主日礼拝

神との平和

「神との平和」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第85編1-14節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第5章1-11節
・ 讃美歌:231、232、392

クリスマスに平和の祈りを
 先週の日曜日から、アドベント、待降節に入っています。アドベントクランツがこのように礼拝堂に飾られ、受付のところにはクリスマスツリーが、あちこちにリースが下げられています。そして教会の正面にはバナーが掲げられました。そこには「クリスマスに平和の祈りを」と記されています。このバナーは2006年から掲げているもので、来年で10年となります。これを掲げ始めた頃というのは、2001年のアメリカにおける同時多発テロへの報復として始められたイラク戦争において、フセイン政権は倒されたけれどもイラクの治安は一行に回復せず、泥沼化していた時でした。9年後の今、中東における泥沼の戦いはさらに拡大しており、その戦いは世界各地にテロという形で広がって、今年も多くの人々の命が奪われました。国家と国家が宣戦布告をして戦うという以前の戦争とは全く様相の違う戦争があちこちに起こっています。そういう中で日本も、集団的自衛権の行使を認め、それに基づいて安全保障関連の法律も変えられ、いつテロの標的となっても不思議でない状態になってきています。平和を求める私たちの祈りはますます切実なものとなっていると言えるでしょう。そのことを意識して、本日からクリスマスに向けての主の日の礼拝において、「平和」を主題としてみ言葉に聞いていくことにしました。24日の讃美夕礼拝のメッセージの題も「み心にかなう人に平和」としました。今年のクリスマスを、み言葉に聞きつつ平和について考える時として過したいと思っています。

神との平和
 その一回目である本日の礼拝においては、今連続して読み進めているローマの信徒への手紙の続きの箇所を読みます。第5章1~11節です。ここに、「平和」という主題についてみ言葉から聞く上で土台となることが示されているのです。最初の1節に「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。私たちは神との間に平和を得ているのだ、と告げられているのです。この「神との間の平和」こそ、「平和」について聖書が語っていることの中心であり、人間どうしの平和について考える上でも土台となることです。本日はこの「神との平和」について考えたいのです。

信仰によって義とされる
 1節の冒頭には、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」とあります。これは、4章までのところに語られてきたことのまとめです。私たちは信仰によってこそ義とされる、ということをパウロは、この手紙の3章21節以降語ってきました。信仰によって義とされるとはどういうことでしょうか。先週も読みましたが、パウロはそれを4章5節でこのように言い表しています。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」。つまり私たちが良いこと、正しい立派なことをすることによって義とされるのではなくて、何の働きもない、不信心な罪人が、そのような者をも義として下さり、救って下さる恵み深い神を信じることによって、その信仰が義と認められ、救いを与えられる、それが信仰によって義とされることです。このような救いが、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって打ち立てられたのです。4章の最後のところ、24節の二行目からを読みます。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」。これを受けて5章1節は「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」と語っているのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活とによって、信仰によって義とされる道が開かれたのです。

神との間の平和
 この信仰による義によって、私たちは神との間に平和を得ている、とパウロは語っています。平和というと私たちはすぐに、人間どうしの間の平和を考えますが、パウロは私たちの目を、神との間の平和に向けさせるのです。それは人間どうしの平和から目を背けることではありません。むしろ人間どうしの平和が築かれていくための土台が、神との間の平和なのです。パウロはその土台へと私たちの目を向けさせようとしているのです。平和を祈り求める私たちは先ず自分に向かって、果たして自分は神との間に平和を得ているだろうか、と問わなければならないのです。それは、神と争ったり戦ったりしているかどうかということではありません。平和というのは、争いや戦いがないという消極的なことではなくて、良い関係があるということです。良い関係とは、相手のことを信頼することができ、安心していることができる、ということです。そういう良い関係が私たちと神との間にあるだろうか、ということです。しかしそもそも、神との間に良い関係があるとはどういうことなのでしょうか。

