主日礼拝

生きている者の神

「生きている者の神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第3章1-6節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第20章27-40節
・ 讃美歌:7、120、579

黙ってしまった
 今読んでいるルカによる福音書の第20章のこれまでの所には、主イエスがエルサレムに来られ、毎日神殿の境内で人々にみ言葉を語っておられ、多くの人々がその教えを喜んで聞いている、という状況の中で、当時のエルサレムの宗教指導者であった祭司長や律法学者たち、長老たちが、なんとかしてイエスの権威を失墜させ、民衆への影響力を小さくしようとしていろいろと論争を挑んできたことが語られていました。先週読んだ20節以下の、皇帝に税金を納めることが律法に適っているか否か、という問いなどは、まさにイエスの言葉尻を捉えてローマ帝国の総督に引き渡そうとしてなされたものでした。しかしそれらの悪意ある問いに対して主イエスは見事に切り返され、彼らの目論見はことごとく外れたのです。先週の最後の所、26節には「彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった」とあります。イエスを批判してやろう、やっつけてやろう、と勢い込んでいたのに、黙らざるを得なくなったのです。

復活を否定するサドカイ派
 本日の27節以下には、祭司長、律法学者、長老たちに代って別の人々が登場します。サドカイ派の人々です。サドカイ派はファリサイ派と並んで、当時のユダヤ教を二分していた勢力ですが、このグループは祭司たちを中心メンバーとしており、上流階級の人々が主に加わっていたものでした。ファリサイ派が、民衆の中に入って行って律法を教え、それを忠実に守って生きることを教えていたのに対して、サドカイ派は一部の特権階級の人々だけのグループだったのです。サドカイ派の特徴は、聖書、というのは勿論私たちにおける旧約聖書ですが、その中でも最初の五つ、つまり創世記から申命記までの「モーセ五書」と呼ばれる部分を大切にし、そこに書かれていることのみを信仰の規範とする、ということでした。そういう彼らの姿勢から、ファリサイ派との間には様々な違いが生じていましたが、その一つが、ここで問題になった「復活があるかどうか」ということでした。先ず確認しておかなければなりませんが、これは、死んだ人が生き返るという奇跡が起こり得るかどうか、ということではありません。神様によって今のこの世が終わるその時に、死者が復活して新しい命と体を与えられ「新しい世、来るべき世」を生きる、ということがあるのかないのか、ということです。旧約聖書には、「来るべき世」の存在を示す言葉はあまりありません。旧約の中でも比較的新しく書かれた後半の方には、それを臭わせるような箇所がいくつかあります。ファリサイ派は、それらの箇所を手掛りに、来るべき世における復活の命があると教えていました。それは彼らが民衆の中で活動していたことと関係があります。この世の現実の中で貧しさや様々な苦しみを味わっていた民衆は、復活して来るべき世を生きる者とされることに希望を置いていたのです。他方サドカイ派は復活を否定していました。モーセ五書には来るべき世における新しい命を示すような言葉はないからです。そのような彼らの信仰は、この世を生きている間のことだけに関心を持ち、死んだ後のことなどは考えない、という徹底した現世中心主義です。それは彼らが豊かな生活を送っていた上流階級だったことと関係があると言えるでしょう。彼らは、今のこの世における豊かな生活を維持することだけを考えているのです。従ってサドカイ派は保守的な、現状維持を望む勢力でした。ローマ帝国の支配の下で神殿での祭儀が維持され、祭司としての地位が保障されるならそれを受け入れ、ローマの支配に反抗するようなことは考えないのです。
 そういうサドカイ派の人々が今度は主イエスのもとに近寄って来て、ある質問をしました。この質問は、先週までの所におけるような、主イエスを陥れたり、その権威を失墜させようとするものではありません。これはどちらかというと、自分たちの主張の正しさを認めさせようとする問いであると言えるでしょう。復活して新しい世、来るべき世を生きるなどということはない、という主張をイエスにも認めさせるために彼らはやって来たのです。

