夕礼拝

新しいぶどう酒

「新しいぶどう酒」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第31章31-34節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第9章14-17節
・ 讃美歌 : 204、528

食事の中で
 本日は、マタイによる福音書の第9章14節から17節を共にお読みします。本日の箇所は「そのころ」と始まります。この言葉は「そのとき」と訳すことのできる言葉で、口語訳聖書では「そのとき」となっています。本日の場面は、その前の箇所と同じ時、同じ場所での出来事として語られております。その前の箇所とは、先週お読みしました、9節から13節までの出来事です。10節にはこうあります。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」主イエスが多くの徴税人や罪人たちと共に食事をしていたという場面です。主イエスは多くの人々、特に罪人と呼ばわれていた人々、また実際に罪の中に生きていた人々と一緒に食事をされていました。主イエスはそのような人々と一緒に談笑しながら、食べ、飲み、あるいは歌を歌っておられたのです。楽しい食事をされていたのです。

断食しないのですか
 そこにヨハネの弟子たちがイエスのところに来ました。主イエスに「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言いました。この「ヨハネ」とは洗礼者ヨハネと呼ばれ、主イエスの先駆者ともなった人です。ヨハネのことは、同じマタイによる福音書第3章に語られています。ヨハネは荒れ野に住み、らくだの毛衣を着て、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていました。非常に質素な、食事も満足に取らない生活をしていました。そして「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り、悔い改めのしるしとして洗礼を授けていました。そのヨハネの元に集まって来た弟子たちはしばしば断食をしていたのです。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに」と言った言葉から分かります。この断食とは、一日中食事をしないというのではかったようです。特別に昼も夜も断食する場合もあったでしょうが、当時の断食とは一般的に太陽が昇っている間は食事を取らないということです。断食にもいろいろな方法があったようでし。時を定めて1週間に1度、断食をするということもあったようです。このヨハネの弟子たちは1日だけではなく、1週間に二度断食をしたのではないかと言われております。または、時を定めなくても自分たちに自由にする場合もあったようです。祈りをするときに断食をする、特別な悲しみのあるときに断食をするというのは良く行われていたようです。ヨハネに弟子たちにとって断食とは、自らの罪を嘆き悲しみ、悔い改めることの印です。しばしば断食することで、自分の罪を深く思い、神様に赦しを求めて祈っていたのです。

婚宴の花婿と喜ぶ
 しかし、主イエスの弟子たちは断食をしておりません。主イエスは弟子たちと楽しい食事をされていたのです。食事とはただ、空腹を満たすための行為ではありません。食事とは交わりの重要な契機であり、表現なのです。アメリカ人の家庭や、学校の食堂の壁にこのよう言葉が掛けられているようです。「主イエスはわれらの食卓の見えざる客であり、われらの食卓の会話に耳を傾けておられる」という言葉です。主イエスが私たちの食事の席にもついておられるという信仰です。主イエスが食事の時もいつも共にいて下さるのです。人間にとって誰もがする、1番肉体的な食事の席に、共にいて下さるのです。その主イエスと共に食事をする喜びが、信仰者の喜びです。主はヨハネの弟子たちに問いかけに対して、こう答えました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」反対に問われたのです。ご自分の弟子たちが断食をしない理由を語ります。ここで主イエスは食事の喜びを婚礼の喜びに譬えておられます。「婚礼」と訳されております言葉は、これは「新郎新婦の寝室」を意味する言葉です。具体的な人間の喜びを示す言葉です。婚礼に招かれている客たちは、新郎新婦の部屋の中にまで入り込むのです。新郎新婦の喜びを、1つにすることができるような客達です。また、ある人は「結婚式の準備をする花婿の友人たち」と訳せると言います。そこには、友人として結婚の祝いの準備をしている姿が思い浮かべることができます。新郎新婦が人生における最も喜びに満ちた嬉しいことを体験している、そのことを自分のこととして喜ぶ、そのように1つになって喜んでいる友人の喜びがここにあるというのです。ですから、婚礼の席で、花婿を前にして、悲しみを表すのは相応しくないのです。婚礼の席においては、花婿とその喜びを分かち合い、喜びを表すのです。主イエスの弟子たちは断食をしないのだ、と言われました。つまり彼らは今、婚礼の祝いの席にいる、花婿を前にしているのだ、というのです。その花婿とは、他ならぬ主イエスのことです。主イエスがこの世に来られた、それは、花婿が到着したということです。花婿の到着によって、婚礼の宴が始まるのです。主イエスの弟子たち、信仰者たちは、その客です。その客は喜びに満ちております。

新しさの中で
 断食とは本来、悲しみの表現です。ヨハネの弟子たちが、自らの罪を嘆き悲しみ、悔い改めの印として断食をしていたのは、そのことと通じるのです。そういう悲しみの表現はしかし、婚礼の宴席には相応しくない、と主イエスは言われます。そこで悲しみを表すのは相応しいことではないのです。主イエスの弟子たちは、悲しみと嘆きに生きるのではなく、喜びと祝いに生きる、それが主イエスによる新しい信仰です。信仰の中身がそのように新しくなるのだから、それを入れる入れ物、信仰の生活も新しくなるのです。それが主イエスの新しさの現れです。主イエスは続けて、「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(16~17節)と言われました。当時、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れて熟成させながら保存しておりました。その過程で革袋とぶどう酒がなじんでいって安定したのです。それを古い革袋に入れると、酒の変化に袋がついていけずに破れてしまうということのようです。また、主イエスはもう一つのたとえを語られました。織りたての布で古い服に継ぎを当てることはしない、というたとえです。そんなことをすると、新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるのです。これも当時の人々の生活の知恵です。新しい布は洗濯をすると縮む、当時はその縮み方がひどかったのです。だから新しい布で継ぎを当てると、洗濯した時にそこだけ縮んでかえってひどいことになるのです。このように、これら二つのたとえは、古いものと新しいものとは相容れない、中身が新しくなる時には、外側の、容器も新しくしなければならない、ということを語っているのです。

