夕礼拝

人間の罪

「人間の罪」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第3章 1節-13節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙、第5章 12節-21節
・ 讃美歌 ; 220、440

エデンの園
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記からみ言葉に聞いておりまして、本日から第三章に入ります。この第三章は、第二章からの続きです。それは当り前のことのようですが、前にも申しましたように、第二章は第一章の続きではありません。正確には第二章四節後半からですが、第一章とは別の、新しい天地創造物語が始まっているのです。その第二の物語が、三章四章と続いていくのです。
 第二の物語の最初の部分である第二章には、神様が人間アダムを土の塵から造り、命の息を吹き入れて生きた者として下さり、荒れ野のようなこの世界の中にエデンの園を設けて、そこに住まわせて下さったことが語られていました。第二章の一五節から一七節にかけて、エデンの園における人間の生活の様子が語られています。一五節に「人がそこを耕し、守るようにされた」とあるように、アダムはエデンの園でただ遊び暮らしていたわけではありません。神様から使命を与えられ、神様に従い仕えて働いていたのです。しかしそれは、働かないとおまんまにありつけない、生きていけない、ということではありません。一六節にあるように、神様は「園のすべての木から取って食べなさい」と言って下さり、園の豊かな実りによって彼を養って下さっていたのです。彼は自由に園の木の実を食べることができたのです。そしてそういう自由に付随して一七節には、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という一つの禁止が与えられていました。神様に従い仕えつつ、大きな自由と小さな禁止の中で生きる、それがエデンの園における人間の生活だったのです。また、最初の人間アダムは男性でしたが、神様は、「彼に合う助ける者」、即ち向かい合って共に生きる相手として女性を造り、二人が一体となって一つの家庭を築いて生きて行くようにして下さったことも語られていました。このように、第二章には基本的に、人間に対する神様の大いなる祝福、恵みが語られているのです。神様によって造られ生かされ、その祝福を受け、恵みによって守られ支えられつつ神様に仕えて生きている、そういう人間の本来の姿を第二章は語っているのです。
 本日から読んでいく第三章には、その人間が神様に背く罪を犯し、その結果エデンの園から追放されて、荒れ野のようなこの世を生きていかなければならなくなってしまったことが語られています。その罪とは、食べてはいけないと言われていた木の実、いわゆる禁断の木の実を食べてしまった、ことでした。たかが木の実を食べてしまったくらいで、と思うかもしれません。しかしこの物語には深く重い意味が込められています。その意味を読み取っていきたいのです。

蛇の誘惑
 彼らが禁断の木の実を食べてしまったのは、蛇の誘惑によってでした。ここに登場する蛇は、人間を誘惑して神様に背かせ、罪を犯させる力、悪魔とかサタンと呼ばれるものを象徴していると言うことができます。けれども一節には、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」とあります。つまりこの蛇も、主なる神様がお造りになった被造物の一つであることが強調されているのです。このことは、人間の罪とその原因を考えていく上で大事です。聖書には確かに、人間を誘惑し罪を犯させる悪魔、サタンが出てきます。しかしそれは、神様と並び立つような存在ではないのです。悪魔は、人間を支配して無理やりに罪を犯させることはできません。この第三章においても、蛇は人間に禁断の木の実を無理に食べさせたのではありません。蛇はそのきっかけを作ったに過ぎないのであって、アダムたちはあくまでも自分の意志でそれを食べたのです。つまり人間は自分の意志で罪を犯すのであって、それを悪魔のせいにすることはできないのです。一三節で女は「蛇がだましたので、食べてしまいました」と言っていますが、それは恨みや嘆きの言葉ではあっても、だから私は悪くない、とは決して言えないのです。そのことを確認した上で、人間に罪を犯させた蛇の、つまり悪魔の誘惑の言葉の意味を考えていきたいと思います。

