「犠牲の鳩」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:創世記第8章8-20節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第10章16-25節
・ 讃美歌:218、351
・狼の群れに羊を送り込む
イエス様は、世の人々が「飼い主のいない羊」のように苦しんでいることを見つめておられます。そしてそ の羊を養い導く働きのために、弟子たちを選び、遣わされます。イエス様はあることを見つめておられます。そ れは、遣わされていく弟子たちは、世の人々から、決して「羊飼い」として歓迎されることはない、というこ とです。そのことを語っているのが、本日の最初の16節です。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の 群れに羊を送り込むようなものだ」。弟子たちが遣わされる、それは、羊の群れの中に羊飼いを送るようなこ とではないということです。むしろ狼の群れの中に羊を送るようなものだ。弟子たちは羊飼いというよりもむ しろ弱い羊です。そして人々は、飼い主がいなくて途方に暮れている羊ではなくその羊を襲う狼として語られ ています。イエス様にとって、世の人々は、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と 見えていたことも真実でしょう。それがこの世に生きる人々の本当の姿です。しかし、この世、そして世に生 きる人たちは、そのことを自覚してはいません。自分たちが飼い主のいない羊であり、弱り果てているとは思 ってはおりません。むしろ多くの人々は、自分の力でしっかりと生きていると思っていたり、そうでなくても しっかりと生きるべきでそうありたいと願って努力したりして生きている。別に途方に暮れてなどいない、つ まり自分たちに飼い主など必要ない、と思っています。それゆえに人々は、イエス様が飼い主として遣わす弟 子たちを受け入れません。そんなことは余計なお世話だと拒絶するだけでなく、かえって彼らを食い物にしよ うとする。自分の腹を満たすために、自分が生き残るために、自分が満たされて幸せな人生を送るために、隣 人の富を平気で奪い、隣人を食い物にし、隣人を傷つけるようなことを平気でするようになっていき、そのよ うにして人々は狼になっていきます。世の人々は、本質的に、根っから狼なのか。つまり、飼い主なしに、自 分の力で生きていくことができる者なのかと言えば、それは違います。人間の本質は、イエス様が見ておられ るように、羊です。一人では生きていけないし、群れを守り導いてくれる飼い主、羊飼いなしには本当は生き ていくことができない存在、それが人間です。自分の力で、飼い主なしに生きていける、と思っている人間は 、実は、強くあろうとしているけれども、いつも恐れを覚え、怯えたり、それに抗うために強がったりしてい るもの、それは飼い主のいない羊のようなもので次第に弱り果て、打ちひしがれていく者なのです。イエス様 は、人間は「狼の皮を被った羊」だと見ておられます。その狼だと思っている羊たちのことを、イエス様は、は らわたがよじれるほどに憐れに思われ、救い出そうと望んでおられます。そのために弟子たち、そして弟子た ちと同じように遣われる者となったわたしたちがそれぞれの生活の場に、遣わされて行くのですけれども、わ たしたちは、その狼たちの前では、狼を追っ払うような強い羊飼いではなく、なすすべがなく、立ち尽くすよ うな羊であるということをイエス様はわたしたちに教えてくださっています。
・蛇のように賢く、鳩のように素直に
イエス様は16節の後半で、そのような弱い羊のである弟子たちやわたしたちに対して、イエス様がこのよう になりさないと言われています。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とあります。この 言葉は、どういうことを教えているのでしょうか。「蛇」は、旧約聖書以来、「賢い」ものの代表として登場 します。創世記3章で、最初の人間アダムとエバを欺いて、神様に背かせ、禁断の木の実を食べてしまうように 仕向けたのは、蛇です。イエス様は、そういう人を欺くような賢さを持て、弟子たちに教えたのでしょうか。 狼の群れに送られた羊である弟子たちは、狼たちに食べられてしまわないように、賢く、上手に、狼を欺きな がら、うまく立ち回らなければならない、ということをイエス様は伝えたかったのでしょうか。食い物にされ ないために、狼を欺くためには、自分がこの世で弱い羊であることを隠し、強い狼のように装えば、襲われる ことはありません。常に牙を見せつけ、「自分を襲うのであれば、反撃するぞ」というふうにしていればよいの です。しかし、イエス様は、そのように、『あなたがたも「狼の皮を被った羊」のようになりなさい。』とい ってはおられません。