「真の命を頂く者」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書第55章1-5節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第10章34-39節
・ 讃美歌:214、453
わたしたちはイエス様を本当に信頼しているでしょうか。今イエス様はわたしたちに、「あなたがたがこの世を生きている時、あるいは死ぬ時に際しても、なおわたしを信頼するのか。それとも家族を信頼するのか、自分の力や人間の力を信頼するのか。自分の財産を信頼して生き、死ぬのか」と問うておられます。
この問いはわたしたちにとって非常に苦しい、辛く厳しい問いです。この問は、本日の、37節の御言葉「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」を黙想している時に、主がわたしにも与えてくださった問いかけです。37節で言われている「愛する」ということとは、「信頼する」と言い換えてもいいと思います。愛と信頼は、深い関係にあります。ですから、ここでわたしは、この言葉を黙想している時に、イエス様から、わたしよりも父母を信頼するのか、そして、息子や娘を頼みとして生きるのかと問われているように思ったのです。
わたしはどこか、妻や息子を心の支えにしているところもありました。なによりも二人を愛しています。そのようなわたしに、イエス様はわたしよりも家族を愛するのかと言われています。あなたは、わたしよりも、あなたの父や母を愛しているのか、妻を愛しているのか、自分の息子を愛しているのか。今日の説教を準備するに当たって、私の一週間の生活は、幾度も、この問いの前に立たされて、心が苦しくなりました。わたしには今家庭があり、妻が隣にいてくれ、息子がその間にいてくれます。彼らと共にいきており、彼らを愛しています。そして彼らもわたしを愛してくれています。このような関係にあることは目に見えてもいましたし、感じていました。しかし、この御言葉と向き合うにあたって、あることを自分は忘れていることに気付かされました。それは自分のこの愛する家庭の輪の中にイエス様が常におられるということを忘れていたことです。わたしが妻や息子を愛する時も、愛されている時も、イエス様は共にいてくださっていた。それなのに無視していた。また喧嘩する時も、喧嘩して家庭の中で独りになる時も、イエス様が常に共にいてくださっていた。それなのにわたしは、そのイエス様を無視していた。そのことに、このイエス様の37節の問いかけによって気付かされたのです。
イエス様に従いたい、共に歩みたいと思って信仰者として歩みだしたのに、イエス様を愛するどころか無視していた。無視しているからイエス様がわたしを愛してくださっているということすら、完全にわからなくなっていました。そのようなものは「わたしにふさわしくない」とイエス様は37節で言われています。確かに、自分の主人を無視して、他のことばかりを気にして、そのことばかりに目も心も奪われている僕は、僕失格です。わたしは、まさにそれでした。主人に目を向けていないから、主人のわたしに対する愛がわからなくなっていました。そしてそれだけでなく、そのような身勝手なわたしに対して、イエス様が忍耐されていたことも、わからなくなっていた。伝道師室でも、家庭の中でも、イエス様がそこにいてくださっているのに、いないものにしていた、そして、イエス様を全然愛していなかった。生きておられるイエス様に関心すら持っていなかった。それをこの問いかけによって、気付かされ、心が痛くなりました。そして、それを頭で理解しても、何度も、イエス様をいないものにしてしまう自分がいて、再度心痛める。嫌になる。
このイエス様の言葉は、わたしたちの生活に切り込んでくる剣であります。信仰者のだれもがこの痛みを覚えるのではないかと思います。この剣に切られる痛さは、わたしたちが避けてはならないものです。しかし、この痛みは、無駄な痛みではありません。この痛みは、わたしたちに主へと立ち帰りを促させるものです。今日のイエス様のみ言葉は、わたしたちに痛みを及ぼすものでもありますが、わたしたちを再び慰め、励ます、希望の言葉でも有ります。ですから、この主のみ言葉にもう少し深く入り込んでいきたいと思います。
