主日礼拝

権威ある新しい教え

「権威ある新しい教え」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 創世記 第1章1-5節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章21-28節
・ 讃美歌:205、357、404

教え始められた
 本日はマルコによる福音書第1章21節から28節の御言葉を共にお読みしたいと思います。
主イエスは四人の弟子を召された後、四人の弟子たちと共に、カファルナウムという町へと向かいました。カファルナウムとは、ガリラヤ湖に面した町で、弟子の一人のペトロの住まいもあったようです。ガリラヤ地方での主イエスの伝道活動は、この町を拠点にして行なわれたのではないか、そう考えられております。主イエスがこの町に到着した日はちょうどうユダヤ教の安息日にあたる土曜日でした。町に到着し、主イエスは真っ直ぐに会堂へと向かわれます。会堂ではよくモーセの律法の書や、あるいは預言者の書が朗読をされておりました。そして律法学者によって律法の書や預言書の説き明かしがさておりました。人々はその説き明かしを神の言葉として喜んで聞いたのであります。主イエスの弟子たちもおそらく、主イエスがカファルナウムの町にある、その中心にある会堂へと向かわれた時に、主イエスもまた敬虔な人々と一緒に共に律法の書や預言書の朗読を聞き、律法の教師達から教えを受けるのだろうと、考えていたのでしょう。弟子たちもその主イエスと一緒に会堂へと行きました。ところが、主イエスはただ会衆の一人として会堂へ入られたのではありませんでした。主イエスはこの「会堂に入って教え始められた。」とあります。主イエスは人々の前に立って教え始められたのです。この日主イエスが教えられたのはどのような内容だったのでしょうか。ルカによる福音書第4章17節からその内容を知ることができます。18節、19節をお読みします。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカによる福音書第4章17-19節)そして主イエスは続けて言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(同、21節)そのように神の国の福音を教え始められました。

驚いた
 「人々はその教えに非常に驚いた。」とあります。主イエスの後に続いて会堂に入った者たちもとても驚いたのです。会堂にいた人々も驚きました。けれども人々が驚いたのは、その教えの「内容」であります。人々が驚いたのは、主イエスが語られたことです。ただ主イエスが突然。入って来て、いきなり人々の前に立ち教え始められたから驚いたということではありません。その教えの「内容」に驚いたのです。そしてその深い教えを語られる態度に、人々は驚いたのであります。22節「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」主イエスは、権威ある者として語られ、その言葉を聞いた人々は非常に驚いたのです。

律法学者とは
 律法学者であれば、このモーセの律法にはこう書かれてあると、その意味を説明し、字句の解説をし、色々な注釈を付け、その意味の説明をしたり、あるいはそれを日常生活の様々な問題に適用していく、その際のさらに細やかな注や取決め、してはならない事、為すべき事、しきたりや習慣を教えます。「権威がある」とは、その事柄についてよく知っており、深い知識がある人の言葉を、権威がある言葉と言うのです。これが普通の方法であります。会堂に集まっていた人々は何度となく律法学者の説教を聞いておりました。この律法学者達の教えこそ「権威ある教え」だと聞いていたのです。けれども主イエスは、そのような律法、戒めの数々を一教師として教えられたというのではなかったのであります。そうではなくて、これらの教えはすべて神の国の到来を目指している神の約束であり、その約束が、福音、喜ばしいおとずれとして今、ここに成就しょうとしているのです。それが今始まっている。そのことを主イエスは宣言をされたのです。主イエスはこの頃、ナザレの町で人々の前に立ち、やはり安息日に会堂で教えられていました。先ほどのルカによる福音書にあった主イエスが読まれた箇所は旧約聖書のイザヤ書第61章の言葉であります。「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ書第61章1節)主イエスは主なる神の霊がご自分をとらえ、わたしは遣わされたのだと、述べております。その神様の約束が今成就しているのです。主イエスにおいて実現をしたのです。主イエスは「打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。」に神様に遣わされたのです。このお方こそ「権威ある者」です。主イエスは権威ある方として教えられたということです。

