「心の中で」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: サムエル記下 第12章1-5節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章27-32節
・ 讃美歌 : 197、455
他人の妻
本日は共にマタイによる福音書5章27~32節を通して御言葉に聞きたいと思います。 5章21節から5章の終わりまで主イエスの戒めに対する教えを見てきております。28節にこうあります。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」となっています。以前の口語訳聖書ではこの部分を「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」となっていました。「女」という言葉が「他人の妻」に変わったのです。「情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」というのを素直に読むと、女性に対して情欲を抱くこと自体が姦淫の罪と同じだと言われていることになります。この御言葉を真剣に読んだ者は悩みました。特にその後の29、30節ではこうあります。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。「右の目があなたをつまずかせる」とはみだらな思いをもって女性を見るその目ということになるし、「右の手があなたをつまづかせる」それはその情欲を発散させる手ということになります。それをえぐり出し、切って捨てなければ、地獄に投げ込まれることになる、と言われているのです。だからこれを読んだ人々の多くは、悩み、自分のような者は到底、主イエスがお命じになっているような清い者ではないし、地獄に投げ込まれるしかない罪人だと思ったのです。この御言葉はそのように、自らの情欲の罪を意識させる働きをしてきたのです。ところが、新共同訳になってその「女」という言葉が「他人の妻」になりました。「女」というのであれば女性一般に対してそういう思いを持つことであります。そしてこの部分が「他人の妻」となることによって、女性にそのような思いをもつことが罪とされているのではなくて、「他人の妻」にそのような思いを持つことが戒められているということになります。主イエスがここで「心の中での姦淫」として戒めておられるのは、女性一般に対して、そのような思い、性的欲望を抱くことではなくて、既に結婚して夫のある、家庭を持っている「他人の妻」である女性にそのような思いを持つことを咎められているのです。他人の妻を自分のものにしようとする、そのような思いを主イエスは言われているのです。
祝福の結婚
では口語訳は間違っていたのかということになってしまいますが、そう簡単には決められません。元々の言葉は「女、あるいは妻」という意味です。「他人の」という言葉はありません。どちらにもとれるのです。ここでは、主イエスは、男性が女性に、また女性が男性に、性的欲望を抱く、そのこと自体を罪として否定しておられたのか、ということです。主イエスは、男女のそのような思い、そしてそこに成立する結婚、そして子どもが生まれることを罪として否定するようなことはおっしゃっていません。主イエスは、神様が人間を男と女とに創造され、二人が結婚して一体となることを祝福しておられることを語っておられます。男女の性的関係を汚れたことや罪とするという考えは主イエスにはないのです。主イエスの最初の奇跡の業はカナの結婚式の場で行われました。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネによる福音書第2章11節)主イエスに男女の性的関係を汚れたことや罪とするという考えはないのです。
わたしは言っておく
5章21節から5章の終わりまで、主イエスは律法のいくつかの教えを取り上げ、「あなたがたも聞いている通り、このように命じられている。しかし、わたしは言っておく」という形で、その律法の教えに対するご自分の教えを語っておられます。本日の箇所では「あなたは姦淫してはならない」という十戒の第七の戒めがとりあげられているのです。姦淫の罪とは、当時のユダヤ人社会において、結婚ないし婚約している女性が、夫ないし婚約者以外の男性と関係を持つことを言いました。つまり姦淫とは、女性の側から言えば、自分の結婚をないがしろにし、夫婦の関係を壊すことであり、男性の側から言えば、他人の夫婦関係に割り込んでいってそれを破壊することだったのです。そういうことが律法で禁じられていました。「あなたは姦淫してはならない」とは実際にそういう具体的な行為をすることの禁止です。主イエスはこの律法をとりあげて、「しかしわたしは言っておく」と御自分の教えを語られるのです。「姦淫」という具体的行為だけを禁止されているのではなく、主イエスは更に「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」と言います。そのような思いを持つことが既にその罪を犯したことになるのだ、と言います。主イエスがここで、人間の性的な欲望を禁止されているのではなく、自分の、人の結婚、夫婦の関係を大切に守るということを言っているのです。主イエスの教えは具体的な行為だけに留まることではなく、それは「心の中で」のことまで含めて、結婚、夫婦の関係を大切にせよと教えておられるのです。
不品行