主の食卓
 古いものと新しいものとの間には、矛盾があります。継ぎ当てのたとえは、古い服をいかに守るか、という話になっていますが、ぶどう酒と革袋の話は、「新しい酒は新しい革袋に」、つまり中身と共に入れ物も新しくならなければならない、という点に強調が置かれています。主イエスは、悲しみの印である断食ではなく、罪人たちを招いて、楽しく宴会を催されたのです。そして、主イエスの弟子たちに相応しいと言われたのです。それこそが、主イエスによってもたらされた新しさだと言われたのです。主イエスの弟子として、信仰者として生きることは、このような喜びと祝いに生きることであって、悲しみや嘆きの中で生きることが信仰ではないのです。主イエスが催されたこの宴会は、それに相応しくない者たちが恵みによって招かれた宴会でありました。主イエスは徴税人や罪人たちを招いて共に宴会を催されました。そのような人々を自分の食事の席に招こうとする者は誰もいなかったのです。しかし主イエスはそのような人々と楽しい食事の時を過ごされたのです。そしてその喜び、祝いの中から、罪の悔い改めが生まれていったのです。徴税人であったマタイが主イエスの弟子となったことを先週読みました。そのような人生の大転換、罪の中に座り込んでいた者が立ち上がって主イエスの赦しにあずかり、新しく生きていくということが、この喜びの交わりの中で起こっていくのです。
 主イエスの弟子たちは断食をしませんでした。しかし、主イエスご自身はマタイによる福音書第4章で、4荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになり、40日間断食をしたとあります。主イエスご自身は断食をされたのですが、しかし弟子たちにそれを求めることはなさいませんでした。断食することを信仰の実践とはお考えにならなかったのです。これは旧約聖書以来のイスラエルの信仰的伝統からすれば、驚くべきことでした。断食を積極的に取り入れないような信仰生活は、これまでイスラエルにはなかったのです。主イエスはそこに、全く新しい信仰の生活を造り出されたのです。それが主イエスのもたらした新しい革袋です。そしてそれは、革袋だけが新しくなったのではありません。新しい革袋は新しい酒を入れるために用意されたのです。中身の酒が新しくなるから、それに応じた新しい革袋が必要になったのです。その新しい酒とは何でしょうか。主イエスによって、信仰の中身が新しくなった、その新しさとはどういうものなのでしょうか。

主を待ち望む中で
 花婿主イエスのもとで祝宴に招かれている信仰者は、喜びと祝いに生きるのです。しかし15節後半こうあります。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」。これはどういうことなのでしょうか。「花婿が奪い取られる時」とは復活された主イエスが天に昇られてから、この世の終りにもう一度来られる、その時までの間の時です。今私たちはその時を歩んでおります。今この時こそまさに、「花婿が奪い取られている時」なのです。その「奪い取られる」というのは、目に見えるお姿としては、ということです。今私たちは、主イエス・キリストを肉体の目で見ることはできません。実際に主イエスと共に食事の席につくことはできません。目に見えるお姿としては、私たちは主イエスを奪い取られているのです。しかしそれは主イエスが私たちと共におられないということではありません。この福音書の最後のところ、28章20節で、復活された主イエスが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さっています。目には見えないけれども、主イエス・キリストはいつも私たちと共にいて下さるのです。しかしそれは目に見える形で証明されることではありません。信じるしかないことです。つまり今私たちが歩んでいるこの時代は、信仰によって主イエスと共に歩む時代なのです。そこには、疑いも生じます。つまずきが起ります。様々な苦しみや悲しみが襲ってきて、私たちの信仰を動揺させます。そういう試練の中で、忍耐して歩んでいかなければならないのです。その信仰における忍耐を養い育てていくために、断食をはじめとする信仰的な私たちの業、努力には意味があるのです。断食をするのも、ただ食を断つことが目的ではなくて、祈ることが目的です。本当に真剣に祈るために、断食を試みることもよいのです。キリスト教会の歴史の中に、断食はそのようにしてある位置を持ってきました。私たちはそのような習慣を持ってはおりませんが、私たちなりの仕方で、目には見えないが共にいて下さる主イエス・キリストとの交わりに生きるための努力をしていく必要はあるのです。そういう努力を通して、今この世界において、この生活の中で、私たちも、花婿主イエスが共にいて下さる喜びと祝いに生きることができるのです。

新しい律法
 本日はエレミヤ書第31章33節「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」私たちは私たちの方から、「主を知れ」と言って教えることはない。神を知る必要はないのです。神が既に知っていてくださるのです。小から大に至るまで、賢い者から、愚かな者に至るまで、誰もが知っているのです。神が共にいてくださる喜びを、主イエスと一緒に食事をしていた人々は感じていたのです。主イエスが教えて下さったことは、神が生きておられる喜びです。その喜びを知っている人間は、肉体をもった人間であることを喜びます。

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