主日礼拝

気を落とさずに絶えず

「気を落とさずに絶えず」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第22編1-32節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第18章1-8節
・ 讃美歌:17、54、469

「彼ら」
 ルカによる福音書を読み進めてきまして、本日から第18章に入ります。ここで主イエスは弟子たちに、あるたとえを話されました。「弟子たちに」と訳されていますが、「弟子たち」という言葉は原文にはありませんで、「彼らに」というのが直訳です。その「彼ら」とは誰のことなのかは、その前のところ、つまり17章からのつながりで判断しなければなりません。17章の最後の37節には、「そこで弟子たちがこう言った」とあり、それに対して主イエスがお語りになった言葉が記されています。だから18章1節の「彼ら」は弟子たちのことだと分かる、と思いたいところですが、ところがこの37節も実は原文には「弟子たち」という言葉はありません。「彼ら」が問い、主イエスは「彼ら」にお答えになっているのです。その「彼ら」が誰であるかは、17章22節の「それから、イエスは弟子たちに言われた」までさかのぼらなければ分かりません。主イエスが本日の箇所でたとえをお語りになった相手が弟子たちであることは、この17章22節によって分かるのです。それは言い換えれば、本日の箇所は17章22節からずっと続いているのであって、18章から新しい話が始まっているのではない、ということです。ちなみに、口語訳聖書ではこの1節は「人々に譬で教えられた」となっていました。「彼ら」を「人々」と訳したのです。しかしこれだと、直前まで語っておられた弟子たちとは別の人々にたとえで教えたということになってしまい、やはり17章と18章のつながりが見えなくなってしまいます。原文は「彼ら」という言葉によって、17章22節からの話のつながりを読者に意識させようとしているのですから、そのことが分かるように訳すべきなのです。この17章からのつながりの意味については後で考えたいと思いますが、先ずは、ここに語られているたとえ話を見ていきたいと思います。

神を畏れず人を人とも思わない
 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」と始まっています。この裁判官のことは6節では「不正な裁判官」と言われています。その「不正な」の内容が、「神を畏れず人を人とも思わない」ということなのです。この言葉をよく味わいたいと思います。「神を畏れず」の「畏れる」は「畏敬」の「畏」であり、「畏れかしこむ」という字です。口語訳聖書では「神を恐れず、人を人とも思わぬ」と訳されていましたが、その「恐れる」は「恐怖」の「恐」でした。原文の言葉も、文字通り恐れる、怖がる、という意味を含んでいるのです。つまりこの言葉には、「畏敬の念を抱く」というだけでなく、「恐しいと思う」という意味があるのです。この裁判官は、神を恐しいとは思っていなかったのです。神様を恐しいと思うこと、それは神様を信じることの基本です。神様を恐しいと全く思わないとしたら、その人にとって神様はいないのと同じであり、信じていないということです。ただ勘違いをしてはならないのは、神様を恐しいと思うというのは、神様はいつ何をするか分からない気まぐれな暴君だと思ってこわがる、ということではないということです。そういう恐れから生じるのは、「触らぬ神に祟りなし」であって、それは信仰の基本にはなりません。神様を恐しいと思うとは、私たちがたとえ全ての人々に自分の罪を隠しおおすことができたとしても、神様はそれを見ておられ、お怒りになり、お裁きになる、という感覚です。そのような神様への恐れがあるところには、誰も見ていなくても、自分の生き方、生活を吟味し、正し、整えていくということが生じるのです。しかしその恐れがないなら、人に見えなければ、知られなければ、あるいは知られたとしても特に不都合がなければ、何をしてもよい、という思いが生じるのです。「人を人とも思わない」というのはそういう人間の姿を描いています。これは文字通りには、人のことを顧みない、気にしない、という言葉ですが、人を人として愛さず、大事にせず、傍若無人にふるまうという意味で、「人を人とも思わない」というのはとてもよい訳です。そして大事なのは、「神を恐れず」と「人を人とも思わない」が一つになっていることです。神を恐れることなく、つまり神の怒りや裁きを見つめることなく生きるところには、人を人とも思わない、隣人を尊重しない、傍らに人無きが如く振舞う傲慢な生き方が生まれるのです。逆に言えば、人を人として本当に尊重し、愛する生き方は、自分の思いと言葉と行動をいつも見ておられ、罪に対してはお怒りになる神様を恐れる思いのある所にこそ生じるのです。
 神を恐れず人を人とも思わない裁判官が裁きを行っているこの町に、一人のやもめがいました。夫に死に別れたやもめは聖書において、親のない子、みなしごと並んで社会的弱者の代表です。地位も力も財産もない一人のやもめが、この裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていたのです。「相手」と呼ばれている人とこのやもめの間にどんな争いがあったのかは分かりませんが、想像できるのは、この「相手」は社会的な地位もあり、富や力を持っているのだろうということです。このやもめは、そういう強い相手から自分を守ってくれるようにと裁判官に願ったのです。社会的弱者を守ることも裁判官の本来の役目だからです。しかも、「来ては」こう「言っていた」と訳されているように、何度も何度も繰り返しやって来て願い続けたのです。裁判官は「しばらくの間は取り合おうとしなかった」と4節にあります。それはこのやもめの訴えが正当なものでなかったからではありません。4節後半で彼自身が「自分は神など恐れないし、人を人とも思わない」と言っていることから分かるように、彼はこのやもめの主張が正しいことを知りつつ、それを無視していたのです。そこには、この訴えを取り上げても自分に何の得にもならないし、むしろ地位も権力もある「相手」の肩を持っておいた方が得だという計算が働いているのです。それは裁判官にあるまじき罪であり不正です。しかしこの町でその不正を裁くべき人は彼自身ですから、彼を裁くことができる者はこの町にはもはやいないのです。それができるのは神様だけですが、彼はその神を恐れていない、つまり神の裁きなどないと思っているのです。だから彼はもはや怖いものなしです。この世における自分の損得だけを考えて生きることに躊躇はないのです。これが「神を恐れず人を人とも思わない」者の生き方です。神を恐れないがゆえに、自分の損得だけを考えて生きていられるのです。このやもめは、このような裁判官の下に置かれているのです。

