夕礼拝

御国の食卓作法

「御国の食卓作法」 副牧師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書 57章 14節-21節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第14章 7節-14節

 
1 (食卓に招かれた主イエス)

 ルカによる福音書第14章から、ある安息日に主イエスがファリサイ派の議員の食卓に招かれた、その時の出来事が語られております。この日、食卓に着かれた主イエスのまん前に、水腫を患っている人がいました。周りの人々は、主が安息日にこの人の病を癒すかどうかをうかがっていました。安息日に人を癒す業を行うことは、いかなる仕事もしてはならない、という安息日の戒めを破ることになったからです。そこで主イエスが神の戒めを破っていると非難していたファリサイ派の人々は、主イエスが実際に安息日に癒しを行う現場を押さえ、主を裁きの場に引き出そうと考えたらしいのです。
 ということは、ここに集まって成り行きを見守っていた人々にとって、この水腫に苦しむ、この具体的な独りの人は、特にどうということもない存在であったということです。この人について、誰も何も知ろうとは思わなかった。ただ主イエスを陥れ、引きずりおろすための道具、手段としてしか、この人はみなされていなかったのです。みな、関心を持っていなかったのです。むしろ彼らが主イエスを追い落とすことで確保しようと思っていたのは、律法の専門家としての自分たちの権威であり、群衆の上に及ぼしている、自分たちの支配でありました。自分たちの権威や支配をもって、人々を操作し、自分の思うままにしている。自分の好き勝手、自分のわがままが、宗教的な指導者という権威でもって包み隠されながら、今まで通ってきた。それを守っていきたい。これからも失いたくはない。だからこそ、安息日の戒めを破り、脅かすように見えた主イエスの言葉と業を、彼らは許すことができなかったのです。

2 (食卓にて)

 この日の食卓にもそのような心に生きていた人々がたくさん招かれていたことでしょう。律法の専門家やファリサイ派の人々が大勢招かれていたのでしょう。主はその客たちが、上席を選んでいる様子にお気づきになりました。当時の食事は、皆が食卓を囲むようにして体を横たえ、上半身を起こして食事に手を伸ばす、そういった形で行われていたようです。私たちから見るとちょっと窮屈そうですが、ともかくそういう食事の仕方をしていた。その食卓で、中央かどちらかの端が、主賓の座る席とされていることが多かったようです。ですから招待を受けた客たちは食卓の中央や両端の主賓席から始めて、争うようにして上席を埋めていったと考えられます。
 それを目の当たりにして主イエスはおっしゃいました。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」(8節)。「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」(10節)。これは私たちにとって、とても親しみやすい教えではないでしょうか。すんなりと受け入れられる。「そうそう、よく知っている」、そんな思いが生まれてくるような教えです。
もし自分よりも身分の高い人が招かれていたら大変だというのです。主賓は最後に現れるものです。もし先に皆が席に着き、しかも主賓席に自分が着いてしまっていたら、この宴会の主催者は、やって来てこう言うでしょう。「恐れ入りますがこの方に席を譲ってください」。そうしたら自分はとても恥ずかしい思いをして末席に移動させられることになります。自分自身の分をわきまえていない、思い上がった人だ、いったい自分を何ほどの者と思っているのか、そんなふうな周りからの軽蔑の視線を浴びながら、すごすごと末席に下がって行くことになるのです。
逆に、もし初めに末席に座っていたなら、私たちを招いた人がやって来て、「まあどうしてこんなところにお座りなのですか。さあ、どうぞどうぞ、もっと上席の方にお進みください」、こう言ってくださって、私たちが上座へと導かれる可能性は大です。あの人は謙遜な人だねぇ、人々にもそう思われることでしょう。

3 (高ぶる者は低くされる)

