夕礼拝

聖書に耳を傾けて生きよ

11月16日(日)夕礼拝
説 教 「聖書に耳を傾けて生きよ」 副牧師 川嶋章弘

旧 約 詩編第119編105-112節
新 約 ルカによる福音書第16章19-31節

人々によく知られた物語を語り直す
 ルカによる福音書16章を読み進めてきました。本日は19節から16章の終わりまでを読みます。ここで主イエスは金持ちとラザロの物語をお語りにました。聖書学者によれば、ここで主イエスが語った物語は、当時よく知られていた物語をベースにしていたようです。エジプトの物語の影響があるとか、ユダヤ教の文学にも似たような話があるとか、色々な指摘がなされています。しかし大切なことは、主イエスが当時の人々に親しみのある物語を用いてお語りになった、ということです。主イエスはよく知られている物語を語り直すことを通して、人々と私たちに語りかけておられます。私たちは元々の物語とは異なる主イエスご自身のメッセージをしっかり受け止めていきたいのです。

金持ちとラザロ-地上の生涯
 さて19-21節では、金持ちとラザロの地上の生涯が描かれています。金持ちは、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」いました。紫の衣は、紫色の染料によって染められた上着で、とても高価なものでした。柔らかい麻布は下着として身に着けましたが、これもとても上質の布であったようです。「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と言われているので、この金持ちは仕事もせず遊んでばかりいたのかと思ってしまいますが、むしろ毎日、派手な生活、ぜいたくな生活を楽しんでいた、ということだと思います。この金持ちは高価な衣服を身につけ、毎日、派手な生活を楽しんで地上の生涯を過ごしたのです。
 この金持ちの家の門の前に、できものだらけの貧しい人が横たわっていました。この貧しい人の名前はラザロと言いました。主イエスがお語りになった譬え話や物語で、その登場人物の名前が語られているのはとてもめずらしいことです。多くは「ある人が」とか「ドラクメ銀貨を十枚持っている女が」とか、「父親は」、「息子は」、「兄は」というように語られています。それだけにここで「できものだらけの貧しい人が」ではなく、「ラザロというできものだらけの貧しい人が」と語られていることは特別なことなのです。ラザロは金持ちの家の門の前で横たわり、「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思って」施しを乞うて生きていました。できものによる痛みやかゆみに絶えず苛まれる中で、彼は自分の身体を横たえるしかありませんでした。「横たわる」と訳されている言葉は、もともと「投げる」とか「ほうる」という意味の言葉です。文字通り彼が門の前に投げ置かれたとか、放られたということではないでしょう。しかしラザロには門前で横たわって施しを乞うて生きていく以外の選択肢はありませんでした。その意味で彼は、自分自身ではどうしようもできない状況に投げ置かれ、ほうられて生きていたのです。

地上の生涯で与えられていたもの
 このように19-21節では、金持ちとラザロの地上の生涯の違いが対照的に描かれています。お金を持っているか、持っていないかの違いだけではありません。金持ちは自分の人生を選ぶことができました。彼の人生には多くの可能性があったのです。彼は持っている富を派手な生活をして楽しんで生きるためではなく、別の仕方で用いることもできたはずです。それに対してラザロは自分の人生を選ぶことはできませんでした。痛みやかゆみによる苦しみを抱えつつ、金持ちの家の門の前で横たわり、施しを乞うて生きるしかなかったのです。25節でアブラハムがラザロにこのように言っています。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた」。地上の生涯において金持ちは多くの良いものを与えられ、ラザロは悪いものを与えられました。絶えず痛みやかゆみをラザロに与え続けた全身のできものは、その悪いものの最たるものであったのです。しかし彼には金持ちの持っていないものが一つだけありました。それが「ラザロ」という名前です。金持ちは多くのものを持っていたにもかかわらず、その名前は語られていません。しかしできもののほかに何も持っていなかったこの貧しい人には、ラザロという名前が与えられていたのです。

