夕礼拝

キリストが共に

「キリストが共に」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第91編1-16節
・ 新約聖書:使徒言行録 第28章1-15
・ 讃美歌:83、458

<神のご計画>
 パウロたちはローマへ向かっています。主イエス・キリストが、「ローマでもわたしを証ししなければならない」とパウロにお命じになったからです。パウロがローマでキリストを宣べ伝えるということは、神のご計画です。ですからこの旅は、神御自身が先頭に立って導いておられ、その確かな守りのうちにあります。
 そのように、パウロはキリストの伝道者として、ローマへ向かっているのですが、船におけるパウロの立場は、ローマに護送される囚人です。パウロはユダヤ人から裁判で訴えられたので、ローマ皇帝に上訴しました。そのために、他の囚人と共に、船でローマへ行くことになったのです。しかし神は、そのようにどんなに悪い状況も、人の妨害も、困難な出来事もお用いになって、必ずそのご計画を果たして下さいます。

 パウロたちを乗せた船は、嵐に遭いました。船にいるパウロ以外の者たちは、もはや助かる望みは全くない、と絶望するほどでした。しかし、神はパウロに天使を通して、27:24節にあるように「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者をあなたに任せてくださったのだ」と語りかけられました。神の約束は必ず実現すると確信を持つパウロは、皆を励まし、状況を冷静に見て行動し、そして、全員が無事に、マルタ島にたどり着くことが出来たのです。

<マルタ島での二つの奇跡>
さて、1~10節までは、そのマルタ島での出来事が書かれています。11節を見ると「三か月後、わたしたちはこの島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出港した」とあるので、三か月間マルタ島に滞在していたと考えることが出来ます。
マルタ島の人々は、彼らにとても親切にしてくれた、とあります。前回の箇所で、船には全部で276人もいたと書いてありましたから、これだけの人をもてなしてくれるのは大変なことだったでしょう。船が嵐に遭ったのは、海が荒れる冬の季節に入っていたためです。それで、寒さをしのぐためにたき火を焚いてくれました。

 そしてここで、不思議な出来事が二つ語られています。一つはたき火の時、パウロが蝮に咬まれたのに、何の害も受けず無事であったこと。もう一つは、島の長官プブリウスという人の父親の熱病と下痢をパウロが癒し、また他の島の病人たちも癒してもらった、ということです。
 特に、パウロが「キリストのことを語った」とか、主イエスが語りかけて下さったとか、そのようなことは何も書かれていません。これらの出来事は何を伝えようとしているのでしょうか。そのことを聞いていきたいと思います。

 ≪蝮の害を受けない≫
3節には、「パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出てきて、その手に絡みついた」とあります。皆を励まし、指示を出し、泳いでやっとマルタ島にたどり着いたパウロです。神への感謝の気持ちで一杯になり、ほっとした反面、心も体もへとへとだったと思います。しかしパウロは、またここで枯れ枝を集めていました。人々のために、本当によく働き、仕える人だったことが伺えます。
そこに、たき火の火に誘われ、一匹の蝮が出てきて、パウロの手に絡みつきました。口語訳聖書では「彼の手にかみついた」と訳されています。人々が、パウロがそのうち死ぬだろうと考えたことからも、単に絡みついただけでなく、咬みついたと考えて良いでしょう。

人々は「この人はきっと人殺しに違いない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」と言いました。パウロは囚人として船に乗っていましたから、島の人は重い罪を犯した極悪人だと思っていたのでしょう。だから、こうして嵐を生き延びても、悪いことをしたのだから結局は正義の女神さまが見逃すことなく、罰を下すのだ。悪いことをした人にはちゃんとその報いがあるのだ。そう考えました。
人々は、パウロがいつ倒れるか、いつ死ぬかと見ていましたが、パウロには何の変化もありません。すると今度は、島の人々はうって変わって、「この人は神様だ」と言い始めたのです。

ここで、パウロがそれを否定したとか、人々を諭したとか書かれていないのは、ちょっと不思議に思う方があるかも知れません。
なぜなら、以前14章に語られていたことですが、パウロがリストラという町で、足の不自由な男を癒すのを見た人々が、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言って、パウロをヘルメスという神様に祀り上げようとしたことがありました。その時は、パウロは服を裂いて、群衆の中へ飛び込んで、叫んでこのことを止めさせ、否定し、真の神はお一人であり、このような方である、ということを説教したからです。

しかし、このマルタ島でのパウロが、今回は自分が神さま扱いされるのを受け入れた、ということではありません。
ここで使徒言行録の著者が強調して言いたいのは、神の力が、あらゆる害からパウロを守っているということではないでしょうか。神御自身が、イエス・キリストご自身が、パウロと共におられ、生きて働いておられる、ということです。神が御自分のご計画に、パウロを用いられるにあたって、誰しもがダメだと思うような状況でも、外からの害を受けても、生きておられる神の力が、いつもパウロを守り、支え、生かしておられる、ということが強調されているのです。

