夕礼拝

わたしのために命を失う者

「わたしのために命を失う者」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: ミカ書 第7章6-7節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第10章34-39節
・ 讃美歌 : 460、572

私が来たのは剣をもたらすため
 本日は共にマタイによる福音書の第10章34節から39節までをお読みします。マタイ福音書第10章は、主イエスによって選ばれた十二人の弟子たちに対して伝道へと派遣される際の教えが述べられています。伝道へと遣わされる弟子たちへ励ましの御言葉が語られております。弟子たちを励まし、勇気づけております。聖書には、私たちを慰め、励ましを与え、私たちを導いてくれる御言葉が沢山記されております。同時に、時に非常に厳しい主イエスの御言葉も記されております。本日の箇所は厳しい主イエスのお言葉から始まります。34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(34節)とあります。主イエスがこの地上に来られたのは、平和をもたらすためではなく、「剣をもたらすために」来られたとあります。主イエスのイメージとは全く違う主イエスの御言葉が語られております。そして、更に続けて35節では「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」と主イエスはおっしゃいました。主イエスがもたらす「剣」とは、「自分の家族の者が敵となる」と言うことです。自分の家族の者、親子、兄弟姉妹という家族の間で、「敵」となるということが起こるのです。主イエスがこの世に来られたことによって、それはつまり主イエスを信じることによって、家庭内に不和が起こり、家族が崩壊すると言われています。

命を得る歩み
 その理由は、37節にもありますように「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」という主イエスのお言葉からも分かります。主イエスは、父や母、息子や娘という家族への愛よりも、主イエスへの愛を優先させよと言っておられます。そのような主イエスの要求の下で、家族の間に不和が起っていきます。このような主イエスの御言葉は信仰者である者にとってもなかなか受け止めることができない主の御言葉です。主イエスがもたらすのは平和ではなく「剣」だというのです。しかし、この主の御言葉は単に私たちの家庭に不和をもたらし、敵対関係を生じさせようとしているのではありません。39節にはこのようにあります。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。主イエスは、主イエスは、命を本当に得るためにはどうしたらよいのか、ということおっしゃっています。
 私たちの歩みとは、日々命を得ようとする歩みです。それは肉体の命を少しでも永らえるということもあります。それだけではありません。「命を得る」とは私たちの自分の人生が充実したものなるようにするということでもあります。そして、そのような充実した幸せな人生を送ることを願い求めています。充実した人生には家庭の平和、家族の愛ということもあります。家族を愛する歩みというのも私たちの求めるものです。主イエスは、そのような命を求めることがいけないと言っておられるわけではありません。ここで主イエスは言おうされていること、それよりも、主イエスがここで問われておられるのは、あなたはその命を本当に得ているかどうか、ということです。私たちは命を得たいと願い、日々いろいろ努力をしております。健康を得て長生きをする、充実した人生を送るためにいろいろな努力をする。けれども、そのような私たちの努力によって、私たちは本当に命を得ることができるでしょうか。私たちは自分のことや家族が病気や老いを抱えるその中で、元気になりたいと願い、家族にも元気でいて欲しいと願います。けれども、必ずしも願い通りにはいきません。むしろ弱りや衰えを感じてしまうことがあります。家族の問題においてもそうです。表面的には理想的な家族に見えるかもしれません。しかし、1つ1つの家庭は様々な問題を抱えております。そのような家庭内の不和・対立という悲しみ苦しみがある中で、どうにかしてそれを解決したいと願います。しかし、いっこうに状況は改善されない、むしろ悪くなるということがあります。これからの自分の人生の歩みに色々な不安があります。愛する家族を失った悲しみ、解決の見えない絶望感の中で、何とかその悲しみを乗り越えて、前向きに、希望を持って生きていきたいと思います。しかし、そのような、そのような求め、表面的に繕っていることによって反対に自分で自分を縛りあげるということがあります。本当に自由になれない、命へと向かっていけないのです。一生懸命、努力をして願い求めている命を得ることができない。そのような姿が私たちの現実であります。私たちは自分の命を自分のものとして手に入れることなどできないということをそこで決定的に思い知らされるのです。

