夕礼拝

罪人を招く

「罪人を招く」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: ホセア書 第6章1-6節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第9章9-13節
・ 讃美歌 : 507、197 聖餐 77

徴税人とは
 本日は、御一緒にマタイによる福音書第9章9節から13節をお読みしたいと思います。本日の箇所は、マルコによる福音書第2章13節から17節、またルカによる福音書第5章27節から32節の箇所と並行した記事です。他の箇所が収税人レビの召命の記事となっているのに対して、私たちが今読んでおりますマタイによる福音書では「収税人マタイ」という人は登場しております。そして、ここで主イエスから「わたしに従いなさい」と声をかけられ召されたのが「収税所にいた徴税人」であったということは同じです。この時代において、徴税人という職業の人々がユダヤ人から大変軽蔑され、嫌がられておりました。徴税人とは、税金を取り立てる。いわば現代で言えば税務署の役人のことです。当時のユダヤの国は独立国家ではなく、ローマ帝国に支配をされていましたので、税金は当然ローマに納めるべきものでした。ローマに納めるべき税金ならば、普通に考えるとローマ人が取り立てるものですが、そうではありませんでした。彼らは手先にユダヤ人を雇って、税金の取立ての業務をさせたのです。そのローマに雇われたのがユダヤ人が徴税人だったのです。つまり、徴税人とはユダヤ人でありながらローマのために働いていた人々のことなのです。ローマ帝国の権力をかさに着て、自分の同胞である人々が一生懸命働いて得たものを絞り取っていたのです。ユダヤ人から見れば裏切り者として、ユダヤ人から締め出されていた人々でありました。

孤独の中で
 また、ユダヤ人はまことの神を信じない異邦人を主人として、しかもこの世の富である金銭を毎日毎日取り扱うような職業に就くことなどは宗教的にも汚れているとことだと考えていました。そのように徴税人は意識的に避けられるような仕打ちをされても当然だと考えられていました。ユダヤ人にとって、徴税人とは罪深い存在、関わりなど持ちたくない存在であったのです。それでは、たとえユダヤ人の間では仲間外れにされていたとしても、ローマのために働いて、貢献をしていたのですから、ローマの市民権を得たり、ローマ人の仲間にしてもらえたかというと決してはそうではありませんでした。彼らはあくまでもローマに雇われていただけに過ぎなかったのです。そうであるならば、この人は、この徴税人というのは極めて孤独な存在であったということになります。徴税人は、ユダヤ人の社会から疎外され、しかもローマ人の社会からも疎外されていたのです。二重の意味で疎外されていたのです。そのような徴税人の一人であったマタイに、主イエスが招きの声をかけられました。9節では「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」この時、マタイは一体何を考えて職場に座っていたのか何も記しておりません。聖書に登場する徴税人は金持ちです。金銭的には比較的裕福であったようです。しかし、懐が暖かくても決しては幸せではありませんでした。交わりから、疎外され、切り離されていたのです。

新しい命を与えられ
 主イエスはそのような孤独を抱え、ぼんやりと職場に座っていたマタイに招きの声をかけられました。「わたしに従いなさい」この招きは私たち一人ひとりにもなされております。主イエスに声をかけられ、マタイは「立ち上がってイエスに従った。」とあります。マタイはこの招きを受けて、簡単に従ったように記されております。マタイには何も葛藤がなかったのでしょうか。それは分かりません。人々は、マタイの周囲から離れ、マタイを避けておりました。そのような中にあって、主イエスは、主イエスだけは進んでマタイに声をかけました。「わたしに従いなさい」、わたしのところに来なさいと、招いて下さった。このことだけが描かれております。主イエスの方からマタイを見つめ、近づかれた。このことが、マタイが素直にその招きに応じる気持ちになった原因であったのです。マタイは、「立ち上がって」主イエスに従いました。「立ち上がって」という言葉が、先ほどの「座っていた」と対になっています。彼は、座っていたのを立ち上がったのです。罪の中に座り込み、浸っていたところから、主イエスの招きの御声によって立ち上がったのです。この「立ち上がる」も「起き上がる」も、死者の復活を意味する言葉でもあります。あの中風の人も、このマタイも、罪の中に横たわり、座り込み、起き上がることのできない、死んだような状態から復活させられたのです。新しい命を与えられたのです。マタイが弟子になったという出来事は、そういう主イエスの救いのみ業、奇跡なのです。