キリストのお陰で、神の前に安心して立つことができる
 「神との間に」と訳されていますが、以前の口語訳聖書ではここは「神に対して平和を得ている」となっていました。原文を直訳すると「神に対して」とか「神の前で」となります。つまり神との間の平和というのは、人と人との間の平和のように、お互いが対等な立場に立って喧嘩せず仲良くやっているということではなくて、私たちが神の前に平和に安心して立つことが出来る、ということなのです。そういう神との平和が、主イエス・キリストによって与えられたのです。主イエスの十字架の死と復活によって神が私たちの罪を赦し、義として下さった、そのことを信じる信仰によって私たちは、神の前に平和に安心して立つことができるようになったのです。
 パウロはこのことを2節で「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」たと言い換えています。「このキリストのお陰で」という所は、口語訳ではただ「彼により」と訳されていました。原文も「彼によって」という言葉ですからこの訳で良いわけですが、それを「このキリストのお陰で」と訳したところに、日本語訳聖書の進歩があると言えると思います。「お陰で、お陰様で」というのは日本語における大事な表現であり、日本人の心に深く根付いている感覚です。その言葉が聖書の翻訳に用いられるようになったということは、日本人の心に深く根付いた表現によって聖書の信仰が言い表わされるようになったことを意味しています。私たちは、主イエス・キリストのお陰で、キリストのお陰様で、神との平和を与えられ、神の前に安心して立つことが出来るようになったのです。この「キリストのお陰様」で与えられた救いに感謝して生きることがキリスト教信仰なのです。

神に近づき、み前に立つことができるようになった
 さて「このキリストのお陰で」というのは良い訳だと思いますが、その他の点では2節のこの訳には物足りないものがあります。ここは原文の語順を生かして直訳するとこうなります。「彼によって(これが「このキリストのお陰で」と訳されたわけです)、私たちは近づくことをも得た、信仰によって、私たちが今立っているこの恵みへと」。新共同訳が物足りない第一の点は、これは口語訳も同じだったのですが、「導き入れられ」と訳すことによって原文にある「近づくことを得た」という表現が失われていることです。この「近づく」という言葉は、エフェソの信徒への手紙2章18節にもあります。そこではこう語られています。「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」。「両方の者が」とは「ユダヤ人も異邦人も」ということで、全ての者がということを意味しています。全ての者がキリストによって御父に近づくことができるようになった、と語られているのです。またこの言葉は同じエフェソの信徒への手紙の3章12節にもあって、そこには「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」とあります。「近づく」という言葉はこのように「神に近づく」ことを意味しているわけで、パウロはここでただ「恵みへと導かれた」と言っているのではなくて、キリストお陰で神に近づくことができるようになった、神の前に安心して出ることが出来るようになったということを語っているのです。
 またこの2節の訳のもう一つの問題点は、「私たちが今立っている恵み」と訳されるべきところが「今の恵み」となっていて、「立っている」という原文の言葉が失われていることです。その点口語訳は、「今立っているこの恵み」となっていました。パウロはここで、私たちはキリストのお陰で神に近づくことができた、つまり神の前に安心して出ることができるようになった、そして今その神の前に安心して立つことができている、それが、キリストのお陰で与えられた神との平和だ、と言っているのです。