この、蝮の害を受けない、というのは、かつて主イエスが約束して下さったことでした。ルカによる福音書の10:18~19で、主イエスは伝道のために遣わした者たちが帰って来た時に、このように言われました。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。」
そしてこのことは、主イエスが来られる以前から、旧約聖書にも預言され、語られていたことです。それは、本日お読みした所ですが、詩編91:13に「あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く」とありました。

主イエス・キリストが、十字架の死によってわたしたちの罪を贖って下さり、悪に勝利し、死に打ち勝って下さいました。この方の力と権威が、信じる者と共にある、ということです。
蛇は、創世記にあるように、アダムとエバを罪に誘うサタンの象徴でもあります。神から引き離そうとする誘惑や力が襲ってきて、わたしたちを虜にしようとしています。
しかし、主イエス・キリストは、悪の力に勝利され、またわたしたちのどうしようもない、ただ神から離れて、滅びへと向かうしかない罪を負って下さり、神に向かって、神と共に生きる、新しい命を与えて下さったのです。今や、このキリストが、すべてを支配しておられます。
このマルタ島の時も、十字架の死から復活し、天に昇られたキリストが、そのすべてに打ち勝ち、支配しておられる力で、パウロを支え、守って下さっているのです。「獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く」方が、パウロと共におられるのです。
キリストに従って歩む者の、その一歩一歩を、この主イエス・キリストが見ていて下さり、守り、導いて下さるのです。
そしてここでもまた、神の御言葉が必ず実現するということ、旧約聖書のイスラエルの民に預言され、主イエスが語って下さり、そして、十字架と復活の御業によって成し遂げられた神の救いが、今、確かにパウロにもおよび、実現しているということが示されています。死をも打ち破る神の復活の力が、パウロを満たしています。そして、この神の約束、神の御言葉は、今ここにいるわたしたちにも語りかけられ、実現していることなのです。

≪熱病の癒し≫
 また、長官プブリウスの父親の癒しに関しても、そうです。神が与えて下さる癒しや、奇跡というのは、主イエスの福音を証しするため、その「しるし」として与えられるものです。
 この熱病の癒しの箇所は、ルカによる福音書で、主イエスが弟子の一人ペトロの姑の熱病を癒された記事と、とてもよく似ています。主イエスがパウロと共にあり、主イエスご自身の力が、パウロを通して活き活きと働いていることが、ここに示されているのです。
 そして、島の他の病人たちも癒してもらった、とあります。多くの人が、パウロを通して、キリストの力に触れたのです。

神は、マルタ島の人々を、パウロのために、それはつまり、ローマへとキリストの救いが宣べ伝えられるという神御自身のご計画のために、備え、用いられました。マルタ島の人々自身には、もちろんそのような意識はなかったでしょう。
しかし、先だって、キリスト者ではない、船に乗っている他のすべての人々も、神がパウロに与えると仰り、パウロと共に嵐の中から助け出して下さったように、この島の人々にもまた、パウロという一人のイエス・キリストを信じ、キリストに生かされている人を通して、神は御自身の恵みを豊かに示し、恵みを広く与えて下さるのです。

<いよいよローマへ>
 そうして、マルタ島の人々は、パウロたちに「深く敬意を表し、船出の時には必要な物を持って来てくれた」とあります。このようにして、神によってすべてが整えられて、いよいよローマへと入っていくのです。

11節に、パウロたちはアレクサンドリアの船に乗った、とあります。ここで「ディオスクロイを船印とする船」とありますが、ディオスクロイとは双子の神の名前で、船の守護神です。人々は、この命のない、人が造り出した神を頼り、安全を願って船に乗っています。
これは、これまで嵐の中から船のすべての者を救い、パウロを蝮の毒から守り、島の人々の病を癒された、生きて働かれる真の神と、とても対照的です。
物も言わず、船に取り付けられている虚しい神々ではなく、人々を愛し、御子を遣わし、語りかけ、出会い、救って下さる、この生ける神こそ、信じるべき方、頼るべき方なのです。

<兄弟たちと>
さて、パウロたちは船を進め、プテオリというところに入港しました。ここで「兄弟たちを見つけ、七日間滞在した」とあります。
「兄弟」というのは、「キリストを信じる者たち」、つまり教会の人々のことです。彼らは初めて会う人たちです。しかし、彼らは互いに「兄弟」と呼び合います。同じお一人のキリストを信じ、一つの霊を受け、お一人の天の父なる神を礼拝する、神の家族です。
そして、七日間滞在したということは、その中に主の日、日曜日があるということですから、パウロたちは一緒に神を礼拝し、パンを裂き、祈ったに違いありません。

またローマからは、兄弟たちがパウロたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた、とあります。
 このローマの地には、すでにイエス・キリストの福音が宣べ伝えられていました。パウロは以前、ローマでのキリスト者への迫害を逃れてきた、アキラとプリスキラという夫婦に、コリントという町で出会っており、そのことからもローマにキリストを信じる群れがあったことが分かります。
それから数年が経っていますが、その間もローマでの迫害を耐え忍び、主イエス・キリストの救いを信じ続ける人々が、この町で生きているのです。