罪の赦し
 「マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」というところですが、そこを直訳するとこうなります。「収税所に座っている人間を見た。彼はマタイといった」。つまり主イエスが見つめられたのは「人間」だったのです。人間が、収税所に座っているのを見たのです。そして最後に、その人の名はマタイだったと語られているのです。主イエスは、収税所に座っている人間を見つめられます。つまり、罪のまっただ中に座り込み、そこから立ち上がることができずにいる人間を見つめられるのです。それはマタイだけではありません。マタイは、主イエスが見つめられる人間たちの中の一人なのです。その人間たちの中には、私たちがいます。私たちも、それぞれ、自分の収税所に座っている者です。自分の罪の中に座り込み、立ち上がることができずにいる者です。主イエスはそういう私たちのありのままの姿を見つめ、そういう私たちに、「わたしに従いなさい」と声をかけ、私たちを立ち上がらせて下さるのです。それは、あの中風の人が、寝たきりで起き上がることもできなかったのを、主イエスによって癒され、起きて歩くことができるようにしていただいた奇跡と同じことです。主イエスがその権威と力によって彼を起き上がらせて下さったように、私たちをも立ち上がらせて下さるのです。彼を起き上がらせたのは、「あなたの罪は赦される」と宣言して下さる主イエスの権威でした。マタイにも、そして私たちにも、同じことが起るのです。「わたしに従いなさい」という御言葉は、「あなたの罪は赦される」という宣言を内に含んだ、主イエスの招きの言葉なのです。

神の国の祝宴の先取り
 本日の場面は更に進みます。10節からお読みします。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  この会食の場面が、マタイの家であったのか必ずしも明確ではありません。ルカによる福音書では、「イエスの招き」に対する、「取税人の招き」としてこの場面を描いております。しかし、マタイがルカのように描いていないのは、この食事の場面も一貫して主イエスの招きのもとに置こうとしていたからだと言えます。誰の家であろうと、主イエスが徴税人や罪人と共に食事をしたという事実が大切です。食事とはただ、空腹を満たすための行為ではありません。食事とは交わりの重要な契機であり、表現なのです。この食事の場面というのは、主イエスと疎外されていた徴税人や罪人、いわゆる社会的な失格者たちが交わりを持ったということなのです。主イエスを中心として再び交わりが回復されているということなのです。聖書の中では、神の国をよく宴会のたとえをもって示します。交わりから切り離され、孤独を歩んでいた者、即ちそれは死の支配にもとに疎外されて私たちが、神の国において主イエス・キリストを中心として命の交わりを回復する姿です。その交わりを回復する姿が、このような神の国の祝宴の先取りであります。私たちは本日、この後聖餐式に与りますが、聖餐の交わりとは、この世における神の国の祝宴の先取りであります。マタイによる福音書の食事の場面と重なるのです。

理解を超えて
 この食事の席には、ユダヤ人はおりません。いたはずがないのです。汚れた罪深い者たちとは食事の交わりという深い交わりまで持つことはなかったのです。そのようなことは思いもよらなかったのです。この食事の様子を見ていたファリサイ派の人々は批判をします。批判というよりも、自分たちの理解を超えていたのです。主イエスのなさることが理解できない。ここに私たちは自分自身の姿を見出すことが出来ます。ファリサイ派の人々とは、厳格に神の律法を守ることを主張し、実行していた代表的な人たちです。彼は弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。

