夕礼拝

未来への確かな約束

「未来への確かな約束」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; エゼキエル書 17:22-24
・ 新約聖書; ルカによる福音書 13:18-21

 
1 (主イエスの御業は小さなもの?)

 「そこで」という言葉から、この福音書を書いたルカは語りだしました。「そこで」とあるのですから、この前に起こった出来事を受けているわけです。すぐ前に起こっていたのは、病の霊に取り付かれていた女性が、安息日に癒された出来事でした。18年間もの間、病のためにどうしても腰を伸ばすことができなかった。半ば治ることはあきらめかけていたこの女性を、主イエスは手を置いて癒してくださったのです。主イエスの言葉によって反対者は皆恥じ入り、群衆たちはこぞって、主がなされた数々のすばらしい行いを見て喜びました。
 けれども主イエスは今、この出来事そのものはほんの小さなことである、そうおっしゃっているかのようです。なぜなら、神の国を「からし種」、あるいは「パン種」にたとえられるからです。

2 (からし種)

 「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それはからし種に似ている」(18-19節)。からし種というのは、非常に小さなものだそうです。他の種と比べてもとても小さい、1ミリメートル弱の直径の小さな種だといわれます。ですからこの地方では小ささを強調する時に、「からし種のように小さい」という言い方をするくらい、一般によく知られていた植物であったのです。日本でいえば「けしつぶのように小さい」という表現にあたるものでしょう。
 私たちは思います。主イエスはご自身の御業をたとえられるのに、すいぶん小さなものを引き合いに出されるのだなあ、と。主イエスはここで、ご自分のなさっておられることは、「からし種」のようなものだ、とおしゃっておられるのです。ご自分のなさっていることは実に小さくて目立たないものだと認めているも同然ではないか。そうも思えます。私たちはどうでしょうか。私たちは、神は大きなお方だと思っている。その御言葉と御業は途方もない大きさを持っている、そう思っています。けれども実際のところはどうでしょうか。神がとてつもなく大きなお方だというのは実際のところ、建前のようなものになっていて、普段は自分がどう思い、同決断し、どう実行するか、差し迫った課題をどう解決するのか、そういったことのほうがよっぽど大きなことに見えていて、神様のことなどはどこかに忘れ去られているということが多くはないでしょうか。
 さらには苦しいことやつらいことが起こってくると、自分の意識の中でもはっきりと神の御業について疑いを持ち始めます。こんな苦しみをいったいなぜ、神は見過ごしにしておられるのだろうか。神の国が近づいている、始まっているというが、いったいどこに始まっているというのだ、どこに目に見える形で現れているというのか。そう問いたい気持ちに駆られてきます。
 この試練は礼拝中にも襲ってきます。私が育った教会は会員が20名前後の小さな教会です。その教会で牧師として生きる者が、教会員として生きる者が、戦わなければならなかった試練は、ここで毎週礼拝をしていることにいったいどんな意味があるのだろう、という深い疑いの気持ちでした。虚しさを感じそうになる誘惑でした。礼拝をしてもしなくても、いつもと何も変わらないように世の中は動いていく。世界の営みは何事もなかったかのように進められていく。この世に何もインパクトを与えることができずにいる。そのことへの苛立ちと焦りの気持ちです。今自分がこうして教会に生きている、その恵みの大きさを見失い、虚しさに捉えられるとき、それは伝道者であろうと一人の信仰者であろうと、その存在が根本から揺さぶられる、恐ろしい試練となるのです。

3 (種は成長する)

