夕礼拝

悲しむ人々

「悲しむ人々」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第61章1-4節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章4節
・ 讃美歌 : 55、352

躓きに満ちた言葉
 主イエスは山の上に座り、8つの幸い、祝福について人々に語りました。その2番目の祝福が本日私たちに与えられている御言葉です。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」と言う主イエスのお言葉です。主イエスのこの「悲しむ人々は、幸いである。」という御言葉を私たちははたして読みやすく感動的な箇所だということができるでしょうか。「悲しい思いをしているが、幸いである」となぜ言えるのでしょうか。私たちの周囲には悲しみの中にいる人々が沢山おります。突然、身近にいる愛する者を天に送った人、病床で不安の中を過ごしている人、複雑な人間関係の中で心休まることのない人がおります。それぞれが悲しい日々を過ごしています。私たちの現実の姿であります。そのような人に対して「悲しむ人々は、幸いである」などと言うことはあり得ない、無神経な話ではないでしょうか。
 主イエスはそのような現実にあって「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」と言います。原文に忠実なある人の訳ではこうです。「ほんとうに幸福な人、それは今悲しみにとざされている人たちである、彼らは慰めと力と与えられるだろう。」悲しみの中にある人に対してこのように「悲しむ人々は、幸いである。」など言うのは、気持ちを逆なでしている言葉でさえあります。この主イエスのお言葉は決して分かりやすい言葉ではなく、むしろ躓きに満ちた言葉でさえあるように思えます。

罪を嘆き悲しむ
 「悲しむ人々は、幸いである。」とはどういうことなのでしょうか。この主イエスの御言葉について、いろいろな読み方や解釈が生まれました。その中の代表的なものに、たとえばこういうのがあります。この悲しみとは、「自分の罪を嘆き悲しむ悲しみ」のことであるという理解です。詩編の第38編の19節には「わたしは自分の罪悪を言い表そうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています。」というダビデの詩編があります。自分の犯した過ちのゆえに苦悩をしている。この同じ箇所を口語訳聖書では「わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます。」となっております。私は自分の罪、不義のために悲しむ、ということです。私たちの日常の生活には沢山の悲しみがあり、悲しみに満ちた日常であると言えます。身近な者の死、病気、複雑な人間関係の中で窮屈になること、社会生活における失敗、努力しても報われない結果、多くの悲しみがあります。そのような悲しみに囲まれております。けれども、そのような悲しみの中において、私たちは本当に悲しむべき事柄を見失ってはいないか、ということです。私たち人間が本当に悲しむべき事柄とは人間の罪、自分の弱さ、自分の醜さではいのか。「自分の罪を嘆き悲しむ悲しみ」こそ、人間の悲しみであるという理解です。このように「悲しむ人々は、幸いである」と主イエスが語られたのは、自分の罪を心から悲しみ、悔い改める人の幸いのことであるという理解です。自分の罪を真剣に悲しみ、悔い改め、その悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道なのであるということです。けれども、もしそうであるとすれば、何故主イエスははっきりと「罪を悲しむ者は幸いだ」とそうお語りにならなかったのでしょうか。
 このように理解し、説明をする時に、この言葉は私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないでしょうか。私たちは、自分の罪を嘆き悲しむよりもむしろ、いろいろと言い訳をし、人のせいにしてしまう。人の罪を悲しむよりもそれを喜び、興味の対象とし、優越感にひたっている。また本当に悲しんでいる時には、自分のことで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる。それが私たちの現実ではないでしょうか。「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」と説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失い、私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまうのです。

祝福の宣言
 主イエスは、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、と説明はしていません。主イエスが語るのは、悲しむ人々は幸いであるという祝福の宣言です。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、という留保もありません。私たちはそれぞれが、様々な悲しみを抱えております。その私たち一人一人に対して、主イエスは「悲しむ人々は、幸いである」と宣言されるのです。この宣言によって主イエスは、悲しんでいる私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられるのです。
 主イエスはここで、そのような私たちの日常の悲しみの中にこそ慰めをもたらそうとしておられるのではないでしょうか。主イエスは「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」と語ります。その悲しみが祝福を受けるということです。慰められる「その人たち」とは喪に服している人々のことを意味します。喪に服するとは、家族が召されたためにそのような服装をしている人々のことを意味します。そのような人々にこそ、慰めが与えられ、まことの幸いが約束をされるのです。