主のお答え
 このような批判に対する主イエスのお答えは、本日共にお読みしました旧約聖書のホセア書第6章の6節からの引用です。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。ホセア書第6章6節は「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」です。また、主イエスはこのように引用され言われました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」です。「わたし」とは主なる神様で、神様が好まれるのは「憐れみ」であって、「いけにえ」ではないというのです。主イエスはここで、義人ではなく、罪人を招くために来られたのです。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。健康な人ばかりなら医者はいらない。私は、病人のための医者としてこの世に来たのだ、と主イエスは言われるのです。その病人とは、マタイのことです。収税所に座っている人間のことです。罪の中に座り込んで立ち上がることができないでいる私たちのことです。そういう者たちのためにこそ、主イエスはこの世に来られたのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そこに、主イエスの、私たちに対する招きがあります。「わたしに従いなさい」という語りかけがあります。この招きによって私たちは、それぞれの座っている収税所から立ち上がって、主イエスの弟子となることができるのです。むしろ、収税所に座っている者であった自分を、主イエス・キリストが見つめて下さり、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さり、招いて下さった。罪人である私を主イエスが招いて下さっている、そのことを知り、その招きを受けて立ち上がることこそが、弟子となることなのです。マタイに起ったのはそういうことでした。このマタイがこの福音書を書いた、と言い伝えられてきたことの意味はまさにそこにあります。そのように言い伝えることによって、人々は、この福音書を、罪の中に座り込んでいたところから、主イエスによって招かれ、立ち上がることができた人の感謝の証言として受け止めていったのです。神様の憐れみこそが私たちを救うのです。そのことを「行って、学べ」と主イエスは言われました。ファリサイ派の人々は、神様の憐れみを学ぶために、出かけていかなければならないのです。自分の正しさ、自分の熱心や努力、自分はこれだけのことをしてきた、という思いの中に座り込んでしまうのでなく、そこから立ち上がって、出かけていかなければならないのです。自分の熱心や努力にこだわり、自分は人よりも正しい、清い生活をしていると思って満足しようとする、その思いこそが、ファリサイ派の人々にとっての収税所なのです。主イエスは彼らを、そこから立ち上がらせようとしておられます。そして、神様の憐れみをこそ見つめさせ、そこにこそ救いがあることを学ばせようとしておられるのです。徴税人であり、罪人であったマタイが立ち上がって主イエスに従って行ったのも、神様の憐れみを学ぶためです。主イエスと共に歩み、その教えを聞き、み業を見ることによって、彼は、主イエスにおける神様の、罪人に対する深い憐れみのみ心を味わい知っていったのです。その頂点が、主イエスの十字架の死でした。主イエスはマタイの、そして私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。罪人を招く主が、その罪人のために死んで下さる主にまでなって下さったのです。主イエスの弟子として生きるとは、この主イエスの恵み、罪人に対する憐れみのみ心を常に新しく学びつつ、味わいつつ生きることです。主イエスはマタイをも、ファリサイ派の人々をも、私たちをも、そのような弟子としての歩みへと招いておられるのです。この招きに答えて立ち上がり、主イエスにおける神様の憐れみを学ぶために出発することを主は求めておられます。それが洗礼を受けてクリスチャン、信仰者になることです。そしてその私たちのために、主の食卓である聖餐が備えられています。これから共にあずかる聖餐において、私たちは、主イエス・キリストが私たちの罪の赦しのために肉を裂き、血を流して死んで下さったことを学び、その恵みを味わっていくのです。聖餐の食卓は、主イエスが、徴税人や罪人を招いて同席させて下さったあの食卓です。主イエスは私たちがどんな罪人であっても、この食卓に招き、共に席につかせて下さるのです。ただ一つ求められているのは、罪人を招いて下さる主イエスの招きに応えて、自分の収税所から立ち上がって主イエスのもとに来ることです。それが即ち洗礼を受けることです。そのことによって私たちは、罪人を招くために来られた主イエスの恵みを御言葉によって学びつつ、その恵みを聖餐において味わいつつ、主イエスの弟子として、信仰者として歩んでいく者となるのです。それは、マタイに起った奇跡が私たちにも起ることなのです。

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