夕礼拝

人の子が来て

「人の子が来て」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書第30章8―14節
・ 新約聖書: マタイによる福音書第11章7―15節
・ 讃美歌 : 482、289

はじめに
 本日はご一緒に、マタイによる福音書の第11章7節から15節をお読みしたいと思います。マタイによる福音書の第10章のところで、主イエスは12人の弟子たちを選び、神の国の伝道者として派遣なさるにあたって、弟子たちに励ましを与え、懇切にその心構えを説かれました。11章1節では「イエスは一二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で、宣教をされた」と述べられたところまでの比較的長い箇所を読みました。本日の箇所は、私たちが使用しています新共同訳聖書では「洗礼者ヨハネとイエス」という題が付けられています。この11章の部分は、1節から6節までと、次に本日の7節から、更に16節から19節までの3つの部分に分けられます。本日の箇所の冒頭には「ヨハネの弟子たちが帰ると」とあります。このヨハネとは、洗礼者ヨハネのことです。ヨハネは、主イエスは現れる前に、荒れ野では「天の国は近づいた」と宣べ伝え、人々に悔い改めを求め、悔い改めのしるしとしての洗礼を授けていました。このヨハネのことは同じマタイによる福音書の第3章で語られております。その第3章の11節にはこのようにあります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」洗礼者ヨハネは来たるべき救い主イエス・キリストの先駆けとなった人でした。そのヨハネは今、2節にありますように獄中にいます。それの理由は時の支配者ヘロデ大王の子ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤが異母兄弟であったヘロデ・アンティパスに惹かれて娘のサロメを連れて彼のもとに走ったのですが、その不倫の関係をヨハネは厳しく諌めました。そして、ヘロデヤの願いで、ヘロデ・アンティパスがヨハネを捕えて、死海の東海岸のマケルス城砦に幽閉したためなのです。ヨハネは悔い改めを迫る審判の預言者として登場し、人々に大きな影響を与えていました。主イエスもまた、その救い主としての公の生涯の最初において、ヨハネから洗礼を受けました。主イエスが活動を始められたのは、このヨハネが捕えられてからでした。ヨハネは獄中で主イエスのことを聞き、自分の弟子を遣わし「来たるべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせたのです。ヨハネは審判の預言者として、この世の不義に対して批判的でなければなりませんでした。しかし、獄中にあってそれが出来なくなってしまいました。ヨハネは、主イエスが自分の後継者としてヘロデ大王やアンティパスを攻撃する審判の預言者になって活躍してくれないだろうかと期待をしました。自分の活動には限界があると感じ、それを継承してくれる後継者を求める気持ちがあったと言えます。期待が大きければ大きいだけに、期待が裏切られた時の不安もあったのではないでしょうか。主イエスはこのヨハネの問いに対して、自分が行っている業と、それによって起っていることをヨハネに伝えよとだけ言われました。そして、「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われました。

あなたは何を見に行ったのですか
 そして、本日の箇所はそのヨハネの弟子たちが帰った後のことが記されています。主イエスは群衆に対して、ヨハネについて語られました。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」と言われたのです。多くの人々が、洗礼者ヨハネの言葉を聞き、彼から洗礼を受けるために荒れ野へ行きました。彼らが荒れ野へ見に行ったのは、洗礼者ヨハネでした。しかしその洗礼者ヨハネのもとで、主イエスは「あなたがたは何を見たのか」と問われました。主イエスはまさか荒れ野に、風にそよぐ葦を見に行ったわけではなかろう、しなやかな服を着た人を見に行ったわけでもなかろう、とおっしゃいました。ヨハネは、らくだの毛衣を着、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたとあります。しなやかな服を着て王宮にいる人々とは正反対の生活をヨハネはしておりました。そういうヨハネのもとをあなたがたは訪ねて行った、それは何を見るためか。と主イエスは問われ、その問いにご自分で答えられます。9節です。「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である」。ここで主イエスは、ヨハネを預言者以上の者であると評価をします。あなたがたは、預言者以上の者であるを見に、荒れ野のヨハネのもとへ行ったのだ、と主イエスは言われます。預言者とは、人々に神様の御言葉を伝える者です。その人を見に荒れ野へ行った、それは、ただ見るためというよりも、その人から、神様のみ言葉を聞くために行ったということです。主イエスはあなたがたは、ヨハネという預言者に会い、彼から神様の御言葉を聞こうとして荒れ野へ行った、そうだろう、と言っております。

