「貧しい者が福音を告げる」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書第61章1-4節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第11章1-6節
・ 讃美歌:83、402
「貧しい者は福音を告げ知らされている。」
この言葉は、今日、イエス様が洗礼者ヨハネに伝えるために、ヨハネの弟子たちに語ったイエス様の言葉です。本日の箇所の5節の最後にそれが書かれています。これは先ほど聞共にきました。イザヤ書61章1節「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」から引用されています。
ではここで言われている貧しい者とは誰でしょうか。マタイによる福音書で「貧しい者」という言葉出てきたのは、山上の説教においてでした。「心の貧しい者は幸いである」とイエス様は語られていました。この時の、「貧しい」というのは、物乞いをしなくてはいけないほど、何もない状態を指す言葉で、自分ではどうしようもできない程に貧しい、誰かに助けてもらわなくてはならないほどに貧しいということです。それほどに、自分を頼ることができない者、それがマタイの意図している「貧しい者」であります。
そのような貧しい者は、本日のイエス様の言葉の中では「目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、死者」として、語られています。ここで挙げられている人々は、自分の力ではどうしようもできない人たちです。目が見えない自分を、目を見えるように自分ではできない、動かない足を動かすようには自分ではできない、重い病を治すことも自分ではできない、耳が聞こえるようにもできません。そして自分ではどうしようもできないということの極地、それは「死」です。死を自分では絶対にどうしようもできません。他のことならば、現代ならば、お医者さんや最先端の科学に頼ってどうこうなるかもしれません。しかし、死だけはそれはできません。この人類のすべての人に頼っても死だけは免れません。死に定められているわたしたち、全員実は貧しい者であります。
この死に直面していたのが、今日の登場した洗礼者ヨハネです。彼はこの時、牢屋の中にいます。ヨハネはマタイによる福音書の14章1~12節にあるように、領主ヘロデが自分の兄弟の妻ヘロディアと結婚しようとしたことを「律法で許されていないことだからしてはならない」と、したことにより、ヘロデに捕らえられ、牢屋に入れられていたのです。ヘロデはヨハネを殺してやろうと、その機会を狙っていましたが、ヨハネが民衆に支持されていたので、殺さずに牢屋にいれるだけにしていたのです。でも機会があればいつでも殺してやろうと考えていました。この捕らえられたヨハネの結末は、あの有名なオペラ「サロメ」の話しにも出てくるように、首をはねられてヘロデに殺されてしまいます。
このようにヨハネは、いつ殺されてもおかしくない状態に置かれていました。そのように牢屋の中で、もはや自分を頼ることができない、自分ではどうすることもできない、死を目の前にして、まさに「貧しい」状態、貧しさの極地に置かれていました。
そのヨハネは牢屋に捕らえられていましたが、弟子たちに会うことは許されていました。貧しさの極地にいた彼が、気になっていたことそれは、ヨルダン川で出会ったイエス様のことでした。ある時、彼は牢屋の中で、自分の弟子たちから、イエス様がどうなさっているかの報告を受けました。聖書には「キリストのなさったこと」を聞いたとあります。これは単に、イエス様がなさったことということではなく、「キリスト」つまり「油注がれた者」、「メシア」「救い主」がなさったことを聞いたという意味です。救い主の御業をヨハネは獄中で聞きました。ヨハネは、イエス様が自分を救ってくださる方であると信じていました。だからこそ、この死に晒されている極限状況にある時に、あのヨルダン川で出会ったイエス様が何をされているのかが、気になっていたのです。そのヨハネは、ヨルダン川で悔い改めを問いていた時、イエス様のことを、厳しい裁き主としての救い主であると見ていました。それはヨルダン川で出会った時にイエス様のことを「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」方であると言っている所からわかります。殻を焼く、それは麦の穂の中身は取り出し、それ以外のものはことごとく焼き払う、来るべき方は人を選別し、焼き払うものと蔵に入れるものを分けるという裁きを行う方だイエス様を見ていました。ヨハネは預言されていた救い主ことを、このような厳しい裁き主として見ていたのです。
