主日礼拝

誰を恐れるべきか

「誰を恐れるべきか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第51章 12-16節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第12章1-7節
・ 讃美歌:1、136、356

連続講解説教
 礼拝においてルカによる福音書を読み進めて参りまして、本日から第12章に入ります。このように、聖書の中の一つの書物を連続して読み進めつつなされる説教を「連続講解説教」と言います。礼拝における説教は、毎回完結したもので、その日の礼拝においてしっかりと聖書のメッセージを伝えるものでなければなりません。つまり小説で言えば、読み切りの短編小説のようなものです。それは連続講解説教においても同じです。しかし、読んでいる聖書の箇所は連続しているわけで、そこには当然前後のつながり、文脈があります。その文脈を理解することによってこそ見えてくることもあるのです。そのために連続講解説教においては、これまで読んできたところを振り返って語ることも多くなります。そういう意味では連続講解説教には連載小説や連続ドラマ的な面もあります。連続講解説教をより深く味わうには、録音CDやホームページに載る原稿で聞き逃した所を確認していただくのがよいかもしれません。しかし勿論そんなことをしなくても、その日の礼拝だけでみ言葉をしっかり聞くことができる、そういう説教でありたいと願っています。

律法学者とファリサイ派の激しい敵意
 さて本日の箇所、第12章の冒頭の所も、その前の所からのつながりの中で読まれるべきところです。1節の始めに「とかくするうちに」とあります。前の口語訳聖書では「その間に」でした。これまでの所とのつながりの中でこれからのことが語られていくことを示す言葉です。これまでの所には何が語られていたのでしょうか。11章37節以下がひとつづきの場面です。それは37節にあるように、主イエスがあるファリサイ派の人から食事の招待を受け、その席に着いておられた時の話です。その席で主イエスは、先ずファリサイ派の人々に対して、次いで律法の専門家たちに対して厳しい批判をお語りになりました。その結果が53、54節です。「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」とあります。「とかくするうちに」とは、このように律法学者やファリサイ派の人々の主イエスに対する敵意が高まっていく中で、ということなのです。

群衆が集まって来て
 12章1節が語っているもう一つのことは、「数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」ということです。ファリサイ派や律法学者という当時のユダヤ人の宗教的指導者たちの間には主イエスに対する敵意が高まっていますが、一般の民衆たちには、主イエスの人気は衰えていませんでした。と言ってもそれはまさに「人気」であって、彼らは主イエスの教えに聞き従おうとしていたわけではありません。そこが「群衆」と「弟子」の違いです。群衆の中には、主イエスこそ救い主であるに違いないと思って集まっていた人もいたでしょうが、今噂になっているイエスとはどんな人か見てみたい、という野次馬的な思いの人もいたでしょう。ファリサイ派や律法学者たちがイエスに激しい敵意を抱いていることを聞いて、興味を持ってイエスを見に来た、という人もいたでしょう。そのような群衆が数えきれないほど集まって来て周りを取り囲んでいる、その中に、主イエスと弟子たちは置かれているのです。

弟子たちへの教え
 1節が語っていることがもう一つあります。それは「イエスは、まず弟子たちに話し始められた」ということです。この後語られていく主イエスのお言葉は、弟子たちに対して語られたものです。多くの群衆が集まって来ていましたが、主イエスはその群衆たちにではなく、先ず弟子たちに向かって語られたのです。「先ず」というのは、この後群衆たちにも語っていかれるからで、それは12章54節以下です。53節までは、原則として、群衆にではなく弟子たちに対するお言葉なのです。しかしそのお言葉を聞いている弟子たちは、おびただしい群衆に囲まれ、注目されている、そういう状況をルカは意図的に描いているのです。それには理由があります。この後語られる主イエスのお言葉は、このような状況の中でこそ意味を持つからです。逆に言えば、このような状況を頭に置いて読むことによってこそ、この後のお言葉の意味を正しく理解することができるのです。