34節「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」これも、大変厳しい言葉です。わたしたちは、「イエス様は、地上に平和をもたらすために来られたのではなかったのでしょうか。クリスマスの時に、天使たちが『神に栄光、地には平和』と歌っていたではないですか、旧約では『平和の王』が来られると預言されていたではないですか。」と、イエス様がわたしたちの間で、平和を実現してくださる方だと信じています。イエス様が来てくださって、家庭に平和が来ると信じている。しかし、剣がもたらされるとイエス様はおっしゃっています。平和じゃなくて剣がもたらされるということは、地上も、家庭も、イエス様によって争いごとになってめちゃめちゃになるということだろうかと、わたしはここを読む時にそう思いました。イエス様がこの剣をもたらすというのは、イエス様がこの剣をもって、だれかを攻撃するということではないでしょう。イエス様は、御自身は生涯で剣を振るわれたことはありませんでした。イエス様が剣をもたらしたのは、だれかを殺すためにではなく、逆に、イエス様は、そのもたらされた剣によって、御自身が切られ、殺されるためにもたらされたのです。なぜその剣をイエス様は、受けなければならなかったのか。それは、わたしたちのせいです。わたしたちが、イエス様を愛するよりも、自分を愛し、自分の命を愛し、家族を愛し、家族の命を愛し、イエス様を無視し、愛さないで、生きていたからです。当時イエス様を十字架にかけた人々もそうだったのです。このみ言葉を聞いていた、弟子たちもイエス様が十字架に掛けられる時に、自分の命を守るために、イエス様の命を無視し、逃げました。この言葉を直接聞かされた弟子たち、十二使徒の誰もが、イエス様のこの命令に従うことはできなかったのです。イエス様は「わたしよりも家族を愛する者は、わたしにふさわしくない」「わたしに従わないものはわたしにふさわしくない」とおっしゃったとき、イエス様はあることをご存知だったのです。イエス様は後にご自分が、本当貧しくなり本当に惨めになって十字架につけられ、激しく罵倒され、侮辱され、汚されて、死んでいくことをご存知でした。そして「そのようなわたしに、『ふさわしい』と言われたい人など誰もいない、従おうなどという者もだれもいない、こんなわたしに値する人などだれもいない。」とイエス様はお思いになっていたのです。実際に、十字架にかけられた時、だれもイエス様にふさわしくあろうとする者などいませんでした。それほどまでに貧しくなられたのです。価値のないものになられたのです。みんなイエス様にふさわしいものになんてなりたくないと思うほどに、貧しくなられたんです。それはわたしのためでした。わたしを救うためです。自分や自分の家族しか愛せないわたしたちのために、イエス様がここまで貧しくなられ、剣を受けられ、殺されたのです。
このようなイエス様が、わたしたちに問うておられるこの問いかけは、わたしたちを滅びに突き落とすための問では決してありません。39節「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」とイエス様は言われます。自分の命を得ようとすると、それを失う。しかしイエス様のために命を失う者は、命を得る。ここには、イエス様にこそまことの命があるということが言われています。確かに、自分の命、自分の家族の命ばかりを見ている時、わたしたちは、イエス様を見なくなる。まことの命をわたしたちにもたらす、イエス様を愛さなければ、わたしたちがそれを得るということは、絶対にあり得ません。しかし、ここでは、イエス様を愛するということが、具体的に、イエス様のために命を失うことと言われています。イエス様に自分の命をも献げる。それは厳しいとわたしたちは素直に思います。この命を献げることをイエス様はされていました。イエス様がわたしたちのために命を捨てられた、これこそ、愛の最大の形です。わたしたちを愛するために、イエス様は命を捨てられました。しかし、イエス様のために、自分は自分の命を失うことができる、誰が自信をもって言えるのでしょうか。イエス様の最も近くにいた、あの弟子たちでさえも、自分の命を得ようと、イエス様を見捨てていたのです。どの弟子が、イエス様と共に十字架を背負って、イエス様に従ったのか。どの弟子も十字架を背負うこともなく、従うこともなく、逃げたのです。
しかし、彼らは、後にイエス様のために命を失う者になりました。十字架を前にして逃げるものでなく、十字架を負って生きる者になりました。弟子たちは、何故か変わったのです。何故か彼らが変わったのか。弟子たちが変わったのは、復活されたイエス様に出会ったからです。彼らは、復活の体と、復活の命であるイエス様と出会ったときから、十字架を負って、イエス様に従うものとなったのです。死に勝利して復活されたイエス様が出会った時、死の力を打ち破るまことの命を与えて下さる父なる神様の恵みの力強さを彼らは目の当たりにしたのです。その死への勝利という恵みは、イエス様のもとにあったのです。それがまことの命です。しかしこのまことの命は、私たちが、自分の命を求めている間は見えてこないのです。