31節では結婚に関するもう一つの掟、離縁することについてとりあげられています。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」とあります。イスラエルの社会では離婚できるのは夫の方からだけでした。夫は、妻に「恥ずべきこと」を見いだした時には、離縁状を書いて彼女に渡すことによって離婚できたのです。イスラエルは家父長制の強い社会で、女性の地位は低かったことは事実です。しかしこの離縁状というのは、「もうこの女は私の妻ではない」ということを証明するもので、その女性の「独身証明書」になります。それを持っていない女性が、他の男と関係したらそれは姦淫の罪になるのです。しかしそれを持っている女性は、他の男と再婚ができたのです。律法によってイスラエルにはそのような制度が立てられていました。主イエスはそれをとりあげて、「しかしわたしは言っておく」とご自身の教えを語られました。32節「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」それは「不法な結婚でもないのに」というところは口語訳では「不品行以外の理由で」となっていました。「不品行」というのは、性的な罪のことで、姦淫の罪に通じることです。口語訳には妻にそういう罪があったのなら仕方がないが、それ以外の理由で離婚するべきではない、という意味になります。主イエスがここで「妻を離縁する者は離縁状を渡せ」と語っています。という旧約の律法においては、夫は「妻に何か恥ずべきことを見いだしたら」離婚できたのです。その「恥ずべきこと」とは何かということについて、恥ずべきこととは、妻が夫を裏切って他の男と関係を持った、つまり姦淫の罪を犯したことに限られると主張しました。主イエスは、こちらの立場に立っておられるのです。妻を離縁できるのは、つまり結婚を解消できるのは、不品行、姦淫の罪によって関係が裏切られ、破壊された時のみだ、ということです。ここに、主イエスが結婚、夫婦の関係を最大限に重んじ、大切にしようとしておられることが示されています。何故なら主イエスの教えにおいては姦通の罪とは、自分の、また人の結婚の関係、夫婦の関係を大切にしようとしない行動と思いの全てを指しているからです。姦淫の罪によって自分の、また人の結婚の関係を破壊するのと、相手に気に入らないことがあるからといって関係を断ち切ってしまうのとは同じことなのです。ともすればそういう思いに陥っていく私たちに対して主イエスは、そのような思いを起させるものは、右の目であってもえぐり出して捨ててしまいなさい、右の手であっても切り取って捨ててしまいなさいと言っておられるのです。右の目や右の手、それは私たちにとって無くてはならない大切なものです。決して失いたくないものです。しかしそういうものすらも、結婚の相手との関係に比べれば何ほどのことはない、捨ててもよいものだ、と主は言われるのです。つまりここで主イエスが言っておられるのは、罪を犯さないで生きるために、自分の目や手をも切り捨てよという、あなたの妻や夫は、あなたの目や手よりも大事なものではないか、ということなのです。妻や夫のためには、自分の大事な目や手をも切り捨てよと主は言っておられるのです。
罪赦されて
そのように言われる時、私たちは、情欲を抱く罪を犯すならば目や手を切り捨てよと言われるのと同じようなとまどいと恐れを感じずにはおれないのではないでしょうか。私たちは、自分の妻を、夫を、自分の目や手よりも大事にしているだろうか、目や手を失っても妻や夫を愛する、そういう愛に生きていることができるでしょうか。私たちが、妻を、夫を愛する、その愛はまことに身勝手なものあります。自分勝手な愛であります。結局自分のために、自分に都合のよい仕方でしか妻を、夫を愛することができていないのではないではないでしょうか。そのようなことこそ、心の中での姦淫の思いを生むのです。主イエスはそのような罪と汚れに常に陥っていく私たちの結婚、夫婦の関係を、本当に清いものとしようとしておられるのです。けれども私たちは結局やはり自分勝手な愛し方しかできない、というのが、罪人である私たちの現実なのではないでしょうか。主イエスはそのような私たちを、まさにご自分の目や手以上に大切にし、愛して下さいました。それが主イエスの十字架の死です。神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちのために、十字架にかかって死んで下さったのです。それは、神様が、私たちを、ご自分の独り子よりも大切にして下さったということです。主イエスは、ご自分の目をえぐり出し、手を切り捨ててまで、私たちの罪を赦して下さったのです。私たちは、この主イエス・キリストによる神様の恵みの下にいます。私たちの結婚、夫婦の関係も、この恵みの下に置かれているのです。それは主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを指しています。キリストが私たちのために命をささげ、十字架にかかって死んで下さった、そのような愛をもって夫は妻を愛する。それは自分の体のように、いや自分の体以上に妻を愛するということです。自分の右の目や右の手よりも相手を愛することです。私たちの愛はいつも、それにはほど遠い、欠けだらけの愛です。しかし主イエス・キリストによって、そのような愛の模範、目標が示されているのです。主イエスは、不品行、つまり姦通の罪以外の理由での離婚を否定されました。しかしそれは、不品行があった時は離婚をしてもよい、あるいは、離婚すべきだ、ということではありません。それ以外の勝手な理由での離婚を否定された主イエスは、不品行においても、離婚を積極的に勧めているわけではありません。どのような場合でも、相手の罪を赦して、夫婦であり続けるということも大いにあり得ることです。そしてまた逆に、不品行以外の理由でも、やむを得ず離婚に至るということもまたあり得ることです。主が求めておられるのは、互いに相手を本当に大切にする結婚、夫婦の交わりを、主イエス・キリストの恵みの下に築いていくことです。主イエスはどのような者も、主イエスの恵みの元に招いていて下さるのです。このお方とこの一週間も共に歩んで参りましょう。