 主イエスがこの日、会堂の中でなさった癒しの御業も、考えようによっては小さな、目立たない出来事であったとも言えるでしょう。パレスティナの一角の、小さな会堂、その中でたった一人の女性が癒された。世界全体から見るならばどうということもない。今日でいえばニュースにもならない出来事かもしれません。それより世界は日々起こる大きな出来事、政治の舞台でくりひろげられるドラマ、たびたび起こるテロ事件、大規模な自然災害に翻弄されていて、そんな小さな出来事にはとても心を寄せる余裕などない、そんなふうにいいたげです。会堂の中での女性の癒し、それは確かにからし種のように小さな出来事であったでしょう。
 しかしからし種はそのままの大きさで終わるのではないのです。主イエスの話は続くのです。「人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」(19節)。からし種はそのままで終わるのではない。成長するのです。大きくなるのです。ここで言われているからし種は、くろがらしという種類のものだろうといわれておりますけれども、今日でもゲネサレト平原で育つものは3~4メートルもの高さに成長するといいます。最初は見栄えのしない、ちっぽけなものかもしれなくても、しまいには大変な大きさに成長し、そこに空の鳥がやってきて巣を作るまでになるのです。

4 (エゼキエル―裁きとしての植え替え)
 この空の鳥たちは、異邦人の国々を表すとも言われます。この後の22節以下の話は、神の国で行われる宴会の様子を語っておりますけれども、その29節にはこうあります。「そして人びとは、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」。大きく育ったからしの木である神の国には、東から西から、南から北から、たくさんの鳥たち、つまり新しく神を知り、神を信じて歩むようになった異邦の民たちが集まってくるのです。そのようにして神の国は広がり、成長していくのです。
 神の国を木の成長にたとえるこのイメージは、先ほど読まれました旧約聖書、エゼキエル書の預言の言葉を思い起こさせるものです。おそらく主イエスもこのエゼキエルの言葉を思い起こされながら、今このたとえを語っておられるのかもしれません。17章の22節以下にこうあります、「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる」。エゼキエルのこの預言は、神の裁きを告げるものであります。神との契約を軽んじ、その戒めをないがしろにして歩んだイスラエルの上に裁きが降り、エルサレムはバビロンの軍隊に占領されました。そして国王も含めて国の主だった人たちはバビロンに連れ去られたのです。いわゆるバビロン捕囚という事件です。それはイスラエルが「高ぶることなく従順になり、契約を守り続けるようにさせるため」(14節)でした。バビロンという王国を用いながら、神が今イスラエルに裁きを降しておられる。イスラエルはそのことを深く知り、捕囚の生活を受け入れながら、真実の悔い改めに生きるべきであったのです。それにも関わらず、イスラエルの王はエジプトに援軍を要請し、自分たちの力でこの危機を克服しようとした。馬と軍勢の応援を得て、軍事力でバビロンをつぶそうとしたのです。その行為によって神の御心を踏みにじり、ないがしろにしたのです。神の御心を受け止めようとせず、神なしで生きようとする、高ぶったイスラエルの姿は、イスラエルの高い木になぞらえられています。そういう木は主の裁きの下で低くされる。一方、レバノン杉から取られた小さな梢、柔らかい若枝を、主はイスラエルの高い山に移し変えて、大きく成長させてくださるのです。そしてそこにあらゆる鳥を招き入れてくださるのです。
 この柔らかい若枝とは、来るべき救い主、メシアを表す言葉です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」(イザヤ11:1)といった救い主の誕生を預言する言葉を想い起こすことができます。この小さく低められていた若枝を、主は大いに成長させて、枝を伸ばし、実を実らせ、うっそうとしたレバノン杉にしてくださったのです。今主イエスはそのレバノン杉はご自分のことだ、とおっしゃっておられるのではないでしょうか。主イエスにおいて始まっている神の国、神のご支配、それは初めは小さくて目立たない、世界全体から見れば気にも留められないようなものだったかもしれない。しかしやがて無視できない大きなものとなり、散らされていた神の民、今度はイスラエルの民ばかりではなく神のご支配を受け入れた異邦の民も皆、この御国を目指して四方から集まってくるようになるのです。
 私たちはしばしば神を勝手に低く見積もって、その御業を見くびり、自分が今置かれている大きな恵みを見失ってしまいます。けれども神はその試練を通じて私たちを悔い改めに導き、真実に礼拝に生きる者として、もう一度立たせてくださろうとしておられるのです。神のご支配の確かさに、もう一度立ち返って生き始めるように招こうとしておられるのです。裁きを通じて、私たちを真実の御国の子として練り直し、改めてこの木のもとに来なさい、と呼んで下さるのです。 5 (パン種)