神の禁止命令
 「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。これが蛇の最初の語りかけです。これは誘惑の言葉と言うよりも、単なる問いかけです。けれどもその問いかけには深い下心が秘められているのです。先程見ましたように、神様は人間に、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言っておられました。蛇はそのことをちゃんと知っているのです。知った上でわざと「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と、驚いたように、「そんなのひどいじゃないか、君たちがかわいそうだ」と語りかけて来たのです。これによって蛇は、人間の思いを、神様から与えられている大きな自由よりも、小さな禁止の方に向けさせ、その禁止が、とてつもなく大きなものであるように感じさせようとしています。先程申しましたように、神様は人間に、大きな自由と、それに付随する小さな禁止を与えておられるのです。ところが蛇は、神様のもとで生きることは、がんじがらめに縛られて全く自由のない、人間らしくのびのびと生きることができない生活なのではないか、そういう思い、疑問を、人間の心に起こさせようとしているのです。
 このように蛇に問いかけられた女は、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです」と答えました。「そんなことはありません」と蛇の言葉を否定したのです。それは正しい答えです。しかし彼女の心の中には、蛇のあの問いかけによって、既に一つの疑念が生じていることが感じられます。それは次の、「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」という言葉に現れています。「触れてもいけない」などと神様はおっしゃってはいません。「食べてはいけない」と言われただけです。彼女はそこに、言われていない一つの禁止をつけ加えています。それは、彼女の心の中に、神様が私たちに与えている禁止は、自分が思っていたよりもひょっとしたらずっと大きなものなのかもしれない、私たちは神様によって束縛されているのかもしれない、という思いが起ってきたことの現れだと言えると思うのです。

人間を束縛する神?
 蛇はすかさず、次のことを言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。これは先程の、「どの木からも食べてはいけないなんて」という話とは全然別のことです。しかしあの問いかけは、神の禁止命令への疑念を人間の心に植え付けるためだったのです。一旦生じたその疑念は当然、善悪の知識の木の実を食べてはいけないという神の禁止命令へと向けられます。何故神様はあの木の実を食べてはいけないと命じたのだろうか。蛇はその答えを示唆するのです。「あの実を食べると死んでしまうと神は言っているが、それは嘘ですよ。あれを食べると、あなたがたは目が開け、神のように善悪を知るものとなることができるんです。あなたがたをそうならせないために神は、食べてはいけないと言っているんですよ」。これはもう少し説明的に言えば、「神が与えている禁止は、あなたがたを自分と肩を並べるような者にならせないため、つまりいつまでもあなたがたを自分の下に奴隷のように縛りつけ、束縛し、不自由なままでいさせるためなのだ」、ということです。それをさらに言い換えるならば、「神のもとで、神に従って生きていると、あなたがたはいつまでも自由になれない、のびのびと人間らしく生きられない、神とは人間を束縛し、自由を奪う悪意ある支配者なのだ、だから神のもとで生きることなどもうやめたらよい、神から自由になって、自分の意志で生きていったらよいではないか」、ということです。そういう意味で、蛇の二つの語りかけは首尾一貫、一つのことを言っています。神のもとで生きることは不自由であり、束縛である、神から独立するところにこそ人間の自由がある、ということです。

罪の本質
 人間はこのようにして禁断の木の実を食べたのです。それは、おなかがすいたから食べたのでも、おいしそうだから食べてしまったのでもありません。そもそも、「木の実」とか「食べる」ということはお話を構成するための素材に過ぎません。ここに語られている根本的な問題は、神の禁止命令は人間を束縛し、不自由にする悪意あるものなのではないか、ということです。だから、「もう神のもとで生きるのではなく、自由になって、自分の思いに従って生きよう」と思ったのです。それが、禁断の木の実を食べたことの意味であり、そこに、人間の神様に対する背きの罪の本質があるのです。罪とは、あれこれの悪いことをすることではありません。それも勿論罪ですが、罪の本質は、神様のもとで生きることをやめることです。神様に従うのではなく、自分が主人になり、神様に成り代わろうとすることです。最初の人間男女が犯した罪とはそういうものだったのです。

