夕礼拝

神の子と呼ばれる

「神の子と呼ばれる」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第8章8-13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章9節
・ 讃美歌 : 10、505

平和とは
 本日は「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」という主イエスのお言葉に共に聞きたいと思います。主イエスが語られる祝福とは、幸いとはどのようなものなのでしょうか。私たちにとって「平和」とはどのようなものでしょうか。平和を実現する人々とはどのような人々なのでしょうか。平和とは戦争や面倒な事柄のないこと、またそれらが終わったことを述べる傾向があります。国土が荒廃し、都市が廃墟となり、人々が男も女も子どもも飢餓の状態にあっても、戦争が終結するようになれば、私たちは平和が戻ってきたと言うでしょう。しかし、ユダヤの人たちにとっては「平和」という言葉はもっと広い意味がありました。平和を表すギリシア語は「エイレネ」であり、これはヘブル語の「シャローム」の訳です。「シャローム」には主として二つの意味があります。まず第一にそれは完全に良い生活状態と平穏、繁栄と幸福を述べるものです。ユダヤの人々は「シャローム」と言って挨拶をします。主イエスも弟子たちを伝道に遣わされる時に、家に入ったら、『平和があるように』と挨拶をしなさいと教えられました。この挨拶は人々が面倒なことから自由になることを願うだけでなく、すべての人々に満足のいくものとなり、また良いものとなることを願うものです。ユダヤ人にとって、平和は全く完全で積極的な生活の良い状態なのです。ユダヤの人たちは朝晩、毎日顔を合わせる度に「平和、平和」と呼び交わしています。なぜ、そのように「平和があるように」と挨拶を交わすようになったのでしょうか。ユダヤの人々とは元々、遊牧をしながら生活を営む「遊牧民」でした。飼っている羊のための牧草地を確保し、そこを中心に生活をしておりました。牧草地を確保するためには周辺の民族と友好的な交わり、関係を持たなければなりません。そのためにお互いに「平和があるように」と挨拶を交わしたのです。
 このシャロームのもう一つの意味はこのようなことです。それは正しい人間関係を述べるものです。人と人との親密さ、親しい交わり、友好的な交わり、変わらない善意を述べるものです。平和とは、ただ戦争と争いがないことを述べるだけでなく、幸せと生活の繁栄、完全な人間関係をも述べることになるのです。詩編123編において詩人はエルサレムの城壁のうちに平安があるようにと祈りました。その祈りは、あらゆる祝福がその都とその市民に下るようにという祈りでした。新約聖書はこのような平和に関する書物であると言えるでしょう。新約聖書には、この「平和」「平安」ギリシア語の「エイレネ」という言葉は八十八回用いられ、その新約聖書のどこの書物においても見出すことができます。新約聖書の手紙の一つの大きな特徴は、手紙を読む人々、またその手紙を読むのを聞く人々のために、平和があるようにと祈りをもって手紙が書き始められ、また終わるのです。パウロは、自分のどの手紙においても、恵みと平和があるようにと祈りをもって書き始めています。そして新約聖書の手紙ではしばしば「平和があなたがたすべてにあるように」という言葉で結ばれています。主イエスが弟子たちを残して去ろうとする時に弟子たちに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネによる福音書第14章27節)と言いました。ある学者はこの主イエスのお言葉を「イエスの最後の遺言」と呼んでいます。主はこの世の財産は何も残しませんでしたが、人々に平和を残されたのです。