 もう一つ、主が神の国にたとえられたのは、パン種です。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(20-21節)。パン種というのは、自然発酵によってふくれた練り粉を、次回のパンを作るために鉢の中に一部残しておいたもののことです。新しくパンを作る時、このパン種を一緒に混ぜ合わせれば、パンの発酵が進み、初めは小さかった練り粉が大きく膨れてきたのです。パン種そのものは、これまた目立たない、いったい何の役に立つのかと思われるようなものかもしれません。けれどもいったんそれがほかのパンの練り粉と混ぜ合わされれば、それは練り粉を内側から膨らませて、大きなパンを形づくっていくのです。三サトンとは、今私たちの使う単位に直せば、約40リットルくらいです。しかしこれくらいの練り粉に混ぜられたパン種は、練り粉を大きく膨らませ、なんと160人もの人びとの食事を賄えるほどのパンに成長するとも言われているのです。
 このパン種の働きは目には見えません。パン種自体が、粉と混ぜ合わされる中で目に見えなくなるのです。20節に出てくる「混ぜる」という言葉はもともと「隠す」という言葉なのです。パン種が神の国だとするなら、三サトンの粉というのは、神のご支配が到来しつつあるこの世界ということになるでしょう。この世界の中で、神の国というパン種は、どこにあるのか分からないくらい目立たないもの、隠れているものです。教会もこの国の多くの人々にとって、特に気に留められることもない。あってもなくても、それが自分の毎日の生活に大きな影響を及ぼすとは思われていないでしょう。その意味で隠れてしまっているかもしれない。けれどもそのことを嘆いてばかりいなくともよい。まさに、そのように気づかれないくらい深くこの世界と混ぜ合わされて、この世界の中に浸透しているのが教会であります。神のご支配をその身に帯びながら、毎日この世界の中に混ざり合って、もまれながら生きているのが私たちだ、そうも言えます。そうやって混ざり合っているからこそ、周囲の世界にも知らず知らずのうちに、神のご支配が染み渡っていくのです。教会が告げ知らせているのは、気づかれないくらいに深く、広くこの世界にしみこんでいるのが神のご支配であり、それは日々成長し、拡大しているということなのです。一人の人が洗礼を受けて、教会の肢としてキリストにつながって歩むようになる。そこで御国は大きくなっているのです。私たちが神の導きが見えなくなり、自分ですべてを解決しようとしてイライラしていた中で、神の言葉に新しく触れ、恵みの中に立ち返ることができたならば、そこで神の国は拡がっているのです。そのようにしてこの世界自身も知らないうちに、神の国は拡がっている。終わりの日に、神のご支配が誰の目にも明らかになって、御国が完成する時まで、神の国は目立たず、しかし確かに、大きくなっているのです。

6 (悪いパン種を押さえつけて御国のパン種が膨らんでいく)

 実はパン種のたとえは、よい意味ばかりではなく、悪い意味で用いられることもあります。12章の1節では、主はファリサイ派の偽善を、悪しき「パン種」として警戒するように注意されました。発酵を促し、酵母菌によってある意味で腐敗していく過程を、ユダヤ教ではけがれが拡大するものとして受け止めていたからです。祭壇に捧げるパンが酵母を除いた種なしパンであったのは、このことと関係があるのです。私たちも神のご支配の確かさに信頼できなくなり、神に不平をつぶやき始めたり、すべてを自分に背負い込んで何とかしようとしたりし始めます。その時、私たちの中にも、外面の自分と、内側にある現実の自分との間に分裂を抱え込んだ、偽善のパン種を宿しつつあることになります。
 主イエスが悪霊を追い払い、頑なになった体を癒してくださったのは、まさにそのように偽善のパン種、神の恵みから自分を遠ざけ、自分勝手に生きようとする誘惑から私たちを救い出し、恵みの中に再び立たせてくださるためであったのです。主の御言葉、主の御業は、私たちの中に広がる悪しきパン種を押しとどめ、御国のパン種をこそ大きく膨らませてくださるためなのです。私たちの思いが心配事や恐れ、不安や怒りでいっぱいになりそうな時、主はこれら悪いパン種に対抗して、神の国のパン種をこそ、私たちの中で大きく膨らませ、私たちの心を満たしてくださるのです。

