「父が報いてくださる」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第1章11-17節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章16-18節
・ 讃美歌 : 52、471
断食とは
本日はマタイによる福音書第6章16~18節の御言葉を共にお聞きしたいと思います。 これまで、主の祈りについての御言葉を聞いてきました。本日の第6章は1節から18節までは一つのまとまった部分です。1節では全体の主題を掲げています。そして2節から4節までが主の祈りについて、そしてこの16節から18節までは「断食」について語っております。ここでは一貫して、施し、祈り、そしてこの祈りに伴うはずの断食について語っております。これらの施し、祈り、断食とは当時の人々の考える信仰者の生活の基本をなすものでありました。この3つのことを行なうことによって、信仰者としての生活の筋道が整えられたのであります。主イエスはその信仰の基本について、具体的に問い直されました。主イエスはここで私たちの信仰生活の根本をなすものを問われるのであります。
断食とは、その字の通り食物を断つことです。私たちの習慣には断食というものはありません。主イエスは必ずしも、断食を積極的には勧めてはおられません。事実、今日私たちの教会生活では、断食は行われてはいません。個人的に行なう人はあるでしょうが、一般的に断食の勧めはしないようです。それなら、断食とは何でしょうか。主イエスは断食をお勧めにはなりませんでしたが、そのご生涯の始めに、荒野での誘惑がありました。荒野での誘惑では40日40夜食を断たれました。石をパンにせよ、という誘惑は断食して空腹を覚えている者にまっさきに来る誘惑であります。しかし、この荒野での誘惑の話は断食を目的とした話ではありません。誘惑に遭うために断食をされたのではないのです。主イエスの弟子たちはしばしば、断食をしていないという理由で非難をされました。当時の他の集団が一生懸命行った断食について、それ程熱心ではなかったのです。主イエスは「断食をするときには」と言うように、断食をする時には、こうすべきだと語っておられるだけなのです。主イエスが断食について、絶対的に否定する態度を取られなかったということは明らかであります。ここで問われている問題は、断食は良いか、悪いか、行なうのか、行なわないのか、という問いではないのです。主イエスはここで、断食を否定したり、あるいは改めて新しい断食の方法を提案しているのではありません。当時の人々が断食を重んじる信仰生活をしている時に、もし断食をするのであれば、こういうことになるはずと主イエスは言われるのです。
主イエスは
主イエスはここで、人間の生活の最も深いところにおける魂の姿がここにも現われていると捕らえておられるからです。人間の生活の最も深いところ、それは人間が神様の御前に立つところです。人間がどのように神の御前に立とうとしているか、立っているかということが、基本的に問われる場面なのです。断食とはいずれにしても、心も体もすべてを集中して神様に身を向けるための一つの努力の姿です。神様に身を向けるとは、神様の以外のいっさいのものから、自分を解き放つことになります。それ故に、主イエスは言われます。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」(16節)と言われます。断食をするときは、沈んだ顔つきをする偽善者のようになってはならないと言うのです。断食を行なう場合でも偽善を行なっているということです。
偽善者
偽善とは元のギリシア語で「役者」という意味があります。特にギリシアのお芝居では俳優は仮面をつけることが多かったので、そのような仮面をつける生き方を偽善と説明をすることがあります。「偽善者」とは「人に見てもらうために、人の前で」善い行いなどをする人々のことです。偽善者というと、私たちは普通、本当は善人ではなく、心の中では善くないことを考えているのに、表面は善人であるかのように見せかけている人という意味で理解しています。しかしここで使われている偽善者の意味はそれとは違います。ここで言う偽善者とは、「見てもらおうとして、人の前で」良いことをしようとする人、つまり、人の評価、評判を気にし、人からほめてもらうことを求めている人、心が人の方を向いている人です。それは心が神様の方を向いていない、ということです。神様がそうすることを求めておられるから、神様が喜んで下さるからそれをするのではなくて、人から誉められ、あの人は正しい立派な人だと言われたいためにしている行為になってしまいます。ここでの偽善者とは表面的には「正しいこと」をしているはずなのに、心は少しも神様の方を向いていない、という意味です。
私たちは誰もが、自分が何か少しでも良いことをしたら、それを誉めてもらいたい、人に認めてもらいたいと、人からの評価を得ようとします。反対に自分がした良いことが人に少しも知られず、気づいてもらえず、評価されないとがっかりしてしまう、傷ついてしまいます。私たちは皆、「見てもらおうとして、人の前で」という偽善の思いを持っているのです。そういう偽善を指摘し、戒めているこれらの教えです。ですから、私たちと関係ないということではありません。断食というのはそのことを語っている一つの事例なのです。ここで教えられていることの中心は、断食をどうするか、ということよりも、もっと深いところにあるのであります。