洗礼者ヨハネ
 預言者によって神の御言葉を聞きます。神様の教えを聞きます。それによって神様のみ心を知り、また神様が求めておられること、命じておられることを聞きます。ヨハネは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と教え、人々に罪の悔い改めを求めました。自分の罪を知り、それを悔い改めて赦しを乞い、新しくなることを今神様は求めておられる、ということを人々はヨハネから教えられたのです。そしてその悔い改めの印として彼は洗礼を授けました。人々は、ヨハネのもとに来て洗礼を受けることによって、自分の罪を悔い改めて神様に赦していただき、新しくなろうとしたのです。そのようにして神様のみ心、教えに従おうとしたのです。預言者のもとに行くというのはそのようなに、神の御言葉を聞き、神の御心に従うということです。主イエスは、ヨハネは預言者以上の者であると言われました。預言者のもとへ行って人々がすること、そこで起ることより以上のことが、ヨハネのもとで起るということです。10節では「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」とあります。ここで「あなた」と呼ばれている救い主のための道を準備させるために神様が使者を遣わす、その使者こそヨハネなのだと言われています。ヨハネが預言者以上の者であるとは、この使者であるということです。救い主が来られることを告げ、その道を備えるために遣わされた、それが、他の預言者たちとヨハネの違いだと主イエスは言われるのです。

天の国の突入
 ヨハネが、やがて救い主が来ることを教えたというだけではなくて、今それが決定的に近づいていることを告げて、人々をその救い主との出会いのために備えさせました。ヨハネのもとに来た人々は、今まさに来たろうとしている救い主との対面に備えることを求められたのです。ヨハネのもとに来た人々は、ただ神様のみ言葉を聞き、その教えを受けるということではすまないということです。教えを聞いて、それを理解して、そしてそれを自分の生活の中で少しでも実践していこう、その教えに従って生きていこう、そういうことではすまない何かが、ヨハネのもとでは起っているのです。その、ヨハネのもとで起っている特別なこと、それまでの預言者たちのもとでは起らなかったことを描いているのが、12節です。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」。このことは、洗礼者ヨハネにおいて新しく起っていることを語っています。ヨハネの登場によって、何が新しく起っているのか。この「襲う」とは天の国が襲われ、奪い取られようとしている、と言われています。ここでの「奪い取ろうとしている」という言葉は「手に入れようとする、つかもうとする」ということなのです。つまり激しく襲う者たちが天の国を手に入れようとしている、ということになります。そうするとこの「襲う」という言葉は、滅ぼそうとするという意味ではなくて、肯定的な、天の国、神様のご支配、その救いにあずかろうとする、ということになります。ヨハネの登場以来、人々は天の国を獲得しようと熱心に励んでいる、ということになります。11節の「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」とは、ヨハネが来たことによって、天の国、神様の救いが、決定的に人々のものとなり始めている、ということを語っているのです。

新しい時代
 13節では「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」とあります。ヨハネは、預言者と律法の時代の終りに立っています。新しい時代、救い主イエス・キリストの時代、新約聖書の時代が始まるのです。このことは、私たち一人一人がどう生きるかという問題と関わります。私たちは、今や、ここで始まった新しい時代を生きているのです。預言者と律法の時代ではなく、主イエス・キリストの時代を生きています。預言者や律法の時代、それは、神様のみ言葉や教えを聞き、それを理解して、それを自分の生活の中で少しでも実践していこう、その教えに従って生きていこうとする、そういう時代です。しかしヨハネの登場によって、もはやそれではすまないことになっている。ただ教えを聞いて理解して実行するというのではなく、この世に来られた救い主イエス・キリストと対面しなければならない、それが、今私たちが生きている新しい時代なのです。ヨハネは人々を、その救い主との対面に備えさせました。それが、この新しい時代を生きる者のあるべき姿なのです。私たちも、この主イエス・キリストとの対面に備えていかなければなりません。礼拝はこの救い主イエス・キリストと対面することです。主イエスは問われます。「あなたがたは、何を見にここに集っているのか」私たちは、礼拝に招かれ、救い主であられるイエス・キリストと出会います。

