主日礼拝

神の国をくださる父

「神の国をくださる父」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第139編1-24節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第12章22-34節
・ 讃美歌:19、166、357

思い悩むな
 先週に続いて、ルカによる福音書第12章22~34節からみ言葉に聞きたいと思います。主イエス・キリストはご自分に従って来ている弟子たちに、「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とお語りになりました。そして、その教えの裏付けとして、「烏のことを考えてみなさい」「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい」、とおっしゃいました。これらのものによって主イエスが見つめさせようとしておられるのは、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない烏を、神様が養っていてくださること、働きもせず紡ぎもせず、明日になれば炉に投げ込まれる草をさえ、神様が美しく装い、咲かせて下さっていることです。その上で、「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」「まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言っておられます。神様はあなたがたのことを、鳥や野原の花よりもずっとずっと大切に思い、愛していて下さり、養い守って下さっているのだ、そのことを見つめる時にあなたがたがは、「何を食べようか、何を着ようか」という思い悩みから解放されるのだ、と主イエスは教えておられるのです。

神を信じるとは?
 ですから、先週も申しましたように、この「思い悩むな」という教えは、言い換えるならば「神様を信じなさい」ということです。神様を信じている人は、神様が自分の命と体を養い、装い、守って下さることを信じているのであって、そこには思い悩みからの解放があるのです。思い悩むのは、その神様の養い、装い、守りを信じていないからであって、それは要するに神様を信じていないということなのです。30節の「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ」という言葉がそのことを明確に語っています。「それ」というのは、何を食べようか、何を着ようかという思い悩みです。そのような思い悩みは世の異邦人たちのものだと主イエスは言っておられます。異邦人とは、要するに聖書の語る神様を信じていない人々のことです。神様を信じていない人々は、自分の命と体とを養い、装い、守って下さる方を知らないので、自分で自分を養い、装わなければなりません。そのために、食べ物や衣服やその他の様々なものを切に求めていくことになり、そこに、思い悩みが生じるのです。しかしあなたがたは異邦人とは違う、それが30節の後半です。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。この父なる神様を知っていることが、神様を信じているということであり、そこに、あなたがた、つまり主イエスに従っている弟子たち、イエス・キリストを信じる信仰者に与えられている最大の恵みがあるのです。神様が、私たちの天の父として、私たちを大切に思い、愛していて下さり、親が子どものことをいつも気にかけ見守っているように、私たちを慈しみのまなざしをもって見守っていて下さり、そして私たちに必要なものを必要な時に必要なだけ与えて下さる。そのように私たちの命と体とを養い、装い、守って下さっている天の父なる神様との交わりに生きている信仰者は、自分の命と体を自分で養い装おうとして思い悩む必要がないのです。神様に自分の命と体とを委ねて、安心して生きることができるのです。

命と体を養い、装うのは誰?
 ですから、これも先週ご一緒に聞いたことですが、「思い悩むな」という主イエスの教えは、私たちへの問いかけです。私たちの命と体とを本当に養い、装っているのは誰なのか、それは私たち自身なのか、それとも天の父なる神様なのか、という問いの前に私たちは立たされているのです。この問いは、私たちが神様を本当に信じているのかそうでないのか、という問いでもあります。神様を本当に信じている人は、今申しましたように、自分の命、人生を神様が養い、装い、守り導いて下さることを信じているのです。しかし自分の命と人生は最終的には自分で養い、装い、守らなければならないのだと思っているならば、その人は神様を本当に信じてはいないのです。自分の命や人生を自分で養い、装い、守ろうとして、そのために必要な食べ物や衣服やその他の様々なものを必死に求める思い悩みは、神様を本当に信じていないところに生じるのです。その思い悩みの中にいる者は、人生を養い装うための様々なものを自分で獲得し、自分の倉に蓄えようとします。その蓄えを豊かに持つことで安心を得ようとします。主イエスはこの12章の16節以下で、そのような人の姿を描いたたとえ話を語られました。畑が大豊作だったある金持ちが、新しい大きな倉を建てて収穫をそこに全部しまい込み、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分自身に向かって言った。ところが神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」とおっしゃったというたとえ話です。この金持ちが愚かだったのは、自分が得たもの、倉に蓄えた財産によって、自分の命と体を養い装うことができる、要するに人生生きていけると思ってしまったことです。私たちも、この人のように大金持ちにならなくても、自分の能力、技術、資格、その他何であれ自分が手に入れ身につけたものによって自分の命を、人生を養い、装うことができると思ってしまう時に、この人と同じ愚かさに陥り、決定的なことを見過ごしにしてしまうのです。それは、私たちに命と体を創り与えて下さり、それを養い導き、そしてお定めになった時にそれらを取り去られるのは主なる神様だ、ということです。この神様が天の父として私たちを愛し、養い、装い、導いて下さることを知り、この神様に命と体を委ねて生きることこそが、本当に賢い生き方であり、そこにこそ、思い悩み、不安、心配からの解放が与えられるのです。