イエス様が主に養われる羊であることを止め、この世の狼たちと同じように、自分の力で 生きていけているように装いなさいといっているとは、考えられません。イエス様は、自分の身を守るために 、わたしたちがクリスチャンであるということを捨てなさいと言われたのではないのです。イエス様が、ただ 「蛇のように賢くあれ」と一言、そういわれたのであれば、そう受け取ってもよいでしょう。自分の身を偽っ て、クリスチャンでないかのように、世の人々とまったく同じように、事あるごとにカメレオンのように、ま わりの人々の思想、その時の社会の風潮に合わせて生きていく。また狼のように強さをもっている人のように 強いふりをして生きていく。ただ蛇のように賢く生きるだけいいのならば、それでも良いのです。しかし、こ のイエス様の教えを受け止めていく上で、忘れてはならないことは、イエス様がただ「蛇のように賢くあれ」 と、一言だけ言われたのではないということです。同時に「鳩のように素直であれ」ということも言っておら れることをわたしたちは受け止めねばなりません。 イエス様は、ここで、ただ一言「蛇のように賢くいきなさい」といったのではなくて、「鳩のように素直に なりなさい」ともいっておられることということが大事なのです。鳩のような素直さとは、それは神様の御心 に純粋に従っていく素直さです。父なる神様を信じ、その恵みにだけ頼り、生きていくということです。つま り、それは、キリスト者で在り続けるということも意味されています。従って、この二つの言葉を同時に受け るとめる時に、「蛇の賢さ」とは自分がクリスチャンではないと自分を偽って身を守るような賢さではないと いうことが、わかります。蛇は、人々の間を縫うようにして移動していくことができます。常に、人々の間で 生きているけれども、蛇はそのまわりのものに迎合して生きてはいません。蛇は蛇のままで、多くの人の間を すり抜けていきます。蛇は人に接触することがあるかもしれませんが、その人に影響されてその人になるよう なことなく、蛇は蛇のまま生きていきます。ここから、蛇のように生きるというのは、わたしたちは、狼の間 を生きるけれども、狼になることなく、自分が主に養われる羊のままで、狼の間を生きるということです。自 分が狼なること無く、羊のままでいられるように、生きていく賢さ。これが蛇の賢さです。そのために、重要 なのが、「鳩のような素直さ」です。神様の御心求め、それに従い移動し、そして神様の元へといつも戻ろう とする。これが、鳩のような素直さであり、蛇の賢さを持って生きる上で最も重要なことになります。
・創世記の鳩
本日共に聞きました旧約聖書創世記8章8節以下に、鳩が出てきます。これはノアの箱舟、あの洪水の出来事の 最後の場面です。ノアは、洪水の水が引いたかどうかを確かめるために、鳩を箱舟の外へと遣わしました。遣 わされた鳩は、一回目に箱舟の外に放たれた時、自分が宿ることのできる木がないために、ノアのもとに帰っ てきました。そして、ノアは手を差し伸べて鳩を抱き、舟に戻しました。そして二回目に鳩を遣わした時、鳩 は宿ることのできる木を見つけたのですが、その木が存在しているということをしめすオリーブの葉を加えて 、ノアのもとに帰ってきました。鳩は、ノアの心を知り、その務めに従順であろうとしました。自分が安息す ることのできる木、自分で食べ物を取ることのできる木を見つけたけれども、その使命を果たすために、ノア のもとへとしっかりと帰ってきました。鳩は、ノアが外に放つまでは彼の元にいたのです。それと対照的に7節 に登場するカラスは、鳩の前に同じように遣わされたのですが、大地の水が乾くのを待って、自分勝手に舟を 出たり入ったりしていました。カラスは、ノアの元に戻らず、自分で外にいくタイミングを決め、出たり入っ たりしていました。そのカラスが示されているのは、主人の御心など求めず、自分の知恵に頼って、生きてい る姿です。それと対照的な鳩は、自分の願いや思いよりもノアの考えを優先し、自分の知恵を用いず、いつも ノアのところに戻り、ノアの思いやノアの知恵に従おうとしていました。これが鳩の素直さです。「鳩のよう な素直さ」それは、自分の力や策略、知恵によって歩むのではなく、神様に身を委ねて、神様の守りと導きを 信頼して歩むことであります。