平和を実現する人々
 平和を実現する人々はどのような人々なのでしょうか。主イエスが祝福される人々は単なる「平和の愛好者」ではありません。もっと積極的に「平和をつくり出す人たち」です。穏やかで平和な状態を好むけれども、平和をつくり出す人ではないことがあります。私たちはある状況において、何か誤っている事柄がありますとその状況を矯正するために何かをしなければなりません。けれども、その状況を打破するために何か一歩を踏み出そうとすればそこには更に困難なことや面倒なことが起こるときがあります。このような状況においては、多少状況が悪くてもそれは仕方のないことであるとその状況を継続させ、事柄全体が不安定なまま流れに身を任せてしまうことも多々あります。今のある程度の平和を維持するために、面倒なことは避けることがあります。このような人は一見穏やかな人、平和な人と見えるでしょう。けれども、このような人は積極的に平和をつくり出す人ではありません。そしてこのような人は返って面倒をかける人となってしまいます。なぜなら、どのような状況も長く放置したままにしておくならば、状況を矯正するのは大変困難になるのです。祝福される人々は、平和をつくり出すために、困難なこと、不愉快なこと、面倒な事柄に直面する勇気や用意のある人です。主イエスが語る平和は、問題を避けることの結果として起こる見せかけの平和ではありません。主イエスが語る平和は、問題に直面する平和、またその状況が必要とするあらゆることに進んで労苦し犠牲を払うことから起こる平和です。宗教改革者ルターはこのギリシア語を「平和を好む人々」と訳し、このような説明を加えました。それは「相互の間に平和をつくり出し、相互の間の平和を維持する人々である。「平和を実現する人々」とは人間相互の間に平和を獲得し、維持することに力強く貢献する人々のことです。
 平和がない状態とは、ただ何かが欠けている状態ではありません。平和がない状態とは平和とは反対のものが生じているということです。それは争いであり、その元となっている憎しみや敵意であります。このユダヤの人々は土地を取得しても、その後も周囲の国々と絶えず戦わなければなりませんでした。何度も国を追われ、今なお争いが絶えない状態にあります。「平和」に生きるとは、切実であり、非常に難しいということであります。お互いに平和に生きるということは、現実にどんなに難しいかと思わされます。平和のない状態の中で「平和」「平和」という挨拶を交わしています。平和のない状態の中で本当にこの挨拶の言葉通り「平和があるように」と生きていかなければならないのです。人間の憎しみや敵意による戦争、争いが私たちの生活を脅かし、傷つけ、破壊します。平和がなければ私たちは傷つき、日常が脅かされてしまいます。私たちの国は、戦争という、平和のない状態を経験しました。そして、その悲しい歴史を踏まえ、私たちは多くの者が望む平和を守り、実現していき、そして世界に訴えていく大事な使命を担っております。国のレベルにおいても私たちは平和を願います、同時に身近な人間関係においても平和というものがどれだけ大事なものであるか、私たちは毎日の生活において知らされております。主イエスは「平和を実現する人々」の幸いを語ります。平和を積極的につくり出すことを望んでおられます。

平和をつくり出す人
 けれども、私たちの問いかけは「平和を願うけれども積極的に平和をつくり出すことなどできるのであろうか」ということでしょう。平和をつくり出すことなどできるのでしょうか。私たちは平和よりも戦争をつくり出すものであります。ある程度の平和を維持するために、本当に問題になっていることには目を背けてしまうものであります。平和をつくり出す人は英語でPeace makerとなります。これは調停人という意味でも使われます。対立した敵対関係の中にある双方の間にあって仲裁をする人、その中に割って入り両方の言い分を聞き、解決策を示す人です。そのようにうまく仲裁をする人のことをPeace makerと言います。
 主イエスは弟子たちに、平和のない状態に陥った時、そこから平和をつくり出す幸いな者になりなさい、と教えられたのです。けれども、なかなか自分はそう簡単に平和をつくり出す者になれないと誰もが思うのではないでしょうか。ある問題が起きた時には、自分ではなく相手に落ち度があったと考え、その点を譲ることができないと争いがますます深まってしまいます。そのような私たちは果たしてpeace makerとなることができるでしょうか。

