夕礼拝

権威ある新しい教え

「権威ある新しい教え」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第61章1節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章21-28節
・ 讃美歌:17、356

<会堂で教える>
 「一行はカファルナウムに着いた」とあります。「一行」というのは、主イエスと、4人の弟子たちのことです。この弟子たちは、船に乗って漁をしている時に、主イエスに目を留められ、「わたしについて来なさい」と招かれた者たちです。
 この一行は、カファルナウムという場所で、安息日に会堂に入りました。そして、主イエスはそこで教え始められた、とあります。  

 会堂というのは、ユダヤ人たちが各地に建てた、礼拝や集会をする場所のことです。シナゴーグと言われ、この言葉には「召集すること」という意味があります。安息日にユダヤ人たちはこの会堂に集まって、モーセの律法と預言書、今のわたしたちで言えば、旧約聖書を読み、その解釈を聞いて学んでいました。ここで律法を教えるのは、基本的にはラビと呼ばれる律法学者でしたが、学者でなくてもイスラエルの男子であれば、誰でも解釈を話すことができたそうです。それで、主イエスもこの安息日に、この会堂で教え始められたということなのです。

<権威>
 さて、その時人々は「その教えに非常に驚いた」と書かれています。この「驚く」という言葉には、圧倒される、度を失う、感動する、心打たれる、などの意味が含まれています。人々は、主イエスが語られることに非常に驚き、圧倒された。人々の心が揺さぶられるようなことが起こったのです。
それは、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」と書かれています。人々は、主イエスが権威をもって語りかけられたことに、圧倒され、驚いたのです。しかし、「律法学者のようにではなく、権威ある者として」というのは、一体どういうことなのでしょうか。

 そもそも、ユダヤ人の中では、律法学者という人々は、大変権威のある人々なのです。彼らは律法、つまり「神の言葉」を解釈して、人々に教えるからです。
律法は、神がイスラエルの民に与えたものです。神は、イスラエルの民を選び、彼らがエジプトで奴隷にされているところを救い出し、契約を結んで、彼らをご自分の「神の民」とされました。その神の民が、神の恵みに応えて歩んでいくために与えられたのが、「律法」です。ですから「律法」は、神の御心を示す、「神の言葉」なのです。
このような、大切な「神の言葉」である律法を解釈し、教えるようになるには、厳しい指導を受け、あらゆる律法やこれまでの伝承、解釈などに精通し、あらゆるイスラエルの民の中で起こる問題について、律法に基づいて判断できるようにならなければなりません。ですから、それらをマスターしている律法学者たちは、人々の指導者として、信頼も尊敬もされていました。また、律法学者の言うことは、神の言葉である律法を解釈したものですから、人々は従わなければなりません。ですから、律法学者たちは人々の中で、「権威ある者」であったのです。彼らの権威は、神の言葉である律法を解釈する、というところにありました。

しかしまた、主イエスの時代には、この律法を厳しく守ろうとするために、多くの解釈や、様々な付随する規則が作られるようになり、それが膨大な数になっていたと言います。
すると本来、神の救いに応えて、神の御心に従って生きるために与えられた律法が、その中心にある神の御心が忘れられてしまって、だんだん形式的に守られるだけの規則集のようになっていきます。
マルコによる福音書の後の箇所には、その忘れられてしまった律法の根底にある神の御心を、主イエスが改めて教えようとされる場面が、何度も出てきます。
律法学者の権威というのは、神の御心を正しく教えないのであれば、単に強制的に規則を守らせることに用いられていきます。神の恵み、神の御心を示さない律法学者の権威による教えは、人々に驚きや感動を与えるものではなかったのです。  

 しかし、主イエスが語られたことは、そのような、律法学者のような権威ではなかった、と言います。人々がいつも聞いている、律法の解釈や、規則の適用の仕方などではなかったのです。
 それは、神の御心を実現するために神から遣わされた、神の御子の言葉であり、神ご自身の権威に満ちたものでした。主イエスご自身が、神の言葉でした。

 この場面で主イエスが教えておられた内容というのは書かれていませんけれども、それは1:15で主イエスが伝道の初めに語られたこと、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということだったでしょう。
 「神の国」というのは、神のご支配のことです。人々を罪から解放し、神の救いに招くために、神の恵みによって人々を支配して下さるために、神の独り子、主イエス・キリストは遣わされました。神の救いの約束が、主イエスによって実現します。その方がこの世に来られたのです。今や、救いの時が来ているのです。
ですから、主イエスは、神の御言葉が語られ、神を礼拝するこの会堂で、神の御心と、救いの約束の実現を、権威を持ってお語りになったのです。
 「神の国は近づいた。神の救いが、神の恵みの支配が、わたしによって実現する。だから、神のもとに立ち帰り、この良い知らせを信じなさい。」