原罪
 この創世記第三章の話は、人間の原罪を語っていると言われます。最初の人間アダムとその妻が犯したこの罪が、原罪となって、その後の人間全てに、つまり私たちにも受け継がれている、という教えです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第五章一二節以下などはそういうことを語っています。一二節に、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」とあります。一七節にも「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになった」とあります。一九節にも「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」とあります。アダムの犯した罪によって、全ての人類が罪に墜ちたと言っているのです。このことはなかなか納得し難い、心に落ちにくい教えです。またこの教えは下手をすると、罪は遺伝するのか、それなら人間のDNAの中に「罪の遺伝子」でもあるのか、などというおかしな、不毛な話になってしまいがちです。しかしアダムの罪の本質を捕えていくならば、アダムとその妻が直面した問いは、私たち一人一人が、日々問われ、決断を迫られている問題であることに気づくでしょう。神様のもとで、神様に従って生きる、つまり信仰者として生きることは、不自由な、束縛された人生を送ることではないか、神様など無視して、自分が主人になって、自分の思いによって生きて行った方が自由な、人間らしい生き方ができるのではないか、信仰者として生きる決断を前に迷っている人にとってはそれが最も根本的な問題でしょう。その問いは洗礼を受けて信仰者になればなくなるのかというとそうではありません。既に信仰者として生きている人も、そういう問いを受けない日はないのです。そして、アダムとその妻がそうであったように、私たちの心はこの問いによって動揺し、やっぱりそうかもしれない、神様から自由になった方が人間らしく生き生きと生きられるのかもしれない、という思いに捕えられていくのです。そういう傾向を私たちは誰もが生まれながらに持っています。「原罪」とはそういうものなのです。

隠し立て
 果たして蛇の言っていることは正しいのでしょうか。神様は私たちを束縛し、奴隷のような状態に閉じ込めておこうとしているのでしょうか。神様のもとを離れることによってこそ人間は自由になれるのでしょうか。禁断の木の実を食べた人間たちがどうなったかを読みつつこのことを考えていきたいと思います。七節に、木の実を食べた二人に起った変化が語られています。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。蛇は、あの実を食べると目が開けると言いました。確かに目が開けたのです。見えてきたものがあったのです。それは何だったか。「自分たちが裸であることを知り」。「我々は裸だ」ということが見えてきたのです。そして彼らはいちじくの葉で腰巻きを作ったのです。このことは、二章の最後の二五節とつながっています。そこには、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありました。神様に造られたままの人間は裸だったのです。しかしそのことは何も問題ではありませんでした。しかし今、神様に従うことをやめ、神様から自由になって生きようとし始めたとたんに、自分たちが裸であることが意識されてきて、少なくともこの部分は隠さなければ、という思いが起ってきたのです。このことは、人間が神様から自由になることによって起こることを象徴的に描いています。それまで裸だったというのは、神様に対しても、また人間どうしの間でも、すべて開けっぴろげだった、何も隠すことはなかった、ということでしょう。一点の曇りもない交わりがそこにはあったのです。しかし今、腰巻きを造らなければならなくなった。それは、「隠す」ということが始まったということです。お互いの関係に、隠し立てが始まったのです。それは、交わりに亀裂が入ったということです。神様に背き、従うことをやめ、自分が主人になって自由に生きようとし始めたとたんに、他者との関係に亀裂が入り始めたのです。

関係の亀裂
 この亀裂は、まず第一には、人間と神様との間に生じています。もう神様に従い、その下で生きるのはやめた、というのですから、それは亀裂と言うよりも、もう神様との関係が破れてしまった、人間が神様との関係を断ち切ってしまった、ということです。八節に、人間たちが主なる神の顔を避けて園の木の間に隠れたとありますが、それまでは神様に対して全てオープン、開けっぴろげだった人間が、神様の顔を避け、身を隠すようになったのです。それは神様に背いた当然の結果だと言えるでしょう。しかし亀裂が生じたのは神様との関係だけではありませんでした。彼らが腰巻きを造ったのは、神様に対して隠すためだけではありません。これはむしろ人間どうしの間でのことです。人間と人間との関係においても、隠し立てが始まり、関係に亀裂が生じているのです。しかもこの人間どうしとは、夫と妻、夫婦です。エデンの園に住んでいるのは彼ら二人だけなのですから、これは他の人に見られて恥ずかしい、ということではありません。夫婦の間で、それまで全て開けっぴろげだった交わりに亀裂が入り、隠すことが始まったのです。それがいちじくの葉による腰巻きの意味です。