礼拝において
 12節の「天の国は力ずくて襲われている」とは「天の国は力をもって突入してきている」とも訳すことができます。天の国の方が、力をもって私たちのただ中に突入して来ているのです。主イエス・キリストがこの世に来られたことによって起っていることを示しています。この世に来て下さった主イエスの御言葉とみ業とによって、人々は天の国、神様の救いに入れられているのです。主イエスはまことの主の御言葉として、私たちの中に突入されました。それは私たちが神様の救い、神の恵みに入れられているということです。ヨハネが教えた備えは、悔い改めることです。それは、自分が神様の恵みに相応しくない、罪深い者であることを認めて、その罪の赦しを与えて下さる救い主である主イエスを心の内にお迎えすることです。その備えのみによって、私たちは、礼拝において、救い主イエス・キリストにお目にかかることができるのです。ヨハネが預言者であり、預言者以上の者であるという意味は、主イエス・キリストと出会う時代が、このヨハネにおいて始まったということです。ヨハネが女から生まれた者のうちで最も偉大な者であると言われる理由もそこにあります。しかしそこには同時に、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とつけ加えられています。天の国、それは主イエス・キリストにおいてこの世に来たり、私たちの現実の中に突入してきている神様の恵みのご支配です。その主イエスにお目にかかり、主イエスとの交わりの内に生きている者、主イエスによる神様の恵みに与かっている者が、天の国に生きている者です。その中の最も小さな者も、ヨハネより偉大なのです。それは、ヨハネが先駆けとして、自分の後から来る方によって実現すると語った天の国に、その人は既に与かっているからです。ヨハネは預言者と律法の時代の終りに位置し、その中では最も偉大な人でした。しかし主イエス・キリストによって天の国、神様の恵みのご支配がこの世に突入してきて、私たちがそれに与かることができるようになった今、その私たちに与えられている恵み、祝福は、ヨハネよりもはるかに大きいのです。しかし私たちがその祝福に本当に与かるためには、ヨハネが指し示した道を歩まなければなりません。聖書の御言葉を通して、私たちと出会って下さる主イエス・キリストとの対面を求めていくことです。

信仰の決断
 主イエスはこのように洗礼者ヨハネのことを群衆たちに語られました。ヨハネの弟子たちが帰った後のことであります。このことはヨハネには伝わっていないのです。「来るべき方はあなたなのですか」と尋ねてきたヨハネが、自分について主イエスが語られたこの言葉を聞けば、救われる思いがしただろうと思うのです。ヨハネが、ここに語られているように預言者以上の者であり、救い主の先駆けとして遣わされ、その道を整えることによって、時代の転換点に立つ者である、そのことは、ヨハネ自身も、主イエスに対する信仰によって決断をもって受け止めなければならないことだったのです。「わたしにつまずかない者は幸いである」と主イエスは言われました。それは、「あなたが私につまずくことなく、私を来るべき救い主と信じるならば、そのことによってあなたは、預言者以上の者、預言者と律法の時代で最も偉大な者、そしてその終りに位置する者となることができる」ということです。ヨハネが、ここに語られているようなすばらしい役割を自分が与えられていると知るためには、彼自身の信仰の決断が必要だったのです。そして主イエスは、同じ信仰の決断を、人々にも、私たちにも求めておられます。14節以下に、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」とあります。ヨハネは、「現れるはずのエリヤである」、これは、マラキ書3章の23節から来ていることです。旧約聖書の最後の言葉ということになります。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。「大いなる恐るべき主の日」、それはその前のところに語られているように、神様ご自身がこの世に来られ、裁きを行い、救いと滅びとをお定めになる日です。そのことの前に、預言者エリヤが遣わされ、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」。つまり、神様と人々との関係を整えて、来るべき主の日を迎える備えをさせるのです。主イエスに先立って遣わされ、主イエスのための道備えをしたヨハネは、このエリヤに当る。このエリヤの働きによって、人々は救い主イエス・キリストをお迎えする備えを与えられたのです。しかしそこにも「あなたがたが認めようとすれば分かることだが」とあります。問題は、人々が、ヨハネを、このエリヤとして、救い主の先駆けとして認め、彼の示しに従って救い主との対面に備えていくかどうかです。ヨハネをエリヤとして受け入れる信仰の決断を、人々も求められているのです。「耳のある者は聞きなさい」という言葉も、その信仰の決断を求める言葉です。ヨハネをエリヤとして認め、そのエリヤが道備えをした主イエスにおいて、天の国がこの世に、私たちの現実の中に突入してきていることを信じる、その信仰の決断によって私たちは、天の国に与かる者となるのです。そして、ヨハネよりも偉大な恵みに与かる者となるのです。私たちは今、何を見にこの礼拝に集まっているのでしょうか。それは、み言葉によって私たちと出会って下さる主イエス・キリストとお目にかかるためです。礼拝においてそれが語られる時、生ける主イエス・キリストご自身が私たちと出会って下さるのです。み言葉と共に、本日共にあずかる聖餐においてもです。礼拝の中心は、御言葉と聖餐です。聖餐は見える神様の恵みです。いずれも私たちが主イエス・キリストにお目にかかり、主イエスと共に生きていくために与えられているのです。

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