汚れた霊に取りつかれた男
 この主イエスのお姿、主イエスが神の言葉を語る権威あるお方だということを誰よりも早く見抜き、そのことに一番早く敏感に反応をした者がいました。その場にいた「汚れた霊に取りつかれた男」です。汚れた霊に取りつかれ苦しんでいる者が、真っ先に主イエスの正体を見抜いたというのです。カファルナウムの会堂には、汚れた霊に取りつかれた男がいました。男は叫びました。24節「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」この人が具体的にどのような状態になっていたのかと言うことは語られていません。しかし、この言葉とは、この人自身の言葉と言うよりも、この人に取りついている汚れた霊の言葉です。語っているのはこの人ですが、その内容は明らかにこの汚れた霊の言葉です。ここで「我々を滅ぼしに来たのか」と言っています。「我々」とは、この人の中には大勢の悪霊が住んでいるということです。それはこの人が非常に重い病であることを現し、汚れた霊に取りつかれた人の状況であります。この人は、自分自身の言葉を語れなくなっているのです。口から出るのは、汚れた霊の言葉です。しかしそれは、口をあやつられて、自分が思ってもいない言葉を語らされているというのとも違うでしょう。むしろこの人は、自分の言葉、自分の考えや思いを語っているつもりなのです。しかしそれは明らかに悪霊の言葉です。つまり、自分の言葉と悪霊の言葉の区別がつかなくなっているのです。自分の言葉を語っているつもりで、実は悪霊の代弁者になっていることがこの人において起っているのです。この男は主イエスに対して「ああ、ナザレのイエス」と言います。「ナザレのイエス」と名前を呼び、「お前の正体は分かっている」としきりに叫び声をあげています。古代では、相手の名前を呼ぶことも、相手の正体を見抜いていると知らせることも、自分が相手よりも優位にあることを意味するのです。男はしきりに、主イエスの正体を自分は知っているのだ、と言います。またこの「かまわないでくれ」とは口語訳聖書では「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。」と訳されていました。この「汚れた霊」とは、まさに、そのように、私たちと主イエスとの関わりを絶とうとする力であります。「汚れた霊」は主イエスに、お前と我々は関係ない、だから我々のところに首を突っ込むな、と言っているのです。イエス・キリストと自分とは関係ない、自分は自分の力だけでやっていきたいのだ、そのようにこの人に思わせ、語らせるのがこの汚れた霊の力です。汚れた霊に捕らえられているなどとは思わせないで、自分は自由に自分の思いによって歩み、自分の言葉を語っているのだと思わせておいて、実は汚れた霊の言葉しか語ることができなくなっている、そのようにさせるのがこの汚れた霊の力です。この汚れた霊の力は私たち人間を、主イエスの権威ある言葉から、離れさせ、関わりを断ち切る、神の良き支配に抗い、抵抗しょうとする力であります。神の良き支配が及んで来ることを拒もうとする力であります。この神の良き支配に抵抗する勢力、この汚れた霊の力を誰よりもいち早く神の支配の到来を察知して、そして敏感に反応をして、それに抗おうした者がおりました。

この人から出て行け
 主イエスはこのような汚れた霊に対してお叱りになりました。この人の心を支配し、捕らわれていた汚れた霊を叱りつけたのです。「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりました。26節「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」汚れた霊はその人に激しいけいれんを起こさせ、恐らくその場に倒れさせ、大きな叫び声を上げながらこの男から出て行きました。このことは、戦いの激しさと主イエスの勝利の大きさを物語っています。この人は完全に癒されたのです。主の言葉が悪しき、汚れた悪霊をこの人から追い出し、この人を悪しき霊の支配から解き放たれたのです。神のよき支配の中へと再びこの人を取り戻したのです。27節「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』」とあります。主イエスの教えを「権威ある新しい教えだ」と人々は言っています。そして、一体、「これはいったいどういうことなのだ」「この方は誰なのだろうか」と不思議に思ったのです。主イエスの言葉の権威とは、このように汚れた霊に命じると、汚れた霊もそれに従って出ていく、そのような力です。主イエスの言葉の権威は、律法の知識に基づくのではなくて、汚れた霊を追い出す力に基づいているのです。主イエスはこのようにして、御自分の権威と力とによって、この人から汚れた霊を追い出し、解放して下さり、癒されたのです。
「ベン・ハー」という有名な映画の中で主イエスが「山上の説教」をなさる場面があります。丘の上で主イエスが御言葉を語り、大勢の人々が草の上に座って聴いています。主の御言葉を聞いたある女性がこう言いました。「あの方のお話を聞くと、心の底から不思議な平安に満たされます。もしかしたら、あの方こそ、来るべき方、メシアであるかも知れません。」私の印象によく残っている言葉です。主イエスの教え、この「権威ある新しい教え」とはこの女性のように、心の底から不思議な平安に満たされた、心の底に不思議な平安を与えた、と言う力を持つ権威なのであります。