偽善に注意しなさい
 主イエスが弟子たちに語られたのは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」ということでした。ここに、11章37節以下における主イエスのファリサイ派への厳しい批判とのつながりが現れています。「パン種」というのは、パンを焼く時に入れるイースト菌のことです。それはごく少量で、生地に混ぜられて見えなくなりますが、それが入ることによって生地全体が発酵し、膨らんでパンができるのです。つまり、少しで目立たないけれども全体を変えていくのがパン種です。ここではそれが、人々を間違った信仰へと導くファリサイ派の教えをたとえるものとして用いられているのです。その「ファリサイ派の人々のパン種」として見つめられているのは彼らの「偽善」です。ファリサイ派の人々の信仰の根本には偽善がある、主イエスはそのことを11章39節でこのように言っておられました。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。外側はきれいにするが、内側には強欲と悪意が満ちている、それがまさに「偽善」です。心の内側、内面をきれいにしないで、外側、人に見えるところを取り繕うことばかりにこだわっている、ファリサイ派の人々のそういう偽善を主イエスは厳しく批判し、そのパン種に影響されないようにと弟子たちに注意しておられる、1節はそのように理解することができるのです。
 2、3節もその教えの展開として読むことができます。2節の「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」、この教えを今の偽善への批判に基づいて読むならば、外側をどんなにきれいに取り繕っていても、心の中の汚れ、強欲や悪意は必ず外に現れて来る、隠されている悪はいつか必ず露見するのだ、だから内面をこそ清め、整えなさい、ということになるでしょう。3節の「だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」も同じように理解することができます。日本の諺で言うならば「悪事千里を走る」とか「天網恢々疎にして漏らさず」というように、内側に隠している罪もいつか必ず明るみに出るのだ、と教えられていることになります。

4節以下とのつながり
 3節までの主イエスの教えをそれだけ取り出して読むならばそれが自然な読み方だと言えるでしょう。けれども、実はこの読み方は間違っているのです。なぜそれが間違っていると言えるのかというと、一つには、このように解釈すると、次の4節以下の教えとつながらなくなるからです。4、5節で主イエスは、「体を殺しても、その後(のち)、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」とおっしゃいました。これは、信仰のゆえに迫害を受け、殺されるかもしれない、という状況を前提とした教えです。「あなたがたは信仰のゆえに迫害を受け、殺されるかもしれない。しかし迫害する者たちは、体を殺すことはできても、それ以上何もすることができないのだから、そういう者たちを恐れるな。むしろ本当に恐れるべき方は、肉体の死の後に、私たちを地獄に投げ込む権威を持っておられる方、神様である」、これが、4節以下における主イエスの教えです。3節までの所は、この4節以下へとつながる教えとして読まれるべきなのです。ところが3節までを先ほどのように、内側の汚れを隠して外側を取り繕う偽善への戒めとして読んでしまうと、「人間を恐れるな」という4節以下の教えとは結びつかないのです。
 いやべつに無理に結びつけなくてもよいではないか、違う教えが並べられていると考えればよいのだ、と思うかもしれません。しかし3節までと4節以下が別の教えではないことは、マタイによる福音書第10章26~31節を読むと分かります。そこにはこのように語られています。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。ここは明らかに本日の箇所の並行箇所ですが、これを読むと、本日の所の2、3節の言葉が、「人々を恐れるな、本当に恐れるべき方は神である」という教えの中に組み込まれていることが分かります。新共同訳は3節と4節の間に段落を設け、ご丁寧に小見出しまで入れていますが、それらは原文にはないのであって、ここは一続きの教えとして読まれるべきなのです。