しかしここで私たちはよく考えてみたいのです。こういうことが起こっている時、私たちの心の中にはどういう思いが浮かんでいるだろうか、ということです。私たちはあの真っ先に上席を選んでそこに陣取ろうとする客たちを見て思うのではないでしょうか。「愚かなことだ。知恵がないね。もっとかしこく振舞えばいいのに。なんで最初は末席に座って様子を伺おうとしないのかしら。その方が無難に決まっているではないか。そのうち誰かが来て、自分をもっと上席に案内してくれるだろうに。ちょっとかしこく振舞って様子をみていりゃいいものを」。この客たちの振舞いをなかば小ばかにするような思いで、私たちはそんなことを考えているのではないでしょうか。そして主イエスの教えに納得するのです。「そうだ。婚宴に招待されたら、少なくともすぐに上席に着いてはいけない。まずは末席に着いて少し様子を見るんだ」。
主イエスのお言葉をそういうふうに受け取るならば、これはきわめて常識的な人生の知恵を聞いただけの話になります。そんなことなにもわざわざ聖書に聴くまでもない。むしろ日本人の私たちには得意中の得意だ、そう言ってもよいかと思います。食事の席次にはひどくこだわるのが私たちの習慣ではないでしょうか。とにかく席順が決まっていないとみんななかなか座ってくれません。いつまでも末席のあたりをうろうろしています。誰かが大声で「席順は決まっていませんからどうぞ奥からおつめください」と何度か叫んでやっと落ち着く感じです。そこで予め席次表なるものを作って配ったりする、ということも行われます。これを作るのも大変です。ああでもない、こうでもない、失礼があってはいけないから、と時間をかけて神経をすり減らすような思いをする。
しかし主イエスはここで、そういったありきたりの人生訓、処世訓を教えているのではないのです。日本人なら体にしみこんでいるようなこの習慣をこれからもしっかり守っていけばそれでよいのだ、などとおっしゃっているのではない。そういうふうにしか読まないならば、私たちは大いなる誤りをしでかすことになるでしょう。むしろここで問題とされるのは、そういった食事の席で、私たちの心の中にあるのは何か、ということです。先ほど申しましたように、私たちは普通、末席に座って様子を見るのが賢い振舞い方だ、そう思っています。しかし先程来見ておりますようにそこには、そのうち自分は正当に評価されて、上座へと案内されるはずだ、そういう魂胆、下心があるのです。策略があってそれの実現のために賢く振舞っているに過ぎないのです。本当はみんな、自分は上座へと導かれるのが当然だと思っているのです。その証拠にどうでしょう。もし食事の終わりまで、誰からも上座の方へと案内されなかったなら、私たちは怒ってしまうのではないでしょうか。失礼なことだと腹を立て、憮然とした表情で帰っていく。家に帰ってきてぶつぶつ文句を言っている。「私をあんな席に座らせたままにしておいた。失礼な話だ。だいたい誰も私のところに酒を注ぎに来もしないじゃないか」。
私たちはこうしていつも人生の中の席次にこだわらずにはいられない毎日を過ごしています。そうでなかったなら、あんなに席次表作りに悩む必要だってないのです。失礼がないように、と神経をすり減らす必要だってないはずです。そうしなければならない、ということは、誰もが上座へ座るのが当然だと思っているからです。少なくとも自分が正当に評価されることへの欲求を持っているからなのです。そうだとすれば、誰も素直な思いで末席に着くのではない。今に上座に行けるはずだ、そういう下心、策略の下で振舞っている。偽善がそこにあります。隠れた傲慢があります。「上手に覆われた自己主張の知恵」がそこにはあるのです。
 しかし主イエスは今、その私たちの隠れた傲慢さ、偽りの謙虚さを引き剥がし、私たちが神の御前でなにものも持たない者であることを示してくださるのです。今日の箇所のすぐ手前、先の主日に読まれた1-6節では、水腫の人が癒されたことが語られておりました。あの時、この水腫の人は、こうやって主イエスの前に黙って座っていれば、主が自分を癒してくださるにちがいない。そうしたら自分はこの宴の上座に躍り出て、皆を見返してやるんだ、果たしてそんなふうに思っていたでしょうか。そうではないでしょう。むしろこの人は主イエスを陥れてやろうとたくらむ律法の専門家やファリサイ派の人たちに無理やり連れてこられ、彼らの策略の道具とされたのです。そうでなければ、ただ主イエスの招きのみによってここに導いていただいたのです。この人の中にはなんの下心も策略もない。見せかけで低い姿勢をとっているのではない。この人は本当に低いところにいるのです。何も持たないで主の前に立っている。ただ主の憐れみによりすがるほかない者としてここに立っている。他に何もない。ただ主の慈しみの中に置かれること、そこにしか生きる道のない者として低いところに置かれている。主イエスはその人の手を取ってくださったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。これは決して賢い立ち居振る舞いを教える処世訓のごときものではない。そうではなく、自らが神の御前で何も持たない者であること、ただわたしの憐れみに拠りすがらなければ生きることのできない者であることを知れ、あるいはそこに立ち返れ、そこでわたしの憐れみの中に生きるのだ、そう呼びかける主イエスの招きの御声なのです。

