主日礼拝

わたしを憐れんでください

「わたしを憐れんでください」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第71編1―24節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第18章35-43節
・ 讃美歌:301、165、449

受難週の直前に
 私たちは今、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを特に覚えるレント、受難節を歩んでいます。来週はいよいよその最後の週、つまり主イエスがエルサレムに入り、その週の金曜日には十字架につけられて死なれたことを覚える受難週です。受難週の直前に今私たちはあるわけです。他方私たちは、礼拝においてルカによる福音書を連続して読んできまして、本日、18章の最後の所にさしかかりました。次の19章の28節以下に、主イエスがエルサレムにお入りになったことが語られています。つまりそこからが、今申しました受難週の出来事です。受難週に入る直前の所を今私たちは読んでいるのです。本日の箇所の冒頭の35節には、「イエスがエリコに近づかれたとき」とあります。聖書の付録の地図を見ていただきますと、エリコという町は、ヨルダン川が死海に流れ込むあたりの近くにあります。北の方のガリラヤから、サマリアを通ってエルサレムへと向かって来られた主イエスの一行にとって、エリコは旅の途中で立ち寄る最後の町です。主イエスがエリコからエルサレムに入られたことはマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して語っています。つまりいよいよ、エルサレムへの旅路における最後の町に近づかれた、というのが本日の箇所です。受難週の直前にある私たちにとってちょうどふさわしい箇所が本日与えられたと言うことができるのです。

エリコに近づく
 主イエスがエリコからエルサレムに上られたことは三つの福音書が共通して語っていると今申しました。そのエリコにおいて、本日の箇所の、目の見えない人の癒しの出来事が起ったことも、三つの福音書に共通しています。しかしルカ福音書とマタイ、マルコ福音書では大きな違いもあります。ルカにおいては、この出来事は主イエスの一行がエリコに「近づかれた」とき、つまりエリコに入ろうとしていた時に起ったとされているのに対して、マタイとマルコでは、エリコを出て、いよいよエルサレムへと向かっていく時の出来事とされているのです。ルカは、この後の19章の前半において、エリコの町での出来事を二つ語っています。1節以下が「徴税人ザアカイ」の話、11節以下は主イエスがお語りになった「ムナのたとえ」です。この二つの話はいずれもマタイとマルコにはない、ルカに独自の話です。つまりマタイとマルコは、エリコの町での出来事は語っていないのです。もっともマタイには「ムナのたとえ」と似た話である「タラントンのたとえ」がありますが、それが語られているのはこことは全く違う場面においてです。ルカだけが、エリコの町における出来事を語っているのです。本日の箇所の、目の見えない人の癒しの出来事をエリコに入る時の話として語ることによって、ルカはこの癒しの話を、エリコでの二つの話への導入として位置づけているのだと思います。そういう意味ではここは次の19章との繋がりにおいて読まれるべき所です。その繋がりについては19章に入ってから触れることにして、本日はこの話自体をじっくりと読みたいと思います。

ナザレのイエスのお通りだ
 主イエスがエリコの町に入ろうとするとそこに、「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」のです。マタイ、マルコとルカとでは、エリコに入る時と出る時という違いがありますが、どちらにしてもこの人は町の門を出たところに座って物乞いをしていたのです。それは物乞いをするのに最も適した場所です。町に出入りする人が皆そこを通るのです。沢山の人が通れば、何か施しをもらえる確率も高まります。ですからこの人は毎日そこに座って物乞いをしていたのでしょう。障碍を持った人も仕事をして自活できるようにする、といういわゆる「ノーマライゼーション」の考え方は当時はなかったわけで、目が見えない彼は、物乞いをして人々の施しを受けることによってしか生きることができなかったのです。それでこの日もいつものように道端に座って物乞いをしていたわけですが、今日はやけに多くの人々が群れをなしてエリコの町に入って行こうとしている、ということを彼の耳は敏感に感じ取りました。主イエスと弟子たちの一行がそこを通ろうとしていたのですが、その周囲には噂を聞きつけた多くの群衆が群がっていたのです。彼が、「これは、いったい何事ですか」と人々に尋ねると、「ナザレのイエスのお通りだ」とのことです。それを聞いたとたん彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。彼は既に、ガリラヤのナザレ出身のイエスという人が「神の国はあなたがたの間に来ている」と語りつつ旅をしており、様々な病気を癒し、悪霊を追い出している、ということを聞いており、その主イエスにお会いしたいと願っていたのです。そのナザレのイエスが今自分の前を通って行こうとしているのです。しかし目の見えない彼は主イエスが今どこにおられるのか分からないので、自分から近付いて行くことができません。だから主イエスとコンタクトを取るためには、大声で叫ぶことによって、主イエスに自分のことを気付いてもらうしかないのです。