主イエス・キリストは
 主イエスはここで、「わたしのため」と主イエスのためにたとえ命を失うことがあっても、そこにはまことの命があると信じることです。つまり、本当の命が主イエスのもとにこそあることを信じる者こそが、まことの命を得るのだと言われているのです。何か信仰的な業や行いによってまことの命が得られるというのではありません。ここで示されておりますことは、自分のものである命を求めるか、主イエスのもとにある命を求めるか、ということです。
 主イエスは神の独り子として私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして三日目に復活されました。独り子主イエスにおいて、神様は、私たちの罪と死とをご自分の上に引き受けられました。私たちは神に背き、隣人を傷つける罪を犯している者です。そこから起ってくるいろいろな事柄によって、自分の罪をいやが上にも自覚させられます。主イエスの十字架による罪の赦しと復活されたことによって死から復活されました。この主イエスのもとに、まことの命があると信じることが信仰です。この信仰に生きる時に、私たちの間に色々な軋轢が生じます。それは家族の間においてもそうです。主イエスはそのことを示しておられます。信仰が家族の間でも理解を得られず、対立関係が生じてしまうことがあります。その時私たちは、信仰による苦しみを体験します。信仰をもって生きることには、喜びや平安のみではなく、このような苦しみが伴うこともあるのです。それを、「こんなはずではない」と思ってしまってはならないのです。38節に、「自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない」と言われているのはそのためでしょう。私たちは、自分の十字架を担って主イエスに従うのです。それは何か大それた重荷を負うことではありません。最も近く親しい家族にも理解されずに苦しみます。それが私たちの担うべき十字架です。その十字架を、ほうり出してしまわないで、担い続けることが大事です。時間はかかるかもしれません。主イエスのもとのまことの命を求め続けることが大切です。主イエスは私たちのために、先立って十字架を担って下さいました。私たちだけが十字架を背負わされているのではありません。主イエスが誰よりも先に、そして誰より十字架において苦しまれ、悲しまれました。私たちが自分に与えられている苦しみを負いつつ歩む時に、この十字架にかかって死んで下さった主イエスが共にいて下さるのです。
愛によって

 私たちは主イエスの弟子として、神様によって、この世に遣わされています。主イエスの弟子として、主イエスを愛し、依り頼み、主イエスに従って生きるということは決して簡単な歩みではありません。私たちは自分自身の中においても弱さを持ち、更にこの世の様々な力に翻弄されます。私たち人間は、神様以外のものに心を奪われ、他のものを愛し、依り頼んでしまいます。そのような誘惑の日々でもあります。主イエスに従うことよりも、自分を優先してしまう者です。主イエスはそのような私たちに「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と厳しいお言葉を語ります。「自分の十字架を担う」とは私たちは苦しみや悲しみの中で、神様の導きを忍耐して待たなければならないことです。この十字架は、私たちが主イエスについて行く、主イエスの後に従って行くことにおいて背負うものです。十字架は、主イエス・キリストが私たちの救いのために背負って下さったものです。
 その主イエスに従っていく歩みにおいて私たちも自分の十字架を背負うのです。死ぬまで背負い続けなければならない重荷もあります。そのような歩みの中で、主イエスに従っていくことよって私たちが背負う十字架は、既に主イエス・キリストがそれを背負って下さっていました。信仰のゆえの苦しみを味わわなければならない時もあります。その時には、私たちのために十字架を担って苦しみの道を歩んで下さった、その主イエスに、自分の十字架を担って従っていくのです。それは何よりも主イエス・キスとご自身が示されました。「イエスは、わたしたちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。」(ヨハネの手紙一第3章16節)

十字架を担って
 主の御言葉は大変厳しいです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。この「わたしにふさわしくない」は「わたしの弟子ではありえない」と同じことです。自分の命よりも主イエス・キリストをより愛し、大切にするということなのです。主イエスがここで教えておられるのは、家族を、また自分の命を愛することをやめ、家族を愛し大切にしつつ、また自分の命も大切にしつつ、しかしその家族や自分の命以上に、主イエスを愛して生きることなのです。私たちが本当に愛し、依り頼んでいる相手は誰なのか、自分が持っているもの、自分の命、家族、様々な人間関係、財産、地位、名誉、健康でしょうか。それとも主イエス・キリストでしょうか。どちらなのかということなのです。主イエスの弟子として、信仰者として生きるというのは、自分の持っているものを愛し、それらに依り頼んで生きることをやめて、主イエスをこそ愛し、主イエスにこそ依り頼んで生きていくことです。主イエスは私たちにそのことを求めておられるのです。それは主イエスご自身のためではありません。むしろ私たちのためです。主イエスをこそ愛し、主イエスに依り頼む信仰によってこそ私たちは、自分の命を、家族を、また与えられている様々な持ち物を、本当に大切にして生きることができるのです。
 それは、私たちが自分の命、自分に与えられている家族、すべてのものが自分のものではないからです。自分に与えられている命、家族、すべてのものを本当にかけがえのないものとして大切にしていくことができるのは、それが神様の恵みによって与えられたものだからです。神様の独り子であられる主イエスが、ご自分の命を身代わりに与えて下さるほどにそれを大切に思って下さり、私たちを愛して下さっていることを知ることによってです。苦しみや絶望の中において、まさに命が失われていく中で、また自分の命などもういらないと私たちが思ってしまうような時にも、主イエス・キリストは、その私たちの命を心から愛して下さることを知ります。私たちのために身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったその恵みによって支えられているのです。この主イエスを信じ、愛し、依り頼んで生きる所には、人間の力や思いを超えた慰めと励ましが与えられます。その主イエスの慰め、励ましの中を歩むのです。

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