 礼拝は、このように、神の言葉が語られ、救い主と出会うところです。今わたしたちも、この神を礼拝するところにおいて、聖書のみ言葉を聞き、聖霊のお働きによって、救い主であるイエス・キリストと出会っているのです。
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られ、救い主と出会うとき、わたしたちの心は動かされます。圧倒されます。そして、主イエスと出会った者一人一人に、あることを迫ります。それは、この神の恵みを、主イエスを、受け入れるか、受け入れないか。信じるか、信じないかということです。

主イエスを信じる、ということは、自分自身を主イエスに委ねるということ。自分自身を明け渡すということです。
しかし、わたしたちは自分自身にしがみついて、中々自分を明け渡すことができません。自分を委ねるのは、恐ろしいことのように感じるのです。自分が弱くなってしまうように思うのです。でも、わたしたちは、神の前に、自分は弱く、無力なものであることを認めなければなりません。神に生かされているのに、神に頼らず、自分に頼ろうとして生きていること、神から離れ、背いている者であることを、知らなければなりません。そして、神に立ち帰り、神の恵みにあなたを委ねなさいと、言われているのです。
神の権威によって、神ご自身がわたしたちにこのように語りかけられるとき、神の言葉は、圧倒的な力をもってわたしたちに迫ってくるのです。

 ですから、主イエスが語られた時、この会堂の人々は非常に驚きました。神の権威に、彼らは圧倒され、揺さぶられました。しかし彼らは、まだはっきりとは、この目の前で語っておられる方がどなたであるのかを知らなかったのです。

<汚れた霊>
 しかし、それを鋭く見抜くものがありました。それは、「汚れた霊」です。汚れた霊とは、人を神から引き離そうとする力、神に敵対する力のことです。23節には「この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて」とあります。
 このような汚れた霊が、神を礼拝する場所である会堂で男に取りつき、人々の中に一緒にいて教えを聞いていた、というのは、驚きであり、恐ろしいことです。会堂であっても、そこを人の思いが支配し、神の御心が正しく語られていなかったならば、そこは彼らにとって支配しやすい場所であり、むしろ居心地が良かったのかも知れません。
 また、汚れた霊に取りつかれてしまうということは、決して人ごとではありません。神を礼拝する場所にいながら、神から心が離れてしまっていること、他のものに思いが捕らわれていたり、自分の思いで心が満たされていること、神に心を明け渡していない、ということは、わたしたちにも起こってしまっているかも知れないのです。
 この汚れた霊の力に抗うことは、弱い人間にとってはとても困難なことであり、いつも簡単に支配され、罪に陥ってしまいます。

 しかし今、会堂には、救いを実現する主イエス・キリストご自身が来られ、まことの神の御言葉を語っておられます。神の御心を教えておられます。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
神がまことの支配者である。この神のもとに立ち帰りなさいと、人々に語られたのです。

主イエスが権威ある者としてお教えになっている、そのとき、この汚れた霊に取りつかれた男が叫び出しました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
この「かまわないでくれ」というところは、以前の口語訳聖書では「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです」と訳されていました。「ここで神の権威をふるうな、我々に係わってこないでくれ」「関係をもたないでくれ」ということです。
汚れた霊は、主イエスがまことの神の権威を持つ方だと分かっています。「我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。」かまわないでくれ、と叫んだのは、圧倒的な神のご支配によって、自分の居場所がなくなるからです。滅ぼされてしまうからです。神に敵対する者は存在できなくなってしまう神の権威が、主イエスにあったのです。

主イエスはこの汚れた霊をお叱りになります。「黙れ。この人から出て行け。」
すると汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出て行きました。
神の国、神のご支配を実現するために来られた方が、神の力によって、神の権威によって、一人の人から汚れた霊を追い出し、汚れた霊の支配から、解放して下さったのです。
それは、汚れた霊を追い出すためだけに行われたのではありません。その汚れた霊に支配されていた人が、神から離れてしまっていた人が、神に立ち帰り、主イエスご自身が実現させて下さる神の恵みのご支配に生きるようになるためです。

<新しい権威ある教え>
 これを見た人々は、皆驚いて、論じ合った、とあります。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
 人々は、主イエスの教えられたこと、なさったことを、「権威ある新しい教えだ」と言いました。

