夕礼拝

同じ報いを受ける

「同じ報いを受ける」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第14章10―17節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第10章40―42節
・ 讃美歌 : 536、457

主イエスに従う
 本日は共にマタイによる福音書第10章40節から42節をお読みします。この10章では主イエスの招きによって12人の弟子が選ばれ、そして、主によって伝道へと派遣されるに際しての教えが語られております。弟子たちに対する励ましの御言葉が語られております。弟子たちを励まし、勇気づける御言葉です。主イエスは本日の箇所では「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」とお語りになりました。主イエスは遣わされる弟子たちに対して「あなたがた」と語り、「わたし」とは御自分を指しています。42節にある「わたしの弟子」というのは、遣わされる12人の弟子たちのことを示しております。「弟子」とは主イエスの後に従っていくことを意味しています。主に従うとは、主イエスによって招かれ、主イエスによって招かれ、この世へと遣わされ、この世の中で生きていくのが弟子の姿であり、信仰者の姿です。信仰者であるということ、私たちが信仰に生きるとは、主イエスの後に従うことであり、主に遣わされて生きることなのです。主イエスは、「弟子たちを受け入れる」つまり「信仰者を受け入れる」とは「わたし」主イエス御自身を受け入れるのと同じであると言います。主イエスを受け入れるとは、主イエスを遣わされた父なる神を受け入れるのと同じです。主イエスを受け入れる者は、主イエスをお遣わしになった方、即ち父なる神を受け入れるということです。主イエス・キリストは父なる神から与えられた、派遣された、遣わされた方であります。そして、神の国の福音を伝える伝道者であるということです。私たちが伝道をする、主の御言葉を伝えるというのは何か自分の発見した真理を秘伝として持っており、他の者がそれを求めてやってくる人に伝えるということではありません。私たちが伝えることは、ただ一方的に父なる神様から遣わされた方の出来事です。神から与えられた恵みの出来事を伝えるのです。与えられた恵みを人々と共に受けようとして、自分から出て行くということです。その原型には、その根本には主イエス御自身の出来事があります。主イエスは父なる神から遣わされたお方です。父なる神がその愛する御子をこの世に、私たちのところに遣わされたというこの事実を伝えることです。私たちはこの事実を伝えるために派遣され、遣わされていくのです。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」と主イエスは言われます。

同じ報い、永遠のいのち
 そして主イエスは続けます。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」ここでの預言者とは、この預言者とは伝道する伝道者であり、町々を歩いて旅をしていました。ここでは、預言者というのはこの時代どのように働いたということには言及はしません。預言者を受け入れ、預言者と交わりを持つ人は、また正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」とあります。預言者と同じ働きをしなくても、預言者を預言者として受け入れる人は、預言者が受けるのと同じ報いを受けることができる、というのです。同じ報い、神の祝福、恵みを与えられる、共有するということです。更に42節では「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とあります。弟子の中の小さな者の一人に、つまり私たち信仰者の中の小さな一人に、冷たい水一杯を飲ませてくれる、そういう小さな好意を示してくれるだけで、神様はその人を、信仰者と同じように報いて下さる、つまり主イエス・キリストによるまことの命にあずからせて下さると、いうのです。主イエスはここで最初に「はっきり言っておく。」と言いました。これは以前の口語訳聖書では「よく言っておくが」となっております。そして、最後の部分は「決してその報いからもれることはない」と言われるのです。「報いからもれることはない」とは「永遠の報いを受ける」とも言えます。主イエスによるまことの命、永遠のいのちにあずからせて下さるということです。

小さな行為
 冷たい水を一杯飲ませてくれるという小さな行為というのは、本日の箇所と似ている箇所にも出てきます。同じマタイによる福音書第25章40節です。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」小さな行為、最も小さき者にした小さな行為の一つ、小さくてあまりにも値打ちもない行為でも、どんなに小さなことでも「わたしにしてくれたことなのである。」と主イエスは言われるのです。ここでは、世の終り、救いの完成の時を待ち望む中で語られております。終りの裁きのときにも、主イエスはそのようにいって下さるのです。この10章では「小さな者ひとり」とは信仰者です。私たち一人ひとりのことだと言われます。その私たちに、誰かが水一杯でも飲ませてくれたら、永遠の命を得ると言われたのです。それはそれほどに私たち一人ひとりが値打ちを持っているということです。

他者との比較の中で
 元々私たちは、この世の生活をする中で、自分が他人にどのように評価をされているのかということを絶えず気にしています。どのような値打ちがつけられているのかということを気にします。そのようなこと、周囲からの評価からまったく自由な人は珍しいと思います。自分は人からの評価など気にならないと、すました顔で行いをしているようであっても、人が自分について何か言うのを聞くと、心の奥でそれを気にします。褒め言葉に喜び、根拠のない言葉にも動揺し、明らかな中傷に腹を立てる者です。人の評価に一喜一憂します。重んじられても軽んじられても、注目されても無視されても、その波にもてあそばれるような私たちです。自分の値打ち、自分の存在の価値がどう計られているのかということを忘れることが出来ません。私たち信仰者にとって大切なことは、主イエスが私たちをどのような値打ちを持つものとして計り、どのように取り扱ってくださるか、ということであります。主イエスからどう見られているのかということよりも、他人からの評価、どのように値打ちを図られるのかということに一喜一憂する私どもが救われる、救いにあずかる、永遠の命にあずかるということを、私たち自身どれだけ知っているでしょうか。改めて、感謝をもって受け止めたいと思います。主イエスからどのように見られているのかということは、私たちが他者との関係において生きる時にも関わってきます。それほど、大きな意味を持つことであり、私たち一人ひとりについて語られています。