神との間に平和を得ていない私たち
 この神との平和は、信仰によって義とされたことによって、主イエス・キリストによって与えられたものだ、とパウロは言っています。ということは、主イエス・キリストによる救いにあずかり、信仰によって義とされるまでは、私たちは神との間に平和を得てはいなかった、神に近づくことができなかった、神の前に安心して立つことが出来なかった、ということです。そのことをパウロはこの手紙の1章18節から3章20節にかけて語ってきました。そこには、私たち人間は、ユダヤ人も異邦人も、つまり全ての人が一人残らず、神によって造られ命を与えられた者であるのに、神を神としてあがめず、感謝もせず、不信心と不義とに陥っている罪人となっており、神の怒りの下にあるので、神の前に立つことが出来なくなっている、ということが語られていたのです。私たちは皆、生まれつき罪ある者であり、それゆえに神の前に安心して立つことが出来ない、神との間に平和を得ていない者なのだ、と聖書は語っているのです。
 いや自分は特に神と喧嘩をした覚えはないし、罪ある者だと言われてもよく分からない、と思うかもしれません。しかしたとえ罪ということはよく分からなくても、こういうことは以下のことは誰でも感じ取ることができると思うのです。つまり、もし私たちが、神との間に平和を得ており、神の前に安心して立つことができているなら、私たちは、自分に命を与え、人生を導いて下さっている方が恵み深い神であることを知っており、その神と共に生きており、その神の守りと支えとを日々感じつつ、自分が生きている理由、根拠はこの神の恵みであり、またどんな時にも人生を支えてくれる土台がそこにあることを意識して歩んでいるはずだ、ということです。つまり自分の命と人生に確固たる根拠と土台があることを知っている者として、自分が自分であることを喜んで生きているはずなのです。そしてさらには、自分に命を与え、人生を導いている神が、いつか自分の命を終わらせられる時が来る、しかしそれもまた恵み深い神のみ業であることを信じて、神への信頼の中で自分の死をしっかりと見つめて生きることができているはずなのです。神との間に平和を得ており、神の前に安心して立っているとはそういうことです。しかし私たちはもともとそのようには生きていない。神が恵みによって自分に命を与え、人生を導いて下さっていることが実感できていないので、自分が何故生きているのかが分からない、人生を支える確かな土台が見つからない、だから人との関わりの中で、人が自分のことを認めてくれ必要としてくれることによって人生の意味や支えを得ようとしてあくせくしている。でもそのように人の顔を伺って、人にどう思われているかを気にして生きることにはストレスが溜まるし、人と自分を比べることによる劣等感に苦しむことも起る。つまり自分が自分であることを喜ぶことが出来ずに、そのことを人のせいにして人を恨んだりしている。あるいは社会的な地位や名誉や財産を得ることによって人生の支えを得ることができると思って努力し、たまたま能力と機会に恵まれてそれを得たとしても、それが本当に人生を支えるものとなり、本当に喜んで生きることが出来るかというと、どこか虚しさがつきまとい、何かが違う、求めていたのはこんなことではなかったはずだという思いを拭い切れない。いや中には自分は成功し、様々なものを得たことによって喜んで充実した人生を歩んでいると思っている人がいるかもしれないが、そうであればある程、誰にでも必ずやって来る人生の終り、全てを奪われる死が恐ろしい。自分の死を平安な思いで見つめることが出来ず、それをなるべく見ないように、考えないようにしている、つまり死においても自分を支える確かな土台が見えていない。生まれつきの私たちは皆そのような歩みをしているのではないでしょうか。それは、私たちが神の前に安心して立っていないということであり、神との間に平和を得ていないということなのです。

御子の死によって与えられた和解
 私たちは、神との間の平和を必要としています。神の前に安心して立つことができるようになることが必要なのです。それこそが私たちの救いです。その救いが、主イエス・キリストのお陰で与えられた、と聖書は告げているのです。パウロはそのことをこの箇所の10、11節で、「神と和解させていただいた」と言い表しています。和解とは、敵であったものが仲直りして友となることです。私たちは、造り主である神に背き逆らい、自分が主人となろうとする罪のために神の敵となっています。だから神との間が平和でないし、神の前に安心して立つことが出来ないのです。その私たちに神との和解をもたらすものは何か。10節には「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」とあります。御子イエス・キリストの死こそが、私たちに神との和解をもたらすのです。御子イエス・キリストは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神と私たちの和解をもたらして下さったのです。それがいかに驚くべき出来事だったかをパウロは6~8節においてこのように語っています。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。人が誰かのために死ぬということはどのような時に起るのかがここで見つめられています。正しい人のために、つまりその人の言っていることが正しいからその人のために死ぬなどという者はいないのです。しかし善い人のためなら、あの人は本当に善い人だ、自分に善いことをしてくれた、親身になって助けてくれた、そういう人のためになら命を捧げる人もいるかもしれません。しかし主イエス・キリストが私たちのために命を捧げて死んで下さったのは、そのどちらでもない。私たちは正しい人でもなければ善い人でもない、むしろ神をないがしろにしている罪人であり、神にとって敵となってしまっている者だったのに、その敵である罪人のために、主イエスは命を捧げ、死んで下さいました。その御子の死によって神は私たちと和解して下さったのです。私たちとの間に平和を打ち立て、私たちが罪を赦された者として安心して神の前に立つことができるようにして下さったのです。