自分で自分を救えるのだということを捨て、自分を信頼することを止め、イエス様の死への勝利と復活の命を信じる、それを差し出されているイエス様を本当に信頼する。そのために、わたしのために命を失ってくださったイエス様を信頼する。自分も復活の命に与ることができるのだと本当に信頼する。そうした時に、わたしたちはイエス様の命を頂くのです。そして、それが、何にも勝って、イエス様を愛することなのです。そのイエス様を信頼し、見つめながら、着いていく歩みこそが、わたしたちの歩みなのです。
私は、説教の最初でなされた、イエス様からの問いかけ、「あなたがたがこの世を生きている時、あるいは死ぬ時に際しても、なおわたしを信頼するのか、それとも家庭を信頼するのか、自分の力や人間の力を信頼するのか、自分の財産を信頼して生き、死ぬのか」という問いかけは、黙想している中で、イエス様が再度わたしに呼びかけてくださっている招きの言葉だとも、気付かされました。わたしは、家族のこと、教会の兄弟姉妹のこと、愛し、気にかけ、思い悩み、そのことで頭がいっぱいになっていました。しかし、イエス様は、そのわたしに向かって「あなたの目は、今愛するばかりに家族や兄弟姉妹に向かっている。違うであろう、まずわたしを見なさい。わたしがあなたを愛している。そして、赦している、愛している、忍耐している、そしてわたしは、あなたが変わっていくことを信じ、期待している。そのためにわたしは十字架に掛かって死んだのだ。そのことに目を向けなさい。そしてわたしを信頼しなさい」と言われていたのだとわかったのです。
この時、わたしは、弟子たちと同じように、復活された主と出会いました。わたしのために死なれたイエス様は、ご自分を無視し、捨てるわたしには、何も要求されずに、無条件で愛してくださり、赦してくださいました。その弟子にもわたしにも向けられた愛は、すべての人間にも向けられています。ここにいる集うだれも例外なくです。しかし、この復活された主に出会った弟子たちやわたしたちに、イエス様はあることを求められています。イエス様は、ご自分と同じ十字架につくことをわたしたちに求めておられます。わたしたちを愛して、わたしたちのために担ってくださったその十字架の苦しみに生きるその生き方、その愛の生き方をするようにわたしたちにイエス様は求められています。
イエス様が、わたしたちに向けてくださった愛に生きる。それが、復活の主に出会ったわたしたちの歩むべき愛の道です。それは、まことのいのちを得るための道なのです。そこにわたしたちは立たされたのです。イエス様は、今わたしたちの前に立たれ「この私の愛を知ったあなたは、わたしと一緒に十字架の苦しみ、悲しみ、痛みを味わって欲しい」と言われています。そして続けてイエス様は「なぜならば、あなたを憎んでさえいるかもしれない、あなたの隣人を、あなたを苦しめる、あなたの隣人を、あなたを傷つけるあなたの愛する家族を、あなたと敵対しているすべてのあなたの隣人を、導けないのだ。わたしは、その人たちにも愛を知ってほしい。そして愛の道を共に歩んで欲しいと願っているのだ。だから、あなたは私と同じ愛に生き、苦しみと忍耐を通して、その人たちにその愛を示して欲しいのだ」と、涙目で、わたしたちにこう言われているのです。なぜ涙目か、それは自分のために、わたしたちが苦しむのを見られ心を痛めるから、内臓がよじれるほど哀れに思い、共に苦しんでくださっているからです。
わたしたちはいくら頑張っても、父や母、息子や娘に永遠の命を与えることができません。愛する父や母、夫や妻、息子や娘の命を奪われていく、その時に私たちは、どうすることもできません。どんなに代価を払っても、彼らの命を取り戻すことはできません。しかし、わたしたちを通して、示されるイエス様の愛に彼らが生きる時、彼らは、真の命を得るのです。わたしたちが、イエス様の愛に生きなければ、わたしたちどんなに努力しても、愛しても、その人たちは、愛を知ることができないのです。イエス様のもとには、死に勝利する命があります。愛があります。肉体の死を越えてなお人を生かし、永遠の命を与えて下さる恵みがあります。それは、わたしたちが主を信頼し、愛し、その愛を持って共に生きる時に、忍耐と苦しみを通して、隣人に与えられていくのです。それがわたしたちの背負う十字架です。それが真の命への歩みです。
わたしたちは、今もう一度主の語りかけを聴きたいと思います。「あなたの目は、今愛するばかりに家族や兄弟姉妹に向かっている。違うであろう、まずわたしを見なさい。わたしがあなたを愛している。そして、赦している、愛している、忍耐している、そしてあなたが変わっていくことを信じ、期待している。そのためにわたしは十字架に掛かって死んだのだ。そのことに目を向けなさい。そしてわたしを信頼しなさい」