しかし、ここもこの一方だけを極端に受け取ってしまうと、わたしたちはまた道を外れていってしまいます 。神様の御心を求め、それに素直に従っていくということは、一番大切なことです。神様の御心を求め、神様 だけの言葉を求め、神様もとへと戻りながら生きる。それはとても純粋なものです。できることなら、神様の元 に居続けたいとわたしたちは素直に思います。ノアの物語に合わせるのならば、箱舟の中にいて、ノアの元に 居続けたいと思うということです。しかし、このような信仰生活を求める時に、わたしたちがそのことに極端 になってしまうと、世との関係を全て捨てて生きるということを求め始めてしまいます。イエス様がこの世に 遣わされようとしているのに、箱舟の中だけで生きようとする。そうして、地に生きるものたちとの接点もな くなっていってしまいます。それでは、イエス様が、この世にわたしたちを遣わした意味がなくなってしまい ます。イエス様は、ただ蛇のようであれとも、ただ鳩のようであれとは、言っておられません。「蛇のように 賢く、鳩のように素直になりさない」と二つのことを一つにしていっておられるのです。主のみ心を求め主の もとにいつも戻り主に従う鳩のようでありながら、限りなく狼たち近くあり、その間を生きる蛇のようになり なさいとイエス様はわたしたちに言われています。素直な鳩が、御心を求めるためにいつも主のもとに戻って くるということも大切です。わたしたちは、一週間を鳩でありながら蛇のように地を這って生き、そして週の 初めの日曜日にこの教会へと戻ってきます。そして主に抱かれて、休息と平安を与えられて、また御心と使命 を確かにされて、世へと遣わされていく。これは「鳩のように素直」に生きるために必須のことであります。
・迫害の苦しみを通して証しされていく
しかし、世に遣わされていくわたしたちは、狼の間を移動し、狼と出会いながら、地を生きていますから、 様々な困難が起こります。そのことが17節以下に語られていきます。「人々を警戒しなさい。あなたがたは 地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、 彼らや異邦人に証しをすることになる」。わたしたちは、時に狼たちと出会っていく中で、捕らえられて鞭打 たれるように、理不尽に傷めつけられることがある。また狼たちと出会う時に、その人々の前に立たされて、 問いただされて、それに答えなければいけないようなことになる。「地に使わされていく時はそのようになる 」とイエス様はここで言っておられるのです。わたしたちは、総督や王のような、すごい人の前に立たされる ということはないですが、家族の前や友人に「なぜ教会に行っているのか」「なぜイエス・キリストを信じて いるのか」「そんなにいいもんなの」などなど、そのような問いをわたしたちは受けたことがあるのではない でしょうか。その時に、うまく答えられない。頭が真っ白になる。なんと自分は無力なのだろうかと思うよう なことあります。しかし、そのように隣人の前に立たされた時に傷つけられ苦しくなる時、または何も答えられ なくて自分の不甲斐なさに打ちのめされている時に、それらの出来事を通して、「わたしのために」「証しする ことになる」とイエス様はいっておられます。わたしたちが、隣人に「なんでキリスト教を信じているの?」 ということに、うまく答えられずに黙ってしまっても、変に答えてしまっても、「神がいるって本気で信じて いるの」とバカにされても、それらのことを通して「証しすることになる」。わたしたちが、鳩のように主の 御心求め、主に頼っていることをバカにされても、そのバカにする人々は、わたしたちを通して、間接的に神 様を見ることになる。「なんでキリスト教を信じているの」という問いに、うまく答えられなくて黙ってしま っても、信じているわたしたちを通して、その人々はイエス様の光を、かすかにですが照らされています。イ エス様は、そのわたしたちの持つ神様への信頼がどんなに小さくても、そこから光る輝きがどんなに小さくて も、「わたしのために証している」といってくださっています。なぜ、何もできていないのに証していること になっているのか。それは聖霊なる神様が、わたしたちの内で働いてくださり、時に言うべきことを教えてく ださったり、時には沈黙を指示されたりして、わたしたちが何もできなくても代わりにイエス様を証ししてく ださるからです。
22節には、「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とも語られています。「 わたしのために」、というのはつまり「わたしのせいで」、「イエス様のせいで」ということです。この世で 、主のみ心を忘れずに求め続ける中で、人々の間を生きていく時、そして人々と出会っていく時に、苦しむの は、「あなたたちのせいではなく、そしてあなたたちの弱さのせいでもなく」、「わたしの責任である」とイ エス様がいってくださっています。イエス様がこの苦しみや迫害の責任を負ってくださるが故に、22節の後半 にあるように、わたしたちは「最後まで耐え忍ぶ」ことができるのです。23節には「一つの町で迫害されたと きは、他の町へ逃げて行きなさい」と教えられています。忍耐する、というのは、あくまでもそこに踏み留ま る、ということとは違うのです。わたしたちの考える「自分たちが我慢するという意味での忍耐」というのは 、とても脆いものです。厳しい迫害を前にして、わたしたちは、自分の精神力でそれに耐えることのできるも のではありません。その弱さをご存知である、主は、他の所へ逃げるための逃れの道と逃れの町をも用意して くださります。しかし、大切なのは、苦しくなったからといって、自分自身の知恵や力によって逃げないとい うことです。そこでも鳩のように素直になり、主の元に戻り、「苦しいのです。逃がしてください」と祈り求 め、しかしそこでも主の御心がなるようにと祈る。その時、迫害を避けるために、他の町に逃れていくことが 示されるのならば、それは主の御心でしょう。しかし、ここで言われている「逃げる」ということは、クリス チャンであることをやめて隠れるということではありません。わたしたちはクリスチャンのままで、逃げ場に おいて、イエス様を証ししてくことになるのです。そのように、主に逃されながら、耐え忍び、そこでもまた 、そこに生きる人々と出会っていき、聖霊なる神様が働いてくださり、証してくことになっていくのです。