信仰を隠す偽善
 4節以下につながる教えとして読むとしたら、3節までの「偽善に注意しなさい」という教えはどのように理解したらよいのでしょうか。偽善という言葉はここでは何を意味しているのでしょうか。それは、体を殺すことしかできない人間を恐れてしまうことです。迫害する者たちを恐れ、殺されることを恐れて、自分の信仰を隠してしまうことです。内側にある信仰を隠して、信仰者ではないかのように外面を取り繕ってしまうことです。言い換えれば、信仰を自分の内面のみの事柄にしてしまい、それを外に現し、証ししようとせずに隠してしまうことです。主イエスがここで「偽善」と呼んでおられるのはそのことなのです。つまりファリサイ派の人々は内側の汚れを隠して外側をきれいにするという偽善に陥っていましたが、弟子たちは、内側の信仰を外に現さず隠して、信仰者ではないように振舞ってしまうという偽善に陥る危機の中にあるのです。
 弟子たちがそのような危機の中にあることを語っているのが、1節における、本日の箇所の場面の説明です。先ほど見たようにここは、11章における律法学者やファリサイ派の主イエスに対する激しい敵意の中でのことです。主イエスに対する敵意は当然弟子たちにも向けられています。ユダヤ人の指導者たちによる迫害の危機の中に彼らはいるのです。しかも彼らの周囲には数えきれないほどの群衆が集まって来て、様子を伺っています。多くの人々の目が彼らに注がれているのです。そのような中で弟子たちは、厳しい問いにさらされています。人々の前で、主イエスに従う信仰をはっきり言い表し、迫害をも恐れずに歩むか、それとも信仰を表に現すことをやめてそれを隠し、自分の内面のみの事柄にして、知らん顔をして群衆の中に紛れ込んでいくか、という問いです。群衆が大勢集まって来たことが1節に語られていたのは、弟子たちがこのような問いに直面していることを示すためだったのです。
 この問いは誘惑と言い換えることができます。信仰を内側に隠し、外側においては世間の人々と変わらない生き方をすることによって、反感をかったり、嫌な思いをしないですむようにしたい、という誘惑は私たちも常に受けているのではないでしょうか。主イエスは、そのような誘惑にさらされている弟子たちに、つまり私たち信仰者に、信仰を内側に隠してしまうのは、ファリサイ派の人々が心の中の罪や汚れを隠して外面を取り繕っている偽善と同じことだ、と言っておられるのです。

福音は前進する
 1節の偽善をこのように捉え直すなら、2、3節の読み方も変わってきます。これは、心の中に隠し持っている罪はいつか必ず露わになるぞ、という警告ではありません。「覆われているもの」「隠されているもの」とはここでは、主イエスを信じる信仰であり、その信仰の内容、神様の独り子である主イエスが人間となり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって罪の赦しと永遠の命が与えられている、という福音です。私たちはしばしば、人間を恐れる思いによってそれを人に証しせず、覆いをかけ、自分の心の中に隠してしまおうとします。しかし神様はその福音を人々に現し、告げ知らせようとしておられるのです。だからそれは必ず現され、知られていくのです。明るみで聞かれ、屋根の上で言い広められていくのです。つまり私たちが隠そうとしても、福音は現され、広められていくのです。2、3節はそのように、主イエス・キリストの福音が、様々な妨げにも関わらず前進していくことを語っているのです。

主イエスのまなざし
 このように読む時に私たちはここに、主イエスが私たちをどのようなまなざしで見つめておられるのかを示されます。つまり主イエスは私たちのことを、内側に罪や汚れを隠しており、それが露見しないように外側を取り繕っているいわゆる偽善者として見つめてはおられないし、私たちの内側の罪を暴き出そうとしておられるのでもないのです。主イエスは、私たちの内側にあるのは罪や汚れではなくて信仰である、と見て下さっています。神様を信じ、その救いにあずかる者として私たちのことを見つめておられるのです。そして私たちがその信仰を、与えられている神様の救いの恵みを、自分の心の中だけに留めておくのではなくて、外に、人々に、証しし、告げ知らせていくことを期待しておられるのです。主イエスのそのような愛に満ちたまなざしを私たちはここに感じ取ることができるのです。