金持ちとラザロ-死後の様子
 金持ちとラザロは地上の生涯を対照的に生きましたが、しかし二人とも地上の生涯の終わり、つまり死を迎えたことに変わりはありませんでした。22節以下では二人の死後の様子が語られています。ラザロは「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました。原文には「宴席にいる」という言葉はありませんが、13章28-29節で、神様によって集められた人々が、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちと神の国で宴会の席に着く、と語られていました。ですからここでもラザロが神の国の宴会の席に、しかもアブラハムのすぐそばの席に着いたことを見つめているのかもしれません。要するにラザロは、神の民イスラエルの最初の父祖であり、神様の救いに与る人たちの先頭にいるアブラハムのそばに迎え入れられ、神様の救いに与る者に加えられたのです。それに対して金持ちは陰府で、つまり死者のいる場所でさいなまれていました。目を上げると、アブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えました。そこでラザロは大声で言います。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」。しかしアブラハムはこのように言いました。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。金持ちとラザロの逆転が語られています。生きている間に良いものをもらっていた金持ちが、今はもだえ苦しみ、生きている間に悪いものをもらっていたラザロが、今は慰められているのです。ラザロは地上の生涯でできものによって苦しみましたが、今は慰められ、金持ちは地上の生涯でぜいたくな生活を楽しみましたが、今はもだえ苦しんでいるのです。

善いことをすれば天国、悪いことをすれば地獄なのか
 私たちはこのことをラザロは天国に行き、金持ちは地獄に行ったと受け止めることが多いのではないでしょうか。地上の生涯で派手な生活を楽しみ、門前にいるラザロになにも与えず、助けようともしなかった金持ちは、死後、その罰として地獄に落とされ、一方、地上の生涯で貧しさと苦しみに耐えて生きたラザロは、死後、報われて天国に入れられた、と受け止めるのです。つまり悪いことをすれば地獄に落ち、善いことをすれば天国に入れられる、と考えるのです。最初にここで主イエスは人々に親しみのある物語を語り直していると申しました。元々の物語では、悪いことをすれば地獄に落ち、善いことをすれば天国に入れられる、という内容であったのかもしれません。しかし主イエスはここでそれと同じことを言っているのではないと思います。人々が知っている物語に沿いつつも語り直しているのであり、主イエスご自身のメッセージがあるのです。実際、この物語において、悪いことをしたから陰府でもだえ苦しむことになった、とは語られていません。同じようにラザロが善いことをしたから、アブラハムのすぐそばに迎えられ慰められている、とも語られていません。そもそもこの金持ちは、本当にラザロになにも与えず、助けようともしなかったのでしょうか。金持ちはアブラハムに向かって「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と言っていました。この金持ちは、自分の家の門の前にいた貧しい人のことを知っていた、しかもラザロという名前であることも知っていたのです。よく考えてみれば、この金持ちはできものだらけのラザロが自分の家の門の前にいることを許していました。私たちにはなかなかできることではないと思います。私たちであれば、家の前にいられるのは困るから別の場所に移ってもらおうと考えてしまうのではないでしょうか。しかしこの金持ちはそうしませんでした。きっと彼はラザロになにも与えなかったのではなく、施しもしていたのだと思います。この金持ちは自分なりにラザロを助けようとしていたのであり、自分なりに善い行いをしていたのです。

文脈の中で読む
 いや、そうではない。物語というのは、何もかもをはっきり語るのではなく行間で語るのだから、やはりここは善いことをすれば天国に行き、悪いことをすれば地獄に行くと受け止めるのが自然だ、と思われるかもしれません。この箇所だけで考えるなら、そのような面もあります。しかしこれまでの文脈を考えるなら、主イエスの物語をそのように受け止めるのは、むしろ不自然です。前回の箇所16章14節以下で主イエスは、律法を守り、善い行いをしていたファリサイ派の人たちに「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と言われました。救われるために善い行いを積み重ねることは、結局、自分の利益を求めているだけであり、神様に忌み嫌われる、と言われていたのです。救いは善い行いを積み重ねることによってではなく、神様の一方的な恵みによって与えられます。その主イエスが本日の箇所では、善いことをすれば救われ、悪いことをすれば救われない、と語っていると受け止めるのはむしろ不自然なのです。