先に行く人々
 そのように大声で叫び出した彼を「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」と39節にあります。ここでもルカは他の福音書とは少し違った書き方をしています。マタイとマルコでは、彼を黙らせようとしたのは群衆だったり周囲の人々なのですが、ルカのみは「先に行く人々」と言っているのです。口語訳聖書では「先頭に立つ人々」となっていました。主イエスの一行の先頭に立っている人々、それは主イエスの弟子たちではないでしょうか。苦しみの中で主イエスの憐れみをひたすら求める一人の人の切実な叫びを、こともあろうに弟子たちが黙らせようとした、ということをルカは語っているように思われます。そしてそれは、先週読んだ31~34節において、主イエスがこれから上るエルサレムでご自分が受ける苦しみと死、そして復活を予告なさったけれども、弟子たちはそのお言葉が何も分からなかった、つまり主イエスがご自分の苦しみと死そして復活によって救いのみ業を実現しようとしておられることを弟子たちは全く分かっていなかった、ということとつながると言えるでしょう。主イエスによる救いが分かっていなかった弟子たちは、その救いを叫び求める人を黙らせるようなことをしてしまうのです。これは私たちにとって他人事ではありません。主イエスによる救いを信じ、洗礼を受けて教会に連なり、主イエスに従っているはずの私たちが、主イエスによる救いを切実に求める人々と主イエスの間に立ちふさがり、救いを求める声をおしつぶしてしまうようなことが起るのです。そのことについては後でまた考えたいと思います。しかしこの盲人の物乞いは、叱りつけて黙らせようとする、おそらくは弟子たちを物ともせず、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。一度や二度叫んであきらめてしまったのでなく、主イエスに気付いてもらえるまで、ひたすら叫び続けたのです。

ダビデの子イエス
 ところで彼は主イエスに、「ダビデの子よ」と呼びかけています。これは大変重要なことです。ダビデは、旧約聖書に出てくる、イスラエル王国の基礎を築いた王です。イスラエルの王を代表するのがダビデだと言うことができます。そして旧約聖書には、このダビデの子つまり子孫に、イスラエルを治め、その繁栄を回復させてくれるまことの王が生まれるという預言が語られています。それが「救い主」です。ですから「ダビデの子」という呼び方は、皆が期待し、待っている「救い主」という意味であり、主イエスに向かって「ダビデの子よ」と呼びかけるということは、イエス様あなたこそ救い主です、という信仰を言い表していることになるのです。この盲人の物乞いは、ナザレのイエスが神の国の到来を告げつつ、病気を癒したり悪霊を追い出したりしているという話を聞いた時に、この方こそ、神様が約束して下さり、皆が待ち望んでいる、ダビデの子として来られる救い主だ、と信じたのです。このナザレのイエスにこそ救いがある、と信じたのです。彼が、イエスのことを聞いただけでなぜそう信じることができたのか、と問うのは見当はずれです。この話が語っていること、つまり私たちが見つめるべきことは、なぜ彼は信じることができたか、ではなくて、信じた彼はどうしたか、です。イエスこそダビデの子、救い主であると信じた彼は、その主イエスが自分の前を通っていかれると聞いた時に、その主イエスとの出会いを求めて、コンタクトを求めて、なりふりかまわず叫び続けたのです。ここに示されているのは、ナザレのイエスこそダビデの子、救い主だと信じていることが救いなのではなくて、そのイエス・キリストと繋がること、関係を、交わりを得ること、コンタクトを取ることこそが救いなのだ、ということです。そのことを求めて、なりふりかまわずに叫び求め、求め続けることこそ私たちのなすべきことなのです。

わたしを憐れんでください
 彼は主イエスに向かって「わたしを憐れんでください」と叫びました。それは彼が、自分の惨めさを深く感じていたということです。私たちは、「憐れんでください」という言葉に抵抗を覚えたりします。そんなことを願うのはそれこそ惨めったらしくていやだ、と思ったりするのです。しかしそのように思う私たちは、自分が惨めであることを、苦しみや悲しみ、そして罪をかかえている自分の悲惨さを、分かっていないのです。それが分かっていないから、表面的なところを取り繕ったり、体裁を整えるようなことをして生きているのです。惨めったらしいのはいやだ、というのはそういうことです。しかしこの盲人の物乞いは、目が見えないために物乞いをするしかなく、人々の憐れみを受け、何がしかのものを施してもらうことによってしか生きることができないという長年の苦しみの中で、自分の惨めさをいやという程知らされてきたのです。自分の力や努力によっては、また誰であれ人間の力によっては、そこからの救いは得られないことを、また表面的な支えや助けはある役には立っても、根本的な救いを与えるものではないことを体験してきたのです。そのように自分の苦しみ、悲しみ、惨めさをどうすることもできず、どう取り繕うこともできないことを知っていたがゆえに、彼は今自分の前を通って行こうとしておられる主イエスに、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、なりふりかまわず叫び求めたのです。弟子たちに叱られても妨害されても、叫び続けたのです。