罪を嘆き悲しむ
断食は、食を断つことや一定期間食事をとらなかったり、あるいはある種のものを食べなかったりすることです。そこには当然空腹や、「あれを食べたい」という思いが起こります。それを自分の意志で我慢していくのです。つまりそれは苦しみの業、苦行です。わざと自分に苦しみを課すのです。そこにはどんな意味があるのでしょうか。断食は、悲しみ、嘆きの表現であると言われています。悲しみ嘆いている時、私たちは、食事も喉を通らない、ということがあります。そのことを逆に、食事を断つことによって悲しみや嘆きを表わすのです。その悲しみ嘆きとは、自分の罪に対する悲しみであり嘆きです。自分は神様の前に罪人である、神様のみ心に背き、逆らっている、そういう道を歩んでしまっている者であるということを、心から悲しみ、嘆くのです。イスラエルの人々においては、断食はそういう思いの表れとして位置づけられていたのです。そういう断食の本来の意味を考える時、それは私たちの信仰においても真剣になされなければならないことであると言わなければならないでしょう。実際に断食をするかどうかはともかく、その根本的な意味である、自分の罪を嘆き悲しみ、神様の前にそれを悔い改めることは、私たちの信仰において非常に大事なことなのです。主の祈りにおいて、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈ることが教えられました。私たちは神様に負い目がある、赦していただかなければならない罪がある、それを赦してくださいと日々真剣に祈り求めるのです。そしてそのことは、私たち自身が自分に罪を犯している者を赦すことと切り離すことができないのです。主の祈りの最後に、このことが繰り返されております。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。私たちが人の罪を赦すことが、神様が私たちの罪を赦して下さることの条件とされているのです。それは、私たちは、人の罪を赦そうと真剣に努力していくところでこそ、自分の罪が分かり、それを神様に赦していただかなければならないことも分かってくるということでしょう。主の祈りを真剣に祈っていくということは、人の罪を赦そうと真剣に努力していくということです。その時私たちは、それがいかに難しいことであるかを知るのです。自分はいかに人を赦すことができない者であるかがそこで本当に見えてくるのです。人を赦すことはせずに、しかし神様には赦してもらおうとする、そういう身勝手なわがままな者であることを思い知らされるのです。そのことを私たちは嘆き悲しみ、神様の赦しを求めずにはおれないのです。断食にこめられている自らの罪への嘆き悲しみの思いは、主の祈りを真剣に祈っていくところに起こってくるものです。
神の御前で
断食はこのように、神様に対する自分の罪を嘆き悲しむ悔い改めの思いの表れでした。ところがその断食が、偽善になってしまうのです。それは、断食が立派な信仰の行為として賞賛されるようになったことによります。断食は、神様の前に自らの罪を認め、悔い改め、嘆きつつ赦しを求める、そのように神様の前での謙遜の印として、施しや祈りと並んで立派な信仰の行為になったのです。そうなると、その行為は「見てもらおうとして、人の前で」行なこととして起きてきたのです。人に自分は断食をしているといかにもそれらしい姿で人に見せようとしたのです。そのために、「顔を見苦しくする」ということが始まったのです。断食は空腹の苦しさに耐えることです。「顔を見苦しくする」というのは、そのような状態を人に見せることです。いかにもあの人は断食をしている、ということを人にわからせようとするのです。そうなると、自分の罪を悲しみ嘆いているなんていうことにはなりません。自分の行為を人に見てもらおうと、自分の断食という行為を誇るだけになってしまいます。人間は自分がいかに謙遜であり、自分の罪を意識し、嘆いているか、ということを誇るのです。そのような傲慢に陥ってしまうのです。それは謙遜の衣をかぶった傲慢なのです。しかし主イエスはここで、「そんなのは本当の断食ではない」とか「それは謙遜ではなくて傲慢だ」という言い方をなさいません。主が言われたのは一言、「彼らは既に報いを受けている」ということです。それは、人に見せようとして、人からの評価を求めて断食をしている者は、「あの人は熱心に断食をしている信仰深い人だ」と人に誉められることでもう報いを受けてしまっている、それ以上の、神様からの報い、神様が彼の悲しみ嘆きを受け止めて下さり、罪を赦して下さることなどは求めていない、彼にとっては、人からの報いが全てになっている、ということです。つまり彼の断食は神様の前での断食になっていないのです。私たちは、自分の断食を人に見せびらかすなんていやらしい、そんなの謙遜ではなくて傲慢だ、と思います。しかし主イエスが問題にされるのはそういうことではないのです。本当に問題なのは、そのことが神様の前で、神様に心を向けてなされているかどうかなのです。