モーセの律法と復活は矛盾する
 そのために彼らが持ち出したのは、モーセによって与えられた律法の中に定められている結婚の掟でした。28節にその掟が示されています。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」。この掟は申命記第25章5節以下にありますので、関心のある方はそこを読んでみて下さい。イスラエルの人々にとって、跡継ぎが与えられ、家系が存続することは何よりも大きな神様の祝福のしるしでした。それは日本の伝統的家制度の感覚とつながるものがありますが、イスラエルの場合にはそれが、「自分たちは神の民である」という信仰と深く結びついていました。跡継ぎが与えられるということは、神の民の一員として歩み続けることができるということであり、それが得られないことは、神の民の中から自分の家系が消えてしまい、神の祝福を失ってしまうことと考えられたのです。それゆえに、跡継ぎを得て家系を存続させることがとても大事であり、そのために、子が生まれずに死んだ兄に代って弟が兄嫁を妻とし、生まれた子供に兄の家系を継がせるべきことが定められていたのです。サドカイ派の人々は、この律法の掟のゆえに、復活と来るべき世の存在とを否定しようとしています。死者の復活を信じようとするとこの掟と合わないことが起る、だから復活などないのだ、と言いたいのです。
 そのために彼らは一つの極端な例を持ち出します。七人の兄弟が長男から始まって順番に一人の女性を妻とし、結局誰も子供をもうけずに死んでしまう、という例です。さあもしこの人たちが復活するなら、この女性は誰の妻になるのか、この人には七人も夫がいる、ということになってしまうではないか、死者の復活を信じようとするとこういうおかしなことが生じてしまうのだ、と言っているのです。

私たちの抱く疑問
 これはまさに極端な例ですが、しかし私たちも、使徒信条に告白されている「体のよみがえり」という信仰についてこれと同じような疑問を抱くのではないでしょうか。配偶者に死に別れて別の人と再婚する、ということは私たちの間にもあります。復活したら、どちらの人が自分の夫あるいは妻となるのか、というのはけっこう切実な問いです。復活についてのそういう問いは他にもあります。例えば、何歳ぐらいの姿で復活するのだろうか、死んだ時と同じ姿で復活するのだとしたらあまり有難くない、もっと若くて元気だった頃の姿の方がいい、とは言えあまり若すぎるのも何だし、何歳ぐらいの時の姿で復活したいか、という希望を聞いてもらえたらいいのだが、と思ったりもします。あるいは、生まれつき体や精神に障碍を持って生きている人もいます。復活してもこの障碍は同じように残るのだろうか、というのも深刻な問いです。そのように、「体のよみがえり」についてあれこれ考え始めるといろいろな疑問が出てきます。そうするとこのサドカイ派の人々のように、この教えには無理があるのではないか、復活などないのではないか、という気持ちにもなるのです。