4 (常識を覆す食卓作法)

 主イエスはさらにご自分を招いたファリサイ派の議員にもおっしゃいました。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」。
 先程の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」、このお言葉が、この世の処世訓のように誤解して受け取られる恐れがあるとするなら、今主イエスがおっしゃった、招く者の心得は、はっきりと常識を覆す、つまずきを与えるお言葉です。私たちが普通、食事に招くのは、まさに友人であったり、兄弟であったり、親類であったり、多くの見返りを期待できる地元の有力者であったりするのです。その時、食卓は相手との関係を保ったり、強めたり、今後の見返りを期待するものであったりします。しかし主イエスによれば、そういったお返しを受けることは不幸なことだというのです。これは私たちの常識とはまったく違います。むしろお返しのできない貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くなら、それこそが幸いなことだとおっしゃる。これも私たちの常識とはまったく異なります。
その「こころ」は何か。ここに出てくる貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人―この人たちは、あの水腫の人と同じ低いところにうずくまっている人たちです。主イエスがあの水腫の人を招き、ご自分のまん前に立たせてくださったように、この人たちもまた、主イエスの招きに与かるべき人たちなのです。何物も持っていない、自分の中には救いにふさわしいどんなものもない、上座に導かれるに足るどんな魅力ももち合わせていない、神の前にまったくゼロの存在としてそのまん前にたたずんでいる。ただ主の憐れみの中に置かれることしか求めていない、そういう存在です。ここに挙げられている人たちは皆、主イエスと出会い、主イエスの招きに与かり、新しい命に生き始めた人たちなのです。実際、私たちは思い出すのです。洗礼者ヨハネが送った使いの者に対して、主イエスが託したお言葉です。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞え、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(7:22-23)。
主がそういう人を招きなさい、と勧めておられる。それは、主が高みに立って与えておられる命令などでは決してありません。そうではない。むしろ主イエスご自身が、すべてに先んじてこれらの人たちと同じ低いところに立ってくださっているのです。いやすべてに先んじてこの私たちのところにまで来てくださった。私たちのいるところと同じ低いところにまで降り、共に歩んでくださった。痛みと苦しみを、悩みと悲しみをともに背負い、担ってくださったのです。そこで私たちは改めて示されるのです。私たちが自分では何物も持っていない。あの貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たちと同じように、神の御前で空っぽの手を垂らし、沈黙して主の憐れみの御前に立たせていただくほかない者であるということを。主が神の御前で、自己主張できる何物も持っていないこの人たちをこそ憐れみ、愛してくださった。この人たちのために十字架にかかり、その罪を代わって担ってくださった。そして死の中から甦り、新しい命に生きる道をここに打ち拓いてくださっています。ですから私たちも招くことができるのです。誰よりも先んじてまず主に仕えていただいた者として、先んじてこの主の憐れみの中に共に招かれている者として、あなたもこの恵みに共に与かろうと、招くことができるのです。神の憐れみのみによって立たせていただいた者は、神の招きを取り次ぎ、宣べ伝えていくことができるのです。ただで受けた者として、ただで与えることができるのです。

