クリスマス讃美夕礼拝

神が共にいてくださる

「神が共にいてくださる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第11章1~10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第1章18~25節、第2章1~23節

喜び、平安、慰めはどこに
 みなさん、教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。今宵クリスマスの喜びを皆さんとご一緒に分かち合いたいと願っています。クリスマスの喜びと申しましたが、私たちが生きているこの社会には、まことに喜びを見出しにくい厳しい状況が続いています。景気は相変わらず低迷しており、職を失ったり、就職できなかったりする人々が増えています。学生は就職活動で忙しくて勉強している暇がないというおかしな状況も生まれているようです。今年聞いた、笑えないおかしな話ですが、今はいわゆる就活における採用非採用の通知もメールで来るのだそうで、非採用の通知のことを学生たちは「お祈りメール」と言っているのだそうです。「今回は採用できませんが、よい就職口が見つかりますようにお祈りいたします」というような通知が来るわけです。そうやって就職を断られることを「また祈られちゃった」と言うのだそうです。祈られることが、自分が拒否されることを意味する言葉となっている、そこには、この社会を覆っている大変深刻な闇が現れていると思わずにはおれません。そのような闇の中で、前途に希望を見出せない若者が、「自分の人生を終わりにしたい」という絶望の中で周囲の人々を傷つけてしまうような事件が繰り返されています。社会がそんな深刻な状況であるのに、政治の世界では、人々の生活とは全く関係ない勢力争いが繰り返されていて、民主党政権に多少の期待を寄せていた人々もあきらめムードです。そのように日本が低迷する中、中国やロシアが国力を増し加えつつあり、これらの国々との関係が難しい課題となってきています。そして朝鮮半島では、砲撃事件による緊張が高まっており、新たな衝突が起りかねない状況です。今年も、教会の正面に「クリスマスに平和の祈りを」と書いたバナーを掲げました。またこの礼拝の中でも、この後アッシジのフランチェスコの『平和の祈り』をご一緒に祈りたいと思っていますが、平和を祈り求める思いは今年も切なるものがあります。このように周囲を見回していきますと、喜びなどなかなか見出せないように感じます。だからこそせめてこのクリスマスには、それらのことを一時忘れて、家族や友人たちと、あるいは恋人と、つかの間の喜びを味わいたい、というのが私たちの思いかもしれません。
 しかし今宵この教会の讃美夕礼拝に来られた皆さんは、クリスマスの本当の喜びを求めて来られたのだと思います。この讃美夕礼拝のお誘いのチラシや、教会のホームページに私はこう書きました。「指路教会のクリスマスは、ディズニーランドと比べたら、華やかさも、美しさも、楽しさも、まったく貧弱なものです。でも私たちは、ここに、本当の喜びと、平安と、慰めがあると信じています」。その「本当の喜び、平安、慰め」をこそ求めて、皆さんは今宵、ディズニーランドではなくてこの指路教会に来られたのです。クリスマスの本当の喜びとは何なのでしょうか。

神が共にいてくださる
 クリスマスがイエス・キリストの誕生を喜び祝う時であるということは皆さんも知っておられると思います。先ほど、新約聖書マタイによる福音書におけるイエス・キリスト誕生の場面が朗読されました。第1章に語られていたのは、イエスの母となったマリアが、まだ夫ヨセフと一緒になる前に聖霊によって身重になったこと、そのために離縁されそうになったこと、すると天使がヨセフに夢で現れ、「マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのだから、マリアを妻として迎え入れ、生まれて来る子にイエスと名付けなさい」と告げたことです。天使は、このことによって旧約聖書の預言が実現するのだと告げました。おとめが身ごもって子を産み、その子がインマヌエルと呼ばれるという預言です。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。そのことがイエスの誕生によって実現したのです。これこそが、マタイ福音書が語るクリスマスの喜びです。クリスマスの喜びとは、「イエスの誕生によって、神が私たちと共にいてくださることが実現した」という喜びなのです。

苦しみと葛藤
 しかしこのことは、当の本人であるマリアとヨセフにとってはどうだったのでしょうか。マリアは、夫と一緒になる前に、身に覚えがないのに妊娠したのです。しかし身に覚えが無いというのは本人だけが知っていることで、周囲の人々からは、身持ちの悪い女と思われてしまうような事態です。だから婚約者ヨセフも、彼女とはもう結婚できないと思ったのです。もしも彼がこのことを表沙汰にして訴えたら、マリアは死刑になってしまうところでした。それが当時の掟だったのです。ですからマリアはこの妊娠によって、文字通り命の危機に陥ったのです。「おめでた」などとはとても言えないような事態です。他方ヨセフにしてみればこれは、婚約者に裏切られた、という事態です。天使が現れて、マリアは聖霊によって身ごもったと告げましたが、証拠があるわけでなし、そんなことを信じるのはよっぽどおめでたい男だ、と言えるでしょう。けれども彼は天使の言葉を信じて、自分によってではなく妊娠したマリアを妻として迎え入れ、生まれた子にイエスと名付けました。つまりその子を自分の子として受け入れ、守り育てていく責任を負ったのです。2章には、幼子イエスの命を狙うヘロデ王の手を逃れて、彼が家族を連れてエジプトにまで行ったことが語られています。今で言えば、政治的迫害による亡命です。そういう苦難を彼は引き受けたのです。このように、イエス・キリストの誕生はマリアにとってもヨセフにとっても、喜びどころではない、彼らはそのことによる苦しみや葛藤を引き受けなければならなかったのです。

