夕礼拝

生ける神に立ち帰れ

「生ける神に立ち帰れ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第13章1-19節
・ 新約聖書:使徒言行録第14章8-20節
・ 讃美歌:324、441

神こそが礼拝の主人
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりまして、本日は第13章をご一緒に読みます。この13章に語られていることはまことに単純なことで、主なる神の民であるイスラエルの人々は、主なる神以外の他の神々を拝み礼拝するようなことがあってはならない、ということです。そのようなことを勧める者が現れたら直ちに死刑にせよ、と言われています。前回第12章を読んだ時に申しましたが、申命記の12~26章は、ヨシヤ王の時代にエルサレムの神殿で発見されたと列王記下22章に語られている「律法の書」であり、ヨシヤ王はこの律法の書によってユダ王国の宗教改革を行ったのです。この部分が申命記の中心となります。前回からその中心部分に入っているわけですが、この中心部分の最初の12章に語られていたのは、一つには、主なる神を礼拝する場所を自分で勝手に決めてはならない、主が選んでお示しになった所でのみ礼拝をせよということ、もう一つは、礼拝において犠牲として献げられた動物の肉をみんなで食べる時に、その血は食べてはならない、ということでした。血には命が宿っており、命は神のものだから、人間がそれを自分のものにしてしまってはいけないのです。12章に語られていたこの二つのことをまとめて言うなら、神を礼拝する時に、人間が主人になってはならない、神こそが主人なのだから、礼拝はその神のみ心に従って行われなければならない、ということです。これが、申命記の中心部分である「律法の書」において第一に語られていることなのです。それに続く本日の第13章では、他の神々を礼拝してはならないということが命じられています。礼拝において人間が主人になってしまうことの最たるものは、自分の気に入る神を選んで礼拝するということです。人間が自分の好きな神を礼拝するようになる時、その礼拝の主人は神ではなくて人間なのです。12章と13章はこのように、礼拝において人間が主人になってしまうことを戒め、神こそが主人である礼拝を守るべきことを語っているのです。

三種類の誘惑者
 13章においては、主なる神以外の他の神を礼拝してはならないという教えが、「もしある人があなたがたを誘って他の神を拝むように唆すなら、その人に対してこのようにしなければならない」という形で語られています。つまりここには、他の神を礼拝することへの誘惑とどう戦うべきかが語られているのです。そういう誘惑をする者が三種類挙げられています。第一は2~6節の「預言者や夢占いをする者」です。第二は7~12節の「兄弟、息子、娘、愛する妻、親友」です。第三は13節以下で、これはある町の人々全体が「ならず者」に唆されて他の神々を拝むようになるという場合です。主なる神以外の神々を礼拝させようとする誘惑がこれらの三種類の仕方で起こって来る、それらと戦いなさいと言われているのです。

預言者、夢占いをする者
 先ず第一の、預言者、夢占いをする者による誘惑ですが、これは要するに、宗教的に特別な賜物を持っている指導者たちのことです。預言者とは、神の言葉を預かって人々に伝えるために立てられた人であり、信仰の導き手となる人々です。夢占いをする者というのは、いわゆる「占い師」とは違います。占いはイスラエルにおいて厳しく禁じられています。ですから「夢占い」という翻訳は適切ではありません。以前の口語訳聖書では「夢見る者」となっていました。夢は、神が預言者にみ心を伝えるためにお用いになる手段の一つです。申命記の前の民数記の12章6節にこのようにあります。「主はこう言われた。『聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る』」。つまり預言者と夢見る者は同じなのであって、どちらも主なる神のみ言葉を示されてそれを人々に語る人なのです。だから「占い師」とは違います。占い師は神のみ言葉を伝えるのではなくて、神以外の様々な力の支配の下での人間の運勢を占おうとするのです。主なる神以外の力の支配を前提としているから、聖書は占いを固く禁じているのです。私たちの周囲にはいろいろな占いがあって、ともすればそういうものの影響を受けてしまいがちです。しかし、私たちの人生を支配し導いているのは、運勢などではなくて、主イエス・キリストの父である神であることを私たちはしっかりと見つめていかなければなりません。