賛美の衣をまとわせる
 本日、共に読みましたイザヤ書の61章とは、メシアなる方、油注がれて、イスラエルの民を長い捕囚の苦しみから救い出す者となる方、その方についての預言の言葉です。1節「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。」少し、飛ばして2節、3節「主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」長い捕囚の日々を過ごしていた民に、今や神が目を留められて、その悲しんでいる人々を慰めようとしている。そのために油注がれた方メシアが遣わされようとしているのです。ルカによる福音書第4章において、ナザレにおけるイエスの公生涯の始めにこのイザヤ書61章が引用されております。2、3節が引用されております。ルカは「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(ルカによる福音書第4章21節)それは主の僕としてこの世に来られた主イエスが、私たちのすべての悲しみを身代わりになって引き受けてくださることによって実現したのです。
 マタイによる福音書は、今、山の上に立つ主イエスこそ、悲しんでいる人々を慰めるために来られた救い主であると語ります。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 という言葉は、悲しむ人々は、幸いである。その人たちは主イエスによって慰められるのです。主イエスは嘆いている人々を慰め、「灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」そのために主イエスはこの世に来られたのです。この主イエスの御言葉はただの言葉ではなく、その地上の生涯には最後にはそれが十字架という出来事において具体的に実証されていることを証言しています。従ってこの御言葉はイエス・キリストの御言葉として、十字架にかかってくださったイエス・キリストの御言葉として初めて意味を持つものであるのです。主イエスこそ悲しむ者を慰めるために遣わされた方であり、全ての人の涙を拭いとるメシアであり、この世の悲しみに捕らわれている人々に、本当の慰めをもたらすことの出来る救い主であります。  私たちの悲しみには確かに、他のことで気を紛らわせ、忘れことのできる悲しみもあります。人間が与える慰めには限界があるということです。けれども神のお与え下さる慰めには限りはない。主イエスが語りかけておられるのは、そのような、ごまかすことの出来ない悲しみの中にいる人、忘れることの出来ない深い悲しみ、心の傷を持つ人々であります、そのような人間を慰めることのできるお方は、神様しかおられないのです。

一番大きな悲しみを担う
 この神とは、人間の深い悲しみに慰めを与えるためにこの地上に来られた方であります。天高くおられる神であり、同時に私たちの所にまで、慰めるために来て下さった神の子、主イエス・キリストであります。主イエス・キリストは自ら人間の悲しみを知り、私達の嘆き、悲しみの傍らにいて下さいます。絶望の中においても共にいて下さるお方であります。そのような神だけが、悲しむ人間の傍らに寄り添い、嘆く者の嘆きを共有し、絶望の中にまで赴いて、横たわっている人間を起すことが出来る方なのです。ごまかすことの出来ない悲しみ、深い悲しみの底に「一番大きな悲しみを担うキリスト」がおられます。主イエス・キリストこそ誰よりも悲しみの中におられました。主イエスこそ、誰よりも悲しみの涙を流されたのです。
 ヨハネによる福音書第11章には、主イエスがラザロを墓より呼び出された物語があります。マルタとマリアの兄弟ラザロが死んだ後に、主イエスはベタニア村へ来られました。マルタは主イエスにこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)私達が親しい者を失った時、信仰の仲間を失った時、この物語を読み、この姉妹の言葉を読みます。自分の愛する兄弟が亡くなった。なぜ、あの恐ろしい瞬間にあなたが立会い、あなたが死を退けて下さらなかったのか。自分たちは力を尽くして看病をした。ラザロも死にたくなかった。なぜ、そこで奇跡をして下さらなかったのか。主イエスに訴え、神に嘆き、神を責めるのです。なぜ、あの恐ろしい瞬間にあなたはいて下さらなかったのか。なぜ、祈りを聞いて下さらなかったのか。姉妹は涙を流すのです。主イエスは葬られた墓の方へ行き、「涙を流され」ました。人々はその主イエスのお姿を見て、主がどんなにラザロを愛していたことか、そう思ったとあります。主イエスはこの姉妹の姿を責めず、主イエスご自身が涙を流して姉妹の涙を受け止めて下さるのです。主イエスは悲しむ姿を受け止めて下さいます。その涙を神の御前に注ぐが良いのです。そのように涙を流す者は幸いである、と主は言われます。
 主イエスの涙はマルタやマリアと同じ涙ではありません。悲しみは悲しみとして変わりませんが主イエスがここで「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」と言って下さるのです。主イエスがこのように言うことができるのは、主イエスこそ誰よりも悲しみを知っておられるからです。
 十字架の死を目の前にして、ゲッセマネの園において「わたしは死ぬばかりに悲しい」と涙を流して祈られました。主イエス・キリストはこの地上に人として来られ、激しい叫び声をあげ、涙を流されたのです。この時の主イエスの涙とは、悲しみの涙です。けれども、ここの主イエスの涙はただ死を恐れる者の悲しみの涙というのではないでしょう。それは私たち人間のために代わって贖いの死を遂げられる涙です。罪を悲しむ主イエスの涙は十字架において実現するのです。悲しむ人々、罪と死によって心を押さえつけられるような苦しみに遭い、心に傷を負った人において、主イエスはご自身の御力を現そうとなさります。主イエスが死の力より復活されました。主イエスは死の力に勝利をされたのです。

キリストのものである
 主イエス・キリストは罪なきお方でありますが、私たちの代わりに私たちの罪を悲しんで、涙を流して下さったのです。私たちは深い悲しみ底に落とされた時、私たちはただ一人で我慢しなくてよいのです。自分で自分を慰めるのではなく、またあまりに性急に慰めを得ようとせず、神様から与えられる慰めを待ち望むのです。主イエス・キリストが十字架において死に渡され、三日目に復活をなさいました。このことを通して死の力に打ち勝たれ、その唯一の場所においてこのお方は勝利者であります。この主イエス・キリストの勝利を信じる人が、その信仰によって死に対する勝利を自らの内に持つのです。主イエス・キリストが語られたように「死んでも生きる」のです。慰めを与えられるのです。私たちが生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰めは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」死から復活なされた方こそ、死の苦しみにある唯一の慰めであります。私たちはこのお方、主イエス・キリストの語られる御言葉の中に慰めを求めることができるのです。

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