持てる者と持たざる者が見つめられているのか
 さらに別の問題もあります。仮に金持ちが貧しい人を助けなかったから、陰府でもだえ苦しんでいると読むとして、そのとき私たちはどんなメッセージをこの物語から聞き取るのでしょうか。私たちはおそらくこの物語において自分を金持ちの立場に置くと思います。派手な生活、ぜいたくな生活をしているわけではありませんが、世界を見回せば、私たちより貧しい生活をしている人たちが大勢いるからです。世界の中で私たちは持てる者、豊かな者に違いありません。そのような私たちが、この物語の金持ちのように死後もだえ苦しまないように、生きている内に持たざる者のために、貧しい人のためにもっと援助をしなくてはならない、ということをこの物語から聞き取るのでしょうか。もちろん貧しい国、貧しい人たちのための支援をすべきなのは言うまでもありません。しかしそれが主イエスのメッセージなのでしょうか。そして私たちは今よりも支援をしたら、自分はこの金持ちとは違う、だから死んでから苦しむことはない、と安心するのでしょうか。それで良いわけがありません。主イエスは金持ちとラザロの姿を通して、持てる者と持たざる者、豊かな人と貧しい人を見つめているのではなく、もっと別のことを見つめているのです。

悔い改め
 主イエスが本当に見つめていることは、27節以下を読み進めていくと示されていきます。ラザロをよこして苦しんでいる自分を助けてほしいと言った金持ちに対して、アブラハムは「できない」と言われました。しかし金持ちはさらにアブラハムにこう言いました。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。金持ちは家族思いでもあったのです。自分の兄弟が自分と同じ目に遭ってほしくない、自分と同じ苦しみを味わってほしくないと思っていたのです。同時にこの金持ちは、なぜ自分が死後、苦しい場所に来ることになったのか、その理由を分かってもいました。30節で彼はこのように言っています。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」とは、「こんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせて、悔い改めさせてください」ということなのです。つまり金持ちは自分が今、苦しんでいるのは、生きている間に悔い改めなかったからだ、と分かっていたのです。

 この金持ちの姿を通して見つめられているのは、彼がラザロを助けようとしなかったことでも、善い行いをしなかったことでもなく、彼が悔い改めることがなかった、ということです。悔い改めるというのは、反省することではありません。そうではなく方向転換をすることです。神様からそっぽを向いて生きていたのに、神様のほうに向き直って生きることです。反省は神様のほうに向き直らなくてもできます。自分のあれが悪かったこれが悪かった、二度と同じことがないように気をつけようというように、反省は自分の中だけで完結できるのです。しかし悔い改めはそうではありません。正反対ですらあります。自分のことばかり考え、自分の中で完結するのを止めて、神様の眼差しに目を向け、神様に立ち帰って生きることなのです。あの放蕩息子は、「我に返って」父親のもとに帰りました。自分が本来いるべき場所は神様のもとにあると気づき、我に返って、神様のもとに立ち帰るのが悔い改めです。神様のもとに立ち帰り、神様と共に生きることこそ、悔い改めて生きることなのです。
 しかしこの金持ちは、神様に立ち帰って生きることはありませんでした。彼は神様から多くの良いものを与えられていましたが、毎日、派手な生活をするために、つまり自分の欲望を満たすためにそれらを用いたのです。彼は貧しい人をまったく顧みないような人ではありませんでした。できものだらけのラザロが自分の家の門の前にいることを寛大に許し、施しも与えていたに違いありません。自分なりに貧しい人を助け、善い行いをしていたのです。家族思いの一面もありました。そうであっても彼は、神様に立ち帰って、神様のもとで生きたのではなかったのです。

