夕礼拝

あなたを祝福するため

「あなたを祝福するため」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:創世記第12章1-3節
・ 新約聖書:使徒言行録第3章11-26節
・ 讃美歌:352、90

 何年もずっと、毎日毎日、神殿の門のところで物乞いをしていた、四十歳の生まれながら足の不自由だった男がいました。四十年間一度も自分の足で歩いたことがないのです。   
 その男が、ある日突然、神殿の境内の中で、立って、歩き回って、踊って、神様を賛美していたら、誰だって驚くし、一体何が起こったのだろうと、知りたくなるに違いありません。  
 このような出来事が起こったことが、3:1~10で語られていました。ペトロが「ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」と男に命じ手を取ると、男は立ち上がり、歩き出し、踊って神殿の境内に入り、神を賛美したのです。  

 神殿には、熱心なユダヤ人たちが、祈るために大勢集まっていました。男が立つ瞬間を直接見ていた人もいたでしょうし、この驚くべき出来事の噂はたちまち広がっていったでしょう。  
 その当事者である癒された男は、ペトロと、一緒にいたヨハネのそばを離れようとしませんでした。   
 人々はそれを見て、「これはどうも、男がくっついて離れない、あのペトロとヨハネという人が起こした奇跡のようだ。」と思ったり、「あの人たちはすごい癒しの力を持った人だ。きっと、とても信仰深い人なのだ。」と考えたかも知れません。      

 そうして一斉に集まって来たユダヤ人たちにペトロが語ったのが、本日の聖書箇所です。ペトロは、この足の不自由だった男の癒しが、人々の思っていることとは違う、ということを説明します。
12節 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」   
そして、
16節 「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、そ の名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前で、この人を完全にいやしたのです。」   
 この出来事はペトロたち自身の力や、信心ではなくて、「イエスの名」つまり、主イエス・キリストご自身が行って下さった出来事である、と言ったのです。   
 また、「完全にいやした」と言っているように、これはただ単に男の不自由な足が治った、という奇跡ではありませんでした。神殿の境内に入ることも出来なかった男が、神を賛美する者となった、神を礼拝し、神と共に生きる者とされたという、神の前に立つ人間としての、命の救いの出来事でした。      

 そして、ペトロは、この男を完全に癒した「イエス」という方がどなたであるかを、人々に説教します。この箇所の説教は、2:14以下の、同じくペトロによる聖霊が降った後の説教と似ている部分が多くあります。どちらも、イエスは救い主である、ということを証言しています。   
 「聖霊が降ると、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスご自身の約束によって、聖霊に満たされたペトロは、主イエスがどなたであるかを語り、悔い改めることを呼びかけ続けます。      

 ペトロは、今日の聖書箇所の一番最後にあるように、このイエスという方は、神が「あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるため」に遣わされた方だと言いました。   
 神が、あなたがた一人一人を祝福するため。ペトロは集まったイスラエルの民であるユダヤ人たちに、そのように呼びかけます。   
 そしてそれは、今日ここに集まっているわたしたちに語りかけられている言葉です。神がイエス・キリストを遣わして下さったのは、あなたを祝福するためだ、と言うのです。人ごとではありません。わたしたち一人一人を、このわたしを祝福にあずからせるために、神がご自分の御子、イエス・キリストを遣わして下さったのです。そのことを、パウロの説教から、共に聞いていきたいと思います。      

 ところでまずは、この現代の日本にいるわたしたちのことではなくて、当時このペトロの説教を聞いている人々が、どのような人々であったのかを知る必要があります。      

 ペトロも、ここに集まっている人々も、ユダヤ人であり、イスラエルの民です。今日お読みした創世記で、神ご自身がアブラハムに対して、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」と約束して下さいました。このアブラハムから出た国民が、神に選ばれた民、イスラエルです。   

 イスラエルの民は、神に選ばれた民として神に導かれ、守られて、神が共に歩んで下さっていたのですが、民はその神の恵みを忘れ、背き続け、とうとう国を失ってしまいました。   
 しかし神は、預言者を通して、救い主を与えるということを約束して下さっていたので、イスラエルの人々は、自分たちを救い出し、また国を立て直してくれる、この約束の救い主が、イスラエルの中から現れるのをずっと待ち望んでいたのです。      

 そこでペトロは13節でこの民に、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。」と語りました。   
 アブラハム、イサク、ヤコブの、わたしたちの先祖の神、つまりそれは、ここに集まっている、あなたたちの神が、イエスという方を、あなたたちが待ち望んでいる救い主としたのだ、ということです。      