神が見ておられる
人に見せるための断食では断食の本来の意味がありません。しかし主イエスは「断食などやめてしまえ」とは言われたのではなく、「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われました。顔を見苦しくして、自分が断食していることを人に見せようとするのでなく、むしろきれいに身づくろいをしなさいということです。「それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである」とあります。身づくろいをするのは、断食していることを人に気づかれないためです。ということは、ただ頭に油をつけ、顔を洗うというだけではなくて、全ての点において、普段通りの、つまり食事をきちんととっている時と同じ生活をし、同じように人と接しなさいということです。空腹でたまらない、力が出ない、という状態であっても、普段通り元気に、明るく生活しなさいというのです。これは祈る時には「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」るように教えられたことと同じことです。人には知られずに、ただ神様のみが知っておられるところでする、そうすることによって初めて、断食は偽善から解放され、本来の意味を持つのです。人の目の前での行為から、神様の前での行為になるのです。人間からの報いではなく、隠れたことを見ておられる父なる神様からの報いを待ち望むものとなるのです。
喜びと祝福の中で
主イエスは断食が偽善から自由になり、断食の本来の意味を取り戻すことを教えられました。断食は自らの罪を悲しみ嘆くことであります。主の祈りを祈るなからで、私たちは自分の罪を悲しみ嘆かずにはおれないのです。その悲しみや嘆きの表現が断食なのです。そこで、主イエスが「断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われました。この教えは、単に断食を人の目から隠せということだけではないと思うのです。「頭に油をつけ、顔を洗う」、それは、ただ断食をしていない普段通りの生活をする、ということではなくて、むしろ、祭を喜び祝う、その身づくろいを意味しているのではないでしょうか。断食を隠して歩むというだけではなくて、喜び、祝いつつ歩むことを主イエスは求めておられるのです。そのことは、この後の9章14節以下で、弟子たちが断食をしていないことをファリサイ派の人々にとがめられた時に、主イエスが答えられた言葉によって裏付けられると思います。主イエスは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」とお答えになったのです。つまり、弟子たちが断食をしていないのは、今は花婿が共にいる婚礼の祝いの時だからです。その花婿とは主イエスです。主イエスが共におられる弟子たちの、即ち信仰者の歩みは、喜び、祝いの時なのです。そこには、悲しみの印である断食は相応しくないのです。このお言葉と共に読む時に、「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」という言葉に、喜びと祝いに生きよという意味を読み取ることができると思うのです。私たちは、自分の罪を嘆き悲しまざるを得ない者です。主の祈りを真剣に祈りつつ生きようとする時に、いやおうなく、人の罪を赦そうとせずに自分の罪は赦してもらおうとする身勝手な自分を見出し、嘆き悲しみを覚えるのです。それが私たちの現実です。しかしその私たちに、主イエスは、喜び、祝いつつ生きよとお命じになっておられるのです。それは、あの嘆き悲しみを忘れてしまっていい、そんなことはどうでもいい、ということではありません。その嘆き悲しみの内にある私たちのところに、神様の独り子主イエス・キリストが来て下さった、そしてこの花婿主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さる、それによって神様は私たちの罪を赦して下さる、その喜びと祝いの中に私たちは生き始めることができる、ということです。私たちの、自分の罪のゆえの嘆き悲しみは、主イエス・キリストが来て下さり、その罪を背負って下さる、その恵みの中に包み込まれているのです。それでは私たちはどうするのか。私たちは、自分の罪を真実に嘆き悲しみつつ歩むのです。しかしそれはことさらに暗い顔をして、いかにも自分は罪を真剣に嘆いているというような陰気な生き方をすることではなくて、私たちは、主イエス・キリストによって罪の赦しを与えられた喜びと祝いに生きるのです。その主イエスが私たちのところに来て下さったことを喜び祝うのです。主イエスがこの世に来られたことを喜ぶことこそ、自らの罪を真剣に悲しみ嘆く私たちが歩んでいくべき道なのです。私たちは、自らの罪を思わされます。自分の力の限界、人間の力ではどうすることもできない嘆き、悲しみを覚えずにはおれません。私たちは同時に、天の父なる神様がその独り子を私たちに与えて下さり、その十字架の死によって、ただ神様のみが与えることのできる赦しを与えて下さったことを覚えていくのです。