気を落とさずに絶えず
 主イエスはこのようなたとえ話を何のためにお語りになったのでしょうか。1節の最初に語られているように、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えるためでした。主イエスはこのやもめの姿に、気を落とさずに絶えず祈る者の姿を見ておられるのです。ここでは「気を落とさずに」という言葉が大切です。私たちは、祈りにおいて、気を落としてしまうことがあります。それは、祈っても自分を取り巻く目に見える現実がいっこうに変わらないという経験の中で起ることです。私たちを取り巻くこの世の現実はまことに厳しいものであり、祈ってもその現実がどうなるものでもない、と感じることがしばしばです。目に見える現実の重さ、その圧倒的な存在感に、私たちの祈り、神様に願い求める心がおしつぶされ、信仰そのものが萎えてしまいそうになるのです。私たちが置かれているそのような状況を主イエスは、神を恐れず人を人とも思わない裁判官の下にいるやもめの姿によって描いておられます。このやもめは、自分の正当な権利を守ってくれるようにと裁判官に訴え出ています。しかし彼女をめぐる現実において支配しているのは、「神を恐れず人を人とも思わない」不正な裁判官なのです。だから彼女の正当な訴えはことごとく無視され、取り合ってもらえないのです。それはまさに気落ちさせられずにはおれないような現実です。もう訴えても無駄だ、どうせ相手にしてもらえない、とあきらめてしまっても不思議ではない事態です。私たちは皆、それぞれ事柄は違っても、まさにそういう現実の中を生きているのではないでしょうか。しかしこのやもめは、そのような現実の中で、気を落とさずに絶えず求め続けたのです。