偽預言者を見分ける
 少し脱線しましたが、このように預言者や夢見る者はイスラエルにおいて、神の言葉を伝え、民を導く人として神によって立てられ、遣わされた人として認められていました。しかしそれは、自分は預言者だ、夢でお告げを受けた、と言っている人が全て神によって立てられた者であるということではありません。中には偽りの預言者がおり、神の言葉ではなくて自分の勝手な言葉を語っている者もいるのです。だから本物の預言者とそうでない者とを見分けなければなりません。それを見分けるための一つの大事な目印は、その預言者の語ったことが実現するかどうかです。そのことが申命記18章22節に語られています。「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」。このように、語ったことが実現するということが真実の預言者の基本的条件なのです。ところが本日の箇所の2~4節にはこのように語られています。「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、『あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない」。つまりその人の言ったことが実現し、先程の規準によればこれは本物の預言者だと思われても、その人が他の神々に従い仕えることを勧めるなら、それは偽者だから耳を貸すなということです。ここにはとても大事な教えがあります。つまり神の言葉を伝える預言者、信仰の指導者であってもその言葉を鵜呑みにせず、しっかり見極めなければならないということです。その見極めにおいて本当に規準とすべきなのは、しるしや奇跡を行い、言ったことがその通りになるという人間を越えた力を持っているかどうかではなくて、その教えの内容なのだ、ということです。私たちはともすれば、奇跡を行う力や超能力のようなものに心を奪われ、こんなことができるのだからこの人の教えは本当なのではないか、と思ってしまいがちですが、そういう奇跡や驚くべきことをする力は、その教えが正しいものであることの保証にはならないのです。見極めなければならないのはその人が語っている教えの内容です。その教えが主なる神に栄光を帰し、主を礼拝し従うことへと導くならばそれは本物です。しかし主なる神以外の神々を拝み、従うように勧めるならば、たとえどんな奇跡的な力を持った人の教えであっても、正しいものではないのです。

奴隷の家から救い出してくださった主
 しかし、主なる神以外の神々を拝むように勧める教えは正しくない、ということは何故言えるのでしょうか。そのことが6節にこのように語られています。6節の二行目からですが「彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである」。イスラエルの民は、主なる神によってエジプトの奴隷状態から解放され、荒れ野の歩みにおいても養われ導かれてきました。そして今、約束の地カナンを与えられようとしているのです。いや、実はそれは申命記の「設定」であって、実際にこれが書かれたのは、イスラエルがカナンの地を与えられそこに住むようになって数百年経ってからです。つまり彼らは今現に、主なる神の恵みによって与えられたこの地に住んでいるのです。彼らの今の生活は全て主なる神の恵みによって与えられたものなのです。それゆえに、そのイスラエルの民が主なる神以外の神々に心を向け、それを礼拝するように誘うことは正しいことではないのです。とんでもない恩知らずなことなのです。イスラエルの民にとって正しい生き方とは、自分たちを奴隷状態から解放し、約束の地を与えて下さった主なる神の愛と恵みに応えて、主なる神をこそ愛し、礼拝し、仕えていくことなのです。つまり主なる神以外の神々を礼拝してはならないという教えは、他の神々が存在するとかしないとか、真実の神であるとかないということを言っているのではなくて、あなたがたイスラエルの民を本当に愛し、救い、導いておられるのは主なる神なのだから、その神を心から愛し、その神と共に生きることこそが正しいことであり、あなたがたが主なる神の祝福を受けて本当に生かされていくことができる道なのだ、ということなのです。

真実な愛の関係を築くために
 4節の二行目からのところには、偽りの預言者が現れて来るのは、「あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである」と語られています。偽りの預言者による誘惑は、主なる神が、イスラエルの民が心を尽くし、魂を尽くして主を愛するのかどうかを試そうとしておられることの印だ、ということです。主はなぜそんなことをするのか、イスラエルの民の愛を試そうとするなどというのは神の愛とは矛盾することではないのか、と私たちは思います。しかし同じようなことは8章2節にも語られていました。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」。ここにも主がご自分の民であるイスラエルを試すために苦しみをお与えになったことが語られていました。そしてその目的はその後の5節にこのように語られているのです。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」。主はご自分の民を子として愛しておられるゆえに訓練なさるのです。偽りの預言者による誘惑もその一環として位置づけられるべきものです。主はこのことを通して、イスラエルの民の主に対する愛を訓練し、それを真実な愛にしようとしておられるのです。真実な愛とは、どんな誘惑にあっても決して裏切らない、浮気心を起さない愛です。他の者に心を向けず、相手との関係を誠実に守り、常に相手に正面から向き合って生きることです。主なる神はイスラエルの民をそのような真実な愛をもって愛しておられます。イスラエルの背きの罪に対して主がお怒りになるのも、彼らをかけがえのないご自分の民として真剣に愛しておられるからです。そのような真剣な愛は、相手もまたその愛にしっかり応えて生きることを求めるものです。主はイスラエルの民が主の真実な愛にしっかり応えて、彼らも心を尽くし、魂を尽くして主を愛することを求めておられるのです。そういう互いの真実な愛の関係を打ち立てようとしておられるのです。他の神々に心を向けることは、この愛の関係をぶちこわすことです。イスラエルの民をそのように唆し誘惑する者があれば、たとえその人が力ある信仰の指導者であっても耳を貸してはならない、彼らをはっきりと拒まなければならないのです。