本当に求めるべきもの
 以上のことは先週既にお話をしたことのおさらいですが、主イエスはここで、あなたがたはこのようにして思い悩み、心配から解放されるのだ、ということのみを語っておられるのではありません。31節には、「ただ、神の国を求めなさい」とあります。「思い悩むな」というのは否定的消極的な命令ですが、これは、肯定的積極的な命令です。思い悩むのではなくてどうするのか、あるいは、思い悩みから解放されて生きるとはどのように生きることなのか、がこの言葉によって教えられているのです。本日はそのことに目を向けていきたいと思います。
 「ただ」神の国を求めなさい、と訳されています。それは、神の国「のみ」を求め、他のものを求めるな、という意味に取れますが、「ただ」と訳されているのは「のみ」という言葉ではありません。これは前の文章とのつながりの中で読まれるべき言葉で、前の30節で世の異邦人たちが「何を食べようか、何を飲もうか」ということを切に求めていることが語られたのを受けて、あなたがたはそういうものではなく、神の国をこそ求めなさい、と言っているのです。その「あなたがた」とは、30節後半で「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と語られたその「あなたがた」です。つまり、神様が天の父として自分のことを愛し、養い、装って下さることを知っている、信じている、信仰者である「あなたがた」です。父なる神様を信じているあなたがたは、食べ物や衣服その他の自分の命と体を養い装うためのものではなくて、「神の国」をこそ求めよ、と言われているのです。「神の国」というのは「神様のご支配」という意味です。天の父である神様が養い、装って下さることを知っている者は、その神様のご支配をこそ求めるのです。「そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とあります。「これらのもの」とは、30節の「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」の「これらのもの」です。つまり、私たちの命と体を養い、装い、守るのに必要な全てのもの、異邦人が切に求めて思い悩んでいるものです。それらは、神の国、神様のご支配を求めていくところに、加えて与えられる。つまりそれらのものが私たちに必要であることをご存じである神様が、それらのものを与えて下さるのです。だから、私たちが本当に求めるべきものは、命と体を養い装うためのあれこれではなくて、神様のご支配なのです。

貪欲とは
 この「神の国を求めなさい」という教えも、私たちに対する問いかけです。あなたが本当に求めているものは何か、神の国、天の父である神様のご支配か、それとも自分で必要なものを手に入れて命と体を養い、装うこと、つまり神様ではなくて自分の支配を求めて生きているのか、という問いがここにもあるのです。そして主イエスはこの、自分の命と体を自分で養い、装おうとすること、自分の支配を求めることを「貪欲」と呼んでおられます。先週も触れたように13節以下にそのことが語られています。そこには、ある人が主イエスに、「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願ったことが語られていますが、16節以下のたとえ話は、この願いをきっかけとして語られたのです。この人の願いは、自分の正当な権利を擁護し、自分が本来もらうべき遺産を受け取れるようにして欲しい、ということでしたが、主イエスはその願いを拒み、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」とおっしゃってあの「愚かな金持ちのたとえ」を語られたのです。ですから主イエスがここで言っておられる「貪欲」は、私たちが通常その言葉でイメージする、自分の正当な権利を越えて他人のものまで欲しがり、奪い取ろうとすることではありません。たとえ正当な権利によるものであれ、自分の蓄え、自分が手に入れ、持っているもので人生を養い、装い、生きていくことができると思うことが貪欲なのです。あの金持ちの愚かさはその貪欲に陥ったことだったのです。この愚かさ、貪欲に、私たちも陥っているのではないでしょうか。