神の国を待ち望みつつ
 彼女が求め続けたこと、それは「正しい裁きが行われること」です。地位や権力、お金がある者たちだけが守られ幸福になるのではなく、弱い者、貧しい者たちの正当な権利が守られ、支えられる、そういう裁きが行われることです。それは言い換えれば、そのような正義によってこの社会が支配されることです。「裁き」と「支配」とは深く結びついています。支配している者が裁きを行うことができるのであり、どういう裁きが行われているかに、どういう者が支配しているかが現れるのです。今この世は、「神を恐れず人を人とも思わない」力に支配されています。そこに「神を恐れ、人を人として大切にする」正しい裁き、正しい支配が確立することをこのやもめは願い求めています。しかも、気を落とさずに絶えず求めていたのです。私たち信仰者も、同じことを願い、祈り求めています。神様のご支配とその正しい裁きが行われることを、祈り願いつつ私たちは生きているのです。神を恐れず人を人とも思わない力が支配しているこの世において、私たちがその祈りを気を落とさずに絶えず祈り続けていくことができるのは、目に見える現実の背後で、神様こそがこの世を支配しておられることを信じているからです。神様の裁きとご支配は既に揺るぎなく確立している、そのことを信じているがゆえに、その裁きと支配が目に見える仕方でも確立することを願い、祈ることができるのです。これは、先週までの17章に語られていた、「神の国が来る」ということです。神の国とは神様のご支配という意味です。その神の国の到来を期待し、待っていた人々に、主イエス・キリストは、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言って、ご自分がこの世に来られたことによって神の国が既に実現していることをお示しになりました。その神の国は、主イエスが多くの苦しみを受け、人々から排斥され、十字架につけられて殺され、そして復活なさったことによって実現しました。そのことを告げているのが「神の国の福音」です。主イエスに従う弟子たち、信仰者たちとは、この福音を信じている者、主イエスによって神の国が既に到来したことを信じている者です。しかしその神の国、神様のご支配は、今はまだ、目に見える仕方で実現してはいません。それは、この世の終わりに主イエスがもう一度来られ、裁きをなさることによって完成するのです。それまでは、つまりこの世が続く限りは、神の国、神様のご支配は、目に見えない、信じるしかないものです。目に見える現実においてはあいかわらず、神を恐れず人を人とも思わないような力が支配しているのです。その中で、信仰者は、主イエスによって既に実現している目に見えない神の国を信じて、未だ完成していない神の国を待ち望みつつ忍耐して生きるのです。その信仰の歩みにおいては、気を落とさずに絶えず祈ることが大切なのです。

神の裁きを信じて
 このように本日の箇所のこの「祈り」についての教えは、先週まで読んできた神の国の到来の話とつながっています。そのことを捉えることによってこそ、このたとえにおいて、あの不正な裁判官が気を変えてやもめのために裁判をしてやろうと思ったことの意味が理解できるのです。彼は5節でこう言っています。「しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。彼が方針を転換して、彼女のために裁きをしてやろうと決心したのはなぜかというと、彼女が「うるさくてかなわないから」です。取り合わないでいると、「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」からです。つまりしつこく願い続ける彼女を前にして彼が考えているのは、ここでも自分の損得です。損得だけで生きているこの人は、訴えの内容が正しいからではなくて、自分に迷惑がかかるのを防ぐために、願いを叶えてくれることがあるのです。このように語った上で主イエスは6節以下でこうおっしゃいました。「それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる』」。主イエスはここで、私たちの祈りを聞いて下さる神様を、「不正な裁判官」と重ね合わせておられます。私たちはそれにとまどいを感じます。神様はこの不正な裁判官のように、自分の損得だけを考えて裁きをなさる方なのだろうか、神様が私たちの祈りを聞いて下さるのは、「うるさくてかなわないから」なのか、私たちがしつこく祈ることによって神様は「さんざんな目に遭わ」され、これはたまらん、と重い腰を上げて下さるのだろうか、などと思ってしまうわけです。しかしそれは間違った読み方です。主イエスは確かにここで不正な裁判官と神様とを重ね合わせておられますが、そこで語ろうとしておられるのは、「神様は私たちの祈りに応えて確かに裁きを行って下さる、つまり神の国を完成して下さる」ということです。6節以下のみ言葉が語っているのはまさにそのことです。神は「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」、そんなことはない、「神は速やかに裁いてくださる」のだ、神様の裁きとご支配が、つまり神の国が完成されるのだ、だからそれを信じて、気を落とさずに絶えず祈り続けなさい、ということを主イエスはこのたとえによって語ろうとしておられるのです。不正な裁判官と神様とが重なるのは、「裁きを行う」という点においてのみです。それ以外のことについて、「神様はこの不正な裁判官のような方で、しつこく祈ればうるさくてかなわないと思って聞いて下さる」などと読むのは間違っているのです。言い換えれば、ここには、どうしたら神様に祈りを聞いてもらえるのか、正しい裁きを、つまり神の国を早くもたらしてもらうためにはどのように祈ったらよいのか、というテクニックが語られているのではなくて、神様は必ず正しい裁きを行って下さり、神の国を完成させて下さる、そのことを信じて、神を恐れず人を人とも思わないような力が支配している現実の中でも、気を落とさずに絶えず祈りなさい、という勧めが語られているのであって、その模範としてこのやもめの姿が描かれているのです。