悲惨な出来事
 第2章には、イエスが誕生した時に、東の国から占星術の学者たち、いわゆる博士たちがやって来て、幼子イエスを拝み、黄金、乳香、没薬の贈り物を捧げたという話が語られています。それだけならメルヘンチックな話ですが、この学者たちの来訪によって、ユダヤ人の王となる者の誕生をヘロデ王が知ることになり、自分の王位を脅かされるのを恐れた彼がその子を殺そうとし、挙げ句の果てにベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにした、という凄惨な出来事が起ったのです。喜ばしいクリスマスどころではない、幼児虐殺の悲劇です。マタイによる福音書はこのように、クリスマスの出来事、幼子イエス・キリストの誕生によって、「インマヌエル、神は我々と共におられる」という約束が実現したという喜びと同時に、そのことによってマリアやヨセフが苦しみを負い、また幼児虐殺という悲惨な出来事が起ったことを語っているのです。これはどうしたことなのでしょうか。神が共にいてくださることと、このような苦しみ、悲しみはどう結びつくのでしょうか。

ともしび
 そのことを思いめぐらしつつ、今宵は皆さんに一つの物語をご紹介したいと思います。スウェーデンの女性作家セルマ・ラーゲルレーヴの『キリスト伝説集』の中にある「ともしび」というお話です。
 昔イタリアはフィレンツェの町に、ラニエロという荒くれ男がいました。腕っ節の強さ、喧嘩の強さのみが自慢という男でした。彼にはフランチェスカという妻がいましたが、ラニエロの余りの乱暴さ、また人の心を思いやることのできない性格に愛想をつかして、実家に帰ってしまいました。ラニエロは、何とか彼女の心を再び自分の方に向けさせたいと思い、傭兵になってあちこちの戦さで大手柄を立て、戦利品の中で最も貴重なものをフィレンツェの大聖堂の聖母マリア像に捧げました。その戦利品によって自分の大活躍を知れば、フランチェスカの心も戻ってくるだろうと思ったのです。しかし彼がどんな手柄を立て、どんな立派な戦利品を捧げても、フランチェスカは戻っては来ませんでした。
 しかしラニエロは、これはまだ自分の手柄が足りないのだと考え、そのころ始まった十字軍に加わり、聖地エルサレムをイスラム教徒の手から奪回する、その戦さにおいて一番乗りの大手柄を立てました。その褒美として、彼はエルサレムのキリストの墓に灯るともし火から、自分のろうそくに最初に火を移すことを許されました。このともし火こそ、今回の戦さにおける最も貴重な戦利品です。その夜仲間たちが、「今度ばかりはいくらおまえでも、そのともし火をフィレンツェの聖母マリア像のもとに届けることは出来まい」と彼をからかいました。かっとなった彼は、「俺はこのともし火をフィレンツェまで消さずに届けてみせる」と宣言します。そして翌朝から、エルサレムからフィレンツェまで、ともし火を消さずに持ち運んでいくという奇妙な旅が始まったのです。
 ともし火を消さずに旅をすることは思ったほど簡単ではありませんでした。馬の背に後ろ向きにまたがり、マントで風をよけながらそろそろと進まなければなりません。出発したとたんに彼は追いはぎに合います。普段なら、そんな連中をやっつけることは造作もないことですが、ともし火を守るためにはそれができません。彼は立派な馬と身ぐるみを全て彼らに渡してしまいました。後に残されたのは、ぼろぼろの服と、やせ細った馬だけでした。ぼろを纏い、やせ馬に後ろ向きにまたがって、一本のともし火だけを守りながら旅していくラニエロを見て、人々はあざ笑い、からかいました。普段ならばそのようなことには我慢ならないラニエロですが、殴りかかることはできません。ともし火がいっぺんで消えてしまうからです。そのようにして、一本のともし火を守りながらの、ラニエロの奇妙な旅が続けられていきました。
この旅で、彼はいろいろなことを体験していくのですが、その一つ一つが、それまでの人生において彼が一度もしたことのなかったこと、全く考えもしなかったことでした。つまり、風の一吹きで消え去ってしまう弱いもの、小さなものを大切に守っていく、ということです。そのためには、いろいろなことを我慢しなければなりませんでした。何よりも、怒りに任せて暴れまわることができません。怒りや憎しみを覚えても、自分を抑えなければなりません。屈辱を受けても忍耐しなければなりません。それは彼にとって本当につらい、苦しい旅でした。しかしそのように、小さなともし火をひたすら守りつつ歩む旅を続けていくことの中で、彼は次第に変えられていったのです。争いよりも平和を愛し、荒々しいことよりも穏やかなことを好み、憎しみを抑えて忍耐することができる者に、弱い、小さな者をいつくしみ、いたわり、守ることができる者へと、一本のともし火が彼を変えていった、それがこの物語の骨子です。