 本日の箇所では主イエスが語られると、一人の男の心の奥深くに巣くっていた汚れた霊が追い払われ、悪霊が叫び声を上げて出て行き、癒された出来事でした。主イエスにおいて、神御自身が権威を持たれ、生きて働いておられた、ということです。人間存在の根底のところにまで、神の力が達し、神の光が差し込んだのです。神の国と神の御支配が来たのです。主イエスが権威ある者として、つまり律法を解釈する者としてではなく、主イエスご自身が神の言葉を語る方としてお語りになったことに人々は驚きました。そしてこの神の「御言葉を語る権威」の現れとして悪霊に対する勝利が語られているのです。主イエス・キリストこそこの世の光として来られたのです。本日、共にお読みをした旧約聖書は創世記の最初の言葉であります。神様は御言葉をもって光を呼び出し、光をここにあらわしめ、私たちの存在をその光の中に立たせて下さいました。主イエスはこの罪に満ちた世界に新しい光をもたらして下さいました。主イエスの語られたのは、新しい創造の言葉、私たちを造り上げる、主イエスの権威ある新しい教えを語って下さったのです。汚れた霊によって苦しめられていた人に対して、神の憐れみが、主イエスのお言葉がその男の存在の奥深くにまで達し、悪霊が絶叫しながら出て行きました。その人が癒されたのです。
 本日の御言葉の最後の、28節には次のように書いてあります。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」民衆の間に主イエスに評判が広がりました。この出来事を一部始終見ていた者たちはこのことによって驚き、その評判がたちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まったのです。この話は不思議な話であります。この話は現代を生きる私たちはどのように受け止めるでしょうか。これを、現代人である私たちには単なる現実味のない昔話であるとすることは出来ません。主イエスにおいて起こっていることは、主イエスが語られたことは、私たちすべての人間に関わりを持たれる主イエスの権威ある教えであります。主イエスの眼差しであります。神に抗う、神に抵抗する悪しき霊の支配下に置かれている人間は無力な存在であります。罪の支配のもとに置かれている人間であります。どうしても神の良き支配を追い返そうとしてしまう存在であります。素直にその神様の支配の中に跪(ひざまず)こうとはしない存在であります。そのような思いは私たちの中にもあります。それにいつの間にか深く捕らわれてしまうのです。けれども神は無力な私たち、罪に捕らわれている人間を、そのまま見捨てることなく、私たちのところに来て下さいます。主イエスを通して、その諸々の捕らわれから無力な私たちを解き放ち、解放するために働かれておられるのです。神の良き御心に逆らおうとする思いが私たちの中にあります。神様の良き意志に対して、抵抗してしまう、素直になれないのです。私たちはしばしば「悪い思い」に取りつかれてことがあります。それをすれば皆が喜ぶであるということ分かっているのに、それが出来ないのであります。そうることを皆が期待しているのに、望んでいるのに、それをしない。むしろわざと邪魔をして、そうさせないように自分にとって都合の悪い人の足を引っ張ったり、意地悪なことをわざわざしてしまい、すべてを台無しにしてしまう。意地を張ってしまう、意地悪になってしまう、邪悪な思いに取りつかれてしまう存在です。自分で自分をコントロール出来なくなってしまう。そのように追い遣(や)ってしまうのです。憎悪や復讐心があり、どうしても正気になれない、悪循環からなかなか抜け出すことができない。そのような「汚れた霊」に取りつかれてしまうのです。このような思いを断ち切るために、私たちを正気にさせ、冷静にさせ、自分を取り戻させるために、私たちのうちにはない、外から来る「神の権威」が必要なのであります。私たちの目を覚まさせる、そのような力こそ本当に権威ある力、権威ある教えであります。主イエス・キリストはそのような権威ある方として、私たちに出会ってくださったのです。罪の中にある私たちに主イエスは権威ある者として、権威ある新しい言葉を語って下さったのです。新しい御業を見た人々が目を見張りました。そして、神から離れていた人々が、再び神に帰り始めるようになりました。
 この「神の国がイエスにおいて来た」ということは、2000年前に、ガリラヤのカファルナウムの町で一度だけ起こったことではありません。主を信じる私たちにおいて、まさに今、ここで、起こるのです。主イエスはそのご生涯において十字架に向かって歩み始められました。私たちの罪を洗い清めるため、それはこの世から罪を追い出すためでした。そして、十字架上で死んで甦られました。今も、主イエスを信じる私たちの中で働いておられます。2000年前に、カファルナウムの会堂の中で、ユダヤの国中で起こり始めた出来事が、今、ここで、このイエス・キリストを神の子と信じる私たち自身において、また私たちのこの礼拝の中で起こる出来事となるのです。

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