今日の最後のところに、「パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」とありました。今日読んだ箇所で、唯一、パウロの感情が描かれているところです。
この、キリストを信じる者たちと共に神を礼拝して過ごしたこと、出会い、交わりの時を持てたことが、パウロを勇気づけたのです。

これまで、神の約束を固く信じ、周りの人々を元気づけ、人のために仕え、働き、勇敢に、逞しく歩んで来たパウロです。
しかし、ここで、パウロは兄弟たちが出迎えてくれたことで「勇気づけられた」とあるのは、やはりパウロにも多少なりとも、心細さがあった、ということを伺い知ることが出来ます。
パウロは、鉄の心の持ち主だったのではありません。また、神を信じているからといって、自分の思いを無理矢理閉じ込めて、弱音を吐いてはいけない、不安に思ってはいけない、強く振る舞わなくちゃいけない、ということでもありません。
パウロでも、またキリストの救いを信じ、確かにその力によって生かされているわたしたちにも、当然、不安に思うことがあり、くじけそうになったり、いよいよダメだと思ったり、自分の弱さをまざまざと思い知らされることが、繰り返しあるのです。

でも、だからこそ、わたしたちは自分の力などではなく、神の力に依り頼むのです。信仰の強さは、救いは、わたしたちの内にあるのではありません。人の決意や、熱意や、強さにかかっているのではありません。神御自身の力強さにかかっているのです。
だからこそ、わたしたちは自分の罪、自分の弱さを認め、そのわたしたちの罪も弱さも、すべてを担って下さった、主イエス・キリストに頼っていくのです。
この方は、十字架の死から復活し、天に昇られ、今も生きておられる方です。主イエスは、わたしたち一人一人に聖霊をお遣わし下さり、今も、わたしたち一人一人を見つめ、共にいて働いて下さり、その力強い御手で、支え、守り導いて下さる方なのです。
この方を見上げ、またこの方をわたしたちに与えて下さった神を礼拝する時、わたしたちの心は強められ、励まされ、慰められます。

また、今回のパウロがそうであったように、兄弟との交わりが、わたしたちを力づけ、勇気を与えてくれます。
同じお一人のキリストに救われた兄弟がいる、そこに、キリストを信じる群れがある。そのことこそ、生きておられるキリストがそこで働いておられるということであり、キリストの力の、目に見える現れなのです。
教会は、人が共通の趣味や好みで集まった集団なのではなく、神御自身が、一人一人を呼び、救いだし、召し集められた群れです。
罪を赦され、新しい命を与えられ、聖霊を受けて、神を礼拝する者の群れがあること。それは、今の、この場のことでもありますが、ここにこそ、礼拝される方がおられるということであり、また、主イエス・キリストにある兄弟姉妹の交わりこそ、救い主がここにおられるという、目に見える証しなのです。
これは、信仰者にとって大きな励ましであり、慰めとなります。

<共におられるキリスト>
 今日の聖書箇所には、直接神が語られたとか、主イエスが現れたとか、聖霊が導かれた、ということは出てきませんでした。しかし、ここには、マルタ島での出来事、また教会の兄弟姉妹との交わりを通して、生きておられる主イエス・キリストが力強く働かれていること、パウロが守られ、周囲の人々にも及ぶような祝福を与えられ、慰めと励ましを受けていることが、活き活きと語られているのです。

 そして、これらすべてのことは、真っ直ぐに、神のご計画、御心の実現へと向かっています。その最終的な目的は、終りの日であり、主イエスが再び来られて、神の国が完成する、ということです。
その恵みの時、終末に向けての、ここでのパウロの務めは、ローマでキリストを証しするということでした。
それでは、その、同じ神のご計画の中に置かれているわたしたちに、今この時代、この地で与えられている務めは何でしょうか。わたしたちは、それぞれ、神から与えられた人々、遣わされている場所、祈るべきことがあるはずです。
そのご計画に従う歩みは、パウロの船が嵐に遭ったように、困難に満ちていたり、思い通りに行かなかったりすることが、数えきれないほどあるでしょう。
しかし、今日の聖書の箇所に示されているように、わたしたちの目には困難に見える嵐の時にも、神がすべてを支配しておられるのであり、必ず御心を実現して下さるのです。蛇やさそりをも踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を持つ方と、わたしたちは一つにされているのです。
そのことを、わたしたちは礼拝でみ言葉を聴くたびに、また、本日この後行なわれる、キリストの体と血に与る聖餐の度に、そして、キリストを信じる兄弟姉妹との交わりの度に、確かにされていきます。
生きておられ、天におられるキリストが共におられることを確信し、味わい知り、経験し、感謝と共に、希望を失わずに歩んで行く勇気を、わたしたちも与えられるのです。

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