小さな者を受け入れる
 この42節は主イエスが弟子たちを、伝道に派遣されるときの言葉の1節であります。また、その結びの言葉でもあります。弟子たちは、この主イエスのお言葉に従い、主イエスがなさったのと同じように、町々村々を歩いて伝道をしました。41節の「預言者」も同様に次々と場所を変えて伝道の旅をしていました。この預言者とは伝道する伝道者であり、町々を歩いて旅をしていました。この主イエスの言葉に「受け入れる」という言葉が何度もありました。この「受け入れる」とは具体的な意味を持ちました。その伝道者を喜んで家に迎え入れる、わが家に迎え入れる、そのような意味を持ったのです。そして、それは神様を迎え入れることでもありました。主イエスを遣わされた神を迎え入れる。自分の家に迎え入れることになるのです。私たち一人ひとりが、どのように扱い、扱われるかということが、その人の救いを定めるほどのことであるのです。42節の「小さな者」という言葉は文字通り小さな子供を意味することもありますけれども、ここでは弟子たちのことを指しております。立派な大人を「小さな者」「子供」とさえ呼んでいるのです。また、「冷たい水一杯」とあります。これは私たちの感覚で言いますと大した値打ちのないことのようなです。最近は、水は購入する時代ですが、このマタイによる福音書においてもほんの小さな愛の行為と考えることもできます。しかし、聖書の時代ですと昔のユダヤのことですので水は貴重なものです。自分たちの家族の、いのちの絆のような水を貯めておくと、旅人が求めてくる。そのときに提供する水は、とても貴重な水なものであるということです。もし、その水を与える相手が大きな存在、権力者、財産家であって、この水に、十分に報いてくれるに違いない、と思える人があるならば、ためらわずに提供するかもしれません。しかし、まさしくそこで、イエスの弟子たちは小さいのです。そのような意味で、信仰者の存在も小さいものであるということです。冷たい水一杯を提供する値打ちがあるかどうか、不審に思うかもしれません。「小さい」とはそういう意味です。この人を尊び、愛する価値が、本当にあるのかと問わざるを得ないほどに、それほどに、この世において卑しく、力が弱く、無力で、この世の特権に生きる者ではなかったのです。

小さな者とは
 なぜ、そうだったのでしょうか。なぜそのように「小さい」と言われるのでしょうか。この世において小さな存在である、色々な意味での小ささだったでしょう。主イエスによって「小さい」と言われるのは、それは弟子たちが、主イエスの弟子であったからです。主イエスの弟子であるためには、十字架を負うからです。本日の箇所の前の38節にはこのようにあります。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」とあります。主イエスの弟子であるためには、主イエスに従うには、すべての財産を、人に施して、主の後に追ったのです。それは躊躇う道です。そして、やっとの思いで、その道に生き始めたとき、世の人々がそれを直ちに尊敬し始めるということはありません。むしろ、真実の意味で「小さな者」とされるのです。弟子たちは初めから小さかったのではありません。主イエスの弟子となることによって、主に従って行くことによって「小さい者」とされるのです。本当に小さく、主に従う者とされていくのです。使徒パウロは主イエスと出会う前は模範的なファリサイ人でありましら。自分こそはユダヤ人の中のユダヤ人であると考えておりました。そして、復活の主イエスと出会い、主イエスに捕らえられた後は初めて、自分が土の器であることを知るのです。主イエスと同じ貧しさに生きるように定められたことを知るのです。主イエスと同じように毎日を滅びの道を歩まなければならないことを悟ったのです。主イエスが十字架への道を歩まれた。その後を従う、自分の十字架を担って歩む。それは神の栄光を表すためにです。人を愛するためにです。主イエスを信じて生きるためです。しかし、まさにそのゆえにこそ、その「小さい」というのは「主イエスと共に生きる」ということになります。
 主イエスと共に生きる共同体はこのキリストの体なる教会です。主イエス・キリストは教会としてこの世に存在します。主イエス・キリストは死んで復活され、天におられます。そして霊においてこの世において、私たちと共に生きておられます。まさしく、神が遣わされた主イエスは、この聖霊の注がれる世において教会です。教会の御言葉を聞くことです。41節には「預言者」という言葉がありました。私たちは、主イエスに遣わされた者として、どこにあっても、その言葉と生活において神の言葉を語ります。そして、この預言者と言う言葉はまた「小さな者」と言う言葉とも重なります。

主と共に
 本日は共に出エジプト記4章10-14をお読みしました。イスラエルの民の指導者として、召されたときのモーセの話しです。神の民の指導者の言葉は重いのです。それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」私たちはみな「小さい者」です。この小ささは信仰の怠慢を正当化するものではありません。私たちは小さく、弱い者です。相手を見て、自分の水を飲ませようか、判断をします。それも与えられた水です。そのようなものさえ、出し惜しみする者です。自分の状況において言い訳はいくらでもできます。主なる神は言われます。「わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。」このように語って下さるお方と生きるとき、教会に生きるとき、私たちは「小さな者」の強さに生きます。

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