ヨハネは「自分が捕らえて、そして律法的にも誤りを犯しているヘロデを裁くために、イエス様は動いてくださっているのではないか。」また「今捕らえられている自分を解放してくださるために、イエス様が動き出されているのではないか」とそのような意味で、イエス様に救いを期待していたのではないかと思います。そのような報告が来ることを期待をしたのではないかと思います。
しかし、彼が「救い主の御業として」自分の弟子たちから聞いたのは、病気を患っている者を癒やすこと、皆に嫌われている徴税人と共に食事をされ弟子にされたということ等でした。あまりにも、想像していたのとは違う情報に、彼は獄中で戸惑ったでしょう。「イエス様が厳しい裁き主ならば、罪を犯している徴税人を裁いているはずだ。それなのに、ご自分の弟子にしているとは何なんだ。本当に彼は来るべき方だったのだろうか」と、彼は思ったのでしょう。だから、彼は自分の弟子たちをイエス様の所に向かわせ「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と問わせたのでしょう。
ある注解者は、この洗礼者ヨハネの問いは、彼がイエス様に対して疑いを持っていたのではなくて、ヨハネの弟子たちがイエス様のことを救い主として信じていなかったので、その弟子たちをイエス様に出会わせるために、そして弟子たちが心の中で思っている、彼は本当に救い主だろうかという疑問を代弁し「来るべき方あなたでしょうか」と問わせるための問であると言っています。
ヨハネは弟子たちのことを思って、その問いを問わせたということも大いに考えられるだろうと思います。それは弟子たちの不安、弱く貧しい心をヨハネもまた持っていたからです。だから、弟子たちの気持ちがわかっていた。弟子たちが、イエス様のことを聞いてはいたが、救い主として信じることができないという気持ちをヨハネはわかっていた。
それは自分もイエス様は裁き主としての救い主であるという言葉を預かっていてその救い主を待っていたからです。この世を、ひっくり返す。ヘロデの悪行をやめさせる。悪を成敗してこの世の中をたちまち良い世界にするという救世主像を彼もどこかで抱いていたからです。これが弟子たちの思いでもあることを、彼は知っていのかもしれません。彼もまた、ヨルダン川でイエス様に出会う前は、強烈なさばき主としてのイエス様を望んでいたのではないかと思います。ヨルダン川で神の支配が近づいている、悔い改めて洗礼を受けなさいということを宣べ伝えている時、彼は、そのようなこの世を即裁き、即支配を実現する裁き主としてメシアを信じていたかもしれません。しかし、彼はイエス様に出会った時、そうではなくて、まことに柔和な方、驚くべき指導者、力ある神、平和の君であることを知ったのである。そして、獄中で弟子たちに聞かされた「キリストの御業」というのも、まさに、厳しい裁き手としてではなく柔和な方法で、人を悔い改めに導いているということでありました
ヨハネが、イエス様のことを、そのような真の救い主として、考えていた、見ていたかはわかりません。そう自覚していたかは、この聖書からはわかりません。経験としては、主との出会いがありました。そして、罪を即裁く方ではなく、罪のために自分が犠牲になっていくださる真の救い主を知ったかもしれません。しかし、彼は獄中で弱くなっていました。いつヘロデに殺されるかわからない、とても貧しい状態になっていました。イエス様のことを、柔和な救い主として知っていたが、この状況下であって、このヘロデを倒してくださる方、力強い裁き主、改革者であってくれと願ったこともあったでしょう。だから、彼も「本当にあなたが来るべき方なのでしょうか」と本心から聞きたかったのでしょう。そうであるならば、この問いは、弟子を思って以上に、やっぱり、彼の信仰の弱さから発せられた問いだと言えます。ヨハネもまたわたしたちと同じ人間です。その問は彼の、信じることができない弱さから発せられたものでした。しかし、その弱さを通して、その貧しさを通して、彼は知らず知らずのうちに、弟子たちを導いていたのです。弟子たちの弱い心を代弁するような問いにもなった。そして、何より、彼のその弱さゆえの問いは、弟子たちとイエス様との出会いを与えていたのです。
これはあるクリスチャンの友人の家庭の話しなのですが、その友人夫婦はクリスチャンなのですが、その夫が鬱であると診断されるほどに鬱状態になり、働くこともできず、また家で家事の手伝いもほとんどできないほどにうつ状態になりました。そして、妻はなんとか踏ん張って働き、家のこともして、夫を支えていました。その夫の両親はクリスチャンではなく、妻のことを不憫に思い、二人は別れたほうがいいのではないかとまで思っていました。しかし、妻は、神様が選んでくださった夫と共にあることを望み、神様に祈りながら、夫婦で苦しみながら、夫婦で忍耐しながら、生きていきました。