・苦しみを通して神の子とされていることが明らかになる
しかしこの苦しみが、イエス様を証ししてくということだけでなく、わたしたちにとってもとても大切なこ とであるということが24、25節で語られていきます。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるも のではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言わ れるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。弟子と師、僕と主人という譬えが用いられ ています。弟子や僕が勿論弟子たち、信仰者です。師、主人がイエス様です。弟子は師にまさるものではなく 、僕は主人にまさるものではない。それは、弟子や僕は師や主人を超える必要はない、それ以上になる必要は ない、ということではなくて、弟子や僕は、自分の師あるいは主人が受けたのと同じ扱いを受けるものである ということです。
ここで語られている「家の主人」とは、イエス様のことです。そのイエス様が「ベルゼブル」と言われる、それ は、既に9章34節で語られており、ファリサイ派の人々が、イエス様が悪霊を追い出したというみ業は、悪霊の 頭ベルゼブルの力によるのだと言ったということです。人々を悪霊の支配から解放し、救ったイエス様が、 そんなひどいののしりを受けているのです。師であり、主人であるイエス様がそんな扱いを受けている。それ故 に、その弟子であり、僕であり、家族の者である弟子たち、信仰者たちが、苦しめられ、拒絶され、迫害され るとイエス様は言っています。しかし、ここにわたしたちは驚くべきことに気付かされます。この迫害や苦し みこそが、わたしたちがイエス様と密接にひとつとなっているということ、弟子とされていることの印となっ ているということです。さらに弟子や僕としてだけでなく、イエス様がご自分とわたしたちのことを、「家の 主人とその家族の者」と呼んで下さっています。これは、師と弟子、主人と僕という言い方を越える言葉です 。イエス様はわたしたちを、ご自分の家族と呼んで下さっています。その家族であるということを示す印は何 か。それは、苦しみです。イエス様に遣わされた者として、この世において、狼と出会って行く時にわたした ちは苦しみます。自分の知恵や力に頼ること無く、父なる神様の守りと導きに身を委ねて歩み時に、わたした ちは時にバカにされ苦しみます。わたしたちはうまく、語ることができなくて、自分の無力さ弱さに苦しみま す。しかし、その苦しみは「わたしのために起こる苦しみだ」とイエス様は御自身の責任とされ、そして「そ の苦しみを味わっているということこそ、あなたが今わたしの家のもの、愛する家族、愛するわたしの兄弟と なっている、同じ父の子であるという証拠である」とイエス様はわたしに教えてくださっているのです。それ らのことを、遣わされていく中で、苦しみや迫害の中で、わたしたちは知ることができるのです。そうして、イ エス様としっかりひとつなって結び合わされているという恵みに目を開かれるのです。
冒頭で申し上げましたが、イエス様は、今、この世の現状をよしとされてはおられません。どんなに多くの 救われるべき人々、つまり自分は狼だと思っている羊たちが、わたしたちのまわりに生きているかということ を知っておられ、そしてその人たちがさまよっていることに内臓が、はらわたがよじれるほどに心痛められて いるかということに、もう一度わたしたちは目を注ぎたいと思います。そしてわたしたちは、遣わされていく 者として、苦しみの中で、主が証しされていくことを覚え、今からまた世に出て行きたいと思います。また狼 となってしまっている羊の間を生き苦しみを味わう時、わたしたちがイエス様とひとつとなっているというこ と、イエス様の弟子となり、イエス様の兄弟姉妹として、しっかりと神様の子とされていっているのだという ことを、その希望をわたしたちの忍耐の糧としましょう。「蛇のように賢く人々の間を生き、鳩のように素直に 主に従っていく」そのような主の羊としてこの世に遣わしてください、この町、自分の家庭、隣人との間に遣 わしてくださいという、祈りを今、新たにしたいと願います。