7 (神の国が成長する中で用いられる私たち)

 「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(11:20)、主はこう宣言してくださいました。主イエスが来てくださったということは、この神の国、神のご支配が、もはや後戻りしない形で、決定的に始まったということです。私たちの側で、このご支配が見えなくなったり、その確かさに信頼できなくなったりすることはあるでしょう。けれども、神の側でこの神の国の拡大が不確かになることはありません。それは最終的な完成に向けて、邪魔をするあらゆる悪の力に打ち勝って進み行くのです。からし種が成長して大きな木になるのと同じように、また小さなパン種が粉の中に混ざり合って大きなパンを膨らませるように、神の国は今もその完成に向かって力強い成長を続けているのです。私たちが試練に遭っても、病を患っても、苦難の中で打ちひしがれそうになる時も、そこで神のご支配が弱まったり、なくなってしまったりするのではありません。そこでも揺るがない確かな神のご支配によりすがって歩むならば、そこに御国は来ているのです。
 からし種を取って、庭に蒔いている男の人、パン種を粉に混ぜ合わせる女の人、これらの人はいずれも深い確信に基づいてこれらの行為をしています。それが必ず豊かな実りを生むという確信に基づいて行為しているのです。これらの人はいったい誰なのでしょう。それは主イエスではないでしょうか。主イエス・キリストは御国の豊かな実りへと私たちを招き入れるために、この世へと来てくださり、苦難の道を歩まれ、十字架につけられ、死んで墓の中に葬られ、さらに死の中から甦って天に昇られ、今も聖霊とともに働いておられるのです。ご自身の死と復活によって、測りしれない実りがもたらされることを、主は父なる神から示されていたのです。主イエスのご生涯そのものが、神の国の開始とその拡大です。さらに使徒言行録はこの福音書と同じ著者が書いたと言われております。この書物は、今に至るまで続いている教会の歩みの中に、御国の拡大が証されていることを語っていると思うのです。ルカは歴史を貫いて神のご支配が拡がり、前進していることを喜び味わいつつ、これらの書物を記したのだと思うのです。
 そして今私たちも、主が先んじて歩み、約束してくださっている御国への確かな道を歩んでいます。主イエスが深い確信に基づいて御言葉のからし種を蒔かれ、御言葉のパン種を混ぜ合わせられたように、私たちもこの世にあって倦まず弛まず、御言葉の種蒔きに生きたいのです。この世に混ぜ合わされてもまれる中でこそ、失われるどころかいっそう神の国の影響を及ぼすパン種として歩みたいのです。 まず私たち自身がこの御国の味わいに生かされるために、今日もここに主の食卓が備えられました。からし種は口に含んで噛み砕くと唾液と混ざり、酵素が働いて、やがてじわあーっと独特の刺激が現れてくるそうです。私たちも今、奥深い味わいのある神の国の恵みをかみ締めたいと思います。そして神が私たちの中で始めてくださったよき業を必ず完成に至るまで担い導いてくださる、この「未来への確かな約束」に、望みを新たにしたいのです。

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、今日も豊かな御国の味わいのうちに私たちを生かしてくださいますことに感謝いたします。あなたが御子主イエス・キリストにおいて、決定的に始めてくださいました神の国の拡大と前進を、どうぞ終わりのときの完成まで導いてください。この御国の成長の中で、あなたは今私たちをも用いて下さいます。未来への確かな約束に生きる者として、どうぞ私たちを御国のからし種、御国のパン種として用いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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