聖書に耳を傾けて生きよ
 金持ちは、自分と同じ苦しみを自分の兄弟が味わわないように、ラザロを遣わして彼らによく言い聞かせるよう願いました。それに対してアブラハムは29節で「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言いました。金持ちは食い下がって「死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と言いましたが、アブラハムは「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言いました。「モーセと預言者」とは旧約聖書のことです。アブラハムは旧約聖書に耳を傾けるよう言ったのです。それに対して金持ちは死んだ者が生き返るという奇跡を見れば、兄弟たちは信じ、悔い改めると言いました。私たちも奇跡をこの目で見れば信じられるのにと思うことがあります。しかしそうではありません。たとえ奇跡を目の当たりにしたとしても、聖書に耳を傾けないのなら、その奇跡に驚くことはあったとしても、神様を信じることも、神様に立ち帰って生きることもないのです。信仰は、また悔い改めは、聖書のみ言葉を通してこそ起こされていくからです。聖書に耳を傾けて生きよ、と言われているのは、今とは異なり、当時、聖書は読むものではなく聞くものであったからです。とりわけ人々は会堂で朗読される聖書のみ言葉を聞いていました。そうであればこの金持ちやその兄弟は、会堂の礼拝に行かず、聖書のみ言葉を聞いていなかったということなのでしょうか。金持ちは手遅れだとしても、兄弟はこれからもっと礼拝に出席して、聖書の朗読に耳を傾けなさい、ということなのでしょうか。そうではないと思います。きっと金持ちもその兄弟も会堂の礼拝には出席していたのです。聖書の朗読を聞いていたのです。アブラハムに「父アブラハムよ」と呼びかけている金持ちが聖書を知らなかったはずがありません。ですから「聖書に耳を傾けて生きよ」とは、礼拝に出席して聖書のみ言葉に耳を傾けること以上のことを見つめているのです。それは、聖書のみ言葉を通して告げられる神様のみ心に耳を傾けて生きよ、神様のみ心に聞き従って生きよ、ということです。先週の箇所でも、神様の恵みによって救われた者が、律法に示されている神様のみ心をしっかり受け止めて生きていくことが見つめられていました。ここでも「聖書に耳を傾けて生きよ」とは、み言葉を聞くだけでも読むだけでもなく、聖書のみ言葉と説教を通して告げられる神様のみ心をしっかり受け止めて生きよ、ということなのです。それは、神様の御心を示されるのに、神様を信じ、神様に立ち帰って生きるのに、聖書のみ言葉と説教のほかに必要なものは何もないということでもあります。み言葉だけで十分なのです。この金持ちは、み言葉を与えられていなかったのではありません。与えられていたのです。しかし彼は、み言葉に本当に耳を傾けて生きようとしませんでした。聞いてはいても神様のみ心を受け止めようとしなかったのです。だから神様から預かっている多くの良いものを、神様のために、隣人のために用いるのではなく、自分の欲望を満たすために用いたのです。

私たちにもラザロという名が与えられている
 貧しい人にはラザロという名前が与えられていました。ラザロとは、「神は助ける」、「神が助けてくださる者」という意味です。まさにラザロは、神様が助けてくださることにすがって、神様の憐れみにすがって生きました。自分の力では自分の人生をどうすることもできなかったラザロの姿は、自分の力を手放し、神様の憐れみにのみ頼って生きる者の姿にほかなりません。ラザロは貧しさと苦しさを抱えて生きたから、死後、その報いとして慰めを与えられたのではありません。神様が助けてくださり、憐れんでくださることにすがって生きたラザロを、神様は確かに助け、憐れんでくださり、死を越えて慰めを与えてくださったのです。金持ちの名前は語られていませんでした。しかし彼にも、ラザロという名前が与えられていると言っても良いと思います。彼だけではありません。私たち一人ひとりにもラザロという名前が与えられているのです。私たち一人ひとりに「神は助ける」という約束が与えられているからです。私たち一人ひとりが「神が助けてくださる者」にほかならないからです。私たちを助けてくださるという神様のみ心が、み言葉を通して私たちに告げられています。金持ちはこのみ心を受け止めませんでした。しかし私たちはこのみ心をしっかりと受け止め、自分を中心とし自分の力に頼って生きるのではなく、神様に立ち帰り、神様が私たちを助け、憐れんでくださることにより頼んで生きていくのです。誰もが地上の生涯において死を迎えます。しかし神様の助けと憐れみは、死によって妨げられることはありません。死を越えて神様は私たちを助け、憐れんでくださるのです。そして私たちは聖書に耳を傾けて生き、神様の助けと憐れみにより頼んで生きる中でこそ、その助けと憐れみに感謝して、それぞれが神様から預かっているものを、神様と隣人のために用いていくことができるのです。

関連記事

TOP