかありません。つまり相手に対していつもしるしを求めているならば、より自分の願いに適った人が現れればそちらに心が向くのは当然のことです。そのように相手のことを値踏みしているなら、実際の行動には出ていなくても姦淫をしていることになります。
人の子、主イエスの十字架の出来事
主イエスが私たちとの間に示されているのは、このような「しるし」ではありません。「しるし」を求め、自分の求めに応じる関係ではありません。主イエスが示されたのは相手が自分の期待にどれだけ応えてくれるか、ということによるのではないのです。主イエスは続けて言われました。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」主イエスが私たちの間の交わりに与えられるしるしは、「ヨナのしるし」です。「ヨナのしるし」とは、40節にあるように、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」ということです。預言者ヨナという人は、ニネベの町に神の怒りによる滅びが迫っていることを告げることを神様に命じられました。しかし、ヨナはその命令に従わずに船に乗って逃げ出しました。そして嵐に遭い、海に投げ込まれて大魚に呑み込まれ、三日三晩その腹の中にいて、陸地に吐き出されたのです。ヨナは三日三晩魚の腹にいました。それと同じように、人の子、主イエスも、三日三晩大地の中にいて、そのことは主イエスが十字架につけられて殺され、墓に葬られて、三日目に復活することを指しています。ヨナのしるしとは、主イエスの十字架の死と復活の出来事であります。主イエスは「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とは言われました。このしるしは人々が自分の願いによって求めているしるしとは全く異なります。神様が自分の願いに適う方であるかどうかを人間が確認するためのしるしではなくて、神様がご自身をお示しになるために人間に与えられました。
死の力に勝利
ヨナのしるしによって示されていることは、主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さったということです。神様の独り子である主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、それによって私たちの罪が赦されている、その罪の赦しの恵みによって神様は私たちとの交わり、関係を結ぼうとしておられるのです。そして、主イエスは死者の中から復活されました。それは神様の恵みが死の力に勝利したということです。死の力に勝利した主イエス・キリストが、今生きておられる方として私たちを導き、共にいて下さるのです。神様が私たちに与えようとしておられる交わりは、この死に勝利したキリストと共に生きる交わりなのです。その交わりに生きる時に私たちは、いつか必ず訪れる肉体の死が、神の恵みの終わりではないことを知らされ、その死に打ち勝つ神の恵みを信じて、希望をもって生き、希望の内に死ぬことができるのです。罪の赦しと、死に対する勝利、それが、ヨナのしるしであるキリストの十字架と復活によって私たちに示されていることです。神様は、この恵みを私たちとの間に打ち立てようとしておられるのです。神様が与えて下さる恵みは、自分の願いや期待にどれだけ応えてくれるか、という思いでしるしを求め、証拠を求めていくところに生まれるものではありません。
汚れた霊の追放
主イエスの父なる神様が与えて下さるのは罪の赦しと死に対する勝利です。私たちに本当に必要なものを主イエスは与えて下さいました。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたのです。また、南の国の女王、通称シバの女王と呼ばれている人も、ソロモン王の知恵を聞くために、はるばる旅をして来たのです。これらの人々は、神様が遣わした人の言葉をしっかりと聞き、それを受け入れたのです。しかし今や、そのヨナにまさる者、ソロモンにまさる者である主イエス・キリストが来られ、語っておられます。神様が遣わしたまことの預言者である主イエスが今語っておられるのです。主イエスの御言葉をしっかりと聞き、受け入れること、そして主イエスの示して下さるヨナのしるしを、神様からのしるしとして受け止めること、それこそが、罪の赦しと死に対する勝利にあずかるために私たちに求められていることなのです。
本日は43節以下の箇所も含まれております。「汚れた霊」とありますので、別の話があるように見えます。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして整えられていた。」とあります。45節の終わりにこうあります。「この悪い時代の者たちもそのようになろう」という言葉です。この「悪い時代」の「悪い」という言葉は、39節の「よこしまな」と同じ言葉です。ここでも、「よこしまで神に背いた時代」のことが語られています。自分の願いや期待に神様がどれだけ応えてくれるか、という思いでしるしを求めている人々の姿が示されています。
主イエスによって
一度、私たちの心から汚れた霊、悪霊が出て行き、その悪霊は休むところを求めてさまよいますが、見つからないので、「出てきたわが家に戻ろう」と言って戻って来ます。するとその家は、つまり私たちの心は、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで悪霊は、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、一緒に住み着いてしまう。そうすると私たちは、悪霊が退散する前よりももっと悪い状態になってしまう、という話です。私たちの心が、「空き家になり、掃除をして整えられていた」といたのです。悪霊がようやく出て行ったので、私たちは自分の心をきれいに掃除して整えるのです。その姿は律法学者やファリサイ派の人々とも繋がります。立法学者やファリサイ派の人々は律法を学び、それをしっかり守って生きようとしていました。彼らは自分の心をきれいに掃除してきちんと整えることに熱心な人々だったのです。そのように掃除され、整えられた私たちの心が「空き家」であるということです。この家には主人がいないのです。きれいに掃除がなされ、部屋も整えられているけれども、そこに住んでいる人がいないのです。しかし、私たちは自分の心の主人は自分であり、自分の心を整えて、自分でそこに住んでいるのだ…と思っているのではないでしょうか。自分の主人は自分であると思っていないでしょうか。しるしを求めるというのは、神様が自分の願いを聞いてくれるのかどうか、自分の願っているような方なのかどうか、と値踏みをしていくことだと申しました。そこでは、私たちが主人なのです。神様もそこでは、店に並べられている商品と同じで、私たちがこれは役に立つとか立たないとか、自分の価値に基づいて判断する存在なのです。しるしを求め、証拠を見たら信じようという思いの背後には、このように、自分が主人になって、神様のことも自分で判断して、採用するかしないかを決める、という思いがあるのです。自分の心という家の主人は自分だ、この家は私が自分で掃除して、整え、自分が主人として住んでいるのだ、という思いと、しるしを求める思いとは、このように、自分が主人である、という点で同じです。自分が自分の心の主人であり、悪霊に対して、有効な防御となっているか、ということです。出て行った悪霊が戻って来た時に、ああここにはもう自分の入る余地はない、もうここには戻る隙はない、というふうになっているだろうか。主イエスが語っておられるのは、そのように自分が主人になり、自分で自分の心を掃除して整えているだけでは、それは悪霊の目から見たら、隙だらけの空き家だということです。悪霊たちが住み着くのに、これほどよいところはないのです。実際、自分で自分の心をきれいにし、整えて、これで自分はよい人間になった、立派な者になった、私は自分の力で結構立派に生きている、などと思っている心こそ、悪霊にとって最も好ましい住まいです。自分の心という家を、空き家であれば、悪霊の力に対抗出来ません。そこには本当に住んで、家を守って下さる方が必要です。悪霊の侵入から守って下さる方が必要です。悪霊に打ち勝つことの出来る方を主人として迎えなければなりません。私たちの心の家に住んで、悪霊の侵入を防ぎ、守って下さる方、それは、ヨナのしるしに示されている主イエス・キリストただお一人です。
恵みに満たされて
主イエスは十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、復活によって死の力にも勝利されました。私一人ひとりのために、この方をお迎えして私たちの心に住んでいただき、この方にこそこの家の主人になっていただくことによって、もはや私たちの心は空き家ではなくなります。悪霊が入り込む隙はなくなるのです。主イエス・キリストは神様が与えて下さるしるしです。主イエスは人間の罪を赦され、死に対して勝利をされました。私たちはこの方によって大いなる恵みに満たされているのです。