神との平和のもたらす自由
 主イエス・キリストの十字架の死のお陰で与えられた神との和解、平和によって私たちは、先ほど見たように、自分に命を与え、人生を導いて下さっている恵み深い神のみ前で、その神の守りと支えとを受けながら、神の恵みにこそ自分が生きている理由、根拠があり、またどんな時にも自分の人生を支えてくれる土台があることを意識しつつ生きることが出来るのです。つまり自分の命と人生に確固たる根拠と土台があることを知っている者として、自分が自分であることを喜んで生きていけるのです。また神によって自分の人生が終わり、主イエスのもとへと迎えられる肉体の死を、神への信頼の中で見つめていくことができるのです。そして私たちがそのような人生の確固たる根拠、土台を与えられ、自分が自分であることを喜んで生きることが出来るようになるなら、その時私たちは、他の人が他の人であることをも喜び、受け入れ、他の人との間に良い関係を築いていくことができるようになるのです。神によって自分の人生がしっかりと支えられていることを信じて、神に信頼して生きることができるようになれば、私たちは人との関わりにおいて自由になることが出来ます。人に認められることを求めて生きる必要もないし、人と自分とを見比べて勝ったとか負けたとか、優越感と劣等感の間を揺れ動くこともなくなるのです。そして主イエスが弱い、不信心な罪人である私たちを愛して、私たちのために死んで下さったように、私たちも自分の隣人を愛し、命も捧げてとはなかなかいかないまでも、自分の時間や能力やお金やその他大切にしているものを捧げて隣人に尽くすことができるようになるのです。そのように人を愛し、人のために尽くすことが出来るようになることこそが、人との関わりにおいて自由になることです。本当の自由とは、人を愛し、人に仕えていくことが出来ることなのです。

平和への道を歩むために
 主イエス・キリストの十字架の死と復活のお陰で私たちは、神との平和を与えられており、神の前に安心して立つことが出来ます。この神との平和こそが、私たちが人との間にも平和な関係を築いていくための土台となるのです。人と人との間の平和は、互いに愛し合い、受け入れ合い、仕え合っていくことによってこそ実現していきます。しかしこの世の現実においては、争い、対立があり、憎しみがあり、人が人を傷つけ殺してしまうようなことが起こっています。憎しみが憎しみを、報復が報復を生んでいくような憎しみの連鎖、悪循環が生じています。その憎しみの連鎖をどこかで断ち切らなければ平和への道を歩むことはできません。それを断ち切ることができるのは、人を愛し、赦し、受け入れ、仕えていくことができる人です。神との間に平和を得ており、神の前に安心して立っており、神の恵みに信頼して生きている人こそが、そのように生きることができるのではないでしょうか。具体的な対立があり、傷つけられたり殺されたりすることによる深い苦しみ悲しみ怒りがある中で、それは決して簡単なことではありません。そのようにしなさい、などという教えとして語れるようなことではありません。しかし私たちが、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神が和解を与えて下さり、私たちを神の前に安心して、信頼して立つことができる者として下さっていることを本当に信じ、この後共にあずかる聖餐においてその恵みを体全体で味わい、体験させられていくなら、そのような新たな一歩を踏み出し、平和への道を歩み始めることができるでしょう。そのことを祈り求めつつアドベントの時を過し、クリスマスを迎えたいと思います。

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