親しい人間との関係よりも
 7節以下には、そういう誘惑が自分の親しい身内の者から起こって来ることが見つめられています。「同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友」が、「ひそかに」つまり個人的な交わりの中で「あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘って来るのです。そのような時に、「これに同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。このような者は必ず殺さねばならない」と言われているのです。家族や夫婦、親友との愛の関係も、それが主なる神以外の神々を拝むように唆すなら、それを捨て去らなければならない、主なる神への愛を優先させなければならない、ということです。これは大変厳しい教えですが、しかし大事なことです。神との関係よりも親しい人間との関係の方を優先させていくならば、私たちの信仰は、礼拝は、やはり自分が主人であるものとなるのです。だからこの厳しい教えを私たちはしっかり受け止めなければなりません。しかし同時に、この教えを誤解しないようにしなければなりません。ここに語られているのは、家族や友人を愛してはならない、そんな愛は捨て去って神に従えということでは決してないのです。この教えもまた、主なる神がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放して下さったという救いの恵みを前提として見つめなければなりません。11節に「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したあなたの神、主から離して迷わせようとしたのだから」と語られていることが大事です。つまり家族も友人たちも皆、主なる神によって救われ、導かれ、生かされている者たちなのです。だからその人々が本当に生きることができるのは、主なる神の下で、その民として歩むことにおいてなのです。主のもとを離れて他の神々に従うようになる時に、私たちはまことの良い羊飼いのもとから迷い出て、生きていくことのできない者になるのです。それゆえに、家族や友人との関係よりも主なる神との関係を優先させなければならないという教えは、それらの人々のことを愛してはならないということではなくて、彼らを本当に大切し、愛するためにこそ、あなたは主との関係にしっかり留まって歩みなさい、ということなのです。

神の民として歩むために
 13節以下の、第三の誘惑として見つめられているのは、ある町の住民全体が「ならず者」に煽動されて町ぐるみで主なる神を捨て、他の神々を拝むようになる、ということです。その時には、その町の人々を皆殺しにし、街全体を焼き払えと言われています。これもまた大変に厳しいことであり、私たちの感覚からすれば非人道的な、残酷なことです。このあたりは、古代の世界と現代との感覚の違いであり、旧約聖書の限界がここにあると言うことができると思います。しかしこの教えも、先程の家族や友人の場合と同じように、主なる神によって救われたイスラエルの民が主なる神の民として歩み、まことの命に留まり続けるためのこととして捉えるべきでしょう。主を礼拝することから離れてしまったこの町が、イスラエルの他の町の人々にも影響を及ぼし、主なる神に背かせ、他の神々を拝むように誘惑していくことを防ぐためにこのようなことが語られているのです。その点においてはこれは、第7章の始めの所に語られていた、カナンの地の先住民を皆殺しにせよ、という命令とつながるものです。その命令もやはり、彼らがイスラエルの民に影響を与え、主なる神に背かせ、他の神々に仕えるようにすることを防ぐためだったのです。この点において申命記は、他の民族も、同胞であるイスラエルの民も、平等に扱っていると言うことができます。主なる神に背かせようとする者は、他の民族であれ同胞であれ同じように徹底的に拒み排除する、そういう厳しさをもって神の民として歩むことが教えられているのです。