そのような中で、夫の両親は、別れない嫁のことを不思議に思いはじめ、最後にそれは彼女がイエス様を信じているからであることに気付かされていきます。そして、教会にその両親が教会の礼拝に行ってみるというところまで、来たそうです。
その時その友人夫婦は、泣いたそうです。何もできなくなっていた夫が特に泣いたそうです。自分の弱さ、自分の病、自分の貧しさを通して、両親が教会に来たと。イエス様と出会ったと。泣いたそうです。支える妻の愛に感謝もしたそうですが、何よりも彼は、自分はなにもできないダメなやつだと思っていたのに、神様が、その自分の弱さを用いて、自分の身近な人を、導いてくださったと知って、号泣したそうです。その友人の妻も共に号泣したそうです。
神様は、そのように、貧しい人、弱くなって人に、まず福音を知らせ、そして、その弱さを用いて、弱さの中で、福音を告げ知らせてくださるのです。それは聖霊なる神様なさる働きである。それは、弱さ中でまさに力を発揮される、聖霊なる神様の働きなのである。
わたしたちも同じです。ヨハネのように、苦しみの中で神様を、本当に救い主であると信じることができなくなることがあります。しかし、すでにイエス様と出合っているわたしたちは、そのお方に、問うことができるのです。「イエス様あなたがほんとうにわたしを救ってくださるのでしょうか」と。このヨハネがしたように、わたしたちは、兄弟姉妹に共に「イエス様あなたがほんとうにわたしを救ってくださるのでしょうか」と祈ってイエス様に尋ねてくださいということも大事でありましょう。その祈りを頼んだ兄弟姉妹も、どこかで、イエス様を信じることができないことがあるのです。その友と一緒に、祈る時、イエス様は必ず答えてくださるのです。そして、その友も、イエス様と出会い、問いを投げかけ、御言葉の答えを得ることができるのです。
5節の最後のイエス様の「貧しい者は福音を告げ知らされている。」という言葉を、面白く訳した人がいます。それはウィクリフという人ですが、「貧しい者は福音を取りつつある」として、これは貧しい人が福音を受けたという受動的な意味と、貧しい人が福音を取って用いている、告げ知らせているという能動的な意味にも取れるといっています。わたしは、確かにこれは、福音を受けているというということも確かだけれども、貧しい人こそが福音を告げる者とされているという意味でイエス様がお語りになったと言ってもいいと思います。なぜならば、この時のヨハネがまさに、貧しい者として、自分の弟子たちの福音を告げはじめていたからです。自分の死を前にして、苦しみながら、信じることのできない自分の代わりに、弟子たちに問うてもらったことが、それが福音を宣べ伝えることになっていたのです。
弟子たちはイエス様の驚くべき業を見、そして教えを聞きました。ヨハネは、イエス様からの返答を聞きました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返」っているということです。彼は、この時に、ある疑いと恐れから解き放たれたのではないかと思います。彼は、イエス様から死者が生き返っているということを聞きました。ヨハネは今、死に捕らえられており、その恐怖に怯えていました。その死の脅威に勝る、神の力、死という囚われからの解放の知らせを彼はここで聞きました。そして同時に、イエス様を信じることのできない罪の奴隷状態からもこの時、彼は解放されました。自分が出会っていたイエス様を、真の救い主として彼はこの御言葉を通して、受けいれました。
ですから、最後にイエス様は「わたしにつまずかないものは幸いである」とおっしゃったのです。ヨハネも弟子たちも、イエス様につまずいていたのです。イエス様を信じることができなっていました。つまずくという言葉は、これは「腹を立てる」という意味です。彼はイエス様がこの世をすぐに作り変える改革者、裁き主であると信んじていて、そうでないことに腹をたて、つまずき、疑ったのです。
イエス様を疑い、腹を立てるというその罪を、イエス様は十字架上で赦してくださったのです。自分たちをローマ帝国の支配から救ってくださる救い主と信じていた群衆は、弱い姿になったイエス様に力強い裁き主ではないと、腹を立て、つまずき、見捨てて、十字架にかけ殺したのです。ヨハネの疑い、わたしたちの疑いこそが、イエス様を十字架にかけました。しかし、イエス様はその十字架の死によって、赦してくださりました。つまずくわたしたちに、死を超えた復活があることを、その身で表してくださり、それを信じるに至らせてくださりました。死に勝利される、わたしたちの罪にも勝利される姿を、復活して知らせてくださったです。わたしたちはつまずきますが、イエス様によって、つまずいていないかのようされているのです。ですから幸いなのです。ヨハネのように貧しく遭って良いのです。何よりも、その中で、必死にイエス様に問うこと、祈ってもらうことを、いま胸に刻みたいと思います。