招きに応えてみ前に出る
 主イエスは彼のこの叫びを聞き取って下さいました。40節に「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた」とあります。主イエスは立ち止まり、ご自分のもとに彼を呼んで下さったのです。しかしこれってどうなんでしょうか。相手は目の見えない人です。立ち止まって呼ぶのでなくて、その人のところへ行ってやることこそが親切というものではないのでしょうか。この主イエスの姿はずいぶん不親切なのではないか、と私たちは感じるのです。けれどもここに、主イエスと私たちの関係、私たちが主イエスと繋がり、その救いにあずかるとはどういうことかが示されていると言えるのです。つまり、主イエスは、私たちをご自分のもとへと呼んで下さり、招いて下さるのです。私たちはその招きに応えて主イエスのもとへ行くのです。主イエスとの繋がりはそのようにして与えられます。私たちがただ座って待っていればそこにイエス様が来て下さる、というものではないのです。招きに応えて主イエスのみ前に出る、そこに救いが与えられるのです。既に読んできた14章には、宴会に招待されていたが招きを断って出かけなかった人はそれにあずかることができない、というたとえ話がありました。主イエスの招きに応じて私たちも出かけることが大切なのです。私たちは今そのように主イエスの招きに応えて、この礼拝へと出かけてきて、主のみ前に立っているのです。

主イエスの道の上で
 もう一つ大事なことがあります。「イエスは立ち止まって」ということです。主イエスは立ち止まり、そこに彼を呼ばれたのです。主イエスが立ち止まったその歩みとはどのような歩みだったか。先週の31節に語られていたように、それはエルサレムへと上って行く歩みです。先週申しましたように、そこで私たち人間の傲慢による苦しみと辱めを受け、十字架にかけられて殺されるために、そして復活するために、主イエスはエルサレムに向かって歩んでおられるのです。主イエスの歩みは、このエルサレムへ、そこでの十字架の死へと向けられています。主イエスはその歩み、その道の上で立ち止まり、そこへと彼を、そして私たちを呼ばれるのです。私たちはその主イエスのもとに近づくことによって、私たちのために十字架の死への道をまっすぐに歩んでおられ、そこから右へも左へも逸れることをなさらない主イエスと出会うのです。立ち止まって彼をお呼びになった主イエスのお姿はそういうことを示しているのです。

目が見えるようになりたいのです
 み前に近づいた彼に主イエスは「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。彼はこの問いに答えて、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言いました。この問いと答えは一見当り前のことのようにも思えます。目が見えなくて、そのために物乞いをしてしか生きることのできない人が、「憐れんでください」と願っている、そこで求めていること、してほしいと思っていることは、目が見えるようになることに決まっているではないか、今さら「何をしてほしいのか」などと聞くだけ野暮というものだ、と思うのです。しかしこれは果して当り前の無意味な問答でしょうか。「何をしてほしいのか」という問いに対する彼の答えは、「私が安心して生きていけるように沢山の施しを下さい」であったり、「私の生活の面倒を見てくれる伴侶、助け手を与えて下さい」であったり、「毎日町の門のところへ物乞いをしに来るのに便利な所に住む家を与えて下さい」だったりすることだってあるでしょう。私たちがもし今突然主イエスから「あなたは何をしてほしいのか」と問われたとしたら、これらに類するようなことを答えてしまうのではないでしょうか。これらのことは、それぞれに大切な、現実的に切実なことです。しかしそれらは明らかに、この人の抱えている問題、苦しみの根本ではありません。そこから生じる表面的、対症療法的な事柄です。私たちは、そのような表面的なこと、現実的で切実ではあるけれども根本的ではないことばかりを見つめ、求めてしまうことが多いのではないでしょうか。つまり、自分の抱えている問題の根本にあることを見つめ、自分が本当に求めていることを端的に言い表すことはそう簡単ではないのです。そういう意味で、この人が、主イエスの「何をしてほしいのか」という問いに、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えたのは、実は驚くべきことだと思います。主イエスがあの問いかけによって、彼のこの答えを導き出して下さったのです。彼は主イエスの促しによって、自分の苦しみ、抱えている問題の根本を見つめ、そこにおける救いを求める心からの願いを主イエスに語ることができたのです。