 「僕イエス」という言い方は、旧約聖書のイザヤ書に「苦難の僕」と言われる預言があります。それは、主の僕が多くの人々の罪を負い、そのことによって人々は正しい者とされる、という預言が示されています。   
 そこには「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」と書かれています。   
 神の御子イエスは、人となって貧しい僕の姿で世にこられ、苦難を受け、十字架に架けられ死んだ後、父なる神に復活させられ、天に上げられました。そして神の栄光をお受けになりました。この方こそ、真の救い主、メシアなのです。ペトロは、この出来事を見てきました。   
 15節では「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させて下さいました。わたしたちは、このことの証人です。」と、ペトロはイエス・キリストの復活を力強く証言するのです。      

 イスラエルの人々はこのことを聞いて、あぁ、あのナザレの人イエスがわたしたちの救い主だったのか!救い主が来られて良かった!と、単純に喜ぶわけにはいきませんでした。   
 なぜなら、13節以下でペトロが、「ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」と言っているように、その救い主を十字架につけて殺したのは、あなたがただったのだ、とその罪を指摘したからです。   
 救い主を最も待ち望み、一番に救い主を喜んで受け入れるはずの、イスラエルの民である彼らが、罪を贖い、永遠の命を与えるために来られた命への導き手を、真っ先に拒み、聖なる正しい方を、人殺し以下のように扱い、十字架で殺してしまったのです。      

 彼らは自分たちの国を立て直す王様を期待していました。しかし、主イエスはそのようなお姿ではありませんでした。大臣を侍らせ、強大な軍隊を引き連れる荘厳華麗な姿ではなく、最も貧しい者、弱い物、小さい者の所に来られ、病の人を癒し、孤独な者を招いて共に食事をして下さる、そのようなお方だったのです。まさに、すべての者に仕える「僕」として来られた方でした。   
 イスラエルの人々は、そのような救い主を受け入れることが出来なかったのです。神の御心が分からず、その恵みを拒み、逆らい続けたのです。      

 しかし、ペトロはこのように言います。17節以下   
 「ところで兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」      

 父なる神は、ご自分が遣わした御子を殺す、そのようなとんでもない反逆の罪を犯す民を、それでもなお、悔い改めて、わたしの許に立ち帰りなさい、戻って来なさいと、救いへ招いて下さるのです。   
 神が、自分たちのために遣わして下さった御子を十字架につける、という行為は、人の神に対する罪の究極的な形と言えます。しかし同時にその主イエスの十字架の苦難によって、預言者を通して語られてきたことが成就したのであり、それはすべての人の罪を赦し、正しい者として下さる、神の救いの御業が成し遂げられたということだったのです。      

 また、この悔い改めへの招きには、主イエスご自身の執り成しの祈りがあります。   
ルカによる福音書に、十字架上で主イエスはこのように祈られた、とあります。    
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」   
ご自身を拒み十字架につけた人々の赦しを、主イエスは、まさにすべての人々の罪を贖うためのその十字架の上で、父なる神に執り成し、祈って下さったのです。   
民は今からでも悔い改めて、神に立ち帰ることができるのです。      

 この主イエスが救い主であるということを、ペトロはさらに証明しています。   
 22節では、モーセの言葉が語られています。「あなたがたの神である主は、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。」   
 モーセが「わたしのような預言者」と言っているのは、主イエス・キリストのことです。同胞の中、つまりイスラエルの民の中から、あなたがたのために預言者が立てられる。それは主イエス・キリストであり、その方に何でも聞き従え、とモーセは預言し、語っているのです。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる、つまり、この方に従うか否かは、命に関わることだと言うのです。      

 また24節では、預言者は皆、「今の時」について告げていますと言っています。今の時とは、主イエス・キリストが十字架で死なれ、父なる神に復活させられ、天に上げられ、使徒たちに聖霊が送られた、今の時です。このことが、モーセを始め、預言者によって語られていた。すべての預言において、神のご計画が実現しているのです。      

 そして、25節で「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と神はアブラハムに言われました」、と言っています。   
 神がアブラハムに言われた「あなたから生まれる者」というのは、主イエス・キリストのことです。アブラハムの子孫として生まれる方によって、地上のすべての民族が祝福を受ける、という神のご契約です。   
 その契約の実現のために、神はまずアブラハムの子孫であるイスラエルの民に、救い主を遣わされました。   
 26節では、「それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わして下さったのです」と言っています。ペトロの説教を聞いている人々は、預言者の子孫であり、アブラハムの祝福の契約を受け継ぐ者、契約の子です。救い主である主イエスを、祝福を、受け入れるべき者たちなのです。   
 そのようにして、救い主はまず、神が選ばれたイスラエルの民に現されました。そしてそれは、地上のすべての民族を祝福するためなのです。   
 神は、すべての人、地上のすべての民族を祝福し、救うご計画を、選ばれたイスラエルの民を用いて実現していかれるのです。       