貪欲が思い悩みを生む
 私たちは、自分の人生を「成功」させたいと思っています。そのためには、自分の能力を開発し、仕事において業績をあげ、充実した日々を送らなければならないと思っています。そしてその業績の対価として富を得たいと願っています。あるいは、たとえ給料は安くても、自分の能力、特技、性格に合った働きをして、生きている充実感を得たいと願っています。あるいは家庭を守り、家族を支え、子供を育てることに自分の使命を覚え、そこに充実感じていることもあります。お金には全くならない奉仕の活動や、社会の問題との取り組みに充実を感じている人もいるでしょう。そのように私たちはいろいろなことによって、自分が自分であることを確かめ、自分らしさを生かし、人生を充実させ、有意義なものとするいわゆる「生き甲斐」を求めています。それは人間として当然のことでしょう。けれども、これらのものを求めていく中で、私たちが思い悩みに陥っていることも現実ではないでしょうか。人生を成功させたい、自分の能力を生かし、業績をあげ、豊かになりたい、という願いは、それがうまくいっている時にはまさに充実感、喜びとなります。けれども願った通りにならないことだってあります。実力が足らずに、また運にも見放されて、仕事をも失い、貧しさの中に落ち込むことだってあります。世間ではそれを「負け組」と呼び、そうならないためにみんな必死で努力しています。そして、自分は「勝ち組」だと思っている人も、いつそこから転落して「負け組」になってしまうか分からない、という不安を常にかかえています。「勝ち組」「負け組」という言葉自体が、どちらにしても「思い悩み、不安」に満ちている人間の姿を浮き彫りにしているのです。そのような仕事や収入の面のみならず、私たちが人生を充実させようと思って求める様々な生き甲斐は、願った通りに得られないこともあり、かえって不本意な、充実や喜びの感じられない日々を送らなければならないということもあります。そのような中で、私たちは劣等感に苛まれ、人に対するねたみ、憎しみの思いを募らせてしまうこともしばしばです。「思い悩み」はそのように憎しみをも生んでしまうのです。
 人生の充実や生き甲斐を求めることは決して間違ったことではないはずなのに、どうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。それは、私たちが、自分のものとして獲得する生き甲斐や充実感によって、言い換えれば「自己実現」によって、自分の命や体を養い、装い、守ることができる、要するにそれらのものによって生きていくことができると思ってしまっているからです。つまり、主イエスの言っておられるところの貪欲に陥っているからです。貪欲こそが、思い悩みの、そしてねたみや憎しみの源なのです。

これらのものは加えて与えられる
 私たちをこの貪欲から解放し、それによって思い悩みから救い出して下さるために、主イエスは、「神の国をこそ求めなさい」と語りかけておられます。私たちを本当に愛し、命と体を与え、それを養い、装って下さる父なる神様のご支配こそ、私たちを本当に生かすものであり、私たちが本当に求めていくべきものです。この神様のご支配の中でこそ、「これらのものは加えて与えられる」のです。それは、食べ物や着物など、人生を養い装うものを神様がついでに、おまけのように与えて下さる、ということではありません。私たちが自分の人生の充実を求め、生き甲斐を求めていくこと、自分の能力や特技を生かして有意義な人生を送ろうとすること、それらの私たちの努力の全ては、天の父である神様が、私たちの命と体とを養い、装って下さるその恵みの中に位置づけられてこそ、貪欲から解放され、祝福されたものとなる、ということです。さらには、この神様のご支配をこそ求めていくところには、たとえ自分の願い求めている「成功」が得られず、世間の人々からは「負け組」などと言われてしまうようなことになったとしても、なおそこで天の父である神様の愛に信頼して神様の養いと装いを求め続けるという歩みが加えて与えられるのです。