あなたの信仰があなたを救った
 この願いを受けて主イエスは彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。すると彼はたちまち見えるようになったのです。この癒しは、主イエスの神の子としての力によってなされたことです。しかし同時に主はここで私たちの目をこの人の信仰に向けさせようとしておられます。「あなたの信仰があなたを救った」と言って下さったのです。それは彼が自分の信仰の力でこのような癒しを獲得したということではありません。彼は、どうしようもない惨めさの中で、主イエスこそダビデの子、救い主であられると信じて、その憐れみを切に求め、それに寄りすがっていったのです。主イエスはそれを「あなたの信仰」と呼んで下さり、あなたのその信仰があなたを救った、と宣言して下さって、彼の目を開いて下さったのです。これは31~34節における弟子たちの姿と対照的です。弟子たちは、受難と復活を予告する主イエスのお言葉が何も分からなかった、そのことを通して主イエスが救い主としてのみ業を実現して下さることが分からなかったのです。それは彼らの目が閉ざされてしまっていたということです。彼らは何を見ることができなかったのか、それは自分の根本にある惨めさ、罪です。それをあるがままに深く見つめることができず、表面的、皮相的な所を自分の力によって取り繕い、体裁を整えるようなことばかりをしていたのです。そのように自分の惨めさや罪に目を閉ざされている者には、主イエスの十字架の死と復活によって神様が与えて下さる救いの恵みは見えません。見えないだけでなく、その神様の救いを切に叫び求めている人を、「うるさい、みんなの迷惑だ、もっと行儀よくしろ」と叱って黙らせるようなことをしてしまうのです。

見えるようになるとは
 43節に「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」とあります。目が見えないために物乞いをして生きて来なければならなかった人が、見えるようになったのです。「イエス様、ありがとうございました」と丁寧にお礼を言って、神をほめたたえながら、見たいと思っていたあれこれのものを見に行った、あの人この人に会いに行った、そして新しい仕事を捜しに行った、となるのが自然というか当然のことだと私たちは思います。しかし彼は、「神をほめたたえながら、イエスに従った」のです。つまり主イエスの弟子になったのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ時から彼が主イエスの弟子になりたいと思っていたと考える必要はないでしょう。しかし彼は、惨めさの中から主イエスに救いを求め、主イエスの問いかけに導かれて自分の本当の願いを語ることができ、そして「あなたの信仰があなたを救った」というみ言葉をいただいて目を開かれたことによって、別の意味でも目を開かれたのです。彼は、自分の根本的な願いは目が見えるようになることだと今の今まで思っていました。それこそが自分の惨めさの根源だと思っていたのです。しかし今、主イエスによって目を開かれたことによって、目が見えないことよりももっと深い問題があったことに、目が見えるようになること以上に自分が本当に願い求めていたこと、自分に本当に必要なことがあったことに、彼は気付かされたのです。その問題とは、自分が本当に信頼して人生を委ね、従っていくことのできる方と出会うことができていないということであり、本当に願い求めていたこと、本当に必要なこととは、人生を委ねて従っていくに足る方と出会い、その弟子となることです。彼は今やその出会いを与えられ、主イエスの弟子となり、従って行ったのです。その主イエスは今、エルサレムへと、つまり十字架の苦しみと死、そして復活へと向かって歩んでおられます。それは彼も含めた私たち全ての人の罪を赦し、永遠の命を与えるための歩みです。自分のために十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命の約束を与えて下さる主イエス・キリストに従っていくという新しい人生を、彼は与えられたのです。それこそが、彼が本当の意味で目が見えるようになったということなのです。

 主イエスに招かれ、み前に進み出る礼拝に集っている私たちにも、主は今、「何をしてほしいのか」と語りかけておられます。その主イエスの促しに、私たちも応えていきたいのです。「主よ、目が見えるようになりたいのです。私たちは、見るべきものを見ることができていません。私たちを生かし、導いていて下さるあなたの恵みを見ていないためにあなたを心から愛することができず、また隣人の苦しみや悲しみを見ようとしないために慰めや支えを与えることができません。どうか私たちを憐れんでください。私たちの閉ざされた目を開き、この私のために十字架の苦しみと死への道を歩んでおられるあなたのお姿を見つめさせて下さい。そしてあなたに人生を委ね、従っていく弟子として下さい。そして、苦しみや悲しみの中にある隣人を、特に今震災や原発の事故などのただ中にある人々の苦しみ悲しみを見つめる目を開き、精一杯支えていくことのできる者として下さい。」

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