 この「新しい」という言葉は、性質の新しさを意味する言葉です。権威を持った、これまでになかった、まったく新しい教えだということです。これは、神の御心を実現する、神の御子の権威であり、新しい神の教え、そして御業です。
 これまでイスラエルの人々にとっては、律法を守っていくことが神の民であるということであり、神の教えに従うということでした。
しかし、いよいよ神が、救い主を遣わされ、イスラエルの民を通して約束なさった救いがこの世に実現するのです。主イエスが来られ、この方の救いの御業を信じ、従うことによって、新しい神の民とされ、神と共に生きる者とされる。そのような、神の救いの歴史の、まったく新しい局面が始まったのです。

 この新しい教えが、人々の中に突入してきました。27節に「人々は皆驚いて」とあります。22節の「非常に驚いた」に続いて、再び「驚く」という言葉が使われていますが、もとのギリシア語は、22節とは違う単語が使われています。この27節の「驚く」という言葉には、「恐れる」という意味も含まれているのです。これは、聖なるものに出会う畏れ。天地を造られ、すべてを支配する神に出会ってしまう、恐れです。
 汚れた霊の支配を退け、神のご支配を来たらし、神に立ち帰ることを命じられる、神の権威を目の当たりにし、人々は恐れ、驚いたのです。
 旧約聖書の時代には、人は神を見たら死ぬ、と言われていました。聖なる方を前に、この方から離れ罪を犯してしまった人は、神を恐れるべきものです。わたしたちは、罪に捕らわれ、神から離れてしまっているゆえに、神の怒りにふれ、滅ぼされてしまってもおかしくないものなのです。 
汚れた霊は「かまわないでくれ、我々を滅ぼしにきたのか」と叫びました。汚れた霊は、神に敵対する力は、神によって退けられ、滅ぼされます。
 しかし神は、私たちに対しては、滅びることではなく、救うことを御心として下さいます。わたしたちが、神と共に生きることを望んで下さっているのです。そのためにこそ、神の御子、イエス・キリストは、まことの人となって来られました。わたしたちを造って下さった神は、わたしたちのことを、深く愛して下さっているのです。
神はわたしたちを愛して下さるがゆえに、わたしたちの罪の贖いのために、ご自分の御子を遣わし、その命をわたしたちに与えて下さる。わたしたちを罪の支配の中から救い出し、汚れた霊から、罪から解放し、死の滅びから救い出し、神と共に生きる、永遠の命へと招いて下さるのです。

 本日の旧約聖書の箇所、イザヤ書61:1は、主イエス・キリストのことを預言しているところです。
「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。
 わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
 打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を
 つながれている人には解放を告知させるために。」
「キリスト」とは、ヘブライ語で「メシア」、油注がれた人、という意味であり、神に選ばれた人、救い主のことです。主イエス・キリストこそ、神の霊が注がれ、神の御心を実現するために遣わされた方です。それは、貧しい人に良い知らせを伝えさせるため。打ち砕かれた心を包むため。捕らわれ人に自由を告知するため。また、つながれている人には解放を告知するためです。
そして、今やこの方は来られ、救いの約束は実現したのです。
今、わたしたちにも、神の言葉が語られ、主イエス・キリストが出会ってくださり、この良い知らせが、神の恵みのご支配の到来が、告知されています。

 神は、わたしたちが全く無力で弱いものであることをご存知です。どのようにしても、わたしたちは自分で罪から逃れることは出来ないし、自分で神に立ち帰ることも出来ないのです。だから神ご自身が、この救いの御業をわたしたちのために行って下さるのです。主イエスが、わたしたちの罪を全て背負い、十字架の苦難と死の道を歩んで下さったのです。
そして神は、主イエスを死者の中から復活させ、罪の贖いが成し遂げられたことを明らかにして下さいました。主イエスは、罪に、汚れた霊に、死に、勝利して下さいました。
だから、わたしたちも、罪に捕らわれ、死に滅ぼされるのではなく、罪の赦しを与えられ、復活の命にあずかることができるとの希望を持つことができるのです。この十字架と復活の出来事にこそ、すべてを支配なさる、主イエス・キリストの神の権威が、最も明らかに示されているのです。

 このようにして実現してくださる「神の国」、神のご支配を、あなたは受け入れなさい。主イエス・キリストの救いを信じなさいと、神は語りかけて下さっています。わたしたちは悔い改めて、心を神の方へと向けて、神のご支配に、自分自身をすべて委ねたいのです。そこに、まことの自由と、平安があるからです。これこそが、わたしたちのための「良い知らせ」であり、主イエスがわたしたちに与えて下さる「権威ある新しい教え」なのです。

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