めとることも嫁ぐこともない
 主イエスはこの問いにどうお答えになったのでしょうか。34、35節で主イエスはこう言われました。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」。七人の男と結婚した女性は誰の妻となるのか、という問いに対して主イエスは、復活においては、めとることも嫁ぐこともない、とお答えになったのです。それはどういうことでしょうか。復活して新しい命を与えられ、来るべき世を生きる者とされる時には、今のこの世での結婚、夫婦の関係は解消されて赤の他人になる、ということでしょうか。だとしたらこの教えは、ある人にとってはとても寂しい、悲しい教えに感じられるでしょうし、ある人には逆に喜ばしい解放の教えに感じられるでしょう。しかしその感想はいずれも正しくありません。36節にはさらにこう語られています。「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。ここには、復活する人々は「もはや死ぬことがない」とあります。つまり復活するとは、一旦生き返るけれどもじきにまた死んでしまう、ということではないのです。聖書には、主イエスが、あるいはペトロやパウロが、死んだ人を復活させたという奇跡がいくつか語られていますが、それらの人々は、復活したけれどもじきにまた死んだのです。だから復活があるかないか、という話においてこれらの復活の出来事を持ち出すのは適切ではありません。復活とは、もはや死ぬことがない者とされることであって、そのような復活をなさったのは、主イエスお一人です。復活して来るべき世を生きる者とされるとは、主イエスの復活に私たちもあずかって、もはや死ぬことのない、永遠の命を生きる者とされることなのです。それは「天使に等しい者」とされることだとも語られています。その「天使に等しい者」は、「復活にあずかる者として、神の子」なのだとも言われています。「復活にあずかる者」という言葉は、単純に訳せば「復活の子」です。「天使に等しい者」となるとは「神の子、復活の子」となることなのです。つまり、復活というのは、私たちが今地上を生きているこの体と心の有り様のままでもう一度生きる者となることではなくて、神の子である主イエスが復活して今も生きておられる、その天使に等しいお姿と同じ者とされることなのです。ですから、地上を生きる体と復活の体との間には大きな違い、隔たりがあります。今この地上を生きている自分の姿の延長線上に、復活して来るべき世を生きる自分の姿を考えてしまってはならないのです。「めとったり嫁いだりしない」というのはそういう意味です。この地上での夫婦の関係をそのまま復活へと持ち込むことはできないのです。しかしそれは、もう関係ない赤の他人になる、ということではありません。それもまた、地上の人間関係と同じ平面上で復活を捉えようとする間違いです。復活においては、地上を生きる私たちの命と体が完成されるのです。天使に等しい者となるとか、神の子となるというのはそういうことです。そしてそこにおいて、地上を生きる私たちの人間関係も完成されるのです。具体的に言うなら、赤の他人になってしまうことは寂しい、悲しいと地上において感じている仲睦まじい夫婦の関係も、赤の他人になることに解放を感じるという問題ある夫婦関係も、完成された関係となり、全ての問題を解決、解消されるのです。そこにおいては、例えば再婚したという地上の事情はもはや問題ではなくなります。何歳ぐらいの姿で復活するのか、ということも、あるいは体や心の障碍はどうなるのか、ということも同じです。それらの地上の事柄、問題、苦しみや悲しみの全てから完全に解放されて、永遠の命を生きる者となる、それが世の終わりに与えられる復活なのです。「体のよみがえり」について私たちが抱く疑問や問いは全て、地上を生きている今のこの体と同じ平面上で復活の体を考えようとすることから生じる見当外れの問いです。それらの疑問の全てを解決、解消して私たちを全く新しくし、主イエスと共に永遠の命を生きる者として完成して下さる神様のみ力を信じることこそが、復活を信じることなのです。

死者が復活すること
 さて36節までのところには、復活するとはどういうことか、が語られていますが、37節以降で主イエスは、もっと根本的なこと、つまり死者が復活するということそのものを語っておられます。そのことが聖書に、しかもサドカイ派が信仰の基準としているモーセ五書に、はっきりと語られていることを示しておられるのです。37節「死者が復活することは、モーセも、『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」。「『柴』の箇所」というのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記第3章の始めの所、モーセが、燃えているのに燃え尽きることのない柴を見ることを通して主なる神様と出会い、そしてイスラエルの民を奴隷とされているエジプトから解放するために遣わされる、という箇所です。そこに、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という主のお言葉があります。主イエスはそれを引用して、この言葉が、「死者が復活すること」を語っているのだと言っておられるのです。それはどういうことなのでしょうか。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という主の言葉がどうして「死者が復活すること」を語っているのでしょうか。

生きている者の神
 そのことを理解するためには、次の38節をも合わせて読まなければなりません。そこには「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とあります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。これを合わせて読む時に、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という主の言葉が、復活を指し示していることが見えてくるのです。このみ言葉はモーセに対して語られたものです。モーセにとって、イスラエルの民の最初の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブは、もうとっくの昔に死んだ、遠い昔の人々です。その先祖たちに現れ、導いた神が、今モーセにも現れ、彼を出エジプトの指導者として派遣しようとしておられる、というのがここの普通の読み方です。しかしそこに「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉が加えられる時、新しい意味が生れます。生きている者の神である主が、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃる時、モーセにとっては、つまり人間の思いや感覚においてはとっくの昔に死んだはずのアブラハムが、イサクが、ヤコブが、神にとっては生きている者であると宣言されるのです。神が、「わたしはこの人の神である」と宣言なさる時、その人は、たとえ既に死んだ人であっても生きるのです。なぜなら、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。生きている者の神が「わたしはこの人の神である」とおっしゃるなら、その人は生きるのです。
 そのことを語っているのが、38節の後半の、「すべての人は、神によって生きているからである」という言葉です。この訳だとこれは、「全ての人間は神様の恵みや守りによって生きているのだ」、という意味に捉えられがちですが、そういうことではありません。ここは以前の口語訳聖書では「人はみな神に生きるものだからである」と訳されていました。「神によって」と「神に」では意味が違います。原文をそのまま訳すと、「すべての者は彼に対して生きるからである」となります。「彼」というのはその前の「生きている者の神」です。人は、「生きている者の神」に対して、つまりこの神との関係、交わりにおいてこそ本当に生きることができる、逆に言えば、「生きている者の神」との交わりなしには本当に生きることができない、それがこの主イエスのお言葉の意味なのです。