 ですから、神は、イスラエルの民と、そしてすべての民族のために結ばれた祝福の契約を守って下さり、どんなに人々が罪を犯しても、神を離れても、見捨てず、愛し、憐れみ、神に立ち帰って祝福を受けるようにと、いつも招き続けて下さるのです。      

 救い主、イエス・キリストは、アブラハムの子孫としてイスラエルの民のもとに来られましたが、イスラエルの民だけでなく、地上のすべての民族を祝福するため、世のすべての者を救うために来られました。   
 イスラエルの人々が望んでいたような、地上の一つの小さな国を立て直す王様ではありません。この方は、神の国を建てる方、天も地も、すべてを支配される方です。そして十字架と復活によって、ご自分に従うすべての者の罪を赦し、すべての者に復活と永遠の命を約束して下さる方です。   
 神がアブラハムに約束して下さったこの主イエスによる祝福は、イスラエルの民に与えられ、またこの異国の地におり、全く違う時代に生きるわたしたちにまで及ぶ、祝福なのです。      

 ここで、イスラエルの民に向かって語られて来たペトロの言葉は、わたしたちも聞くべきものとなります。預言された救い主が来られたのは、今ここにいるわたしたちのためでもあるからです。   
 神がアブラハムに契約して下さった祝福は、地上のすべての民族に及ぶのであり、わたしたちもその祝福を受け継ぐ者、契約の子となることが出来るのです。   
 わたしたちは神に選ばれた、新しいイスラエルの民となることがゆるされています。   この神の救いの歴史の中を、わたしたちも生きているのです。      

 そしてわたしたちも、イスラエルの民と同様に、いや、それ以上に無知でした。神の恵みを知らなかったのです。自分の造り主である神を忘れ、偶像を拝み、隣人を傷つけ、罪を犯し続けていたのです。しかし、神の御子、主イエス・キリストは、わたしたちに神の御心を教えて下さいました。「悔い改めて、立ち帰りなさい」と、わたしたちが神の許に帰り、神と共に生きる者となることを、望んで下さいました。   
 神から離れ、罪と死に捕らわれ、悪の力に惑わされるわたしたちを、主イエス・キリストは十字架の死によって、罪を赦し、神に向かって新しく生きる者に変えて下さいます。   
 今、わたしたちには主イエス・キリストの福音が伝えられており、その救いの恵みが、祝福が差し出されています。   
 十字架で流された主イエスの血は、裂かれた肉は、わたしたちが自分の命でも贖えない、神に対する罪のためです。そして、罪のゆえにわたしたちを決定的に捕らえていた死を、人となられた主イエスはご自身の身に受け、墓に葬られ、陰府にまで降られたのです。そして父なる神は、この方を死人の中から復活させて下さいました。それは、わたしたちを、その主イエスの復活にあずからせるためです。   
 わたしたちは、主イエスの御業が、わたしの罪のためであったと知り、真の神に立ち帰り、主イエスこそわたしの命を贖って下さった救い主だと信じ、告白することで、この救いの恵みにあずかることが赦されているのです。   
 主イエスによって、わたしたちをも神の子とし、神の祝福を受け継ぐ者として下さるのです。      

 そして、神の子とされたわたしたちには、更にここでペトロが語っている約束が与えられています。   
 それは、20-21節   
 「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられたメシアであるイエスを遣わして下さるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで必ず天にとどまることになっています。」   
 主イエスは今、天におられます。1章では、主イエスが天にあげられた出来事が書かれていました。それも、預言者が昔から語ってきたことでした。ここでも、神が必ず預言を成就して下さることが明らかにされています。   
 そして、主イエスが天におられるのは、「万物が新しくなるその時まで」です。それは終末の時です。その時、わたしたちには慰めの時が訪れると言います。主イエスが再び来られる時です。わたしたちも、万物も、すべてが新しくされる。神のご支配が完成し、神が人と共にいて下さる。終末はもはや審きの時ではなく、主イエスによって慰めの時となります。その日を待つ希望を、わたしたちは与えられているのです。      

 天におられる主イエスは、ご自身を信じる者に聖霊を送って下さり、再び来られるその時まで、聖霊によって共にいて下さり、信仰を守り、またすべての者をこの祝福に預からせるため、主イエスを証言する者として遣わされます。   
 今や、主イエスの救いにあずかり、祝福に入れられた、新しいイスラエルの民、つまり教会は、「地上のすべての民族が祝福を受ける」という約束が実現するために、主イエスの福音を告げ知らせていきます。   
 そのようにして、主イエスの福音は、神の祝福は、わたしたちにも伝えられました。   
 神は御自分の僕、神の御子主イエスを、あなたがたのもとに遣わして下さった。   
 それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるため。   
 あなたを、祝福するためなのです。

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