人の子が来るとき
 最後の8節の後半に「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とあります。「人の子が来るとき」という言葉から、ここが17章後半の「神の国が来る」という話の続きであることが分かります。17章において、「神の国が来る」ことが、「人の子が現れる」と言われており、あるいはその日が「人の子の日」と呼ばれているのを私たちは見てきました。「人の子」とは主イエスのことです。その人の子主イエスが、もう一度この世に来られる、しかもそれは、稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように起こる、そしてその時に、救われる者と滅びる者、命を保つ者とそれを失う者とがはっきりと分けられる、つまり裁きが行われる、ということが先週の所に語られていました。それが、本日のところに語られている「神が裁いて下さる時」です。神の国の完成の時です。その時、人の子は「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言っておられるのです。その「信仰」とは、主イエスがもう一度来て下さることによる神の国の完成を信じて、この世の目に見える現実によって気を落とさずに絶えず祈ることです。そのような祈りに生きることこそ、主イエスによって既に到来している神の国を信じて、未だ実現していないその完成を待ち望む私たちの信仰のあるべき姿なのです。主イエスは私たちがそのような信仰に生きることを求め、期待して、このように語っておられるのです。

神の国をどこに見るのか
 そしてこのことは、先週読んだ17章の最後の37節とつながっていると私は思います。37節において弟子たちは「主よ、それはどこで起こるのですか」と尋ねました。この問いは、直訳すると「主よ、どこで?」となります。この問いが何を尋ねているのか、明確でないと先週も申しましたが、話の流れからして、神の国の到来、完成のしるしをどこに見ることができるのか、ということでしょう。そして主イエスの答え「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」は、当時の諺を用いて、条件が整えば結果は自ずと現れるのだから、「どこで」などと問うのはふさわしくない、と弟子たちの問いを退けた言葉であると説明される、と申しました。しかし私は、あの弟子たちの問いへの主イエスの答えが本日の箇所のたとえ話なのではないかと思うのです。そして、「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」という言葉はそのたとえへの導入となっているのではないかと思うのです。「死体のある所には、はげ鷹が集まる」、それは、はげ鷹が集まっているのを見れば、そこに死体があることが分かる、という意味でもあります。つまり、「神の国の到来、完成のしるしをどこに見ればよいのですか」という弟子たちの問いに対して主イエスは、「こういうことが起っているところにそのしるしがある」「こういうことにこそ、神の国の完成が現れている」とおっしゃったのです。その「こういうこと」を示しているのが、本日の箇所の「やもめと裁判官のたとえ」です。つまり私たちがこのやもめのように、神の国の完成、神による正しい裁きの実現を信じて、神を恐れず人を人とも思わない力が支配しているこの世の現実の中で、気を落とさずに絶えず祈り続けていく、そういう信仰のある所にこそ、神の国の完成を指し示すしるしがある、このような祈りと信仰こそが、厳しいこの世の現実の中で、神の国、神様のご支配を現し、証ししているのだ、と語られているのではないでしょうか。最初に申しましたように、「彼ら」という言葉によって、17章22節から本日の箇所まではつながっていることが分かります。そのことを見つめる時、本日の箇所のたとえ話は、単にあきらめずに祈り続けよという教えであると言うよりも、主イエスによって到来した神の国を信じ、その主イエスがもう一度来て下さることによってそれが完成することを待ち望みつつ祈る信仰を教えていることが分かってきます。そして、私たちがこの世の現実の中で、神の国を、つまり神様のご支配を垣間見ることができるのは、気を落とさずに絶えず祈ることにおいてなのだ、ということをも示されるのです。私たちは、主イエスが来られた時、そのような信仰に、そのような祈りに生きている者として見いだしていただけるでしょうか。主イエスはそれを私たちに問うておられるのです。

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