小さな弱いものを守る
 私はこの物語を、毎年クリスマスの時期になると思い起こします。これは別にクリスマスの話というわけではありません。けれども、ラニエロが守って旅をしたあの一本のともし火に、クリスマスにこの世にお生まれになった幼子イエス・キリストを重ね合わせることができると思うのです。生まれたばかりの赤ん坊は、本当に弱く小さなものです。風の一吹きでかき消されてしまうろうそくの炎のように、大切に守ってやらなければすぐに命は尽きてしまいます。赤ん坊の命を奪うことはまさに赤子の手をひねるように簡単なことです。マリアが生んだ幼子イエスはそういう小さな、まことにか弱い命だったのです。マリアは、聖霊によって自分の胎内に宿ったこの命を大切に守り、自分の腹を痛めて生んだこの赤ん坊を必死になって育てました。ヨセフは、天使のお告げを信じて、そのマリアを妻として迎え、マリアと生まれたばかりの幼子イエスをヘロデの手から守るために、故郷を離れて遠い他国に逃れていきました。この小さな弱い命を守るために、彼らは様々な苦しみや悲しみを背負わなければなりませんでした。しかしその苦しみや悲しみを通して、彼らは、神様が共にいて下さるということの本当の意味を知らされていったのです。神が共にいてくださるという喜びは、小さな弱い赤ん坊であるイエスを大切に守っていく、そのための苦しみや悲しみ、労苦を背負っていくことの中にこそあるのです。

イエス・キリストの生涯によって
 神が共にいて下さる、それがクリスマスの喜びです。その喜びは、悩みや苦しみがなくなり、すべての問題が解決することによって得られるのではありません。神様は、ご自分の独り子を、一本のともし火のようにか弱い、小さな赤ん坊としてこの世に遣わして下さいました。それがクリスマスの出来事です。そしてクリスマスにお生まれになった主イエス・キリストは、そのご生涯にわたって、弱い人、苦しみの中にある人、罪の中にある人々の弱さ、苦しみ、罪、そしてその人間の罪によって引き起こされる様々な悲惨さを背負って歩まれました。そして最後には、私たちの罪を全て背負って、十字架の死刑を受けて死なれたのです。このイエス・キリストの苦しみのご生涯によって、神が私たちと共にいて下さるという約束が実現したのです。

本当の喜び、平安、慰め
 神様は今宵、私たち一人一人の心の中に、イエス・キリストという小さなともし火を灯して下さいます。それは風の一吹きでかき消されてしまうような小さなともし火です。今日この会堂を出たとたんに自分でそれを吹き消して、忘れ去ってしまうことも簡単です。この小さなともし火を消さずに大切に守っていこうとするなら、そこにはいろいろと苦労もあるし、忍耐も必要です。しかし今宵私は皆さんにはっきりと言うことができます。イエス・キリストというともし火を消さないようにしっかりと守って人生の旅路を歩んでいく、そのための労苦を担っていくなら、このイエス・キリストが、私たちを新しくして下さるのです。私たちのために独り子を遣わし、その十字架の苦しみと死とによって罪を赦し、苦しみや悲しみを共に背負って下さる神様が共にいて下さるという本当の喜び、平安、慰めに生きる者として下さるのです。その喜び、平安、慰めは、この世のどんな苦しみ、悲しみ、悲惨さによっても押しつぶされてしまうことはありません。なぜなら、主イエスの父である神様は、私たちの苦しみを背負って下さるだけでなく、死の力に勝利して主イエスを三日目に復活させて下さった方だからです。クリスマスにこの世に生まれ、私たちの罪と苦しみとを背負って歩み、十字架にかかって死に、父なる神様によって復活した主イエス・キリストと共に生きるところには、罪を赦され、苦しみや悲しみ、悲惨さの全てを背負われ、そして肉体の死を越えた新しい命の約束が与えられるという本当の喜び、平安、慰めが与えられるのです。
 イエス・キリストと共に生きるこの喜び、平安、慰めによって、私たちは、闇に閉ざされたこの世の現実の中で、なお希望を失わずに歩むことができます。苦しみや悲しみの中にある隣人に声をかけ、手をさしのべていくことができます。そのようにして、自分の周囲に良い交わりを築いていく努力をすることができます。それが、この世界に平和をもたらしていくための第一歩となるでしょう。また私たちは、共にいて下さる神様に祈りつつ歩むことができます。私たちの祈りは、「お祈りいたします」と言って実際には相手を拒絶するような空しい言葉、お題目ではありません。イエス・キリストの父である神様が、私たちの祈りをしっかりと聞いていて下さり、天の父としての愛をもって、私たちに本当に必要な支えと助けとを与えて下さるのです。この神様に信頼して、互いに祈り合いつつ、お互いの関係をしっかりと結んでいくことができる、そういう喜びへと、神様は今私たちを招いて下さっているのです。

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