友と呼んで下さる主イエス
 4節以下もその愛のまなざしの中で語られています。「友人であるあなたがたに言っておく」という言葉にそれが直ちに現されています。主イエスは弟子たちを、そして私たちを、「友」と呼んで下さっているのです。主イエスは私たちの罪を暴き立ててそれを裁こうとしておられる方ではありません。むしろ私たちが誰にも見せずに外側を取り繕いつつ隠し持っている罪を、私たちから取り去って、それをご自分の身に背負い、十字架にかかって死んで下さることによってそれを赦して下さる方なのです。主イエスはヨハネによる福音書第15章13節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とおっしゃいました。そしてそれに続く15節で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃいました。私たちのために十字架にかかって命を捨てて下さるというこの上ない愛によって、主イエスは私たちのまことの友となって下さったのです。その主イエスからの慰めと励ましの言葉として、4節後半以降のみ言葉が語られているのです。

本当に恐れるべき方
 「体を殺しても、その後(のち)、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。ここには、私たちが本当に恐れるべき相手は、人間ではなくて神様だ、ということが語られています。その神様は「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」だと言われています。これを読むと私たちは、神様とは恐ろしい方だと思ってしまいます。死んでから地獄に投げ込まれたらどうしよう、と不安になるのです。しかしここで主イエスが語っておられるのは、人間は肉体の命を奪うことはできても、その死を越えて私たちを最終的に支配しておられるのは神様なのだ、ということです。神様こそが、私たちの人生を、私たちの肉体の命が終わる死においても、そしてその死の後でも、支配し、導いておられる、そのことに私たちの目を向けさせ、神様にこそ信頼して生きるようにと教えておられるのです。しかしそれが、本当に信頼すべき方は誰か、という言い方によってではなく、本当に恐れるべき方は誰か、という仕方で語られています。なぜそういう語り方をするのか。それは、私たちが多くの恐れに取り囲まれているからです。人生にはいろいろな苦しみや悲しみがあって、それが私たちを恐れさせます。苦しみや悲しみがもたらす恐れによって人間が壊れていってしまうようなことを私たちは体験するのです。そのような恐れに捕えられている時に、「恐くないんだ、大丈夫なんだ、安心していいんだ」といくら語りかけられても、またいっしょうけんめい自分にそう言い聞かせても、それで恐れから解放されることはありません。恐れからの解放は、恐れから目を背けることによってではなくて、本当に恐れるべき方と出会うことによってこそ得られるのです。本当に恐れるべき方とは、私たちがこの世の人生において感じる恐れの全てを越えて支配しておられる方です。その方のご支配の下では、この世の人生における恐れは全て相対化されるのです。絶対的な事柄ではなくなるのです。主イエスが、本当に恐れるべき方は誰かを教えようと言っておられるのはこのことのためなのです。

恐れるな
 ですから、主イエスはここで私たちに、死んだ後地獄に投げ込もうとしている神への恐怖を植え付けようとしておられるのではありません。そうではなくて、死んだ後と言うよりもむしろ今生きているこの人生の日々の歩みにおいて、私たちを本当に支配し、支え、守り、導いて下さっている天の父である神様を示そうとしておられるのです。6、7節はそのことを語っています。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。私たちを友と呼んで下さった主イエス・キリストの父である神様は、私たちのことをこのようなまなざしで見つめて下さっているのです。私たち一人一人を決してお忘れになることはなく、髪の毛一本に象徴されているように、日々の歩みの隅々までをみ手の内に置いて守り導いて下さっているのです。それゆえに私たちは、この世の事柄を、人間を、人の目を恐れ気にすることなく、主イエスが私たちの中に見つめて下さっている信仰にしっかりと立ち、それをただ内面の事柄にして隠してしまうのでなく、それぞれに与えられている日々の生活の中で、出会う人々に自分の信仰を明らかにし、証ししていきたいのです。私たちを友と呼んで下さる主イエスのまなざしの中で、私たちにはそれが出来るのです。

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