罪の結果
 この亀裂は瞬く間に広がっていきます。彼らが禁断の木の実を食べたことを知った神様は、11節以下で、「なぜ私の命令に背いたのか」とお責めになるのです。その詰問に対してアダムはこう答えます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。これはどういう意味でしょうか。彼は何を言っているのでしょうか。ここには、「私はもうあなたのもとで生きるのはやめたんです。自由に生きることにしたんです。ほっといて下さい」というような気概は感じられません。そういう決定的な一歩を踏み出したはずなのに、実はそんな力は人間にはないのです。彼の体も、命の息も、そして今住んでいるエデンの園も、全ては神様が造り与えて下さったものです。彼が自分で作り出したもの、用意したものなど一つもありません。だから神様から自由になって生きるなどというのは実は言葉の矛盾なのであって、神様から離れて彼は生きることなどできないのです。そのことに気づかされた彼が苦し紛れに言っているのは、「あの女が取って与えたので食べました」ということです。私はもらったから食べただけです。私のせいじゃありません。悪いのはあの女です…と彼は言っているのです。自分のしたこと、罪を人のせいにする、そういう最も情けないことを彼はしているのです。しかも、「あの女」とは、彼の妻です。二章において神様が彼女を造り、連れて来て下さったとき、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と感動の叫びをあげた相手です。彼女と一体となり、互いに向かい合って助け合いながら共に生きる夫婦の交わりに入ったばかりの相手です。その相手を「あの女」と呼び、自分の罪の責任をなすりつけようとする。それはもう、彼と彼女、夫と妻の関係に入った亀裂がどうしようもない所まで進んでしまった、ということです。もはや向かい合って共に生きる者ではなくなってしまったのです。そしてそのように責任をなすりつけられた女性は今度は、「蛇がだましたので、食べてしまいました」と、蛇のせいにしています。これが、神様のもとで生きるのをやめ、自由になって、自分が主人になって生きようとした人間の姿です。自分のしたことの責任を自分で負うことをせずに、ひたすら他の人のせいにしていく、それは全然自由な生き方ではない、むしろ奴隷根性と言うべきものです。神様の束縛を断ち切って自由になるのだという傲慢、高ぶりの中で、人間はむしろこのような情けないていたらくになっていくのではないでしょうか。そしてそこでは人間どうしの関係も破れ、損なわれていきます。向かい合って共に生きることが、夫婦の間ですらできなくなるのです。まして様々な違いを持った世界の人々が、互いに尊重し合い、平和に生きることなどできないのは当然です。神様のもとにあることを束縛と思い、そこから自由になろうとすることによって、人間は生き生きと生きるようになるどころか、むしろ互いに傷つけ合い、罪をなすりつけ合い、争いに生きるようになるのです。それこそ、今私たちの世界で起っていることなのではないでしょうか。
 アダムの罪によって人間はエデンの園から追放されて、荒れ野のようなこの世を生きなければならなくなりました。その荒れ野をますます生きにくいものとしているのは、私たち一人一人が持っている罪です。神様のもとで、神様に従って生きるのではなく、自分が主人になり、神に成り代ろうとする私たちの傲慢によって、この世界はますます生きにくい、荒涼たる荒れ野となり、その闇がますます深まっているのです。

キリストによる救い
 そのような私たちの救いが、神様の独り子、イエス・キリストによって与えられている、とローマの信徒への手紙の第五章は語っています。アダムの罪によって全ての人が罪に墜ちた、ということと対になって語られているのは、キリストによって全ての人に救いが与えられている、ということです。アダムの罪の本質は人間が神になろうとする傲慢でした。その罪を取り除き、神様の祝福のもとで生きる本来の人間のあり方を回復して下さるために、神様の独り子主イエス・キリストが人間となり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。人間の傲慢の罪は、神の独り子の徹底的な謙遜、自らを低くして、私たちのために十字架の死刑を引き受けて下さった恵みによって赦され、取り除かれているのです。そしてその恵みの賜物は、罪とは比較にならないほど大きいのです。アダムの罪が私たち全ての者に共通する原罪であるとすれば、主イエス・キリストの十字架と復活は、私たち全ての者の罪を赦し、神様の恵みのみ心によって創造され、生かされ、養われている本来の人間を回復させる救いの恵みの源なのです。主イエスの十字架と復活による罪の赦しの恵みにあずかることによって私たちは、神様のみ心が私たちに対する愛のみ心なのであって、神様のもとで、神様に従い仕えつつ生きることが、決して不自由な束縛された歩みではなく、むしろそこにこそ本当に自由な、生き生きとした人生があることを知ることができるのです。

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