小さな群れよ、恐れるな
 主イエスはこの神様の愛を私たちに確信させるために、32節で「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とお語りになりました。私たちが小さな群れであり、恐れずにはおれない者であることを主イエスはよくご存知なのです。福音書が書かれた当時、教会は、強大なローマ帝国の中で吹けば飛ぶような小さな群れでした。ユダヤ人たちによる、また次第にローマによる迫害が始まっていました。イエス・キリストを信じていると公言することによって命をも奪われてしまうかもしれないという危機の中で、信仰者たちの間にも深い恐れがあったのです。今日の日本の社会の中で教会が置かれている状況はある意味でそれと似ています。私たちも、日本の社会の中で吹けば飛ぶような小さな群れです。表立った迫害は今はないし、キリスト信者だから殺されてしまうようなことはありませんが、しかし私たちも、この当時の信仰者が感じていたのと根本的には同じ恐れを感じています。それは、神様が天の父として私たちを愛し、命と体を養い、装い、守って下さっているというのは本当だろうか、この神様のご支配、神の国は本当に実現するのだろうか、という恐れです。迫害の下にある信仰者たちにとっても、根本的な恐れはこのことだったのです。神の国、神様のご支配を信じることができれば、迫害にも耐えることができます。しかしその神の国に疑いが生じる時、深い恐れと絶望が私たちを捕えるのです。

神の国をくださる父
 ともすればこのような恐れに捕えられていく私たちに、主イエスは「恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と語って下さっています。私たちの父である神様が、私たちへの愛によって、喜んで、神の国を与えて下さる。そのために、神様の独り子主イエス・キリストがこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。天の父なる神様が私たちに喜んで神の国を与えて下さることは、この主イエスの十字架の死と、さらにその死の力を打ち破って神様が与えて下さった復活とにおいて示されています。私たちは、神様が、み子イエス・キリストの十字架の死と復活によって打ち立て、与えて下さった神の国、神様の恵みのご支配を信じて、それをこそ求めて生きるのです。そこに、天の父が私たちの命と体とを養い、装って下さるその愛の中を、思い悩みから解放されて生きる信仰者としての歩みが与えられるのです。

本当の自由に生きる
 思い悩みから解放されて、私たちはどのように生きるのでしょうか。33節がそれを語っています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。自分の持ち物を売り払って貧しい人々に施すことによって、盗まれることも、虫に食われることもない天に富を積むことが、思い悩みから解放された私たちの生き方だと教えられています。私たちはこれを読むとすぐに、自分の持ち物を売り払って施すことなどとてもできない、と思ってしまいます。でもこのことは、今読んできた文脈からすれば、自分の持っているもの、蓄えているもので自分の命と体を養い、装う必要はもうない、父なる神様が私たちの命と体を養い、装って下さるのだから、私たちはもう、自分が持っているものにしがみつくのでなく、むしろそれらを自由に用いることができる、自分のためよりも、神様のみ心に適うことのためにそれを献げていくことができる、ということです。この教えは、「こうしなければならない」という義務を語っているのではなくて、信仰者にはそういう自由が与えられているのだ、ということを教えているのです。この自由に生きることこそ、貪欲からの解放です。父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じることによってこそ私たちは、自分のものを人のために用いていくことができるという、本当の自由に生きる者となるのです。

富を天に積むとは
 「富を天に積め」とありますが、それは、施しなどの良い行いをすることによって言わば神様に貸しをつくり、その報いとして救いを得ようという話ではありません。「富」というのは、私たちが頼りにしているもの、より頼んでいるものです。それをどこに置くか、が問われているのです。それを天に積むとは、神様にこそより頼むことです。地上に富を積むとは、自分自身により頼んで生きることです。持ち物を売り払うことが天に富を積むことになるのは、それが自分の蓄えにではなくて神様により頼むことだからです。そのようにして天に積んだ富は、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない、それは、天の父なる神様の愛により頼むことこそが私たちにとって本当に確かな支えであることを語っています。地上に積んだ富、つまり自分自身により頼んで生きることは、まことに不確かな、危うい、愚かなことなのです。
 「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と最後の34節にあります。これも今申しましたように、本当に頼りにしているもの、より頼むものをどこに置いているか、ということです。人生を養い装うのは自分自身だ、と思っているならば、その人は自分により頼んでおり、つまり富を自分に積もうとしており、その心は地上にあって天にはないのです。しかし信仰に生きるとは、父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じ、その神様により頼むことです。それが富を天に積むことであり、その人の心は地上にではなく天に向けられています。神の国をこそ求めています。そこに、思い悩みや不安から解放され、自己実現の貪欲から自由になって、自分に与えられているものを他者のために用いていくことができる新しい歩みが与えられるのです。それは野原の花のように目立たない、誰にも気づかれない歩みかもしれません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった、と主イエスは言って下さるのです。

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