罪に対して死んで、神に対して生きる
 生まれつきの私たちは、神様との関係において、つまり神様の方を向いて生きてはいません。神様の方を向いていないことが、聖書では「罪」と呼ばれています。生まれつきの私たちは、罪の方を向いて、罪との関係において、罪に支配されて、つまり神に対してではなく、罪に対して生きているのです。罪とは、神様をも隣人をも、愛することができず、むしろ憎み傷つけてしまうことです。その罪に支配されている私たちは、自分自身も本当に喜んで生き生きと元気に生きることができず、隣人を生かし元気にするのではなくむしろ傷つけ、殺してしまうような歩みに陥っているのではないでしょうか。そのように罪に対して生きている私たちが、神に対して生きる者とされ、神様との関係において、その救いの恵みにあずかって生きる者とされることが、聖書の教える救いです。私たちにその救いを与えるために、神様の独り子である主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったのです。そのことを、ローマの信徒への手紙第6章10節がこのように言い表しています。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」。主イエス・キリストの十字架の死は、罪に対しての死でした。主イエスご自身は何の罪もない神の子ですが、罪に対して生きている私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。そしてキリストは復活によって神に対して生きる者となって下さいました。罪に対して死んで、神に対して、神の恵みの中を生きる新しい命を私たちのために得て下さったのです。それが、主イエスの十字架の死と復活による救いです。この、罪に対して死んで、神に対して生きる者となる救いの出来事に私たちがあずかるために、洗礼が備えられています。先ほど読んだローマの信徒への手紙第6章は洗礼について語っているところです。洗礼とは、キリストの十字架の死にあずかることを通して、キリストの復活にもあずかることなのです。それゆえに、先ほどの続きの11節にこうあります。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。「あなたがた」というのは、「洗礼を受けたあなたがた」です。洗礼を受けることによって、あなたがたは、キリストの十字架の死にあずかり、キリストと共に罪に対して死んだ者となった、そしてキリストの復活にあずかり、キリストと共に神に対して、神の恵みの中を生きる新しい命を与えられたのだ、パウロはそう語りかけているのです。

私はあなたの神である
 罪に対して、罪との関係に生きていた者が、神に対して、神との関係に生きる者とされる、人はそのように新しくされることによってこそ本当に生きることができる、パウロが語っているこのことと、主イエスが本日の箇所で言っておられる、人は皆神に対してこそ本当に生きることができる、というのは同じことです。その神に対して生きる新しい命、真実の命を神が与えて下さることを信じることが、復活を信じることなのです。神様は、私たち一人一人の名を呼んで、「わたしはあなたの神である」と宣言して下さることによって、新しい命を与えて下さいます。その神様は、死んだ者の神ではありません。昔の人々に現れてあれこれしたけれどもその人々は結局死んでしまった、というのではなくて、主イエス・キリストをもはや死ぬことのない者として復活させ、その主イエスの復活の命に私たちをもあずからせ、私たちをも神の子として生かして下さる、「生きている者の神」なのです。その神が、「私はあなたの神である」と宣言して下さっていることに応えて洗礼を受けることによって、私たちは、神様に対して、神様との関係において生きる者となり、復活の命を生きる者とされるのです。この新しい命、復活の命にあずかってこの世を生きる者とされている者は、肉体の死の彼方に、復活して来るべき世を生きる新しい命が約束されていることを信じ、そこに希望を置いて生きることができます。「私はあなたの神である」と今宣言して下さっている神が、私たちが死を迎えるその時にも同じように語りかけて支え導いて下さり、そしてこの世の終わりの時にも、同じ宣言によって私たちに新しい命、復活の命を与えて下さるのです。「体のよみがえり」は、そこでどんな現象が起るのか、ということを考えていても分かりません。主イエス・キリストを復活させて下さった神様が、「私はあなたの神である」と宣言して下さり、私たちにも神に対して生きる新しい命を与えて下さる、その神様の恵みのみ力を信じることによってこそ、私たちは復活の希望に生きることができるのです。

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