神の子と呼ばれる
 本日の主イエスの御言葉の全体はこうです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」平和を実現する幸いに生きるものを「神の子」であると宣言します。平和をつくり出す者が幸いであるとは、天の父と呼ばれる神様に子どもとして受けられるということです。神が喜んで下さるということです。この「神の子」という言葉は「神の跡継ぎ」という意味があります。この「神の跡継ぎ」とは先ほども言いましたように唯一の神の御子イエス・キリストにのみ帰されるべき言葉です。人は唯一の神の御子を通して神の子とされるのです。パウロがローマの信徒への手紙に記している通りです。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙第8章17節)とあります。平和を実現する人々、平和をつくり出す人々は神の子と呼ばれるだけでなく、神の跡継ぎ、相続人と呼ばれるのです。神の子どもとして、平和を実現する人々に約束されているのです。この「神の跡継ぎ」という表現、呼称は当時の人々にとっては最も偉大な名誉ある称号であったということです。そしてこの時代に「神の跡継ぎ」と呼ばれていた人がいました。正確に言えば人々にそう呼ばせていた人がいました。それは、多くの人々を支配下に治めて、平和な状態をつくり出していた「王たち」です。紀元前四世紀のアレキサンダー大王以来の、近東においては、諸民族の支配者たちが自分のことを好んで「神の跡継ぎ」と呼ばせていました。ギリシアのアレキサンダー大王は地中海周辺地域を征服し、更にパレスチナを超え、ペルシャを超え、遥々インドまで遠征をしました。そのように大帝国を築きあげました。その間、外から攻めてくる敵はなく、国は安泰で平和でした。そのような時代にアレキサンダー大王は自分のことを「神の跡継ぎ」と称したのです。時代は経て、主イエスの時代ではローマ帝国の支配が完璧に繰り広げられました。ローマ帝国は軍事国家を築き上げていました。人々はこの時代を「ローマの平和」と呼んで、皇帝アウグストゥスをはじめ、歴代のローマの皇帝を「神の子」と呼ぶようになったのです。皇帝たちは自らを「神の子」と称し、各地で自らを礼拝の対象とする、皇帝崇拝を強要しました。そこには、「ローマの平和」とあるように、平和な状態がありました。けれども、その平和は明らかに武力によって反乱を抑え、無理矢理に権力に服従させる力による、武力による平和です。そのような中で主イエスは語られたのです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」神の子と呼ばれるのは、この時代を武力や力によって支配する皇帝ではないということです。主イエス力によって平和を樹立されてはいません。これまで主イエスが語られた、心の貧しい者、悲しめる者、柔和にして義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、そのような者によってつくり出される平和を実現する者たちが神の子なのであるということです。そのような者となることによって、平和をつくり出す者たち、その者たちこそが神の子であると主は宣言をされたのです。

御子の血によって
 それは何よりも神によってつくり出される平和であります。その神とは、主イエス・キリストというお方であります。平和はその主イエス・キリストがこの地上において、つくり出される平和であります。平和のないところに平和を築いて下さったのはイエス・キリストそのお方です。神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。そして主イエスはどのようにして平和を実現なさったのでしょうか。コロサイの信徒への手紙第1章19節から21節にこうあります。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」この敵対している私たちを和解へと導いて下さったお方、それが御子イエス・キリスト十字架の血によって平和を打ち立てられたお方です。また、エフェソの信徒への手紙第2章14節では「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」たと、はっきりと記されています。人間の罪という「敵意」の壁によって平和が妨げられていました。その敵意の壁を主イエス・キリストの十字架の死において、敵意を滅ぼし、平和を実現して下さいました。十字架の出来事によってのみ敵意を滅ぼされたのです。敵意を取り除き、平和のないところに平和をつくり出せるのは、人間の努力ではありません。主イエス・キリストの十字架によるしかないのです。
 私たちの、神に対する敵意、人間の罪が、独り子イエス・キリストに全てかかり、主イエスを苦しめ、殺したのです。その苦しみと死を主イエスがすべて引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さいました。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きています。けれども神は御子イエス・キリストをこの世に遣わし、御子の十字架によってその敵意を滅ぼされました。人間は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっています。このことこそが、主イエス・キリストによって実現された平和であります。主イエス・キリストのよって罪を赦された自分であると知るときに、隣人との関係を新しくされるのです。 父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、主イエス・キリストは死の力に勝利されました。そのお方を信じ、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きていくのであります。

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