狭い独善的な教え?
 この13章に語られていることは、あの十戒の第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」の展開であることは言うまでもありません。主なる神お一人を神として拝み、従い仕えることこそが、聖書の語る信仰の根本なのです。この教えは、私たちの生き方を非常に狭い、独善的なものとするのではないか、他の神を信じている人々との敵対関係を生み出す教えではないか、という印象を与えます。特に今見たような、皆殺しにしろ、というようなことが語られているのを読むと誰でもそう思います。こういう教えのせいでこの世界に対立が生じ、殺し合いが、戦争が起こるのだ、と感じてしまうのです。先程も申しましたように、そこに旧約聖書の教えの一つの限界があると言うことができると思います。そこで私たちは、主イエス・キリストによる救いを信じる新約聖書の信仰において、この信仰がどのように展開していったかを見たいと思います。そのために、本日共に読まれた箇所、使徒言行録の第14章8節以下を見ていきたいのです。

生ける神に立ち帰れ
 この箇所は、パウロとバルナバが第一回伝道旅行の途上でリストラという町で伝道した時のことです。パウロはそこで、生まれつき足の不自由だった男を癒しました。その奇跡を見たリストラの人々は11節にあるように「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言って、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスというギリシャの神々が地上に降って来た姿だと思ったのです。そしてゼウス神殿の祭司がやって来て、彼らにいけにえを捧げて礼拝しようとした。つまりパウロとバルナバが神にされそうになった、という話です。リストラの人々がこのように一つの癒しの奇跡を見ただけで過剰とも思える反応を示したことには理由があります。それはこの地方に言い伝えられていた話によることです。昔ゼウスとヘルメスという神々が人間の姿をとってお忍びでリストラを訪れたことがあったというのです。ところがその時リストラの人々は誰も彼らを歓迎しなかった、迎え入れようとしなかった、ただ一つの家族だけが彼らを迎えてもてなしたのです。ゼウスとヘルメスはこの町の人々の冷淡さに怒り、洪水を起して町を滅ぼしてしまった、そして彼らを迎えてくれた家族だけが助かった、という伝説です。この言い伝えがリストラの人々の心に深い恐れを与えていたのです。それで、パウロの奇跡を見たとたんに、これはゼウスとヘルメスが再び人間の姿をとってこの地を訪れたのだと思ったのです。いけにえを捧げて彼らを礼拝しようとしたのは、今度は以前のように神々に粗相をしてはならない、神々を怒らせてまた滅ぼされてしまわないようにちゃんともてなしをしなければ、ということです。そのような思いで彼らを礼拝しようとした人々にパウロはこのように語りかけました。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」。パウロは、リストラの人々が拝んでいる偶像の神々とは違う、生ける神、本当に生きておられる神を告げ知らせています。その神は、天地の全てを造り、またその後に彼が語っているように、人々の歴史を導き、雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、人々の心を喜びで満たして下さっている方です。つまり、生けるまことの神は恵みの神だとパウロは言っているのです。リストラの人々が拝んでいた神々は恵みの神ではありません。気紛れに町を訪れ、もてなしが悪いと怒って町を滅ぼすような恐ろしい神です。彼らが神を拝むのは、粗相があって怒らせてしまっては大変だという恐怖からであって、そこには喜びも感謝もないのです。パウロはそのような恐ろしい神を拝んでいる人々に、恵みの神を告げ知らせています。恵みの神は独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、神の子として下さっているのです。その恵みの神の福音、喜びの知らせを彼は伝え、人々に「このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰りなさい」と語りかけているのです。主なる神お一人を神として拝み、従い仕える信仰というのは、この生けるまことの神、恵みの神に立ち帰り、この神のもとで、この神と共に生きることなのです。その時私たちは、もてなしが悪いと怒って人を滅ぼすような恐ろしい気紛れな神の支配から解放されます。そしてむしろ、私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって罪人である私たちに仕え、もてなして下さる神の恵みの下で生きることができるのです。私たちは、主イエス・キリストによって示された恵みの神に立ち帰り、この神のみを礼拝して生きて行きます。しかしその信仰のゆえに、独善的になって人を軽蔑したり敵対していくのではなくて、罪人をも愛し、命をささげて救って下さった神の愛への感謝と喜びに支えられて、他の信仰に生きている人々をも愛し、その人々にも主が恵みを与え導いて下さることを信じて、忍耐しつつ福音を宣べ伝えていくのです。

関連記事

TOP