5 (終わりの時の復活)

 主イエスの招きは、律法の専門家やファリサイ派への招きでもあります。私たちもまた、この人たちのように、自分が正当に評価されることを求めがちな者であります。思い通りに評価されないと卑屈になったり、望む評価が得られると、「そら見ろ、自分はひとかどの人物なのだ」といい気持ちになったりします。しかしそうした私たちの心の中を主はご存知です。主は私たちのそういう驕り、隠された傲慢を打ち砕き、もう一度、なにひとつ持たないで主の前に立たされているのが私たちであることを知らせるのです。そして主の憐れみに招かれた者として、もう一度私たちを立たせてくださる。神の御前で貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たち、すなわち主の憐れみによりすがるしかないこの世の人々を、同じ招きに与かるべき者として呼びに行きなさい、そうおっしゃって遣わしてくださるのです。
かつて神学校で教えておられた先生がこうおっしゃいました。「教会に仕える伝道者は、いつも教会のもっとも低いところに立つように心がけなさい」。「先生、教会のもっとも低いところってどこですか」と問うた学生があった。そこで先生はいささか語気を強めてこうおっしゃったのです。「教会のもっとも低いところ、それはキリストが立っておられる場所に決まっているでしょう」。教会のもっとも低いところ、いやこの世のもっとも低いところ、つまり偽善の仮面を剥がされた私たちがそこに立っているに違いないはずの低いところに、主は来て、共に立ってくださったのです。そこに今も共に立っていてくださる。そして自分がひとかどの人物であると思い込んでいる者、神の御前で自分の豊かさを誇れると思っている者を砕き、神の御前で何物も持たない者であるということを新しく示してくださる。そうやって主のまん前に立たせ、憐れみの中にもう一度歩ませてくださる。そして主のこの招きを身に帯びた者として、今日も私たちをさらなる招きのために用いてくださるのです。
ただで招きを受けた者として、さらに招いてくださる主の御業にお仕えしていく。それが私たちです。その恵みの中に今生き始めているのです。今そのように生きていることが、終わりの時の私たちの復活としっかり結びついているのです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)。この「正しい者」とは、自分が神の御前で何も持っていない、何のお返しもできない、主の憐れみに拠りすがる者でしかないということを、何の下心もなしに、本当に知っている者であります。その心に今生き始め、神の招きを携えて生きていく時、終わりの時には豊かな報いが約束されているのです。終わりの時に私たちの救いが完成し、復活のからだと魂に生き始める。その時私たち皆が主のおそばへと招かれて、御国の上座に共に座るのです。すべての座席が上座に違いない、御国の食卓に、共に与かるのです。
 イザヤはこう預言しました。「高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる」(57:15)。自分には何も持てる物がない、打ち砕かれた、貧しい魂として主のまん前に立たされる、しかしその時こそ、主がまさにそこにおられるのが見えてくるのであり、そこでこそ初めて神の高さ、その憐れみの大きさが見えてくるのです。

祈り 

主イエス・キリストの父なる神様、何も持たない者としてあなたの御跡に従い始めた私たちのはずでした。しかしいつしか自分が信仰者として上座を要求し、信仰の歩みの中にさえ、席次表を持ち込み、順序をつけようとする卑しさ、傲慢さが、人を裁く思いが私共の中にあります。どうか憐れんでください。持てるものが何もない私共であることを示され、それゆえにこそ、あなたが与えてくださる憐れみの中で生きることができますように。それゆえにこそ、あなたが招いてくださるその招きに仕える者として用いられつつ、復活の希望に生きることを得させてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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